金碧障屏画から見る江戸前期

 

(葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 1831年)

日本画と聞くと葛飾北斎や歌川広重など、江戸時代後期の浮世絵を想像する方が多いのではないでしょうか。日本画にも西洋美術と同じように長い歴史があります。
古代から平安時代の仏教や政を主にする絵画から、新興仏教が隆盛に向かう鎌倉時代、唐物と呼ばれる中国伝来の美術品に影響を受けた室町時代を経て、桃山時代から江戸時代に移り変わります。時代によって技法や様式が異なり、岩絵の具を用いたものが日本画と言われますが、水墨画や木版画、絹本・紙本着彩など様々です。

海外にも知名度の高い浮世絵というのは木版画という、木に彫りを施して転写される方法なので、印刷機の無い江戸時代でも大量生産が可能でした。それにより庶民にまで絵画を普及される要因となりました。良く見る葛飾北斎の富嶽三十六景(神奈川沖浪裏)などは厳密には木版画ではなく、多色刷りの錦絵というものです。
また山岳や河川を主体とした山岳画は、茶室や床の間に飾られる掛け軸としても有名です。

 

(狩野山楽 牡丹図 江戸時代前期)

画像にある金碧障屏画は狩野山楽の牡丹図という作品で、現在は京都国立博物館に収蔵されています。障屏画というのは、障屏や衝立などに絵を貼り付ける障壁画と屏風に貼る絵の総称です。中でも金碧障屏画というのはそれらに金箔を貼り濃彩を施した障屏画であり、桃山時代から江戸時代初期に盛んに制作されました。

狩野山楽は安土桃山時代に近江に生まれ、徳川家関係の障壁画を数多く描いた画家です。山楽は御用画家として活躍した狩野派から分裂した、京狩野の元祖でもあります。当時は狩野派と言って四世紀にも渡って江戸幕府や諸大名に仕えた絵師集団がありました、そこから豊臣氏滅亡後、狩野派のほとんどが江戸に下ったことに対して、京都に留まったため、山楽らは京狩野と呼ばれるようになりました。
冒頭にある牡丹図は江戸時代前期に描かれたもので全一八面に渡る作品です。東福門院の御所として大覚寺内に建てられた「牡丹の間」を飾る襖絵です。燻金のような重みある金地着彩の中には花開く牡丹が描かれています。元は中国から来た品種ですが、松尾芭蕉でも読まれたように江戸時代には愛されていたようです。

 

(狩野山雪 雪汀水禽図 江戸時代前期)

狩野山雪は山楽の家に婿養子として取った跡継ぎで、弟子入りして修行してから師匠の娘と結婚しました。御用画家というのは製作しなければならない作品が多く、一人では描ききれなく同時に多くの弟子を使って描いたと言われます。それにより個性よりも師匠の作品に近づけるという技術力が必要で、必然的に弟子の作風も似てきます。ところが山雪の作品は師匠の山楽と異なり、奥行きのない幾何学な模様が多いのが特徴的です。無数にある金碧障屏画の中の京狩野だけを取っても、これほどの違いがあります。

 

(長谷川等伯 楓図 1593年)

京都 智積院の障壁画はもともと豊臣秀吉が三歳で他界した息子の為に創建した祥雲寺に飾っていました。中心に大木を据えさせて、対照的に枝葉を繊細に描かて叙情的な風景が伝わってきます。京狩野とは異なる動的、躍動感を表現した障壁画です。
楓図のみならず、金碧障屏画や障壁画はその迫力のある大きさ、横幅によって既存の水墨画などとは異なる表現方法と言えます。博物館に収蔵されているものも多く、常設展示や特別展示で見れるものもありますので、今まで馴染みの薄かった金碧障屏画を機会があれば触れてみて下さい。

参考文献:小学館/日本絵画名作101選

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