【翻訳】レミ・ド・グールモン「ヴィリエ・ド・リラダン」(『仮面の書』より)

PENSIER

Hubert Robert, Ruines d’un temple dorique

訳者まえがき

portrait de Villiers de l'Isle-Adam

Villiers de l’Isle-Adam

ヴィリエ・ド・リラダンは、革命が生んだ最後の悲劇である。彼はフランス有数の名家の血を引きながらも、没落貴族の末裔として、貧民同然の暮らしを強いられた。「現代において真に高貴な唯一の栄光たる大作家の栄光をば、わが一族の威光に付け加えん1)」とうそぶきつつ、彼は魂の救いを文学に求めた。その真摯な探求の成果が詩劇『アクセル』である。「生きる? そんなことは召使どもに任せておけ2)」と、彼は登場人物の口を借りて言う。彼の魂の本来の住み処は、この醜い現世から抜け出た先、彼岸世界にあった。あまりにも高いこの理想は、現実との著しい乖離により詩人を苦しめた。しかし皮肉なことに、彼に風刺文学の傑作『残酷物語』を書かせたのは、まさにその苦痛であった。そこに収められた短編小説は――神秘小説「ヴェラ」や抒情詩群「恋の物語」、当初散文詩として書かれた「幽玄なる回想」・「告知者」などを除けば――いずれも大衆社会への仮借なき批判を、皮肉とともに述べ立てている。愚劣が支配する現世にあって、この高貴な魂は悲鳴を上げずにはいられなかったのである。

1) « avec l’ambition — d’ajouter à l’illustration de ma race la seule gloire vraiment noble de nos temps, celle d’un grand écrivain » Stéphane Mallarmé, Villiers de l’Isle-Adam dans Œuvres complètes, Bertrand Marchal (dir.), 2 t., Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1998 et 2003, t. II, p. 31.
2) « Vivre? les serviteurs feront cela pour nous. » Villiers de l’Isle-Adam, Axël, Maison Quantin, 1890, p. 283.

産業の発展は数の論理を社会に行きわたらせ、既に19世紀後半には、文学さえこの秩序に侵されつつあった。そのなかで苦しむ詩人たちにとって、ヴィリエの作品は、貧困に屈せず高潔な理想主義を貫いた彼自身の生きざまとともに、魂の拠りどころとなった。今もなお、大衆の波に飲まれ窒息しかけた精神は、彼の作品に慰めを見出す。

以下に訳出するのは、レミ・ド・グールモン『仮面の書』に収められたヴィリエの肖像である。絡み合うロマン主義と風刺精神、現実と観念をめぐる逆説、反進歩・反実証主義――グールモンの筆は、ヴィリエの諸特徴を的確に捉えている。近寄りがたいヴィリエの作品に初めて接する読者にとって、本章は良質な手引きとなるに違いない。

ヴィリエ・ド・リラダン

これは敬虔であるがためにぎこちない称賛の不器用な証言であるが、ひとは次のように言い、またこの逆説的とされる研究に基づき自説を述べさえした。「ヴィリエ・ド・リラダンは故国にも時代にもその出自を持たなかった。」これは由々しきことである。なぜなら、要するに優れた人物・偉大な作家というものは、宿命的に、彼の天才そのものゆえに、種族と時代の止揚のひとつであり、一時期の一部分の人類を代表する者であり、一部族全体の脳髄であり口であり、うつろいやすい怪物ではないのだから。ヴィリエは、種族と栄光においてその兄弟であったシャトーブリアン同様、一時期の、荘厳な一時期の人であった。両者とも、企図を抱え、様々なかたちで選良エリートの魂をひとつの時代のために再創造した。一方からはロマン主義的カトリシズムと伝統的な石墳への敬意が生まれ、他方からは理想主義的な夢と、あの古代の内的な美への崇拝が生まれた。しかし一方はまた我々の御しがたい個人主義にとって威厳ある祖父であり、他方もまた、我々を取り巻く生が唯一の捏ねるべき粘土であることを教えた。ヴィリエは、『未来のイヴ』にせよ『トリビュラ・ボノメ』にせよ、その傑作がことごとく科学と現代形而上学に深く根ざした夢であるという点において、自らの時代の作家である。後者の並外れた、感嘆すべき、悲劇的な滑稽譚には、風刺家から哲学者まで、夢見る人が有するあらゆる才能が結集し、この作品をおそらくは今世紀で最も独創的なものとしている。

