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北大路魯山人に学ぶ料理の精神性

現代では真剣に料理をする機会が減っています。原因は様々でコンビニ弁当やレトルトの一般化、加工食品、共働きや外食チェーン、デリバリーの普及など、例をあげればキリはありません。魯山人が存命の明治から昭和中期という時代、高度経済成長の少し前は食に対しても真剣な時代でした。その頃に生まれ育った世代は当たり前のように鰹や昆布から出汁を取るどころか、糠床が有ったり、梅干しを自家製するのも普通の時代だったのです。加工品が今よりもずっと少ない時代でしたので、日々のご飯のおかずなど自分達で料理していました。

魯山人の精神性を語る事は難しく、おこがましい事のですが一部について書き留めます。

「料理の真髄は家庭料理にある」

この言葉は魯山人の考える食の精神性を言い表しています。筆者は今まで日本料理の真髄と言えば高級料亭のことを指していると思っていました。高い技術を持った料理人が創意工夫を凝らして、高価な九谷焼の色彩豊かな器に盛り付けて、仲居さんが配膳してお酌してくれる。日本庭園があり、そこで食べる和食はいかに素晴らしい事だろうと想像していました。

しかし魯山人の言う料理の真髄は、そんなものではなく「家庭料理にある」というのです。「料理屋の料理は芝居」とさえ言って中途半端な料理屋を忌み嫌って居たほどだそうです。魯山人は両親に恵まれず、幼少期に養子として家を転々として苦労して育ち、養子先の福田家で6歳の頃から炊事を買って出たそうです。
そうした苦労からか、あらゆる美食を体験した後でも、家庭で作られる愛情のある料理こそが真髄と考えていたそうです。但し横暴で傲慢な性格から、料理が気に入らないと何度も作り直しさせていたりと極端な厳しさもありました。

「採れたての野菜に直ぐに食べる」

美食と言うと、いかに希少な食材を使い、技巧を凝らして食べるかという所に視点が集中しがちです。
料亭で出る懐石料理も珍味や高級食材をふんだんに使って出てきます。

しかし魯山人が貸し受けて始めた食堂の星岡茶寮では、四季を通して旬である野菜を、客の来る直前に畑から抜いて簡素な調理をして出しました。
野菜は採れたばかりが最も旨い。新鮮なものをクドクドと調理をせずに、簡単な手法で食べろというのです。
複雑に調理して手をかけるほど味が落ちてしまう。新鮮な野菜や、採れたての魚を、その素材に合った方法でシンプルに料理することこそが基本と言っています。

食材を使い切るという所にも厳しく、魚はアラや内蔵まで残さず調理しました。採れたての大根は果皮に旨さがあり、剥くこと無く客に出したとさえ言われています。魯山人の厳しい幼少期の影響か、それは大成してからも食材を無駄にすることなく、客が手を付けなかった料理を後で自分で食べたとさえ言われます。現代では切り身の部分だけで売られている魚や、葉の付いていない古い野菜を買い、料理で残った部分を捨てるのが一般的ですが、真逆の生活をしていたのです。

質の良い調味料を使い、素材の味を引き出す

魯山人のすき焼きは、どれほど凝った料理だろう。と思われますが、驚くほどに単純なもので、「鍋で煮込まない」というものです。食材によって火の通る時間が異なり、美味しさのピークも異なります。
肉は火が通りすぎてもいけない。すき焼きをごった煮で色々材料を入れると見栄えこそ良いけど、味は落ちる一方です。
そこで鉄板に肉だけを先に焼いて、酒と濃い口醤油で味をつけ食べ、その後に残った肉汁で野菜や豆腐を蒸し焼いたというものです。少量づつ焼くことで食材の最も美味しいタイミングで食べることができます。

また、すき焼きの割り下(ダシと調味料を合わせたもの)さえ用いらなかったそうです。時に砂糖を少量使うことはあっても、「砂糖は味を瞞着する(ごまかす)」といって最小限しか使わなかったのです。

