渋谷のワイン店で運良く試飲できたのですが、ブルゴーニュワインの世界観が変わるほどの体験でした。
同じ感覚を得たのは、3年ほど前にシャトー・ラトゥール1989年を抜栓したときでした。
「美味しいワイン」というのは何度も飲んだことがありましたが、心を震わせるほどのワインというのは、その時が初めてでした。
言語化するのが難しいのですが、究極の芸術作品のようで、飲み物としての感動を超越する液体としか表現ができません。
では、その「シャトー・ラトゥール」を飲めば、必ず同じ体験をできるのかというと、そうではありません。
以前、シャトー・ラトゥールの試飲会で6種類を同時に体験したのですが、「あ〜美味しいねぇ」「渋いしまだ早い」といった感想しか出ませんでした。
つまり、本当に心を震わせるワインは、「優れた生産者によって作られたワイン」「優れた畑のぶどう」「優れたヴィンテージ」や「完璧な保管状態」、それを「抜栓するタイミング」、そして「飲む方法」全てが揃わないと得ることができません。
オーケストラのように全ての奏者と指揮者、楽器のコンディションや会場の状態、ホールや観客の状況などがぴったり合わさったときだけに得れる感動に近いのではないでしょうか。
言語化するのは難しいのですが、今回のブルゴーニュワインの体験についてメモを書き留めてみます。
ジョルジュ・ミュニュレ・ジブール ニュイ・サン・ジョルジュ 2020 Georges Mugneret Nuits Saint George 1er Cru Les Vignes Rondes
ロゼット咲きというよりは、カップ咲きの真紅のローズ。
品種がわからないのですが、暗い色の真紅の薔薇のニオイに近いです。
そして、すぐに感じ取れるのが良質なレザー。
言葉を失うほどの密度の高い香りです。
ありがちな安くて硬く、血合いの混ざったインチキレザーではなく、エルメスの最上級タンナーがなめしているカーフレザーのような、柔らかくしっとりとした本革の香りです。本革というと、ワイン界隈でなめし革というと「はい!ジュブレ・シャンベルタン!」と定形に当てはめがちですが、そういうことではなくて、あの硬いレザーではなく、しっとりとした子牛にある特有の香りです。
このワインは抜栓当日で、半日ほど経過しているので状態は非常に良かったです。
グラスに注がれて、10分ほどで上記の香りを体験しました。
未知の領域すぎて、香りがもはやニュイ・サン・ジョルジュではないですし、過去に感動したジャック・フレデリック・ミュニエと比較しても全く劣らない完成度です。
同価格たいのニュイで比較すると、フレデリック・ミュニエのクロ ド ラ マレシャルと比べると、こちらは「怪しい香り」がします。
なぜ怪しいのか考えてみたのですが、オリエンタルで少しヴォーヌロマネのような、中東を思わせる香り、スパイス感が含まれているからです。
それもインドやパキスタンではなく、サウジアラビアやアラブの空港に行くと、イケメンの若い男性から漂ってくる香りにコレが含まれているように思えます。
乗り換えのドーハ空港ですれ違う男の香りが混ざっています。それが怪しい?のではないかと思います。
飲んでみると、控えめな主張で、やわらかく、余韻が非常に長いことが分かります。
田舎くさいけれど洗練されている、それでいて誠にエレガントです。
陶酔するというか、フェロモンのような、昆虫から発する何かの香りも混じっているような気がします。
テイスティングメモには「信じられない!」が5回以上書かれていました。
人間が知覚できないだけで、昆虫のフェロモンはこんな香りがしそうと思いました。
動物的なフェロモンとは違う気がします。植物のもたらす陶酔が含まれています。
20分ほど経つと、再び花の香り、百合のゆぼみ、色のある球根の花の香りです。
抱いて寝たいほどで、文字にすると「快楽」、「享楽的」「ドキドキする」、「恋する」。
退廃的な快楽を追求したようなイメージを受けました。
ミッシェル・グロやモンジャール・ミュニュレのような手本のブルゴーニュワインと比べると、このミュニュレ・ジブールは明後日の方向に向かっています。
ブルゴーニュワインに深い理解がないと飲んで、産地を当てるのが難しいのではないでしょうか。
数年前まではワイン専門店で普通に売っていましたが、ここ最近は人気がありプレミアム価格でしか入手ができません。
このワインの特徴は他の生産者には無いので、一度は体験する価値があると感じました。
ジョルジュ ルーミエ モレ サン ドニ クロ ド ラ ブシエール 2020 Georges Roumier Morey Saint Denis Clos de la Bussiere
