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午後4時22分、彼は自分の部屋にいた。メールが送られてきているのを確認し、リングノートから一枚を破りとってそれに時間と場所を記した。それは今日の24時10分に船が出る場所のすぐ近く、カジノの裏で待ち合わせという内容だった。そのカジノというのは近代的な建物で、ケイシーのアパートの近くにあった。彼はその紙を4つにたたんでチノパンの右ポケットに押し込むと、もう一度部屋を出た。それはあるいは気のせいであった。しかし彼は通りに出たとき確かに、誰かが自分を見張っているようなそんな気配を拾い上げたのだった。銃声のときと同じだ、と彼は思った。とすると、自分は確かに見張られているのだ。彼は自分があれから全く報告書を出していないをふと思い出した。引き返して出すか?? いや、もし見張られているのならそれよりもいっそ、パブでビールを飲むべきだろう。怠惰のビールだ。

彼は悟られないように素早く回りを観察した。彼の目ではそれらしい人物を捕らえることができなかったが、彼らが自分を見張るのは大いにあり得ることだった。彼は果たしてあのパブの扉を押した。カウンターに寄り、ウェイトレスのレベッカにいつものビールをパイントで頼んでから階段を上がった。まだ誰もいなかった。彼は焦げ茶色のソファに深々と腰掛けると、早速運ばれてきたビールを一口飲んだ。それはどことなくハイランド系のウイスキーを思わせる甘みとナッツのような香りのする琥珀色の軽いビールだった。彼はそれから、日替わりのスープを頼んだ。それは赤い蕪とオニオンを使ったスープで、ちょうど良く焼き目のついたパンが3つ添えられていた。スープはいつもながら素材そのままの味がしていて、パンからは少しだけビールに似た香りがした。それらは例外なく美味しかったし、つけられたバターの溶け具合さえ完璧だ、と彼は思った。彼がそれをゆっくりと食べ終わり、ビールを少しずつ飲んでいるとジェームズが階段を上ってきた。

「おっ、今日はちゃんといるじゃないか!」

彼は嬉しそうにそう言うと、サキオリの向かい側に腰掛けてその顔をじろじろ見た。

「体調はいいのか??」

「体調?? 僕は元気だよ」

「昨日ケイシーが君がどうも体調が悪いみたいだ、って言ってたよ……それにしても昨日は面白かったなあ!君がいなかったのは残念だよ。でも君がいなかったからああいう話になったのかもな」

「3人だった??」

「もちろん!それでね」

彼はにやにやしながら話をしていた。どうやら言いたくて仕方のない何かがあるらしかった。しかしちょうどそのとき、ケイシーとアリシアが二人で店に入ってきた。彼はどういうわけか話をやめ、わざとらしく咳払いまでして背筋を伸ばした。

「あら、サキオリ今日はちゃんといるわね!」

ケイシーが言った。彼女はまたいつものようにジェームズの横に座った。アリシアは席に荷物だけ置くと、お手洗いにいってくると言って歩いていった。店の奥の方へ続く廊下があり、そこにトイレがあるのだった。ちなみにその廊下はわりと長く続いたあと、そのまま一階の奥まった席に通じる階段になる。彼女が戻ってくるのを待って、まずケイシーが話を始めた。それはまったくいつもと同じように進み、ビールが運ばれ、やがて照明が少しだけ落とされてジャズが流れた。

「なあ、俺考えたんだけどさ……本気でだよ、つまり4人で部屋を借りて一緒に暮らすのはどうかなって思うんだ。ルームシェアっていうか」

ジェームズがふと言った。

「だって、家賃はずいぶん安く済むし、みんな今だってこんなに近くに住んでいるんじゃないか。どうかな、どう思う??」

「いいと、思うわ」

アリシアが小さい声で言った。

「でもジェームズは絶対、誓っていいけどとんでもなく部屋を散らかすわよ。私は片付けないから、多分サキオリとアリシアが片付けることになるわ」

ケイシーはそう言って笑った。

「私片付けは得意よ。それに、おもしろそうじゃない」

アリシアはケイシーを見ながら言った。それから言い終わると、一瞬だけサキオリの方を見た。

「いいと思うな。でも食事は交代で作るんだよ」

サキオリがそう言うとみなが一斉に不満の声を飛ばした。4人の中ではサキオリが最も料理をすると彼らはずっと思っているらしく、ときどきそれは話題になっていた。彼らがサキオリを料理係にしようとしていることは非常に分かりやすい企みだった。