この点が明らかになれば、以下のことが認められよう。恐るべき複雑さを誇る存在たるヴィリエは、当然ながら相反する解釈を受け入れる。彼はすべてであった。新たなゲーテともいえよう。確かに彼はゲーテほど意識的でなく、完璧でもなかったかもしれないが、彼はより辛辣で、より捻くれており、より神秘的で、より人間的で、より親しみやすかった。彼は常に我々とともにあり、彼が残した作品とその影響により、常に我々のうちにある。彼の作品の影響を喜びとともに被ったのは、今日の作家や芸術家たちのなかでも最も優れた面々である。つまり彼は、大きな音を立て、彼方へと続く閉ざされたた扉を再び開いたのである。そしてそれらの扉をくぐり、ひとつの世代が皆無限なるものへと殺到したのであった。位階をなす聖職者たちのなかには、悪魔祓いのほかに門番もおり、彼らは聖域の扉を開き、善き意志を有する人々を迎え入れる務めを担う。ヴィリエは我々のためにこれら2つの役職を兼任した。彼は現実に対する悪魔祓いであり、理想への扉を開く門番でもあった。

確かに彼は複雑な人間であったが、そのうちには二重の精神が見てとれる。彼のなかには、ロマン主義者と風刺家という、本質的に異なる2人の作家が同居している。ロマン主義作家は最初に生まれ、最後に死んだ。『エレン』と『モルガン』、『アケディッセリル』と『アクセル』のことである。風刺作家ヴィリエ、『残酷物語』と『トリビュラ・ボノメ』の作者は、ロマン主義の2期の狭間に存する。『未来のイヴ』は、かくも多様なこれら2つの傾向の混淆とでもいうべきものであろう。この本は強烈な皮肉を備えているとともに、愛の書でもあるのだから。

要するにヴィリエは、夢と皮肉の両方により己を為した。人生が、たとえ夢の人生であっても彼をうんざりさせたために、彼は夢を皮肉りさえした。主観的でないものは何もなかった。彼の作中人物たちは、作者の魂の欠片から生み出されたのち、まるで神秘によるかのように、真正かつ完全無欠な魂の状態まで育て上げられている。対話となれば、彼は普段自分が有する物事に関する知識をはるかに上回る哲学を登場人物に語らせる。『アクセル』において、女子修道院長が地獄について話すさまは、ヴィリエがヘーゲル哲学について語る際に用いたであろう語り口を思わせる。ヴィリエははじめヘーゲル哲学に大いに確信を抱いていたが、晩年には失望したと言っていた。「もうおしまいです! あの子は既に地獄の法悦と陶酔を感じています。」彼はわが身をもってその法悦と陶酔を経験した。ボードレールの追随者として、彼は冒涜を、その隠された効果ゆえに愛好した。喜びを得るために、神をも犠牲とし、甚大な危険を甘受した。不敬は実行に移され、冒涜は言葉に発された。彼は現実よりも言葉を信じた。そもそも現実など、触知しうる言葉の影にすぎない。なぜなら、もし言語を欠いた思考が存在しないならば、思考を欠いた物質もまた存在しないということは、至極単純な三段論法により自明であるから。言葉の力を、彼は迷信の域に達するほどまで認めていた。例えば、『アクセル』の初稿と第2稿を比較した際に目につく唯一の修正は、特別な語尾を有する語の追加であった。教会や修道院の社会環境を喚起するために、彼は「背信的なpro­di­toire」・「前兆となるpré­moni­toire」・「贖罪のsa­tis­fac­toire」、それから「享受frui­tion」・「頌詞col­lau­da­tion」などといった語を加えた。このように音節を切り分けて発音することの神秘的な力は、彼を次のような風変わりな呼称の探求に向かわせた。「〈死者たち〉の典礼の〈外勤司祭〉le Des­ser­vant de l’office des Morts」などという役職は、聖アポロドーラ修道院a)を除けば、他のどこにも置かれたことのない役職である。また「〈地下を歩む人l’Homme-qui-marche-sous-terre〉」というのも、新世界b)の外ではいかなるインディアンも口にしない言葉である。