注いだ直後は「寝ている」。これ以外に感想がありませんでした。
厳密には「寝ている」は不確かで、「何かが寝ている」が正しい気がします。
冒頭でシャトーラトゥールの話を出したのは、その時も同じように抜栓直後は「何かが寝ている」と感じたためです。
いや、「眠っている」が正しいのか、とにかく偉大なワインの初めは、そうしたインスピレーションを得ることがあります。
「除梗率が高く濃密度が桁違い」トロボーをさらに凝縮した感じで、黒蜜より濃く、ワインの域を超越していました。
新大陸ワインの”濃い”とは全く違って、果汁が凝縮されているという意味です。
それもグロ・フレール・エ・スールのような機械で凝縮したインチキではなく、ぶどうのエネルギーを1滴に集約したような、芸術品としか呼べないほどの液体です。
とても酸化に強く、グラスの底から香りが湧き上がる感じです。
私はスピリチュアルなのは分からないのですが、エネルギーが湧き上がるというのを目の当たりにしました。
タンニンが硬いのに、全く刺さらない。強靭な骨格なのに、しなやかで、まるでチーターのような余計な贅肉がなく、それでいて紳士的な一面も感じさせます。ダブルオーセブン、それもダニエルクレイグでもロジャー・ムーアでもなく、若き日のピアース・ブロスナンのような一見では頑丈な骨格や筋肉質を感じさせないのに、内側に秘めているような感覚です。
「なぜ、特級畑でない?」と問いたいほど、の品質の高さです。
飲み勧めるとワインの製法が少しだけメオカミュゼと似ているような気がしました。
先ほどのミュニュレ・ジブールとは対極にあるワインです。
時間が経つと、ポリーニのゴリゴリに固い音のショパンのバラード。そこに、奥に深い木のような、黒い木が割れたような香り。
深い森、絵の具、土などの香りが急に飛び出してきます。
クレヨンや少し油っぽい感じもあります。
再び飲むと、ネオゴシック様式であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のファサードを思い起こします。
「これがキリストの血なのか」とメモがあるほどに、大麻でも吸っているのかと思えるほとトリップしたような抽象的なメモしかありません。
他のワインメモとは異なり、抽象的な概念ばかりが書き残されています。
わかりやすい香りで言うと、粘土というか、濡れた土をいじるときの香りが混じっています。
帰ってきてから他の方のレビューを見ると怖いことに、「森」「深い森」という感想があり驚きました。
飲んだ人たちに共通した感覚があったのかもしれません。
ルーミエとミュニュレジブールのテイスティングまとめ
正直がっくりしました「なんでここまで時間掛かってしまったんだ」と。
遠回りしすぎた感じがあります。
イソップ寓話のひとつに「すっぱい葡萄」という話があります。狐が己が取れなかった後に、狙っていた葡萄を酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると自己正当化した物語です。
格付けされたボルドーワインと異なり、ブルゴーニュワインはいびつです。
村名畑、一級畑、特級畑とありますが、葡萄の声をかき消してしまうクソみたいな特級畑もあれば、誠に心を潤す安価な広域ブルゴーニュワインさえあります。
そんな玉石混交の世界の中で、ルーミエのような生産者は熱狂的な信仰対象になっています。
「どうせ名前だけでしょ」「生産量が少いから有難がってる」と思い込み、実際に飲む機会がなかったのですが、やはり評価されているだけ意味があります。
ワインを買う動機には、「美味しかったから買う」があります。
どこかで体験をしていないと、1本5〜10万円のワインをぽーんと買って、一人または友人と空けらられません。
莫大なお金があれば別ですが、千円や二千円のワインでも美味しいものはありますし、10万円の味の分からないワインを飲むなら1万円の美味しいワインを10本または、2万円の偉大なワインを5本飲みたいものです。
何しろ10万円のワインを開けて不味くても返金されませんし、誰一人保証してくれないのです。
そうなると、このテイスティングイベントのような機会は貴重です。
わずか60mlであっても偉大なワインが存在して、その片鱗に触れることができます。
いつ出会うのか
気づけば20年近く数千本のワインを飲んできました。
もっと早く出会いたかった、二十歳の最初の一杯がコレなら良かったのにと後悔しました。
同時にあの修行をしてこないと、このワインの偉大さに気が付かなかったのではという思いもあります。
人によって運命的なワインに出会うタイミングは様々ですが、それが今なのか、今はその時ではないのか、分からないままです。