これからプロの小説家を目指す人に、小説のレベルをどうやって上げるのか、また知っておきたいテクニックなどを解説するシリーズです。
前回はコンテクストの意味と必要性、その作り方について解説しましたね。検索でこのページにたどり着いた人は、ぜひ「小説家になる方法」第一回から読んでください。
それでは今回のお話、「セリフ、会話文について」です。
セリフ、会話文の書き方
小説家になろうと思ったとき、つまり小説を書いているときにかなり困るのが主人公が話しているセリフや会話文の書き方です。
主人公の個性の出る部分であり、時代性の出る部分であり、そして小説の良し悪しが出る部分でもあるのがこのセリフや会話文。どのようにして書いていけばいいのでしょうか。
◯実際に喋れるものにする
セリフや会話文の書き方として「実際に喋れるものでないといけない」という考え方がありますね。
ちょっと考えてみましょう。
「それは本当なのだろうか。僕としては少し疑いたくなるな」
こんなセリフがあったとしましょう。良さそうに見えますが、実際に声に出して、主人公が言ったとされるトーンで話してみたときにはどうでしょう。
意外に「言いにくい」ということに気がつくでしょうか。例えば「本当なのだろうか」に出てくる「の」は少し堅すぎる印象で、普通なら「ん」と言いたいところです。また「か」についてもどことなく落ち着かず、作られたセリフを音読しているように聴こえます。
さらに「僕としては少し疑いたくなるな」についても、実際に読んでみるとどこで切っていいのか分からず、発音しにくい文章です。
そういうわけでこれではリアリティがない。つまり実際に喋った文章らしくない、ということになります。それが「実際に喋れるものでないといけない」という考え方です。
もっと簡単に言ってしまえば、頭の中で自分の小説を映画化したときに、その主人公がしっかりとそのセリフや会話を喋れるか、とそういう話にもなります。
◯その場の空気と雰囲気の伝わるものにする
上のような考え方はもちろんありなのですが、他にもセリフや会話文の書き方として考えられる方法はある。それがその場の空気と雰囲気の伝わるものにする方法。もっと言えば喋っている人の性格などもにじみ出るような、個性の現れたセリフです。
そういったセリフであれば、実際に喋ろうとすれば少し「話しにくい」セリフであっても良いのではないかという考え方があるわけですね。
私としてはただ「喋れる」というだけではなく、こちらの雰囲気などについても少し踏まえてセリフを書く方が良いのではと思います。
例えば先ほどのセリフ。
「それは本当なのだろうか。僕としては少し疑いたくなるな」
このセリフを読んだときに、何かシャーロックホームズ的な腕利きでウィットのある探偵のようなキャラクターを思い描ける人は多いのではないでしょうか。
このように、セリフにキャラクターの描けるようなセリフであれば、少しくらい不自然であっても良いのではないか、というのがこの考え方です。
仮に上のセリフが以下のような具合だったらどうでしょう。
「それってほんとなの?? 僕としてはちょっと疑っちゃうなあ」
これだったら確かに発音しやすいですが、その代わりキャラクターのイメージはまったく変わってしまいますね。どちらかと言えば気さくな30代の男性が、意外な恋愛の話を友人から聞かされたシーンといったイメージです。
そういうわけで、いつも必ず「自然に実際に喋れるように」することばかりを優先するのではなく、キャラクターのためにも「雰囲気」をよく表現したセリフにする、という考え方があるのです。
「それは本当なのだろうか。僕としては少し疑いたくなるな」でも良いのではないか、ということですね。
セリフが世界観になる
さて以上のように、セリフというのは何を優先するのかによってかなり形を変えます。
どんなふうにセリフを書くべきかというのは、もはや人それぞれなので一概にこれが良いとは言えません。あとは尊敬する小説家の作品を読んだり、自分の書き方を見つけるのが一番でしょう。
しかし一つだけ確実に言えることがあります。
それは「セリフが世界観になる」ということです。小説の多くの部分を占めるセリフのパートは、その小説の舞台がどんな雰囲気なのか、登場人物達がどんな人たちなのか、読者がイメージするものを決定的に変えてしまう力を持っています。
サリンジャーの有名な小説に『ライ麦畑で捕まえて』というものがありますね。この本はかなり古い本なので、何人かの翻訳家によって何度か翻訳され直しています。
その代表的なものが、野崎孝訳です。これは既に翻訳されてから半世紀ほども経過しています。そのため翻訳にあてられている日本語もかなり古く、現代の私たちからすればやや読みにくいというか、非現実的なセリフも多数入っています。
例えばイントロ付近の文章もこんな調子です。
ただ、去年のクリスマスの頃にへばっちゃってさ、そのためにこんな西部の町なんかに来て静養しなきゃならなくなったんだけど、そのときに、いろんなイカレタことを経験したからね、そのときの話をしようと思うだけなんだ。つまり、D・Bに話したことの焼き直しだな。
そしてこの「ライ麦畑で捕まえて」は最近になって日本を代表する小説家である村上春樹氏によっても翻訳されました。同じ部分を引用してみましょう。
今から君に話そうとしているのはただ、去年のクリスマス前後に僕の身に起こったとんでもないどたばたについてだよ。それは僕の具合がけっこうまずくなって、療養のためにここに送られてくる直前に起こったことなんだけど、実を言えばDBにだってその程度の話しかしてないんだ。
どちらが良いかという話ではありません。
ただこの二つの訳を読んだとき、それが2010年であったにも関わらず、私は野崎訳の方にしっくりと来た覚えがあります。
それがこの「セリフが世界観になる」ということです。
前者の訳を読んだとき、誰もが彼が言葉遣いの荒くて、ちょっとぐれた若者だということが分かるのではないでしょうか。それに対し村上氏の訳の方が、全体的に非常によくまとまっていて、現代的でない言葉は使われなくなっている。
村上氏の訳は読みやすいですが、『ライ麦畑で捕まえて』が書かれた時代の雰囲気や、主人公の荒っぽく、もっと言えば気取って自分を大人っぽく見せようとしているような喋り方についても野崎訳に比べると伝わりにくいのではないでしょうか。
つまりセリフによって、世界観というのはこれほどまでに変わるのです。(一応までに、引用した文はセリフではなく語りです)
野崎氏の訳をそのまま口に出して喋ってみたとしましょう。これはずいぶん古くさいし、不自然な日本語になっていますね。しかしこれが半世紀以上も前のアメリカが舞台の小説だと言うこと、また主人公の性格や心理状況を考えると、むしろこっちの方がしっくりくると、個人的には思っています。
上のは一例ですが、やはりセリフが世界観に重大な影響を及ぼしているということは分かるはずです。
セリフや会話文に関しては常にそのキャラクターに雰囲気があっているか、その時代に雰囲気があっているか、世界観をしっかりと表しているか、などを考えて書くのが重要です。
いかがでしたか??
今回は会話文の書き方についてを解説してみました。
次回もお楽しみに!