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アメリカ人で、サンクトペテルブルクで記者をしている友人と会ったのはサキオリが指定したレストランで、<血の上の救世主>寺院の目の前にあるイタリアンの店だった。値段はそこそこ高かったがいい雰囲気で美味いジェノベーゼのパスタを食べられる貴重な店だった。それは2時間ばかりの再会であった。彼はライトアップされた寺院の前で友人とわかれると、ふとした思いつきで朝行った橋の方へと歩いた。彼はその場所で受けた美しい衝撃を忘れられなかったのだろう、夜のその場所も見てみたいという強い思いにとらわれたのだった。果たして橋の上に彼女がいた。ソフィア・アンドレーエヴァナは金色の装飾が施された橋の欄干に両腕を乗せて寄りかかり、運河の先へと視線を投げながら泣いていた。それはまったく意外なことで、最初サキオリはすっかり困惑してしまってその場に立ちすくんだ。彼女はサキオリに気づくと慌てて涙を拭って無理に笑い、すぐに視線を運河の方へと戻した。サキオリは今さら無視することもできず、彼女から1mほど離れたところで欄干に両手の平をつき、同じように視線を投げた。

「すごいな、こんな夜景を毎日見れるなんてピーテルの人は本当に幸せ者だ。彼らが戦時中も必死に街を守ったわけだ!」

サキオリは独り言を言った。その感想は彼の心の底から押し出されたものだった。運河沿いに一列にならんだ建物の光が水に映り込み、もう一つ向こうの橋まで続く光の道を作っていた。水は深淵のように沈み、言いようの無い神秘的な畏敬の念を覚えさせた。

「私、父親を捨てたの」

ソフィア・アンドレーエヴァナは自分にそれを言い聞かせ、自分にもっともっと深い後悔を植え付けようとするかのように言った。

「私が14歳のときだったわ。母はもうずっと前に亡くなっていた。父は貧しくて年老いていたけど、とても優しい人だった。彼は私が絵を描きたいと言うと喜んで、なけなしのお金で美術学校に通わせてくれたの。そして私が休みの日にはいつもバスに乗って、自然のある所へ連れて行ってくれたわ。公園や川、ときにはもっと遠くの田舎まで。私にはそれがすごく嬉しかったし、彼はそうすることが、貧しい中で私が感性を失ってしまわないようにできることほとんど唯一のことだと知っていたんだわ」

彼女はときどきサキオリの方を見たが、ほとんどは運河の水の中、どこか一点を深く覗き込んでいた。

「私はとても嬉しかったの……でも14歳になる頃には、すっかり周りの女の子たちの普通の生活に憧れるようになっていたの。というのも、14歳の誕生日の次の日に初めて友達の家に遊びに行って……驚くでしょ……それでテレビやパソコンや豊かな生活に惚れ込んでしまったんだわ。それで休日に父と出かけるのも嫌になって、私は断るようになった。私はといえば毎週のようにトベルスカヤ通りに行って、いろんなお店をまわっていたわ……父のくれたお小遣いなんか、そこへ往復するだけで無くなってしまうのにね。あるとき私はそれに気づいたの。それまでは夢を見て自分をごまかしていたのに、あるとき買うことなど出来ないって気がついてしまったの。そして美術学校をやめたわ。私はそのときに、ここサンクトペテルブルクに来ようと決心したの。美術学校をやめるからそのお金をちょうだい、私はピーテルの叔父のところへ行くと父親に言い張ったら、父親は悲しい顔をしたけど、戸棚からお金を出してきてくれてそれを私にくれたの。もし帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきなさいと言って微笑みさえもしたわ」

サキオリはずっと黙って聞いていた。心がぐっと締め付けられているのは彼女が話を始めてからずっとで、それはどんどん強くなってきていた。

「私にはそのとき、自分の願いが叶うっていう馬鹿な喜びしか無かったわ。そして着替えだけ鞄に詰めて、電車でここに来て、叔父の家に住まわせてもらったの。サンクトペテルブルクに来れば全てが解決すると思っていたし、だいたいはその通りだったわ。叔父の家にはテレビもパソコンもあったし、私には安いものだったけれど携帯電話を持たせてくれたわ。今度は周りの女の子よりも上の成績を取るようになった。普通の女の子たちに何かで勝つっていうのがたまらなく嬉しかったの。それでこうして大学にまで入れた。父とは連絡も取らなかった。私は彼を昔の自分の象徴、もっと言えば誰にも知られたくない自分の汚点だと思っていたのよ!それで、それで……」