「よし!」

ジェームズが叫んだ。

「俺はさっそく部屋を探すよ、もちろんリースにね! これはまったく素晴らしいぞ、夢みたいだ! それで、今度は4人で一緒にここに来るのさ!」

そして彼は次々と質問やら話やらを言葉にしていった。どんなアパートがいいか、リースのどの辺りがいいか、大体のものは共通でいいがもちろん各自の部屋は無ければ駄目だとかそんな具合だった。サキオリも含めてみな口々にその質問に答えていったし、ジェームズのルームシェア論を楽しそうに聞いていた。

サキオリはあるとき無意識にポケットへ手を突っ込み、彼がまだその紙を持っていることに気がついた。それはほとんど恐怖の固まりのような紙切れだった。それは数時間前まで、このパブに入る前まで続いていた物語をすっかり思い出させる恐ろしいアラームだった。しかし、とサキオリは思った。彼には24時5分にカジノの裏の船着き場と伝えてある。たかだか5分と、数十メートルの誤差だ。アルフレッド・ブレイファスは自分でなんとかできるだろう。それに自分は見張られているのだ。恐らくこのパブから出るのを今か今かと待っている。紙を渡しにいくのは到底不可能なことだったのだ。すべきことは全てし終わった、と彼は自分に言い聞かせた。

「君はもう十分助けてくれました。君はまだ若いし……大学も出たばかりで、友人たちもここにいるんだろう??」

その言葉が何度か頭の中で再生され終わったとき、彼は一度席を立って、その紙をトイレのゴミ箱に捨ててきた。それで彼は全てを終わらせた。

「いやあ! 素晴らしいや!」

ふと4人に沈黙が訪れたとき、ジェームズが改めて言った。それからこう付け足した。彼は自分に言い聞かせるような調子だった。

「いずれはまた別に住むかもしれないけど、とりあえず重要なのは今さ! 未来を焦ってもビールの味はしないからな。ゆっくりでいいんだ、そう、アリシアがビールを飲むようにゆっくりでね!」

サキオリはそれを何の気無しに聞いていた。しかし聞き終わったとき、ふとあのため息を思い出した。そしてそれが全てを引きずり出したかのよう、何年も前にオブライアン教授に受けた言葉や授業の内容、そしてその頃の自分を思い出した。それは懐かしさというよりも、忘れようと必死だった巨大な焦燥となって彼に襲いかかった。あのときの自分は、と彼が半ば強制されたかのように考えれば、彼の目の前にはナサニエルの表情がまじまじと浮かんだ。あの純粋なナサニエルとしっかり目を合わせることができたはずだ。彼はさらに考えた。そして気がついた。つまりあのとき正気を失ってまで守ろうとしていたのは、ナサニエルでありながら自分自身だったのだ!

「どうしたの??」

ケイシーが尋ねた。サキオリは立ち上がっていて、3人が彼の顔を見ていた。

「用事を思い出したんだ。一度家に戻って報告書を出さなきゃ。終わったら戻ってくるよ。もしかしたら今日はあまり時間が無いかもしれないけど」

アリシアはすでに立ち上がって、彼が出るために場所を空けてくれていた。彼女は不安そうな目でサキオリを見ていた。サキオリは時間を確認した。それは22時45分だった。彼はできるだけ急ぐ様子を見せずに歩き、店の外に出た。ほとんど人のいないその通り、駐車されたフォルクスワーゲンの影に、片耳にイヤホンをした中年の男がいた。その男は緑色の作業着を着ていて、どこかで見たことがあった。サキオリは気づかないふりをして家の方へと歩き出した。家に着くまでにはいくらかの時間がかかったが、それは仕方の無いことだった。しかし急がなければ、と彼は思った。

部屋に入るとカーテンがしまっていることを確認して、パソコンを開く。そして”europe by airplane”と呼ばれるサイトを開いてあらかじめ調べてあったオランダ行き航空券の詳細ページを開いた。しかしその航空券は売れてしまっていた! 彼は急いでもう一度日付と出発地と適当な目的地を入れた。しかしなかなか見つからない。目的地を変えて再検索、見つけた! ……明日午前7時10分エジンバラ空港発、イスタンブール・アタテュルク空港午前9時50分着、トルコ航空、フライトナンバーTK1342。それが彼の見つけた航空券だった。問題はクレジットカードだった。予約の際には必ずクレジットカードで支払いをしなければならなかった。もちろん名義が違っていても予約できないわけではなかったが、しかしここにサキオリがアルフレッド・ブレイファスの逃亡を手伝ったという明らかな証拠が残るのだった。とりあえず予約をしよう、と彼は決めた。そしてアルフレッド・ブレイファスの名を入れ、適当なパスポートナンバーをいれると、それを予約した。

