知られざるイタリア・ナポリ現地の生活③ – 生活用品店 編

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こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。なんとも執筆にふさわしいオーセンティックな時間でしょう。

私の手元にはエチオピア・イルガチェフェのコーヒーがあり、ウェッジウッドのマグカップの中で程よく冷め、その酸味とフルーティな香りが際立っています。それにしても今日はなんて上手にコーヒーを淹れたのだろう。ふむ、弾けるようなフルーツの香りが一層際立つぞ。と思ったら、シトラス系のルームディフューザーを机の上に置いていたのですな。

とにかくこの自宅のレザー張りのデスクでの仕事は、私にとって究極といって良いほど魅力的な時間です。

最高のコーヒーと(ドリップコーヒーは素晴らしい。なにせ長く飲んでいられますからね)イタリアの手工オーディオ(これについてもいずれ書かなければならないでしょう)。そして数々のアンティークと、自分の好きな絵画に囲まれて過ごすのは最高のひとときです。

しかしイタリアで仕事をしている間はこうはいきません。

よくお客様には「イタリア出張いいですね!」と言われます。しかし私のイタリア出張は、おそらく皆さんに思われているよりも過酷なものです。あのゆゆしき家の水漏れと、いまいましいシャワーカーテンと、そしてナポリの喧騒。イタリアに向かう飛行機に乗るとき、私には一種の覚悟が必要なのです。

それはちょうどゲーテの、地獄のような煙の立ち上るヴェスヴィオ火山の火口への挑戦のよう…。

では、今回も知られざるナポリ現地の生活を、それなりにゲーテ風に書いていくとしましょう。

ナポリの生活用品店

ある日私はナポリの自宅にキッチンペーパーというものが必要だと気がついて、これについてすっかり困惑してしまった

何故ならばナポリではキッチンペーパーに限らず、自分にそのとき必要なものを見つけるというのが極端に難しいからである。

中世から、ヨーロッパでは職人の組合が存在していた。様々な分野の職人に組合があったことは有名だが、こと乞食に至るまでも組合が存在していたという。このことは私が「しがない地味な洋服屋組合」を作ろうと考えたときに得た知識である。その組合のせいかどうかは不明だが、イタリアには専門店という文化が非常に強く残っている。

それは今や日本ではシャッターの見本市となった商店街よりも、よほど細分化された専門店である。

ある店では軍服のように硬い白いタオルと水玉模様のシーツが売られており、ある店では無臭の石鹸と絶妙なニオイの洗濯洗剤が売られている。またある店ではキッチンスポンジは売られているが、タワシに類するものは売られていない。これを「用途的分類の法則」という。

このタオルとシーツは風呂場で使われるものと寝室で使われるものであり、違う場所向けの商品であるが、昔ながらのリネンという分類にて同じジャンルとして扱われる。このような例を除けば、基本的には同じような状況で使うものが一つの店にまとまっている。こういう法則である。

さて、ある日目がさめると床が水浸しになっていた。

靴も、家具も、スーツケースも、全てが水によって清められているのを見たとき、私はこれこそがイタリアの洗礼であると感じたものである。その時あのヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの共同制作とも言われた「キリストの洗練」に近しい表情になったのは言うまでもない。

 

次に私は長くて7分しかお湯を供給することのできないシャワーの給湯タンクが、天才ベルニーニが設計したあの美しいナヴォナ広場の噴水のように水を吹き出しているのを見つけた。私は家主に電話をかけた。

「家の中が水浸しになったよ」と、私は言った。

「そうか!なら、小舟を買ったら浮かべるね!」家主が言った。

「それならもう自分のスーツケースで試したよ」と私は返した。

「バケツを水漏れの下に置いたらいいんじゃないかな?」家主が返した。

バケツを売っている店というものを考えたときには、その用途を検討することでどの店に行けばよいかを割り出す必要がある。バケツを使うシチュエーションは主に3つである。ガーデニング、水を使った掃除、そして洗濯である。

ガーデニング用品がナポリの旧市街で手に入らないことは容易に想像が可能である。誰一人、ナポリで花を見たことがないからである。

掃除用具としてのバケツは存在する可能性は比較的高いと言える。しかし残念ながら掃除用具店は1.6キロ以上離れている。

よく通過するフォルチェッラで立ち寄りやすいのは圧倒的に洗濯用品店である。すなわち石鹸と洗濯洗剤を売っているあの店である。

このようにして、日々ナポリでは連想ゲームが繰り広げられている。全ては専門店の文化が色濃く残っているからである。

日本で一人暮らしを始めようとした場合、1日ショッピングモールで買い物をすればそれなりに物を揃えることができるだろう。それに対しナポリで1日かけて買い物をした場合、揃えられるものはせいぜい新鮮なモッツァレラと、実に美味しい白ワインと、それから塩っぽくて硬いパンぐらいのものである。この3つのものを揃えるためには3つの店に行き、それぞれで1時間以上の世間話をしなければならないからである。

(ナポリ人は幸いである。この三つの素朴な食べ物が、日本では何日探しても見つけられない至高の食べ物だからである。)

ナポリでは未だに「生活」というものを、ルネサンス時代のヴェロッキオの工房の絵画のように作り上げている。天使をレオナルド・ダ・ヴィンチが描き、キリストをヴェロッキオが描き、もしかしたら背景をボッティチェリが描いたかもしれないあの果てしない分業の絵画のように。

何気ない1日、というものを作り上げるために、数多くの店と人が役割を分担しているのである。

とはいえ「用途的分類の法則」に慣れてくると、徐々に買い物の仕方が身についてくる。どの製品がどの店に帰属するかが、瞬時にわかるようになってくるのである。

しかしキッチンスポンジが売られているがタワシに類するものが売られていない店の法則性は、未だ解明されていない。

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