男にとって最大の楽しみとは?
それは美しいロバート・アダム様式の部屋に目覚め、チッペンデールのデザインした美しい椅子に腰掛けて、ウェッジウッドのカップに注がれたフォートナム&メイソンの紅茶を飲むことである。
しかしながら、もしもその後出かけていく先がいつもと同じ職場ではなく、ロンドンが誇る仕立て服の街サヴィル・ロウだとしたら、それ以上の楽しみはないでしょう。
そういうわけで今回はかの地を、ちょっとしたエッセイで旅していきます。
さあ、ミルクをたっぷり注いだ紅茶の準備はできましたか?
あまりにも有名な紳士服の聖地
世界の中心とまで言われたロンドンの中心地、ピカデリーサーカスでアンダーグラウンドを降りたら、少しだけ歩いていきましょう。徒歩5分ほど、すぐにたどり着くサヴィル・ロウは、あまりにも有名な紳士服の聖地です。
伝統的に英国王室と深い関係にあり、その時代最大の洒落者である人々すなわち王子やその関係者、そして国そのもの共に紳士服を発展させてきたのが、サヴィル・ロウのテーラー達です。
軍服に始まり、宮廷服、そして王室の私服を手がけたテーラー達には毅然としたプライドがあり、客として認められるためにもそれなりの人間力が必要だと言われていますね。
しかし今、ファストファッションが地球を回しハイブランドがイメージ戦略で富を回している現代において、テーラー達は以前と全く同じように仕事をしていれば良いというわけではありません。そこには変革があり、挫折があり、そして変わらぬ輝きがあるのですね。
サヴィル・ロウを歩いていると、英国そのものが持つのと同じ種類の哀愁とプライドを感じるはずです。
さて、前置きはこのくらいにして代表的なお店を紹介していきましょう。
HENRY POOLE
フランス革命に続き、ナポレオン旋風がヨーロッパ大陸で吹き荒れる1806年にジェームス・プールが創業したのが、ヘンリー・プールです。
日本とも深い関わりを持つテーラーであり、昭和天皇から始まり現在でも天皇がここの仕立て服を愛用していることで有名です。店内には誇らしげに、大正12年付の「洋服商ヘンリープール商會」と書かれた皇室御用達認定する証書が飾られています。かの白洲次郎が愛用したことでもつとに有名ですね。
ヘンリープールの仕立て服は日本だけでなく世界各国の王室から御用達認定を受けています。その封切りとなったのは1858年のナポレオン3世による御用達認定です。
それにしてもヘンリープールの内装は、クラシックな英国趣味を感じさせます。チェスターフィールドソファに、シャンデリア。英国的な色使いの絨毯や壁紙に、マントルピースで飾られた暖炉。この雰囲気の中でビスポークスーツをオーダーすること、一生に一度は体験したいですね。
現在では国内の百貨店で、ライセンス生産のオーダーが展開されています。
Ede & Ravenscroft
次にイード・レーベンスクロフトです。創業はサヴィル・ロウの中でも最も古い、1689年。1688年に起きたイギリスの名誉革命でイングランド王ジェームズ2世が追放、廃位された次の年ですから、いかに古い出来事かがわかりますね。ちょうどジェームズ2世の頃から服装への意識が高まっていることも、イード・レーベンスクロフト創業に関係あるかもしれません。
現在の名であるEde & Ravenscroftは、1902年ジョセフ・イード氏の時代に、法廷用のかつら職人であるレーベンスクロフト氏が加わったことで名称が変更されたもの。その伝統は今なお引き継がれ、現在でも宮廷の式典用ローブ、そして法廷用かつらを扱っています。
もちろん王室御用達のブランドですが、エリザベス女王、チャールズ皇太子などより三つのロイヤル・ワラントを有しています。
Gieves & Hawkes
サヴィル・ロウ1番地に堂々たる店を構えるのは、中でも高い知名度を誇るギーブス&ホークスです。エリザベス女王、エディンバラ公フィリップ殿下、そしてチャールズ皇太子の3つのロイヤル・ワラントを授かった英国王室御用達ブランドですね。
ギーブス&ホークスは2つのテーラーが合併したものであり、ギーブスは1785年、ホークスは1771年に設立されています。その顧客にはリージェントを勤めたジョージ4世(彼の政治はそれほど評価されたものではありませんが、彼の生み出したインテリアスタイル=リージェンシー様式は非常に洗練されていて美しい)や、かの有名なイギリスの英雄であるネルソン提督もいます。
ギーブス&ホークスは最もブランド化、そしてグローバル化に積極的なテーラーでもあります。