彼女はまた泣き始めた。それは静かな涙だった。大粒の涙が運河の水に何粒か落ちて、小さく波紋を作っただけだったのだ。その波紋も少し風が吹けばすぐに消えてしまった。彼女は少しの間黙っていて、息が整うのを待った。そして時がくるとまたゆっくりと話し始めた。

「私、最近気がついたの。私は自分が何も持っていない人間だって。確かに大学にまで入って、勉強はできたけど、そこにはまるで色が無かった。何も描かれていないキャンバスのよう。自分のどこを見ればそれが自分だと言えるのか考えたけど、私にはわからなかった。そしてふと父のこと、父と生活していた頃を思い出した。貧しかった。けれど私はそのとき誰よりも、私だったわ。何か誇り高いものと、感性を持っていたようね。そこで初めて私は父のことをすっかり思い出した。そして泣いたわ。私は私の一番大切なものと父とを一緒に捨ててしまったんだって気づいたの。私は泣いた……一週間泣いたのよ、信じられる??(彼女はサキオリの方を見て寂しく笑った)それから涙が涸れて、私は絵を描き始めたの。全て忘れていて、多分今でもまだ思い出しきれていない。でも絵を描いているとき、私は少しづつ自分自身を取り戻しているような気がしてる。まるで紙に色を乗せるそのたびに、自分に色がついていくみたい。だから描いているの……でも……やっぱりまだ……いやだわ、私どうしてこんな話をあなたに」

彼女はそう言うと涙に濡れた目でサキオリを見て、返事か感想を待つような表情をした。サキオリは苦しかった。非常に苦しかったが、それを表情に出さないように勤めていた。しばらく沈黙が続いた。

「女の子が夜に一人でこんなところにいたら危ない、家に戻った方が良いよ。この辺りには鳥の足をした恐ろしい魔女が住んでいるっていう伝説もあるじゃないか。僕は今そいつが怖くて、背中が気になってしょうがないんだ」

サキオリはそう言うと、優しく笑って見せた。それは彼がなけなしの考える力を全て使い切って作り出した精一杯の思いやりだった。ソフィア・アンドレーエヴァナも笑い、少し考えてから小さく頷くとさっとサキオリに一歩近づいた。石の歩道がわずかに足音を立てた。それは空気だけでも存在を感じられるあの距離だった。彼女は少しだけ見上げるようにしてサキオリの目を見た。その美しい青い目は、見るものを感動させる不思議な力を秘めていた。

「あなたは変わった人なのね」

「どうして??」

彼女はこれには答えずに、サキオリの横を抜けて彼が来た方へと歩いていった。サキオリはそっちを見ようともせずにしばらくそのまま固まっていた。橋の上にはどことなく不安定な風が吹いていた。彼は思い出したように歩き出すと、何を思ったか橋を渡って向こう側の運河沿いを歩き出した。橋を超えるとすぐに凍るような冷たい風が吹いた。それから数歩も行かないところで、止まれと若い男が叫ぶ声が後ろから聞こえた。闇の中、過去からの叫び声。

「サキオリ! こいつは罠だ、くそ……やつら構わず撃ってきやがるぞ」

チャーリー・オールドは打ち捨てられた小さな客船の陰に身を隠すとそう囁き、ふところからS&Wのオートマティック拳銃を抜いた。彼はもはや安全装置を降ろして初弾を装填し、いつでもそれが使えるように準備し終わっていた。チャーリー・オールドは街灯のほとんどないこの場所でも、秒針より早くそれを実行できた。サキオリもまた腰の後ろの方にしまっていた拳銃を抜き、薄いナイロンのグローブをした手で弾の装填を済ませた。古いスチール製の拳銃は恐ろしく冷えていて、手のひらは冷たいというより痛かった。彼はチャーリー・オールドのようにそれをふところに入れておかなかったことを後悔した。

「やつら例によって警察じゃないな。人数は多くない。とりあえずアンドロボヴァ通りまで走って、トラックか何かで逃げよう、サキオリ、こいつはどうにかしてこの国から出るしかない!」