彼は震える手でキーボードを打っていた。今は報告書を組み上げていた。時計はすでに23時21分を差していた。彼は報告書に、彼が昨日アルフレッド・ブレイファスのアパートを発見してその人物に接触したと書いた。そして続きはこうだった。アルフレッド・ブレイファスは自分が無罪であると自分を信じ込ませようとしてきたため、自分はそれを少しずつ信じた……本当に少しずつ、疑いの色を残しながら……信じた演技をした。そして彼が油断したすきに、テーブルの上に置いてあったパソコンの画面をのぞき見た。それは”europe by airplane”という航空券の予約サイトで、彼は検索フォームにEDIと入力し、出発日を明日に指定していた。行き先はよく見えなかったが、”I”または”L”から始まる3文字の記号であった。ヒースロー空港、ミラノ空港を始め、イランのイスファハーン国際空港、韓国の仁川空港、トルコのアタテュルク空港、アメリカのワシントン・ダレス国際空港やロサンゼルス国際空港などが考えられる。どちらにしろ至急空港に警察を(彼はあえてその言葉を使った)配備するべきであるし、もしかすると彼はもう空港の近くにいるかもしれない。なぜならもし彼が7時台の始発便を利用するつもりであれば、車を持たない彼は今日の最終バスに乗ったか、あるいは明日の非常に早い時間にタクシーを呼ぶしかないからである。彼は恐らくバスを選び、すでに空港付近に潜伏しているだろう。ちなみに彼のアパートは……。

彼がそれを書き終わったとき、時刻は23時42分だった。こんなものはすぐに見破られるだろう、と彼は分かっていた。しかし15分持てばそれでいいのだ。彼はノートパソコンをかばんに入れ、通帳やパスポートを部屋中から集めた。ここにはもう戻ってこない、彼はそれを知っていた。彼は最後に、ポケットにずっと入れっぱなしだった鍵をベットの上に投げ、部屋を出て6の数字がふられた扉を閉めた。彼は真っ直ぐと前を見たまま、急ぎ足でパブへと向かった。パブの入り口までは7分と少しだった。彼は入り口のドアから2階席を見上げたが、照明が絞られているせいでどうやら誰かがいるということしか分からなかった。こいつは好都合だ、とサキオリは思った。

彼は二階席へ上り、いつも座っているその席に行った。そこにはケイシーとアリシアがいて、ジェームズがいなかった。彼女達は何かを真剣に話していたらしく、サキオリが来ると幾分焦った様子さえ見せた。

「ああ、サキオリ! 遅いわ、ジェームズは帰ってしまったわよ!」

ケイシーが笑顔を作りながら言った。

「君たちはもう少しいるの??」

「ええ、今日は店じまいの1時までガールズトークをすることに決めたわ、まったくいつまでたっても……」

「すまない、しかし僕は」

“Sorry, but I…” サキオリは言った。

「用事??」

“You have to go now??”

「行かなきゃ」

“I must go now.”

「そうなの?? 本当に忙しいのね……」

ケイシーはまた、心配するような目で彼を見た。

「それじゃ、またね、また明日!」

“See ya tomorrow.”  ケイシーが言った。

「じゃあね」

“Bye.” サキオリは返した。それから彼女達の表情を見ることもなく、例の廊下の方へと歩いていった。彼は階段の途中で座ってパソコンを開くと、店のwifiを使って報告書を送信した。送信完了時刻は23時54分21秒だった。うまくいってくれ、とサキオリは願った。彼らが車であのアパートを調べに行く前にアルフレッド・ブレイファスが車の通行できないあの線路のある道を歩いて数百メートル離れてくれていれば、それでいい! 彼はそしてそのパソコンをその場に置き、古くさい携帯電話もその上に乗せると階段を降りて、レベッカを呼んだ。

「なに」

彼女は無愛想に聞いた。サキオリは、喧嘩した友人が店の前で僕を殴ろうと待ち構えてるから裏口を貸してくれと頼んだ。

「ティンバー・プレイスに出るからそこからバーナード通りでもタワー通りでも行きなさいよ。あなた見かけに寄らず臆病なのね!」

レベッカはそう言って笑うと、彼を裏口から外に出した。彼は一度も店の前の通りから見える場所に出ずに済んだ。そして照明の絞られたあの二階席には、彼女達が1時まで座っているのだ!

