東京生活で失う美食とは

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全身に美容課金をしているインスタグラマーが、寿司屋で檜のカウンターにエルメスを置いて、片手に寿司を握っている写真を見て、つい尊師の言葉が出てきてしまいました。

君たちはステージが低い。君たちと話をしていると、君たちのカルマが私の中に入って来て私が苦しくなる。

そんな訳で、読む価値のない下らない文章ですが、東京と美食について思ったことを書いてみます。

渋谷駅から徒歩圏内に住んでいる友人のりんりん氏は、常日頃こんなことを言っています。「渋谷は、地方出身者の寄せ集めだ」と。

確かに、東京で生活をしている人の大半は地方から上京してきた人たちです。私も例外ではなく、静岡から関東に出てきた一人です。インターネットが普及し、信じられないほどの情報があふれる今、インスタグラムを開けば、毎晩のように東京で華やかなパーティーや宴が行われているのが目に飛び込んできます。その光景は、若者にとって非常に刺激的であり、東京でのきらびやかな生活に憧れ、自分もその一部になりたいと地方から東京に出る人も多いのではないでしょうか。

ちょっとしたクラブで踊り明かし、東京の夜風にあおられて満足するだけでなく、もっと上の世界はどうなっているんだろうと興味を持ってしまう人もいると思います。

四ツ谷の寿司屋さんに高級時計のロレックスやリシャールミルを置いたり、恵比寿のロブションでキャビアの前にロブションとDRCのエシェゾーを輝かせながら写真を撮ったり、だんだんと、ちょっとした東京生活だけでは物足りなくなってきてしまい、いわゆる美食のような世界に足を踏み入れる人も増えてきます。

彼ら、彼女らもかつては、地元の友達と一緒に狭い中古の軽に四人で乗り込み、海岸沿いをドライブするだけで満足していたはずです。

しかし、東京に住み始めると、広尾から神宮外苑までのわずか3kmの移動さえもテスラやポルシェが必要に感じるようになり、右の車線を颯爽と走り抜けるベントレーやマクラーレンに劣等感を覚えるかもしれません。

自由を求めて東京に出てきたはずが、いつの間にか固定された価値観に縛られ、がんじがらめになっている人々があまりにも多いと感じます。

喜びや成功が、まるでコピー&ペーストされたように標準化されてしまっているのです。たとえば、星付きレストランに知り合いの力で横入りして優先的に予約が取れた時や、高級ブランドの展示会に呼ばれて、飲み物と焼菓子が出されたその瞬間をインスタグラムのストーリーに上げる時が、彼らにとっての幸福のピークになっています。

最後はお決まりで、誰もが羨むような高級マンションに住み、フロントの20代女性スタッフ(私大文系卒)に「つかえないわね」と嫌味や小言を言うときに快感を覚えてしまうようになります。

こうした価値観の転換は、料理の捉え方にも影響を及ぼします。

最高の料理はミシュラン三ツ星のレストランで提供されるものであり、究極の幸福は外資系ホテルのレジデンスに住み、その一流レストランから部屋に届けられる料理を食べることだ、という幻想に取り憑かれてしまうのです。

(↓ココが一旦のゴール!で、果てしなく遠い)

私は魯山人の言葉で、とても好きな言葉があります。

魯山人の「家庭料理こそが料理の真髄」という言葉です。彼は幼少期に養子として何度も家を転々とし、6歳の頃から炊事を手伝うことを進んで引き受けたそうです。彼の苦労から生まれた信念は、どれだけの美食を経験しても、最終的に辿り着く真の美味しさは、家庭の愛情が込められた料理だということでした。

魯山人が鎌倉の星岡窯にて、旧皇族の東久邇宮稔彦陛下ご夫妻をもてなした際、彼が出した料理は豪華な高級食材を使ったものではありませんでした。邸内を案内しながら、星岡窯のあぜ道に生えていた芹を摘み、それを地元で採れた赤貝と炊き合わせて提供し、さらに山椒の若実を擦ってふりかけたそうです。陛下はその素朴で心のこもった料理に感動され、後に再訪することもあったと言われています。

遠方から取り寄せた珍しい高級食材を使うのではなく、庭に生えている芹を摘んで作った料理こそが、心のこもったおもてなしだったのです。私は、このエピソードが示すように、真の贅沢とは何かを考えさせられます。

美食は必ずしも、高級レストランや一流シェフが作る料理だけではありません。
知り合いの漁師が釣ってくれた魚に、子どもと収穫した山菜や筍、庭から大葉やネギを摘み、囲炉裏や火鉢で一緒に家庭料理を楽しむ、その時間こそが真の贅沢であり、美食の本質だと思います。

魯山人が生きていた頃は、醤油や味噌、みりん、梅干しといったものは、家庭や村で作られることが多く、市販の大量生産された調味料は、まだ現在のように普及していませんでした。明治32年には自家用酒の製造が全面的に禁止されましたが、明治16年生まれの魯山人にとっては、酒でさえも近所の人や自分たちで作るものだったのではないでしょうか。

東京でのきらびやかな生活も魅力的ですが、心が真に求めているのは、家族や友人と楽しく料理を囲む、そうした温かく素朴な時間なのかもしれませんね。

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