※封蝋の種類や押し方については、拙稿「封蝋のすゝめ」をご覧ください。
はじめに
封蝋の歴史は古く、近代郵便制度が成立するはるか前から、西洋の人々は手紙に蝋で封を施してきました。しかし現代では、郵便の仕分け過程に機械が導入され、これが手紙を手荒く捻じ曲げ封蝋を割ってしまうために、蝋による封緘が避けられるようになってしまいました。もっともエルバンをはじめとするいくつかのメーカーは、割れにくいフレキシブルタイプのシーリングワックスを開発することで、郵便区分機の荒々しい扱いに抗ってきました。今日手紙に封蝋を施そうとするならば、フレキシブルワックスを用いるのが賢明でしょう。しかしこの新しいワックスは、やはり伝統的なハードタイプのシーリングワックスとは別物です。フレキシブルワックスの輝きは、松脂とシェラックでできたハードワックスのそれと比べると、どうしても安物らしさが否めません。
時代に適応したフレキシブルタイプの封蝋は、きっとこれからも細々と使われ続けることでしょう。しかしハードタイプのワックスには、ワインボトルの封に用いられるのを除けば、はたして生きながらえる見込みはあるのでしょうか。もし伝統的なワックスが廃れゆく運命にあるとすれば、我々はせめてその最後のきらめきを、落日を眺めるかのように、しみじみと味わいたいものです。
本稿では、日本で手に入る主要なハードタイプのシーリングワックス5種類をご紹介します。加えて末尾には、割れやすい封蝋をなるべく損傷させずに郵送する方法を記載しておきました。以下の拙文が、この廃れつつある封蝋の愛好家を増やす一助となれば幸いです。
1. アブラクサスAbraxas
アブラクサスは、カリグラフィー用品を販売するスイスのメーカーです。同社のシーリングワックスは、天然素材を用いて伝統的な手法で作られています。一目でハードタイプのワックスと分かるほどに光沢が豊かであり、またワックス自体にずっしりとした重みがあるため、高級感が感じられます。扱いやすさも抜群で、高温になっても適度な粘性を保ってくれるため、きれいな円形の封蝋が押せるうえ、仕上がりも立体的です。溶ける際には松脂が香り、封蝋を押す特別感を高めてくれます。アブラクサスのワックスはハードワックスの典型であり、かつ理想ともいえるものです。筆者も同社のワックスを愛用しています。
難点があるとすれば、価格と入手性です。もっとも前者に関しては、本誌の読者にとっては大した問題ではないでしょう。1本たったの1000円です。シーリングワックスとしては最も高価な部類ですが、値段相応の価値はあるように思われます。あの香りに包まれて封蝋を押し、高級感あふれるその仕上がりを目にすれば、決して損をしたとは思わないことでしょう。購入するには銀座伊東屋に出向く必要があります。かつては書道用具メーカーの呉竹が輸入販売していましたが、取り扱いを止めてしまい、今は直輸入している伊東屋でしか手に入りません。また銀座店での取扱数も決して多くはないため、気に入った色を見つけたら迷わず買っておくべきでしょう。
アブラクサスは50色以上のワックスを生産していますが、日本で手に入るのはそのうち10色にも及びません。定番は写真のフェニックスレッドPhönixrotです。明るすぎない赤色には高級感があり、手漉き紙のような古風で上質な紙にもよく似合います。
2. ルビナートRubinato
ルビナートは、イタリアヴェネト州トレヴィーゾのカリグラフィー用品メーカーです。ガラスペンやつけペン、羽根ペン等を販売する同社は、それらと併せて使うのにふさわしい封蝋も販売しています。日本ではあまり多くは出回っていませんが、楽天市場で検索すれば、いくつかの輸入販売店が見つかることでしょう。
国内で手に入るカラーヴァリエーションは少ないものの、いずれも発色の良さに驚かされます。写真のメタリックブルーは実に美しく、ブルーブラックのインクにもよく合います。写真奥のブロンズもまた、赤にも黄にも寄りすぎない的確な色です。定番の赤も、アブラクサスのフェニックスレッドより若干明るいものの、決して明るすぎず、上品な色合いを保っています。
