かつて執筆は、限られた者のたしなみであった。自らの言説を書物に編み世に問うには、作家としての力量や、知識人としての教養が求められた。出版社の眼鏡に適わぬ書き手は、自費出版のために安からぬ金を支払わねばならなかった。ところがインターネットが生まれて以来、物書きの資格は万人に解放された。誰もが自由に文章を綴り、世界に向けて発信できるようになった。これは一種の言論革命である。しかし、歴史上の革命が必ずしも良い結果をもたらさなかったように、この革命もまた悪しき結果を招かずにはいなかった。書くこと――自己を曝け出し、おのれの知識を、技巧を、経験を、見識を誇示することには、抗しがたい快楽が伴う。一流の書き手であれば、そのような誘惑に身を委ねることはなかろう。他者の目に映る自己陶酔の醜さを、彼らはよく心得ている。ところが素人の書き手の多くは、強固な自制心も、厳格な自意識も持ち合わせていない。そのためネット上には、リビドーの奔出ともいうべき、自己顕示欲にまみれた下劣な文章が氾濫することとなった。
現代の喧噪に辟易した私の精神は、古代の静けさに憧れる。
ヱホバよ榮光をわれらに歸するなかれ われらに歸するなかれ なんぢのあはれみと汝のまこととの故によりてたゞ名にのみ歸したまヘ
神の前に頭を垂れる人がなぜ美しいかといえば、その人に私欲が欠けているからである。美は、欲求の発露ではありえない。個人を超えた崇高なものへの祈りこそが、美を生むのであろう。その対象が神であるか、理念であるか、運命であるかは、些細な問題である。
優れた作品は、作者が死に、その名が人々から忘れ去られた後も、美を湛えたまま、この世に残り続ける。遠い未来、再び見出されたその作品は、ただそれ自体の美しさにより、見識ある人々を魅了するだろう。いつかそのような、個人を超え出た表現に至れたら――と、この三文文士は願うばかりである。