いくつかのブランドラインを展開しており、その既製服ラインのほとんどはイタリア製です。どのファクトリーで作られているかまでは分かりませんが、クオリティ的にはラファエル・カルーゾを手がけるMACO社の製品に近いものを感じます。
もちろん少数ながらサヴィル・ロウ仕立ての英国製スーツも取り扱いがあります。
日本の新宿伊勢丹メンズ館で取り扱いがあったのも、この英国製ギーブス&ホークスで、素晴らしいクオリティです。
HUNTSMAN
さてお次はキングスマン、ではなくハンツマンです。コリン・ファース主演のスパイ映画キングスマンがまるきりハンツマンのパロディなのは、スーツ好きの方であればすぐお気づきでしょう。
1790年に設立されたハンツマン。まだラウンジスーツが一般的に着られるようになる半世紀も前、ギーブス&ホークスとほぼ時を同じくしています。
ハンツマンは1865年にプリンス・オブ・ウェールズ殿下御用達となり、その後も英国に限らず世界中の王室御用達テーラーとしてサヴィル・ロウの中でも特別な存在感を放っています。
構築的なショルダーと意外なまでに切れ長なラペル、ややスクエアな印象の前身頃。鋭角でカッタウェイされた前裾と、いかにもサヴィル・ロウ仕立てらしいドレープ感。
英国の仕立て服はテーラーによって印象が随分と異なりますが、ハンツマンには伝統と、男の求める洗練、そして精錬されたシルエットを感じます。
サヴィル・ロウの変革
本当はもっと多くのテーラーを紹介してきたいところですが、残念ながら文字数の関係もありますので、このくらいにしておきましょう。
改めてサヴィル・ロウを歩いていて感じるのは、そこに変革が起こりつつあるということです。例えばサヴィル・ロウ1番地のギーブス&ホークスのすぐ脇に店を構える、スーツサプライ。
これはリーズナブルな価格で、本格的な生地を使用したスーツを展開するグローバル企業です。日本で言えばツープライスのスーツ店と同じような位置付けですが、そのクオリティは群を抜いています。
カルロ・バルベラを始め、上質なブランド生地を使って本格的な仕様で作られたスーツは、それこそ通りを挟んだ反対側のギーブス&ホークスで売られている廉価ラインの既製服と違いがわからないほどです。
これまでスーツといえば、ビスポークが当たり前のように行われていました。日本でもかつては数多くのテーラーが存在し、ある程度の歳になればテーラーに型紙を持つのが理想的な男、ということが言われていたこともあるようです。
しかし現代において、スーツは完全にビジネスの道具であり、プレタポルテが一般的です。スーツサプライこそが現代にマッチしたスーツ店だと、残念ながら言わざるを得ないのです。
それなのにサヴィル・ロウには今なお、伝統的なテーラーが時よりその姿を変えながら店を構え続けている。例えばNORTON & SONSのようにオーナーが変わることでイメージを一新したり、GIEVES & HAWKESのようにグローバルブランドとして展開したり。
またビスポーク靴ブランドのガジアーノ&ガーリングのように、新しく生まれたブランドが、その伝統的な空気を欲してサヴィル・ロウに店を構えたりもしています。
最初にサヴィル・ロウには英国が持つのと同じ種類の哀愁とプライドを感じると書きましたが、サヴィル・ロウは決して衰退しているわけではないのです。
そこにはある秘密があります。
それはある人々にとってスーツが道具ではなく、ライフスタイルであるという事実です。
サヴィル・ロウへと足を運び、歴代の洒落者たちが積み重ねてきた伝統と、遥かな時代の流れを感じながら、自分がその一部として参加すること。
それは美しいロバート・アダム様式の部屋に目覚め、チッペンデールのデザインした美しい椅子に腰掛けて、ウェッジウッドのカップに注がれたフォートナム&メイソンの紅茶を飲むことと同じです。
いかに合理的で利便性の高いライフスタイルを提案されても、「それがどうしたのだね?」と一蹴する英国紳士たちにとって、ロバート・アダム様式、チッペンデール、ウェッジウッド、フォートナム&メイソン、そしてサヴィル・ロウを捨てることは「英国的ではない」のです。
万人にとっての仕立て服時代は終わったかもしれません。
しかしそれによって、仕立て服を着る人々はより一層輝くことでしょう。
ちょうど今日もサヴィル・ロウを歩き、お気に入りのテーラーで服を誂えている人々のように。
彼らが洒落者だったことを、200年後に誰が覚えているかって??
後生大事に写真を取っておく必要もありません。
創業400年のサヴィル・ロウのテーラーに、きっと型紙が残っていることでしょうから。