ただし取り扱いには若干の注意が必要です。ルビナートのワックスは他社に比べ溶融時の流動性が高く、膨らんだ封筒に垂らした際には、思わぬ方向に蝋が流れてしまうことがあります。またこの流動性の高さゆえに、封蝋を立体的に仕上げるのが難しく、スタンプの周囲にこんもりとした畝ができる理想的な形はなかなか実現できません。おまけに他のハードワックスと比べても割れやすく、郵送の際には、定形外郵便で送るとしても、多少割れることは覚悟しなければなりません。また香りが希薄な点も、難点とはいえないまでも、いささか残念なところです。高級なシーリングワックスは、溶かした際に松脂や蜜蝋のかぐわしい香りを発するものですが、ルビナートのワックスからはそのような香りがしません。もっともこれらの欠点も、この商品の価格を考えれば許容できるものです。同社のワックスは1本300-350円で販売されています。アブラクサスの1/3の値段です。
3. エルバンHerbin (cire nacrée)
エルバンは、ルイ14世の時代から続くフランスの封蝋・インクメーカーです。国内で販売されているエルバンのワックスは基本的にフレキシブルタイプですが、パッケージに« CIRE NACRÉE »と表記された商品はハードタイプです。« cire »はワックスの意、« nacrée »は真珠の光沢を表す形容詞です。その名のとおり、このワックスは真珠のような虹色の光沢を湛えています。
ただし通常のワックスと組成が異なるためか、ルビナートと比べてもさらに割れやすく、郵送には向きません。また、ハードタイプのワックスとしては驚くほどに軽く、アブラクサスのような重厚なワックスと比べると、いささか心許ない印象を受けます。日本でエルバンの商品を取り扱うクオバディス・ジャパンの通販サイトでは、このワックスをギフトラッピングに使っていました。割れやすいこのワックスには、そのような使い方がふさわしいのかもしれません。
エルバンのシーリングワックスは、銀座伊東屋や一部の東急ハンズ、伊勢丹新宿店などで販売されています。またネットでも、上述のサイトやAmazon等にて購入できます。
4. ボルトレッティBortoletti
ボルトレッティは、ヴェネツィアのカリグラフィー用品メーカーです。同社のシーリングワックスの最大の特徴は、その香りにあります。蜜蝋を用いて作られたこのワックスからは、甘く優しい香りがします。加熱する前からはっきりと嗅ぎ取れるその匂いは、溶解時には一層濃厚に香ります。封蝋を施す作業をこの上なく優雅に演出してくれる、素晴らしいワックスです。
ただし溶かした際の流動性が高いため、思いどおりの形に仕上げるのは至難の業です。質感もまた独特であり、他のハードワックスのような硬質さや艶はなく、粘土のようなマットな質感です。また冷えた後の可塑性も、他と比べてやや高いように感じられます。それでもフレキシブルタイプのワックスと比べればはるかに割れやすいので、郵送の際にはご注意ください。
さすがは絵画における色彩派の牙城ヴェネツィアのメーカーだけあり、20色以上の豊富なカラーヴァリエーションを取り揃えています。日本では関西のナガサワ文具センターが輸入販売しており、同社のオンラインショップ(公式・楽天・Yahoo)からも購入できます。使い勝手は悪くとも、魅力的なワックスです。一度は使ってみることをお勧めします。
5. シールドShield
株式会社シールドは、昭和7年創業の老舗文具メーカーです。松脂やシェラックといった天然素材を用い、伝統的な手法でハードタイプのワックスを作り続けています。
カラーヴァリエーションは独特です。他のメーカーが深みのあるヨーロッパ的な色彩を用いているのに対し、シールドのワックスには、日本の伝統色や、あるいは絵の具のチューブから出てきたかのような鮮明な色が多く見受けられます。なかでも写真の朱赤は特徴的です。神社の鳥居を思わせるこの色は、ヨーロッパではまず見られません。一方で、同社が展開する多彩なカラーヴァリエーションのなかには実用的な色もいくつかあります。写真奥のワインレッドであれば、輸入封筒とも自然に調和するはずです。ヨーロッパ贔屓が多いと思われる本誌の読者諸氏にも、色の選び方次第でお使いいただけることでしょう。