チャーリー・オールドが耳元で言った。

「無理だよチャーリー・オールド、モスクワからは一番近いベラルーシの国境まででも、少なくとも600kmはあるはずだ。遠すぎる」

「それ以外に方法があるかよ!」

「とりあえず走ろう、通りまで出なければ」

二人は同時に地面を蹴った。サキオリはチャーリー・オールドの後につき、低い姿勢で走っていた。埠頭特有の迷路のように立てられた倉庫の陰を移りながら、徐々に通りへと近づく。ところどこに黄色く暗い街灯があって、そのたびにアスファルトの地面に張った氷が鋭く光った。やがてせわしなく通る車の音が大きくなってきた。二人は埠頭から小さな通りに出て、それから今度はまた細い路地へと入っていた。たくさんのパイプが這い、誰かが捨てたタバコやゴミが溜まったその細い路地に足をすくわれないように気をつけながら走り、ついに二人は大通りへと突き当たった。チャーリー・オールドが出口で立ち止まり、通りの状況をそっと確認し始めた。止まれ、という叫び声が聞こえたのはそのときだった。サキオリは素早く銃を構えて振り返った。しかしどういうわけか、今でもその理由はわからなかったが、そこにいるのは頼りなく銃を構えた新米のようにさえ見える若い警官だった。彼は目一杯の正義感をもって声を上げたようだったが一瞬見ただけでもわかるほどに怯えていた。サキオリはそして引き金を引き損なった。まるで指が金縛りにあったように固まって動かなかったのだ。

馬鹿野郎! とチャーリー・オールドが叫んだ。そして銃声が鳴った。右の脇腹に大きな衝撃が走り、身体が折れてサキオリは地面に手をついた。彼が見上げると、今度は後ろから一発だけ銃声が聞こえた。チャーリー・オールドはいつの間にサキオリが落とした拳銃を拾い上げ、それを使って撃ったらしかった。若い警官がその場に崩れたのが見えた。

「なぜ撃たなかったんだ、ちくしょうめ」

「引き損ねた……引き損ねたんだ」

「どうしてお前はそんなに甘いんだ?? あの警官は防弾チョッキを着てんだ、9mmで撃ったところで死にはしなかったんだよ、いくぞ!」

チャーリー・オールドはそう吐き捨てると、サキオリを引き起こして肩を支えようとした。サキオリは傷口にじわじわと痛みが生まれるのを感じていた。コートの下には熱い血が溢れ出てきていた。しかし弾は脇腹をかすめ抉っただけのようで、立てないほどではなかった。それほど遠くないところでパトカーのサイレンが鳴り始めた。

「大丈夫だ、自分で歩ける」

二人は交差点で糸杉を大量に乗せた大きなトラックを見つけ、信号が青になった瞬間にそれに飛び乗った。それはタイヤが何個もついた大きなトラックで、まさに運命が彼らに送った助け舟であったかのように、ちょうど彼ら二人分が乗り込めるほどの余地が荷台と運転席の間にあった。まずチャーリー・オールドが運転席後部の窓に出ないように注意しながら荷台へと上った。サキオリは左手で荷台の横に飛び出ていた取っ手を掴んで上ろうとしたが、その取っ手がチェーンソーの刃に塗る油のようなものでぬるぬるとしていたためにグローブごと手を滑らせ、危うく落ちそうになった。チャーリー・オールドが彼の腕をたくましく掴み上げなければ彼は80kmばかりで走るトラックから落ち、アスファルトの地面に叩き付けられていただろう。荷台に上がったサキオリは自分にもよくわからない冷たさでがくがくと震えていた。それは12月の近づくモスクワの極寒からくるものと、自分の中からくる人形のような冷たさの両方だった。彼は積み荷の材木によりかかって細く息をしていたが、呼吸が外の凍るような空気を吸い込むのがたまらなく苦痛だった。血が失われているんだ、とチャーリー・オールドは言った。それから二人は次にタンクローリーのタンクの背面、タクシーと乗り継いで、夜も3時になろうというころに画家の古いアパートへと戻った。サキオリはアパートの前で倒れチャーリー・オールドがアンドレイ・イリヤノヴィチを呼びに行って二人で彼を運んだらしかったが、それは後で聞いた話だった。彼はタクシーに乗って、運転手が彼にこのチャイニーズはひどく飲んだな!と言ってあざけるように笑ったところまでしか覚えていなかった。彼の意識が戻ったときには夜が明けていて、彼はイーゼルのある部屋に置かれた白いシーツのベッドに寝ていた。

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