a)『アクセル』第1幕の舞台。
b) 散文詩劇『新世界』を暗に指している。

もし彼が現実というものを定義したとすれば、おそらくは『未来のイヴ』の非常に古い草稿にあるとおり、以下のように定義しただろう。

さて、〈現実〉には存在の度合いがある。しかじかの事物は、それが我々の関心を引く度合いに応じ、より現実的であったり、現実的でなかったりする。なぜなら、いかなる点でも我々の関心を引かないものは、我々にとって存在しないも同然だから――つまりそのようなものは、たとえ物質的であっても、我々の関心を引く非現実的なものより存在の度合いがずっと低いのだ。

ゆえに我々にとって〈現実〉とは、感覚にであれ精神にであれ、単に我々に触れるものである。我々が感知し現実と呼ぶところの唯一の現実が示す強度に応じ、我々は、見たところ充実の具合が一様でないその現実の存在度合いを、おのが精神のうちで階級づけ、その結果として、しかじかの現実が現実化していると言うに足るかを、その度合いから判断する。

現実に対して我々が有する唯一の干渉手段は、観念である。

あるいは、

……遠くの空き地にそびえる1本の松の梢に、私は小夜啼鳥の声を聞いた――この静寂が奏でるただひとつの声を……

「詩的」風景はほとんどいつも私の冷めた心を動かさない――あらゆる真面目な人にとって、真に「詩的」な観念を思い起こさせる環境とは、壁に囲まれた部屋の中であり、机があり、平穏であることに他ならないから。詩的とされる風景は、世界がそのような人々に見せる魂のすべてをその内に秘めてはいないため、そこに魂を見ようとしても無駄である。彼らはそこに魂を認めないだろう。あらゆるものは、それを見つめおのれを省みる者の思考によってしか美しくはありえないのだから。宗教同様、「詩」には信仰が必要である。そして信仰は、むしろ自分自身のうちにこそはっきりと認められるものを見つめるために、肉体の目を凝らす必要はない……

このような考えは、幾度も、いつも新しく常に稀有な様々なかたちで、ヴィリエ・ド・リラダンがその作品のなかで述べてきたことである。バークリーによる純粋否定――もっともそれは主観的観念論の論理的極限にすぎないが――まで行きつくことはなかったものの、彼はその人生観において、〈内〉と〈外〉、〈精神〉と〈物質〉を同一平面上に認めていた。それぞれ前者に、後者に対する優位を与えていたのは一目瞭然である。進歩の観念は、終生彼にとって嘲笑すべき題目に他ならなかった。人間主義的実証主義の愚かさに対しても同様であった。この主義が何代にもわたり人々に説くのは、転倒した神話である。過去を割り当てれば迷信となる地上の楽園が、それを未来に置くと唯一の正当な希望になるというのである。

対してヴィリエは、『未来のイヴ』旧草稿のある短い断章において、主人公(エジソンと思われる)に次のように言わせている。

我々は人類の爛熟期にある。それがすべてだ。まもなく、この奇妙な茸腫ポリープ[=人類]は老い、衰え、そして進化が完遂されたのち、それは死して不思議な実験室に戻るだろう。その実験室では……何かしらの明白な必然〉の恩恵を受け、ありとあらゆる〈現れ〉が永遠に作られ続けるだろう……

この最後の一言で、ヴィリエは神に対する自らの信心まで嘲笑う。彼はキリスト教徒であったのだろうか。彼は人生の最期にキリスト教徒になった。こうして彼は、知的陶酔のありとあらゆるかたちを知り尽くしたのであった。

底本:Remy de Gourmont, Le Livre des masques : portraits symbolistes, Mercure de France, 3e éd., 1896, pp. 89-96.


目次

III. アンリ・ド・レニエ
VI. アルベール・サマン
X. ヴィリエ・ド・リラダン
XXVIII. ロベール・ド・モンテスキュー
XXX. ポール・ヴェルレーヌ

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