溶解時にはほのかに松脂が香ります。加熱すると素直に溶け、流動性も高すぎず低すぎず、癖のない使い心地です。質感の面ではアブラクサスに若干劣りますが、それでも十二分に美しい艶を呈します。自社製造・自社販売のため価格も安く、執筆現在1本330円から購入できます。手軽に試せて扱いやすいシールドのワックスは、とりわけ初めてハードタイプのワックスに挑戦する方におすすめです。
実店舗での販売はされておらず、同社が運営する通販サイトBunGryでのみ購入できます。ぜひとも買い支えたい、殊勝な企業です。
封蝋郵送の手引き
制度上は、封蝋が押された手紙であっても、厚さが1cmを超えないかぎり定形郵便として郵送できます。ただし原則として、定形郵便物は機械により仕分けられます。割れにくいフレキシブルワックスであれば、定形扱いで送っても差し支えありません。しかしハードタイプの封蝋は、区分機の処理過程で割れたり欠けたりしてしまうおそれがあります。ハードワックスの封蝋を無事に郵送するためには、どうにかして機械にかけられるのを回避しなければなりません。
最も一般的なのは、120円切手を貼り、定形外郵便として送る方法です。定形外扱いであれば、基本的には手作業で仕分けられるため、封蝋が無事に届く見込みは高くなります。ただし定形外で送るとしても、懸念事項が少なくとも2つあります。第一に、近年は定形外郵便物も扱える区分機が導入されつつあります。第二に、120円切手を貼っていても、規格内の郵便物であれば、郵便局員の判断次第で定形郵便と同様に処理されてしまうことがあります。私見ですが、封蝋の扱いに関しては、日本郵便内でコンセンサスがとれていないように見受けられます。窓口から封蝋付きの手紙を送る際、定形郵便でも問題なく送れると言う局員もいれば、定形外での郵送を勧める局員もいます。さらには、定形外で送っても定形扱いで処理されるから無駄だとおっしゃる局員もいます。最後の例のような局員が定形外郵便の区分を担当した場合、封蝋が押された定形外郵便物も、定形郵便として区分機にかけられてしまうことでしょう。定形外扱いで送ったとしても、必ずしも機械に通されないわけではないのです。しかしそれでも筆者の経験からいえば、定形外扱いで差し出した方が、定形郵便として送った場合よりも、封蝋が無事に届く確率は高いように思われます。おそらく気の利く職員さんがこちらの意図を汲んで、封蝋が押された定形外郵便物を区分機にかけずに処理してくれているのでしょう。丁寧なお仕事に敬服するばかりです。
定形外扱いの他に、封蝋付きの手紙を送るのにしばしば用いられるのが、風景印ないし手押し消印を郵便局窓口で押してもらう方法です。この手法であれば差立郵便局(集配から各地の郵便局への発送までを担当する郵便局)での機械処理は避けられるかもしれませんが、配達郵便局(差立郵便局から受け取った郵便物を各宛先に配送する郵便局)での区分機処理を免れる保証はありません。何の対策もせず普通郵便で送るよりはましな方法ですが、封蝋が割れることなく届くとはかぎりません。定形外扱いと比べてどちらが有効かは判断しがたいところですが、少なくとも、確実な郵送方法ではないという点では定形外と変わりません。
シーリングワックスが押された封筒は、現代日本の郵便制度が想定していない、例外的な郵便物です。良心的な対応をしてくださる局員の皆さんに感謝しつつ、無傷で届くことにはあまり期待しないようにしましょう。
おわりに
破損の心配をしつつ、それでもなおハードタイプのワックスで封緘した手紙を送るのは、ひとえにこのワックスが美しいからに他なりません。美は、ときに有用性を裏切ってしまうものです。故障してばかりのマセラティを愛でる本誌読者諸氏には、きっとご理解いただけることでしょう。失敗の許されない場面ではフレキシブルワックスを使うことをお勧めしますが、親しい友人や、あるいは情趣を解する風流人に送る手紙には、ぜひハードタイプのワックスをお使いください。