トルコに現存する、世界最古の競馬場跡地

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トルコ・イスタンブールに位置する「ヒッポドローム(Hippodrome)」は、現在でもその一部が現存する世界最古の競馬場の一つです。

古代ローマやビザンティン時代に栄えたこの競技場は、戦車競走や競馬といったイベントが行われ、政治や文化、そして人々の娯楽の中心地として重要な役割を果たしました。歴史とともに変わりゆくこの場所には、現代に至るまで多くの人々を魅了する独特な雰囲気があります。この記事では、その壮大な歴史と現在の姿について詳しくご紹介します。

ヒッポドロームの歴史

ヒッポドロームの建設は、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193-211年)によって始まりましたが、後にビザンティン帝国の初代皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)が都市を拡張する際に再建され、より大規模なものとなりました。紀元330年にコンスタンティノープルがビザンティン帝国の首都となると、この競馬場は都市の中心的な役割を担い、戦車競走や競馬が盛んに行われました。

この競馬場は、全長約450メートル、幅130メートルという巨大なもので、最大で10万人を収容できる規模でした。観客席は石造りで、周囲には皇帝や貴族たちが観戦するための特別席も設置されていました。ヒッポドロームは、単なる競技場というだけでなく、ビザンティン社会における政治と娯楽の中心地でもありました。

戦車競走とその社会的役割

ヒッポドロームでは、主に4頭立ての戦車による競走が行われました。戦車競走は当時の最大の娯楽のひとつであり、社会的な階級や政治的な対立を反映する重要なイベントでもありました。レースに参加するチームは色別に分かれ、青、緑、赤、白の4つのチームがありましたが、特に青派と緑派が強く対立していました。この対立はしばしば暴動に発展することがあり、その一つが有名な「ニカの乱」です。

532年のニカの乱では、青派と緑派の対立が暴徒化し、皇帝ユスティニアヌス1世に対する反乱に発展しました。最終的にユスティニアヌス帝は反乱を鎮圧しましたが、この事件で3万人以上が死亡し、ヒッポドロームも大きな影響を受けました。このように、競馬場は単なる娯楽の場を超え、政治的な舞台ともなっていたのです。

オベリスクと蛇の柱

現在、ヒッポドロームの跡地にはいくつかの歴史的なモニュメントが残っています。その中で特に有名なのが、「テオドシウスのオベリスク」と「デルフォイの蛇の柱」です。

テオドシウスのオベリスク: エジプトから運ばれた花崗岩製のオベリスクで、紀元前15世紀にトトメス3世によってエジプトで建てられたものです。4世紀にビザンティン皇帝テオドシウス1世によってコンスタンティノープルに運ばれ、ヒッポドロームの中央に立てられました。下部の白い大理石の台座には、当時のビザンティン帝国の生活が彫刻されています。

蛇の柱: ギリシャのデルフォイから運ばれた「蛇の柱」は、プラタイアの戦い(紀元前479年)でのギリシャ軍の勝利を記念して作られた青銅製の柱です。

3匹の絡み合った蛇が特徴的なこのモニュメントは、コンスタンティヌス1世によって移送され、現在も残されています。

現在のヒッポドローム

今日、ヒッポドロームの跡地は「スルタンアフメト広場」として知られ、イスタンブールの観光名所となっています。かつての競技場はその大部分が失われましたが、エジプトのオベリスクや蛇の柱など、歴史的な遺物がいくつか残り、訪れる人々に古代のビザンティン帝国の栄光を感じさせます。また、近くにはブルーモスクやアヤソフィアといった有名な観光地があり、ヒッポドローム周辺は歴史と文化が交差する場所となっています。

トルコに現存する世界最古の競馬場、ヒッポドロームは、歴史と文化が交差する壮大な遺跡です。古代ローマやビザンティン帝国の時代に栄え、戦車競走や競馬といった競技が行われただけでなく、政治的な舞台としても重要な役割を果たしました。

現在でもその一部が残り、世界中から訪れる観光客に古代の栄光と謎を伝え続けています。もしイスタンブールを訪れる機会があれば、ぜひこの歴史的な競馬場の跡地を訪れ、ビザンティンの壮大な過去に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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