年齢を重ねて分かること
年齢を重ねるごとに自然に分かることがあります。好みや思考の変化は特にそうです。
例えば私の場合は子供の頃はケーキが大好きで、ハンバーガーなどのファストフードも好きでした。しかし年齢を重ねるごとに和食が自分の舌にあって、蕎麦や寿司、天ぷら、酢の物などが気に入るようになってきました。
食の変化だけではありません。18歳の時に無理して聴いていたオペラは心に全く響かなかったのですが、30歳になってから聴くと妙に魅力を感じて見入ってしまいます。年齢を重ねるごとに興味を持ったり好きになることもあります。
年齢を重ねて分からなくなること
個人差があると思いますが、主に感動というのが曖昧になってきます。食べ物や飲み物で「すごい!美味しい!」と感銘を受けることや、旅行先の美しい景色にため息をついて、「ずっと見ていたい」という気持ちになったりするシチュエーションが減ってゆきます。
そして過去の体験や経験から評価をするようになり、思考が固着しやすいということです。例えば私の例では「昔のガソリン車こそが素晴らしい感動で、ハイブリッド車や電気自動車は乗る価値もない。」「ウイスキーは70~90年代こそ最高で、近年のものは飲むに値しない」などです。
時に”老害”とも呼ばれる現象ですが、過去の体験や経験に基づいて評価するため、新しいものを受け入れ難くなりがちです。
時に、20歳を過ぎたばかりの若者がエコカーや新しい酒を「これいい!」と評価しているのを見て何が正しいか見失いそうになります。私が過去にすがり付いて新しいものを貶しているとも感じる反面、過去を知らない人には新しい物で判断するしかないのかな、とも思います。
同時に同じ事を過去にも当てはめることができ、「つい100年前は芥川龍之介も、太宰治も泉鏡花も宮沢賢治も生きていて、リアルタイムで読むことができた、今の現代人はかわいそう」と表現することもできます。こればかりは自分が生きてきた期間に焦点を当てて生きる他にないのです。
経験を得て分かるようになること
初めてイタリアを旅行したときは、歴史の勉強もまともにしていなかったので、「すごい!大きな建物だし、雰囲気が良い」程度にしか感じていませんでした。ミラノもフィレンツェも同じに見えたのです。
しかし、5年後に訪れたときはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を見て、ルネサンスの片鱗を感じることができました。ルネサンス初期に対立していた主君独裁国家であるミラノの国際ゴシック様式に対して、民主国家であったフィレンツェが反ゴシック・反ミラノを掲げて、民主的に建築家も公募するなど、少し歴史を齧るだけで大聖堂一つとっても違いを見ることができます。
そして実際に見ることによって二重構造のドームや、サン・ジョヴァンニ洗礼堂など書籍に出てくる内容がスムーズに頭の中で再現できます。もう一つはイタリア語を勉強していることです。まだ幼稚園児にも満たない語学力ですが、「Santa Maria del Fiore=花の聖母」や「Ponte Vecchio=古い橋」といったように、今まではカタカナの文字列でしかなかったものが、瞬時に何を示しているのか分かるようになります。
これはイタリア旅行ひとつを取ったものですが、あらゆることに言えることです。受動的でなく能動的に経験や勉強をすることによって年をとってからでも新たな見識が開けます。
「知識を得たいのに感情を抑えていませんか?」
フィレンツェのウフィツィ美術館のアントニオ・ナターリ館長の言葉で大好きな一節があります。
皆さんは知識を得たいのに感情を抑えていませんか?
知識を得たいなら静かに感情を抑えていてはだめです。
詩の文章を文学的な構成として読むように、芸術作品を知るために読み解くことを学ぶことです。
学の無い私にとって痺れる冒頭の言葉でした。「知識を得たい感情を抑えていませんか?」まるで万人が知識を得たいにも関わらず気持ちを抑えているような言い方が最高に痺れます。
そして、その次に「詩の文章を文学的な構成として読むように、芸術作品を知るために読み解くことを学ぶことです。」と言います。今いちばん声に出して読みたい日本語(訳)です。
まるで万人が日常的に詩を読んでいて、同じように芸術作品も構成として読むといいですよ、と諭しているようで痺れます。映画『フィレンツェ、メディチ家の至宝 ウフィツィ美術館』の中盤に出てくる解説ですが、続きはこうです。
視覚芸術が形を通して表現される、詩の構成だと考えてください。
それは詩が言葉を通じて感情を表現しているからです。
視覚芸術から探し出すものは詩の表現の中に求めるものと同じなのです。
ウフィツィ美術館のギャラリーを巡るとき、ボッティチェリを目的として探さずに詩人のボッティチェリを探してください。
レオナルドの謎を探さずに、レオナルドによる詩的表現を探してください。
私達が詩を読むとき、心の琴線に触れるのは何でしょうか?
言葉そのものでしょうか、リズムでしょうか、言葉の配列でしょうか、それとも内容でしょうか。一片の詩を現実を超えて普遍にしているものはなんでしょうか。全く同じことが視覚芸術にも言えるのです。
詩に馴染みがない人にとって難しい言い回しをしているのですが、おそらく次のような事を言っています。
なぜ作品が普遍になっているのか、なぜ不朽の名作と表現されるのか、作家は何を表現したかったのか、そして何を伝えたかったのか。それは構図なのか人物なのか、色なのか、技法なのか、それとも内容なのか。
それを探して欲しい。ということです。同じ事が文学や音楽、映画、劇にも当てはまります。
「モナリザ見た!」というコメントと共に自分の顔写真をインスタグラムにアップするというのは、控えめに言って「知識を得たいという感情を抑えている」ということになります。
つまり年を取ることに自然に分かる事というのは少なく、多くの感情や感性は思春期をピークに失われていきます。それでも尚、何かに対峙して理解を得たいというのであれば、それは能動的に知識を得ることに他なりません。
フィレンツェとローマ旅行から戻って、時差ボケも治らず、深夜4時に偉そうな事を書いてみたものの、覚えた単語や人物名はザルで水を汲むように溢れ落ちてゆきますが、それでも馬鹿なりに新しい世界に出会うために知識を得たいのです。(はっしー)