サキオリはほっと息をついた。彼は様々な建物に囲まれた、いわば裏庭のような空間を抜けてケイシーのアパートのあるタワー通りへ出ると、さらに真っ直ぐ行き、カジノの目の前に出たところだった。彼はそこで待とうかと考えたが、アルフレッド・ブレイファスを迎えにいくことにした。彼はカジノ前のラウンドアバウトで左に曲がり、オーシャン・ドライブを走った。そして300メートルほど過ぎたところで左に折れて、古いトラス橋を渡り始めた。それは床部分が木組みでできているあの橋だった。彼はもはや歩いていた。彼は橋の真ん中を少し過ぎたあたりで、時刻を確認しようとポケットに手を伸ばした。しかし彼は携帯電話を置いてきていた。彼は広場の横のホテルの古い建物に時計がついていたのを思い出して振り返った。

23時59分。そこにはもちろんジェームズがいた。彼は混乱と悲しみの表情で少し息を切らしながら、7mほど離れたところからサキオリの目を見つめていた。サキオリにはなぜジェームズがここにいるのかわからなかったが、しかしそこにいるだろうということはぼんやりと知っていた。ジェームズはほとんど彼自身だった。ジェームズの表情はわずかな街灯にうっすらと、しかしくっきりと浮かび上がっていた。サキオリにはそれが見えた。そして彼の顔を見た瞬間に、サキオリは今まできっぱり遮断されていた神経がさっとつながったかのように、屋根裏の時間が自分に戻ってくるのを感じた。22秒。秒針が自分の心臓の上でひどく正確に時を刻んだ。彼は自分があの時間を捨て、全てを捨てたのだと今初めて気がついたかのように身震いした。ケイシー、ジェームズ、アリシア……あの焦げ茶色のソファ、ひっそりと隠れたあの屋根裏部屋……。それはひどく鮮明に彼の脳裏をよぎった。心地よく流れるジャズやビールの味、みんなの声や空気がそこに触れられるようだった。それは猛烈な喉の乾きだった。彼は今すぐにでもあそこに戻って、すべて見なかったことにしようと一瞬思った。しかし彼は知っていた。彼は戻れなかった。彼はもはやここにいることができなかった。ジェームズはじっとサキオリの目を見ていた。サキオリは彼の目を見ていた。16秒間の沈黙、ふと後ろからナサニエルの声が聞こえた。そこから4秒が経ち、彼は次の5秒間をかけて理解した。そして自分は新しい場所に行くのだと。サキオリが時計を見てから1分が経ったとき、ジェームズの目から涙がこぼれた。

アルフレッド・ブレイファスとナサニエルがサキオリの横を超えた。サキオリはそのあとに続いてゆっくりと歩き出したが、ジェームズの真横で立ち止まった。

「ありがとう」

“Thanks, my friend.”  サキオリは囁くように言った。ジェームズが小さく声をあげて、その場に崩れた。彼の涙がいくつもいくつも、ぼろくなった木の床に落ちた。サキオリはとんでもない力で心が締め付けられるのを感じながらまた歩き出した。それは大海原の上に1人放り出されたような気分だった。しかしそれは彼が選んだものだった。彼は歩いた。

 

 

そこがどれほど快適で、どれほど安心できる時間だったとしても、君の目的が別のところにあるのなら君かその時間のどちらかが去っていくだろう。彼は今でもその言葉を覚えていた。

アルフレッド・ブレイファスはそれから南アフリカに定住し、彼の一流の頭脳を使ってもう一度弁護士を始めていた。彼はそれだけでなく南アフリカで公用語とされる英語以外の10言語を学んでいるらしかった。それは未だにその国で差別を受け続けている、英語以外を第一言語とする人々を弁護するためだった。彼はまさに現代版ガンディーのような男になったのだ、とサキオリは思った。彼はまた、ナサニエルが南アフリカで大学入試に向けて必死に勉強しているという話も聞いた。アルフレッド・ブレイファスとナサニエルは毎年8月、彼に手紙を送ってきた。上記の話は全てそこから知ったのだが、あるときその手紙に写真が添付されてきて、そこにはすっかり大人になった高等学生のナサニエルと力強く笑うアルフレッド・ブレイファス、そして彼を訪ねたエミル・ヘッセが写っていた。彼らは生き生きとしていた。サキオリはその写真を見るたびに、自分がもう少し先へいけるような気がするのだった。

 

例えばそれは他のどこからも遮断された彼らだけの世界だった。それは優しく、柔らかな時間で、それはとびっきり居心地のいい屋根裏部屋の時間だった。しかし彼は去った。彼にはそこを去る必要があった。そして彼はまだ目的を追う道の途中にいた。彼はその道にいながら、ある一つのことに気がつき始めていた。それは彼がその目的を達成したそのとき、そのときこそ屋根裏部屋は彼を待っているのだということだった。しかし彼はまだ目指していた。彼はまだ目指し続けていた……。

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