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フランス文学、はじめの3冊

興味・関心というのは、連鎖的に広がるものである。上等なスーツを仕立てれば、それに相応しいシャツとネクタイが欲しくなる。
可愛らしいプレートを手に入れれば、それに見合うカトラリーが欲しくなる。

しかしながら、このような好奇心の連鎖を引き起こす端緒というのは、必ずしも容易に得られるものではない。
なんと多くの人が、仕立ての良いスーツの着心地も、皿を愛でる楽しみも知らずに一生を終えることか!

『大人になれる本』は、人々の好奇心に最初の火種を授けるプロメテウスである――

――という話(多分に脚色あり)を先日はっしーさんから伺い、お茶を飲みに行っただけのはずが、その熱意に押され、私も彼とともに天界の火を読者の皆様にどうぞどうぞとお勧めすることになりました。

さて、本日の話題はフランス文学。私はこの分野に少々詳しいのですが、初めてフランス文学に興味を持った読者にお勧めの小説を教えてほしいとの依頼を編集長から受けて執筆しております。したがって今回は入門的な記事です。熱心な読書家諸氏には物足りない内容かと思いますが、そのような皆様は次回以降の記事にご期待ください――次回があればの話ですが。

フランス文学というと、教養主義時代の厳めしいアウラが残るドイツ文学ほどではないものの、日本文学や英米文学に比べると、いささか近寄りがたい印象をお持ちの方も多いかもしれません。しかしその一方で、フランスという語が喚起する優雅さや豊饒さのために、この文学に漠然とした憧憬を抱く方も少なくないことでしょう。
この記事は、そのような憧れを持ち、初めてフランス文学を何か一冊読んでみようとする方に、最初に選ぶべき本をご提案するものです。
選択肢は多すぎても少なすぎても良くありませんから、とりあえず3冊ご紹介致しましょう。

1. スタンダール『赤と黒』

【あらすじ】
主人公は、田舎の貧しい製材屋に生まれたにも関わらず立身への野心に燃える、才能と美貌に恵まれた青年ジュリアン・ソレル。地元の名士レナール家の家庭教師に就いたのを皮切りに、神学校での生活を経て、彼はパリの侯爵家秘書にまで出世する。遂にジュリアンは奉公先のマチルド嬢と結婚することになるが、喜びもつかの間、彼がレナール夫人と不倫していたことが発覚する。彼は故郷に戻り夫人の殺害を試みるものの失敗し、死刑に処される。

何といっても主人公が格好良い。ジュリアンは、卑俗を嫌い出世への情熱を秘めると同時に優れた頭脳を有する人物です。彼が出世するさまは爽快であり、その失墜と転落もまた英雄的です。さらに、サスペンスあり、恋愛あり――古典文学でありながら、娯楽小説に比肩するほど読者を楽しませてくれる一冊といえましょう。

この小説は名優ジェラール・フィリップ主演で1954年に映画化されています。この映画が成功した要因が何よりもまず俳優の魅力にあることは確かですが、それに加え、原作が元々ドラマ性に満ちた、映画向きの小説であったことも一因に違いありません。

ちなみに読書家の間では、この小説に登場する2人のヒロインのうちどちらが好みかがしばしば話題になります。
あなたはレナール夫人派? それともマチルド派?
私はどちらも苦手ですね……

2. バルザック『ゴリオ爺さん』

【あらすじ】
南仏からパリに来た学生ウジェーヌ・ド・ラスティニャックの視点から、彼の下宿先に住む老人「ゴリオ爺さん」が描かれる。かつて製麺業で大金を稼いだゴリオは、高額な持参金とともに2人の娘を上流階級に嫁がせた。しかし華やかな社交界に入った彼女たちは、次第に困窮する父に無情にも金を無心し、ゴリオもまた、娘たちへの盲目的な愛情から彼女たちを支援し続ける。しかし父の愛は報われず、無一文になったゴリオは心労のため病に倒れ、2人に看取られることなく息を引き取る。代わりに彼の死に立ち会ったラスティニャックは何を思うか。

