この記事はheckさんより寄稿(転載)頂きました。
k183 交響曲25番 ト短調
強烈なシンコペーション(強い拍と弱い拍の位置を通常と変えること)から始まるこの歴史的な作品を、モーツァルトは17歳にして書き上げた。
この短調は、ウィーンに旅行した際に短調が流行っていたことに影響を受けて書いたものだという見方が強く、モーツァルトの心理的状況とはなんら関係がない。
k304 ヴァイオリンソナタ 第28番ホ短調
この曲を紹介する上で念頭に置きたいことは、モーツァルトのいた時代の音楽は芸術ではなく仕事であったということである。
従って音楽に感情を入れすぎるという行為は、モーツァルトにとって信条にのっとった行為でなかったとも考えられるが、このk304ではの当時のモーツァルトの心情が色濃く反映されている。
母の死の直前、じっとりとした予感的な死の匂いは母に纏わりついて消えず、彼は感情の始末に困ったであろう。k304はその時期に作られた作品。
k331 ピアノソナタ第11番 イ短調
「アッラ・トゥルカ」(トルコ風に)という指定がついた第3楽章が”トルコ行進曲”として親しまれている。今日ではキャッチーになりすぎているものの、改めて聴くとメロディの感動的な美しさに気づくことができる。勇ましく堂々として気品のあるメロディは、ぴんと背筋を伸ばして澄ましたモーツァルト青年を思い起こさせる。母親を亡くした直後に書かれている。
k523 歌曲 夕べの想い
Schenk’auch du ein Tränchen mir und pflücke
あなたもまた、ひとしずくの涙を私に贈り
mir ein Veilchen auf mein Grab
一本のすみれを摘んで私の墓に手向け
und mit deinem seelenvollen Blicke
あなたの心のこもったまなざしで
sieh’dann sanft auf mich herab.
やさしく私を見おろしてください。
《西野茂雄訳》
カンペの詩「ラウラに寄せる夕べの想い」に曲をつけたもの。ただし、モーツァルトは「ラウラに寄せる」の部分を省略した。
父の死後すぐ書かれた歌曲。
息子の天才的な才能に感涙し、作曲や演奏の技術を叩き込み、幾度となく演奏旅行に連れて行き、息子の転職や結婚に決して寛容でなかった父親に対し、モーツァルトがどのような想いを抱いていたかを雄弁に物語っている。
「ママはわかってくださるでしょうが、ぼく、パパのそばじゃおちおちねられません…」13歳のモーツァルトが初めてイタリアに旅行した際母に書いた手紙(吉田秀和編訳、講談社・モーツァルトの手紙)。父が死んだ時モーツァルトは31歳であった。
k525 アイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine Kleine Nachtmusik)
モーツァルトの作品の中で最も親しまれている曲の1つ。弦楽五重奏。
この時代、作品に題名がつけられることは非常に稀であったが、この題名はモーツァルト自身が書きつけたもの。独語で”小さな夜の曲”の意。
親友ジャカンの聖名祝日(洗礼名が付けられた日)を祝って作られたものだとされる。
k550 交響曲第40番 ト短調
彼の交響曲中でもわずか2曲という短調作品であることでよく知られている。
小林秀雄が「モオツァルト・無常ということ」(新潮社・1961年初版)で「放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。(中略)全く相異る二つの精神状態の殆ど奇跡的な合一が行われている」と書いたことも日本で人気が高い一つの要因であると考えられる。
フィナーレの展開部の衝撃的な転調をアインシュタインは「魂の深淵への墜落」と評した。
k626 レクイエム ニ短調
モーツァルト最後の作品。死へと向かう病床にあってなおこの曲を作曲していたとされる。モーツァルトの妻の妹ゾフィは、「臨終は、まだ口でティンパニの音をあらわそうとするかのようだった」と書簡で語っている。
作者の死没で未完となったレクイエムは、ジュスマイヤーの手によって完成させられた。現在でも最も多く演奏されているレクイエムはジュスマイヤー版である。
以下で紹介する歌詞はモーツァルトのレクイエムの中で最も有名な「涙の日」のもの。
Lacrimosa dies illa,
涙の日、その日は
qua resurget ex favilla
罪ある者が裁きを受けるために
judicandus homo reus:
灰の中からよみがえる日です。
Huic ergo parce Deus.
神よ、この者をお許しください。
pie Jesu Domine,
慈悲深き主、イエスよ、
Dona eis requiem. Amen
彼らに安息をお与えください。アーメン。