こんにちは、ライター田中です。最近思うのですが、なぜ名作と呼ばれる小説はずっと人を魅了し続けるのでしょうか。
例えば素晴らしいストーリーで人気になる小説は書店に行けば何百もあります。しかし、それらの中で何百年も人を魅了し続けるだろう、と予期させる小説はそれほど多くありません。
私は個人的にドストエフスキーが大好きなのですが、なぜ150年も前のロシアの小説をここまで何度も何度も熟読し、熱中し続けられるのでしょうか。
実は、名作と呼ばれる小説は「消耗し尽くされない」。これがポイントなのではないでしょうか。
ある小説は消耗して、ある小説は消耗しない
こんな話があります。それは、ある小説は消耗するという話です。
例えば書店で平積みにされている恋愛もののコテコテな小説。読んでみるとすごく分かりやすくて、誰もが感動できるようなストーリーになっていることが少なくありません。どこで目を潤ませれば良いかも分かるし、どこで誰を憎んで、どの登場人物に感情移入して同情すれば良いかも分かるようになっています。
しかしそういった小説は、一度その読み手に読まれただけで消耗され尽くしてしまいます。
つまり、もう一度読もうという気持ちには大変なりにくいのです。
もちろんストーリーに感激して熱心に読み続ける人はいるかもしれませんが、その本には既に小説としての奥行きは残されていません。
買って読んだ全員が理解し、そこにはそれ以外の何も無い状態になります。
しかしそれに対して、消耗しない小説があります。
夏目漱石の「こころ」や、スコットフィッツジェラルドの「グレートギャツビー」はどうでしょう。こういった小説は美しく心に残るストーリーを純粋に楽しむことが出来ますが、それと同時に色々な読み方をし、様々な部分に仕掛けやからくりを探すことも出来ます。
こういった小説は消耗し尽くされることがありません。
永遠の謎掛けが、永遠に読み手を誘う
美しく、様々な感情が綿密に表現され、いくつもの思いが交錯するストーリーは、読み手の心理状態やその気持ちに合わせて読む度に別の色を帯びます。
多分に抽象的な表現は、その人のバックグラウンドに合わせて浮かぶ情景を全く別のものにしてしまうのです。
さらにドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に至っては、完結さえしていないのにも関わらず、名作として世界中に名を轟かせています。
ドストエフスキーはあまりに多くの、からくりや仕掛けを小説の中に隠したまま、しかも続編を書かないまま死んでしまった。すると後世の研究家たちはそれを解読したり、ドストエフスキーが描いたはずの続編について盛んに討論します。
しかし絶対にそれら全てが解読されることはなく、この先ずっと読み手の想像を膨らめていく。
著者は何を思ってその言葉を選んだのか。どうして主人公はその場の状況にふさわしいとは言えない不自然な行動を取ったのか。推測はできますが、答えは著者にしか分かりません。
すると小説は消耗されずに、永遠に「謎」と共に残っていくのです。すなわち、名作と呼ばれる小説は、読み手に対して永遠の謎掛けをしているのですね。
この本で謎掛けを体験しよう
いかがでしょうか。
名作と言われている小説の多くはそうして、謎掛けをしています。
個人的には、中でもドストエフスキーの『罪と罰』こそ、そういった謎掛けを最も具体的に体感できる小説だと思います。
この『罪と罰』には一読しただけでは意味不明な部分がたくさんありますが、探っていくと思わぬ糸がそこにつながっており、より深い階層へと潜っていく手がかりとなることが少なくありません。
おすすめは『罪と罰』を何度も読み、その後に江川卓の謎解き『罪と罰』を読むこと。
この本では、『罪と罰』の謎掛けをドラマチックに追求していき、名作小説の奥深さを心から体感させてくれます。