コロナの蔓延は一向に終息を見せないまま、昨年のロックダウンから1年を迎えたイタリアです。
忘れもしない昨年3月4日、翌日から学校が休校になることが通達され、3月9日からは全土がレッドゾーンとなることがコンテ首相によって発表されました。
私たちが生きていた中では前例のない非常時となったのですが、当初はイタリア人もかなり興奮気味で、あらゆるチャットにその状況を揶揄するようなユーモアあふれる投稿が次々流れてきたのを思い出します。
毎夕18時に発表される感染者数と死者数は日に日に上昇し、コンテ首相が国民に真摯に語るシーンが増え、おこもり生活の中で人々はピザやお菓子を作るため小麦粉が入手不可能なんて状況も発生しました。当時の日記を読んでいると、私自身がこうした状況にかなりデリケートになっていて「泣いた」という記述が散乱しています。
ロックダウンが終わり、イタリア人はマスクをしながらもつかの間の夏のバカンスを楽しみ、気温が下がるころには再び感染者が増加。
全土のロックダウンこそなかったものの、感染者数や病院の状況によってイエロー、オレンジ、レッドにゾーン分けされて、その状況にもイタリア人はすっかり慣れてきました。
私が住むラツィオ州は、先週まではイエローゾーンで学校や市を超えた行き来も可能であったのに、今週から再びレッドゾーンに突入してしまいました。
学校は再び閉鎖となり、基本的に外出はできません。
とはいえ、昨年のようなドラマチックな気分にはならずに、家族も周辺の人々のたんたんとその状況を受け入れています。順応性の高い子供たちはなおのこと、オンライン授業にもすっかり慣れて、コンピュータからは子供たちの音読する声や笑い声も聞こえてきます。
とはいえ、漂う閉塞感は2度目とはいいながらも欝々とした気分を助長してきます。
過去の日記をパラパラとめくっていたら、ヨーロッパを襲った疫病に関する記述を見つけました。書いた当時は、実際に自分が生きている時代に疫病が蔓延するなんてことは思いもよらなかったに違いないのですが。
そのひとつは、2015年にシエナを訪れたときのことです。
フィレンツェと並んでルネサンスの都と称えられるシエナには、美しいドゥオモが残っています。
そのかたわらに、「ファッチャトーネ」と呼ばれる摩訶不思議な壁が存在しています。「どでかいファサード」というニュアンスを持つ言葉で呼ばれるこの壁、本来ならば拡張される新たなドゥオモのファサードとなるはずでした。
そのプロジェクトが開始したのは1330年、ようやくファサードの威容が完成したころに起こったのがペストの流行でした。
ヨーロッパ人にとって1348年という年号は、歴史的建造物や美術品の説明の中に登場するたびに「ああ、あれか」とピンとくるほど深く刻まれているといっても過言ではありません。この疫病の蔓延によってヨーロッパの人口の3分の1が失われ、社会や経済に壊滅的な打撃を受けました。そうした物理的な事象にとどまらず、ヨーロッパ人の精神にもぬぐえない傷を残したといえるかもしれません。シエナに関していえば人口の半分が疫病によって死亡し、新たなドゥオモの建設は頓挫してしまいました。700年近くたった今も、ファサードだけがしょざいなげに立っているというわけです。
もうひとつ、私の日記に残っていた疫病に関する記述も、やはり1348年の疫病に関連があります。
昨年亡くなった美術評論家フィリップ・ダヴェーリオが番組で紹介していたもので、シチリアに残る『死の勝利』というフレスコ画についてでした。
日本では『死の舞踏』と訳されるこのテーマ、14世紀のペストによって死がいかに身近にあるかを絵画によって表したものです。
ダヴェーリオが紹介していたシチリアのパレルモに残るこの作品は、同テーマの中でも白眉とされています。肋骨もあらわな馬に乗った骸骨が、人々の生活の中に乗り込んできて矢を放っています。「死」が放つ矢は、身分などお構いなしにあらゆる人を襲います。画面前方では聖職者をはじめとする人々が死んでいるというのに、向かって右側に描かれた貴族たちはそんな状況には無関心に音楽を奏で着飾ることに熱心な様子。これはある意味、現代のわれわれとまったく同じ姿なのかもしれません。
作者も不明なこの絵によほど感銘を受けたのか、2014年の私は2020年のCovid-19の蔓延を想像もできないまま、ホイジンガの『中世の秋』の一節とともに日記に「心に深く残る」と書き記しています。
ホイジンガ『中世の秋』
世界がまだ若く、5世紀ほども前の頃には、人生の出来事は今よりももっとくっきりとした形を見せていた。悲しみと喜びの間の、幸と不幸の間のへだたりは、私達の場合よりも大きかったようだ。
歴史は繰り返すなんていう陳腐な言葉しか今の私には思い浮かびませんが、寒の戻りの冷たい3月の空気の中で私ととらえたもの想いでした。