次の日の朝サキオリを起こしたのは電話の着信音であった。彼が4回目のコールで古い携帯電話の通話ボタンを押すと、それはエミル・ヘッセだった。
「警察は依頼を出していなかった」
彼は言った。
「アルフレッド・ブレイファスはすでに昨日襲われました。消音器付きの拳銃で撃たれて、右足を負傷しています。アパートは多分まだ見つかっていません」
それからサキオリは昨日あったことを話し、自分が船を用意し彼がそれでロンドンへ逃げるだろうと話した。
「それは……だが……本当にうまく行くだろうか??」
エミル・ヘッセは考えながら言った。
「だって、やつらが昨日そこでアルフレッド・ブレイファスを見つけたってことは、今まで捜索にあてていた人員を全てたかだか半径1、2キロの範囲に集めるってことだろう。右足を負傷して息子を連れた彼が、果たして見つからずに船に乗り込めるだろうか」
彼の言う通りだった。それは全く保証がなかった。
「しかし、そうだな、それは運に任せる他ないな。あるいは……まあいい、船のことはなんとかしてやってくれよ。グッドラック」
彼はそう言って電話を切った。
サキオリはベッドから立ち上がって靴を履くと、窓を開けた。それは建物の角の窓で、通りに面していた。窓からは車や人の通る騒がしい音と共に、涼しい風がさっと吹き込んだ。彼はそのとき長い夢からやっと覚めたようなそんな気分だった。彼は実際にノートパソコンの日付を覗き込んでもみた。昨日の24時間はどうやら夢ではなかった。しかし彼は自分が完全に落ち着き、あとは例の紙をあのアパートの扉の隙間に入れてくるだけなのだと冷静に確認した。外は真っ青に晴れていた。彼は急に友人たちが恋しくなって、時計を見た。それは8時の18分前を差していて、いささか早すぎる時間だった。彼は机の前に座ると、ノートパソコンのメールの画面を開いた。船が手配できしだい”confirmed”の一言が送られてくることになっていた。しかしそのメールはまだ届いていなかった。
彼は薄手の黒いジャケットを羽織って外へ出た。6のドアを開けてコンクリートの階段を下り、通りに出たがどこへ行くかは決まっていなかった。とりあえず何か食べるものを手に入れよう、と彼は思った。彼はランドアバウトの方へと歩き、リース通りをプリンセス通りに向かって進んだ。それから右手に見えた何度か来たことのあるサンドイッチバーに入って、入り口のところでサラミの薫製の入ったサンドイッチを注文した。彼はそれから店の中の方へ進んだが、3つしかないテーブルはスーツを着た中年の男と、大学生のカップルと、新聞を広げている顔の見えない人物によってそれぞれ埋まっていた。彼は新聞を広げている人物との相席を選び、そこに腰掛けると、荷物を隣の席に置いた。少しすると隣の席、スーツの男の前にも客が座った。緑色の作業着のようなジャケットを着た男だった。それからぼんやりと目の前の新聞に視線を投げた。しかしすぐに新聞はたたまれた。その向こうにいたのは大柄で、グレーのシャツを着た50歳後半の男性だった。それは彼の世話になった教授だった。
「ミスター・サキオリ」
教授が真っ直ぐとサキオリの顔を見ながら言った。
「オブライアン教授」
サキオリはいささかうろたえながら、まともに目を合わせることもできずに小さな声で答えた。
「君はここで何をしているのかね」
オブライアン教授は厳しい声で言った。
「僕はサンドイッチを……」
「そういうことじゃない。君はどうしてこの町にいるんだと聞いているんだ」
サキオリはすっかり言葉を失って、ただ黙りこくった。彼の最後の年を除くほとんど全ての歴史の授業を持ったのがオブライアン教授だった。彼は非常に博学で機知に富んだ教授であると同時に、多くの学生の父親的な存在だった。それはサキオリにとっても同じで、教授はなんどもサキオリと二人で話をし、そのたびにサキオリに将来どうするつもりなのかを尋ねた。しかし最後の年には授業を受ける機会が無かったために話すことさえなく、結局卒業の直前に仲間たちみんなで挨拶をしに行っただけだった。
「僕は……ここで仕事を……なんの仕事かは分かりませんが」
オブライアン教授は深くため息を吐いた。それは失望を多く含んでいたが、ほとんど同じだけの悲しみを含んでいた。
「私は何度も君に、君がなんのために勉強しているのかを語らせた。覚えているね??」
「ええ……」
「それは私がボケ老人だったからか。いや、それもあるかもしれないが……君に決してそれを忘れてもらいたくなかったからだ。君は東南アジアとアフリカにおいて未管理の遺跡が戦乱や災害で次々と失われていることに注目し、卒業後は実際に現地へ行ってその現状を確認すると言っていた。私ははっきりと覚えているよ。そしてその損失を抑える現実的な方法を模索するつもりでいただろう。私はそれが難しいことだが必要とされていることであり、君は全く新しい発想でもってその方法を見つける必要があるだろうと言った」
サキオリは目の前の恩師が一つ言葉を発するたびに、それが自分の心に鋭い痛みを伴って突き刺さるのを感じた。彼はもちろん自分が語っていたことは覚えていた。しかしそれを意図的に忘れようともしていた。それを今、半ばえぐり出されているのだった。それは信じられないほど苦しかった。
「僕は……」
「金銭的な問題もあるだろうし、夢を少し遠のけただけかもしれない」
オブライアン教授はそう言うと、サキオリが彼の目をしっかりと見ようとするまで辛抱強く待ってから言った。
「君は仕事を探す。私は君が思いを変え、何か別のことに取り組もうとするのはまったく構わない。しかしかつてあれほどの熱意を、溢れるほどの熱意を持ち、このままではいけないと常に向上心を持っていた人間が、ひとえに安定と安心を求めて歩いているところを見るのは……もう今の生活でそれらを手に入れているのかもしれないが……どちらにしろ悲しいことだよ。ミスター・サキオリ、これは実に悲しいことだ。そこがどれほど快適で、どれほど安心できる時間だったとしても、君の目的が別のところにあるのなら君かその時間のどちらかが去っていくだろう」
教授は立ち上がった。そしてそれ以降サキオリの方を見ようともせずに、カバンと新聞紙を持ち上げて店を出て行った。ちょうどそれとすれ違うようにしてサンドイッチが運ばれてきた。今はもはや空腹を感じる余裕などなかった。サキオリはただ、十数分もの間そこでそれを眺めていただけだった。