「新鮮な旬の食材を、少量な良質の調味料で料理する」これが基本であったそうです。

器と料理が有ってこそ美味しさがある

食器なんてどれも同じでしょう?こんな風に考えている人が非常に多いです。何しろ東京の百貨店に言っても本物の器がわずかしか並んでいないのです。

筆者は、静岡に住んでいる時にワインショップ主催の花見で紙皿で米や料理を食べ、紙コップでワインを飲んだことがあります。
花見の雰囲気こそありますが、今一歩味気のなさを感じました。しかし隣の集団を見ると、20代の若い男女が4~5人居て、みなポテトチップスなどの袋菓子を片手に、缶に入った酒を飲んでいるのです。「これよりは幾分良いな…」とさえ感じました。
ところが、遅れて到着した八十歳近いママが持ってきたのは風呂敷から出した三段のお重。漆塗りに控えめの金彩色がされたもので、桜の落ちる中のその風情と言ったら言葉に出来ないほどでした。

中の筑前煮も野菜ごとに煮分けされて均一な硬さで、角をとったり工夫もされて非常に美味しかったのですが、「なんて豊かなんだ!」と感銘を受けました。
これは行楽の例ですが、家庭での料理にも同じことが言えます。本当になんでも良ければ大きなさらに、全ての料理をドンと乗せれば良いことになってしまいます。

一人が食べ切れる量を適切な器に盛り付けるだけで、美味しさが一段と向上するのです。実はこの事は魯山人だけでなく、懐石料理で有名な料理人の辻嘉一の本でも同じ事を言っています。余談ですが、辻嘉一の息子である三代目辻留主人の辻 義一氏は20歳の頃に魯山人のもとで修行していたそうです。

辻嘉一の本が手元に無く、うろ覚えなのですが「夏のうちは冷奴に薬味を乗せて、涼しげな着色ガラスの器を冷やして、さっと出せばそれだけで一品になる」といった話がありました。白い食材は濃い色の器に、濃い色の食材は薄い色の器に。これだけで家庭料理でも雰囲気を出すことができます。

確かに料理が慣れないうちは、豆腐を白い器に盛り付けて食欲が出ないのを実感したことがあります。フレンチでも魚料理を黒い皿で出す店が多いのは、視覚的な食欲を意図しているからです。

料理に心があるか

同じ料理でも心があるか、美味しい料理を作ってあげたいという気持ちが重要です。

例えば遠方に住む年老いた祖母の家に、数年ぶりに帰ることとなったとします。祖母は子供時代によく作ってくれた料理を丁寧に拵えて、手作りの漬物や味噌汁、食後には昔食べたアイスを出してくれる。簡素な料理であっても、そんな料理は格別に美味しいはずです。同じ料理でも、美味しいものを食べさせてあげたい、という気持ちが大切です。
いかに調理が良くてもデパートの弁当や惣菜を、一人で食べていては本当の美味しさはありません。

星岡窯(せいこうよう)という鎌倉にあった魯山人の窯に、旧皇族である東久邇宮稔彦陛下ご夫妻が訪問するという出来事がありました。陛下をもてなす料理はいかに豪華だったかと思われますが、邸内に案内しながら星岡窯のあぜ道に生えている芹(せり)を摘んで、地元の採れたての赤貝と合わせて炊いて出したというのです。それに山椒の若実を擦ってすぐに振りかけたそうです。殿下は甚く感動して再訪までしたそうです。

高級食材や珍味を遠方から取り寄せるのではなく、庭の芹で持て成しをしたのです。心があったからこそできた事と言えます。
筆者も幼少時代に農家の祖父が庭で採った胡瓜などの野菜を当たり前のように食べて居ましたが、大人になった今あの時の味はどこの店でも食べる事ができません。胡瓜を蔦から手でもいで、トゲを軽く落とすように水でササッと流して食べる味は格別でした。

採れたての食材を最小限の調理で、美しい器で頂く。

料理には様々な技法手法があり、調味料選びや食材の保管方法、切り方など本格的に習得するのには何年もかかります。
しかし魯山人の言葉を借りるならば、採れたての食材を最小限の調理で、美しい器で頂くということです。
また多くの料理は作った直後が一番美味しいので、温かいものや冷たいものは特に、できてすぐに食べ始めるのが理想ということです。地元で採れた新鮮なものを食べることが良い、と言っています。

ただし、お国自慢の地物しか食べたことの無いだけでは芸がなく、探究心を持ち、様々な地方の料理を食べて研究して、より美味しいものを作れるような意欲を持つことが必要だとも言っています。

参考文献:
新書853魯山人 美食の名言 (平凡社新書) 新書 – 2017/9/15
魯山人「道楽」の極意 単行本 – 1996/6
辻留・料理のコツ (中公文庫 つ 2-11) 文庫 – 2009/10/1

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