世の中には”Nature Deficit Disorder”(自然欠乏症候群)なんて立派な症状名が存在するようですが、都会のマンションの一室に籠もりきりというのは精神や肉体に良いはずはないでしょう。先日少しだけ森の土を踏んだのですが、蚊柱を腕で払い湿った腐葉土に靴跡を付け、揺れる枝葉の隙間から差す木漏れ日を浴びたのは、五感を刺激するのには充分すぎる体験でした。
森の中に住んでいるときは実感できないのですが、数メートル歩くごとに様々な香りが漂ってきます。ドクダミや栗の木の強いニオイだけでなく、野草や花の混じったニオイなど次々変化していきます。こんなご時勢で今は戻りたくても静岡に戻れないので、気分だけでも数年前の写真を整理してみます。
※いずれの写真もクリック(タップ)で拡大できますので、大きな画面でもご覧下さい。
自室からのカットです。夕焼けと共に景色の見える部屋でした。
流れる雲の形が美しいですね。
焼津のある公民館の駐車場に咲いていた彼岸花です。
茎に毒があり不吉な花とされますが、鮮やかで美しく思えて撮った一枚です。
10月でもまだまだ夏のような日差しでコントラストが強く、奥には夏雲のような空が広がっているようです。パキラではなくて…こんな感じの安っぽい観葉植物のセットが当時流行っていて千円程度で買っていたように覚えています。
こちらは別の日。D700は彩度が上がり、D2Xと比べるとやや派手な色作りです。
グラデーションが美しく、この日は雲はありませんでした。
青とグレーの空と月です。D2Xは常用感度がISO200以下という今では考えられない低スペックですので、夕方になるとシャッタースピードを遅くしなければなりません。
ノイズは出ているのですが、柔らかい独特な色合いは今見ても優しい気持ちになれる一枚です。
散歩先の公園での一枚。沈んだ色合いが絵画のようで好きでした。
5年前のスマホよりも性能が低く、三脚なしでの手持ち撮影は困難を極めます。
雑草、と名付けるには勿体ないほどに生き生きとしています。ある河川の上流で撮ったのですが、牡丹の花が清流に崩れ落ちる姿は、4月の一瞬だけしか見られません。確かにこの時見たのですが、なぜ写真に収めなかったのかは今となっては不明です。
D2Xを長く使っていた私にはD700の発色が新鮮なもので、色鮮やかな対象を見つけては喜んで撮っては歩いていました。このショットは近所の友人宅ので、外でお茶をしながら撮影したものです。
ある散歩道の横断歩道から撮ったショットです。このケヤキ並木は新緑に色づくのは10日ほどで、日に日に緑が濃さを増し、梅雨が来る前にはどっしり濃い緑の葉が覆います。秋には枯れて、それもまた美しく、一年通してカメラを持って歩きました。
D2Xのこういう所が好きです。1990年代と2000年代の中間のような、レトロモダンではありませんが、現代の鮮明で発色が良い写実的な絵よりも人間味がある気がします。
これは名古屋の大須にあるソロピッツァナポレターナの二階にある自動販売機でジンジャエールを買っている絵です。
肝心のピザの写真はこちら。焼き加減といい、今でも食べたくなる仕上がりです。
この数年後に本当にナポリを旅行するとは思いもしませんでした。
この時には既に管理されているか分からない神社を背景に、手前にはビニールハウスの骨組みと農耕用の車の写真です。
D2Xは色合いが眠たく、まるで90年代の写真のようにも見えます。
何気ない日常の写真でも、時間経ってから見直すと面白いものです。
蕎麦を人数分茹でて、氷を浮かせて三つ葉?と梅干しの紫蘇?を添えたもののようです。ミックス光でブレていますが、なんか美味しそうに見えるのは私だけでしょうか。
切ってから時間の経っている木材です。どこにでも落ちていた光景ですが、今見ると懐かしくさえ思えます。
おがくずの湿ったニオイはあまり好きではないのですが、田舎らしいニオイといえます。
旅行先の光景ですが、昔見た祖父の家の光景のようで懐かしいような気もします。
畳に座り、庭が見えるというのは今では贅沢なものです。
D2XとD700の写真集
最後までご覧くださりありがとうございます。あんなにつまらなく思えた日々も、過ぎ去って見ると輝かしく見えるものです。
過去の思い出や記憶は美化されると言いますが、(今もですが)この時は迷走中で苦しい時期でした。それでもファインダーを通した景色を再び今眺めても、全てが無駄ではなかった思えるのです。
もし退屈でつまらない日々だと思える場合でも写真を撮っておくと、後から振り返ったときに楽しい一枚に変わっているかもしれません。久しぶりに写真を整理したのですが、同じ写真が違って見える不思議な体験をしました。