写真と手記の必要性

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遺品を整理していると、古びた写真のアルバムを何ページもめくって思うことがあります。
「これって誰と誰なんだろう?」

懐かしいとか感動的といった感情より先に、登場人物の関係性が全く分からないので、感動どころではなく、まるで映画館に途中から入ってしまった人のような気持ちになってしまいます。

ときどき、写真の裏に名前のような文字が書かれていることもありますが、大抵の場合、誰なのか全くわからないまま、何冊か見て箱の中に戻すことになってしまいます。

もう一つ思うのは、写真に日付が入っているものはとても良いなということです。まず、いつ撮ったのかがわかりますし、写真をめくっていて「1965年」といった日付があると、その時代の雰囲気を想像して感動してしまうことがあります。

私も写真を撮るのが大好きで、撮るだけ撮って保存してしまうことが多いのですが、他の人が私の写真を見ても「なんか写真だな」という感想しか持たないのかもしれない、と考えると、少し反省してしまいました。

その点、今書いているウェブマガジンは、文章と写真が一緒になっているので、何が言いたいのかなんとなく伝わりますし、時には便利だなと思うこともあります。

また、ぼんやりとした得体の知れない写真でも、「立派なドイツ製のLeicaで撮りました」といったキャプションが入っていると、その写真の価値やありがたみが増してくるものだなと思います。

最も心を動かすのは、やはり手書きの手紙や手記だなと感じます。特に書式にこだわらず、日記帳なども同じようなものかもしれません。ただ、自分の日記帳が遺品整理で誰かに発見されて、全部読まれるのはどうだろうか、と考えると、それも少し悩ましいです。結局、何が正解なのかはまだよくわかりません。

もしも手記が残されていない人の場合、その人が生前に何を考えていたのかは、第三者たちの言葉でしか伝わりません。誰かが文字を残さなければ、その人自身が何を思っていたのか、全く分からなくなってしまうものです。

ジョルジョ・ヴァザーリの『ルネサンス彫刻家・建築家列伝』は、本当に偉大だと思います。過去の歴史上の偉人がいたとしても、それを誰かが客観的に記録していなければ、後世に伝えることができません。自伝のように自分で書いたものは、どうしても客観性に欠ける部分があり、どこまで信じて良いのか分からないところがあります。

本人が書いたものと第三者が書いたものが両方残っていて、さらにその状況を示す写真も一緒に残っているのが理想だな、と思います。

こうしたことを考えると、VTuberのように動画と会話がセットになっているものは、かなり客観性があり、言いたいことをすべてまとめられている点で、次世代の手記とも言えるのかもしれません。もしかしたら、彼らが高齢になったときには、遺書をVTuberのインカメラで撮影して残す時代が来るのかもしれませんね。

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