延々と続く下宿屋の描写から始まる、悪名高い小説です。しかし当時の暮らしに興味がある方にとっては、この冒頭はむしろ興味深いかもしれません。いずれにせよ、ひとたび物語が始動すれば、登場人物たちの魅力により楽しく読み進められること必至です。ゴリオに加え、恐ろしくも魅力的な思想を秘めた謎の男ヴォートランの存在も作品に魅力を添えています。また、老人ゴリオを巡るこの小説は、同時に若者ラスティニャックの成長譚として読むこともでき、若い読者にも勧められる作品です。

バルザックは、物語に以前発表した別作品の登場人物を再登場させる「人物再登場」の手法を用い、多数の作品が織りなす壮大な小説世界を構想しました。『ゴリオ爺さん』を読んだ上で、ランジェ公爵夫人が気になれば同名の小説を、ヴォートランが気になれば『幻滅』および『娼婦の栄光と悲惨』を手に取るといったように、登場人物を追ってバルザックの奥深い小説の森に足を踏み入れるのも面白いかもしれません。

3. フローベール「純な心」

さて3冊目はフローベール『ボヴァリー夫人』――といきたいところですが、この小説に挑戦する前に、ぜひ読んでいただきたい短編があります。『三つの物語』所収の「純な心」(光文社版では「素朴なひと」)です。

【あらすじ】
無知ではあるが純朴で信心深い女中フェリシテの生涯を描く。オーバン夫人に仕える彼女は、主人とその2人の子供とともに幸せな日々を送るも、時が経つにつれ、子供たちは家を出、代わりに招いた甥も外国に行き、次第に大切な人を失っていく。甥とオーバン嬢は夭折し、偶然手に入れ一時の慰みとなった鸚鵡も死に、遂にはオーバン夫人も息を引き取る。目や耳も衰え、閉じこもりがちになったフェリシテは、ますますこの世界から遠ざかっていく。そしてとうとう彼女自身も――次第に現実から引き剥がされていくかのような死への旅程が、柔らかな筆致で描かれる。

悲惨な人生を憐れむのでもなければ、宗教的救済に至る道を賛美するのでもなく、フローベールがフェリシテに向けるまなざしは、軽蔑と愛情、憐憫と憧憬が混在する、複雑なものです。また、この世を離れ非現実の世界へ向かうというテーマは、小説の世界に憧れる『ボヴァリー夫人』の主人公エンマの夢想と共通するものです。『ボヴァリー夫人』は捉えがたい作品ですが、この短編を踏まえて読めば、少なくとも、夢見がちな彼女が単なる馬鹿には思われないことでしょう。

また、消えゆく過程にある自我を描くという試みは、19世紀の小説でありながら、20世紀のベケットの作品を思い出させます。彼の作品にしばしば鸚鵡が現れるのは、もしかするとこの小説を意識してのことなのかもしれません。フローベールの作品の革新性には驚かされるばかりです。

スタンダールやバルザックに比べると、フローベールはいささか複雑な作家です。しかしその分彼の小説は味わい深く、何度も読み返す価値があります。「純な心」に限らず、彼の作品は、生涯座右に置きたい傑作ばかりです。

おわりに

以上3冊ご紹介しましたが、これらはあくまで選書に迷う方へのご提案です。
読むべき古典のリストを消化していくような読書は苦しいばかりですし、それでは楽しみも薄れてしまいます。
マイナーなものから読み始めたとしても、作品のつながりを辿るうちにいずれ古今の名著に行き着くものですから、畢竟、本は気になるものから読むべきでしょう。

皆様の幸福な本との出会いをお祈り申し上げます。

「フランス文学、はじめの3冊」への1件のフィードバック

  1. united arrowsのスーツを検索していたらここにたどり着きました『妖精の身代金』は読んでみたいと思っていた本なので、これからそこへ飛ぼうと思います。

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