5年ほど前から裁判所で公判を傍聴しているのですが、そこで印象的な裁判がありました。
実際に存在する事件なので、プライバシーに配慮して内容をボカしつつ何が問題だったのか考察してみます。
この事件の起訴事実冒頭陳述によると、被告人の鈴木太郎(仮名)は2017年10月にインターネット通販サイト「三河屋」に楽器の注文を行い、支払いの意思が無いにもかかわらず商品を授受し、その支払を逃れたものである。罪名及び罰条は,「詐欺 刑法第246 条」。
思い出しつつ適当に書いたのですが、このような流れでした。具体的にはネット通販サイトの銀行振込の店に片っぱしから注文を行い、代金後払いで発送してくれた業者から、支払いの意思がないにもかかわらず商品をだまし取ったという事件でした。
僕はその時初めて刑事事件の詐欺の公判を傍聴したのですが、実際に法廷に入るまで詐欺事件というのは知能犯だけが行うもので、高度に暗号化されたPC端末や、野良のFree Wi-Fi、ビットコイン、Tor(トーア)、Telegramなどを駆使して大企業を脅して莫大な金を奪い取る。被告人質問でも黙秘を続け、公判検事やサイバー犯罪捜査官が海外サーバーのログをつなげて立証する、そんな映画のようなシーンを心のどこかで期待していました。
ところが開廷してみれば、そこには26歳ほどの冴えない男の子がちょこんと座っていて、右にはやる気が一ミリも感じられない国選弁護人、左にはうんざりした様子の検察官、中央には虚無を感じさせる裁判官が無表情で原告を注視しています。
検察官が証拠の甲号証を裁判官に提出して、詐欺が行われたという明確な資料を淡々と読み上げます。
被告人は生まれながらにして軽度の知的障害を持っていること、工場の清掃員として月収7万円の収入があったこと、また犯行当時に消費者金融から100万円以上の借り入れがあったこと、詐欺は他にも200件近く架空の注文を行い、入手した商品をリサイクルショップで売りさばいたことなど、衝撃の事実が明かされていきます。
僕が衝撃を受けたのが実名で自宅に配送していたことと、20万円で販売されていた商品を得て、わずか5千円でリサイクルショップに売却していたことです。
それを詐欺と呼ぶにも不釣り合いな、雑で計画性のまったくない行きあたりばったりの犯罪だったのです。
傍聴しているこちらがイライラしてしまうような事件でした。そこまで生活に困っていながら一人暮らしをしているようなので、さぞかし家庭環境が厳しい境遇であったのかと同情しかけたのですが証人が出てから心境が変わりました。裁判の後半に情状証人として実母が生活環境などを陳述します。
聞いてみると、5人家族で兄弟もいて、一人暮らしの被告人宅から徒歩10分程度のところに住んでいるというのです。
裁判官から、「あなたは被告人のかわりに被害を受けたリサイクルショップに返済の意思はあるのか?」と聞かれても、「わたしも今は家計が厳しいので…」などとはぐらかしたり、「今後、再犯をしないといいきれるのか?保護者の監督はどうしていくのか?」と尋ねられても、しどろもどろで「たまに息子を見に行きます」といったり、歯切れの悪い言葉ばかりです。
「この、どアホ!!」と僕が変わって証言してあげたいほどにキレの悪い証言しかしませんでした。
「これなら来なかった方がマシだったのでは」という程度の証言です。
きわめつけに被告人が「私は病気で薬を飲んでいるので…」と発言するので、内心「お!ついに来たか、抗精神病薬の服用を根拠に刑事責任能力の有無、心神耗弱を主張するのか」と勘ぐったのですが、なんと「過敏性腸症候群で薬を飲んでいます」。
年取ったらみんな胃腸くらい痛いから!!とお説教したくなるくらいのトンチンカンな答弁でした。
嘘でもいいから、「月に1万円ほどの少額で返済をしていきたい」「住み込みのバイトを探して返済するまでネット環境を離れたい」などもうちょっとマシな答弁を期待しただけ無駄でした。覚醒剤で逮捕された酒井法子でさえ「介護の仕事を前向きに勉強したい」と嘘をついて情状酌量を求めたのです。被告人はもう少し裁判官の心証をよくする発言ができないものかと問い詰めたいほどでした。
詐欺事件は誰が悪い?というタイトルからして、「詐欺事件を起こした被告人が悪い」そう言い切ることは当たり前で正しい事実です。ですが僕が初めて傍聴した詐欺事件の杜撰さと無計画さ、情状証人さえも無計画、ここまで無計画な家族をみたことがありません。法律の専門家に3方を囲まれて、矢継ぎ早に質問を受ける。悪いのは被告人なのに、どことなく裸の障害者を罵倒しているようにも見え、あまりにオチのない酷い裁判です。本人だけを責めるのがかわいそうに思えるほどでした。
宗教的なコミューンというのは現代で忌み嫌われる存在です。私有財産を否定して、平等な労働を原理とする共産主義的な生活共同体、まるで労働者が搾取される構図に見えますし、実際にそういったトラブルも存在します。
それでも被告人の立場を見て、自立した生活というのはとても難しく、仮に執行猶予がついたとしても再犯することが安易に予想できます。そうなると、コミューンで小さな村単位での共同生活をして心を健康にしたり、助け合いの精神を学びつつ生きるというのも一つの選択肢かもしれません。
話は変わりますが先日、神社の賽銭泥棒を警察に通報して無事に逮捕!というニュースを見ましたが、確かに盗む人が100%と悪いといってしまえばそれで終わりです。しかし神主というのは、賽銭の小銭にさえ手を出さないと生活できない犯人に声をかけて話を聞いて、諭してあげるというのが神道なのではないでしょうか。難しい問題です。