私が大人になれる本の編集部にスカウトされたときの話をしましょう。
それはある冬の日、私がロンドンのキングズクロス駅のプラットフォームでニューカッスル行きの電車を待っていたとき、ではなくて、あまりの休学の長さに大学をお払い箱にされ、静岡の両替町で、しかるべき飲み屋=いわゆるキャバレークラブで飲んでいたときのことでした。
私はすでに3杯目のニコラシカを飲み干して、残り数分の猶予のあと、延長をすべきか否かという問題で深刻にあたまを抱えていました。
そのときでした。私は確かに、数席はなれた席で、陽気な男が「ドンペリはいりまーす♪」と叫んだのを聴いたのです。そしてそれこそが、私が編集長のあの声を初めて聞いた瞬間でした。
私は興味がでて、彼を横目で眺めていました。すると彼はそれに気づき、私を呼びました。
「ちょっと、君、何をそんなにしけた顔で飲んでいるんだ。こっちで一緒に飲みましょ」
私はちょっとした興味と、退屈しのぎのつもりで席を移りました。彼は編集長山本と名乗りました。すでにドンペリを大量に空けていた彼は、いかにも金持ちらしい風体でした。
彼は優しく、私に延長をするように進めました。私はその優しさに甘えることにし、結局それから2時間以上にわたって山本編集長と共に飲みました。私は田中だと名乗りました。
さて、お会計の時が来ました。
金額は思った通り、恐ろしいものでしたが、山本編集長は何も恐れないといった顔でした。その金額とは、合計200200円でした。明細書はありませんでした。
編集長はさっそうと言いました。
「はい、田中君。僕が200円出しとくね♡」
まぎれもなく、これが編集長山本とライター田中との出会いだったのです。
もちろん学生であった私には、そんな金額は出せませんでした。編集長は「割り勘は割り勘だから、ね田中君」と最初は聞きませんでしたが、明細書を出さないキャバレークラブの怖い人たちがイライラしだしたのを察し、譲歩しました。
「分かった、田中君、ATMにお金をおろしにいこう」
そうして、私たちは晴れて筋肉質で柄の悪い黒スーツの男と共に、キャバレーから外に出ることができたのです。
地下にあったキャバレーですので、外に出るには暗い階段を上りました。その階段を上っている最中にふと、編集長が耳打ちしました。
「田中君、靴ひもを硬く結ぶんだ」
私には最初その意味が分かりませんでした。しかし、ちょびヒゲの編集長の目を見て悟りました。彼は別に靴ひもの注意をしたわけではありません。
そして、ATMの前まで来たとき、編集長は黒スーツの男に面と向かい合い、目を睨みつけました。黒スーツの男も、10秒ほどの間、編集長をにらんで黙っていました。しかし、しびれをきらして、イライラした様子で「なんだ」と聞きました。
私はそのときの編集長の機知にとんだ行動を今でも覚えています。
「はっ!亀(かめ)……」
編集長はおもむろに、黒スーツの男の後ろの方の一点を指差して言いました。
「あ?ふざけてるのか?」
「本当なんです……かめが……立ってる……!」
これには黒スーツの男も、好奇心を抑えられないようでした。亀が立っていると聞いたら、誰も振り返ってしまいたくなるものです。
そしていよいよ、黒スーツの男が振り返った瞬間、編集長と私は一目散に走り出しました。
「ししし……引っかかった、ぷぷぷっ」
編集長はまるで何事もなかったかのように逃げきると、さるコインパーキングの出しやすい位置にとめてあったBMWに乗り込み、1秒でエンジンをつけ、走り、編集部へと車を走らせたのでした。
「田中君、君には40万円の貸しがあるからね。田中が記事を書く〜♪ るーんるん♪」
なんという不条理な原理でしょうか。
しかしこうして私は、編集長の部下となり、一般常識からかけ離れた編集部での生活を始めることとなり、また終止黒服に追われることになったのです。
【続く】