夜の静かな雨が降っていた。夏にしては涼しい風がすっと通り抜けて、海の方へと消えていった。
「それじゃまたね」
ケイリーはそう言って、店の出口から右の方へと折れるところだった。彼女だけは家の方向が違ったのだ。彼女はパブを前で右に歩き、大きな時計のついた古い立派なホテルのある広場の手前でさらに右に曲がったタワー通りというところのアパートに住んでいた。
「送っていこうか、ケイリー??」
ジェームズが尋ねた。
「遠慮するわ。あなたに家まで送ってもらうほうがよっぽど危険だもの」
ケイリーがそう言って優しく微笑み背を向けて歩き出したのを確認すると、3人は店から左の方へと向き直した。店は車が多く通る二車線の通りと橋のすぐ横で、その通りを急いで横切った後の彼らは非常にゆっくりと歩いていた。それは本当にびっくりするほどゆっくりで、まるで道路に落とした家の鍵を探しながら進むような早さだった。
「今日もふられちゃったね」
慣れた手つきで長い髪の毛を束ねてフードをかぶったアリシアがいたずらっぽく言った。
「俺はただ、あいつが一人になるから……心配で、思いやって……それをあいつは勘違いして……ちぇっ、あいつはいつも……」
同じくフードを被っていたジェームズがとぎれとぎれに言った。彼は正直な男で思ったことがすぐに表に出てくるという特徴があった。しかも本人がそれに気がついていないために、いっそう周りの人間を楽しませた。彼はそういうところもあってみなに愛されていたのだった。彼は追い詰まったらしく、また急いで質問を用意した。
「君は警備員のバイトだったっけ、サキオリ??」
「そうだよ」
「しかし大学を出ていながら警備員っていうのはいささか……」
「本当はちょっと違うんだ。例えばボディーガードをしたりもするし、あるいは人を探したりもする。実になんでもするんだ。そしてそういう仕事が無いときに警備員をやるのさ。僕はまだ警備員の方に回されたこともないよ」
「へえ! それは面白いね!」
「ああ。それにこの会社はたまに警察からの依頼も受けるんだ。グラスゴー大学出身の同僚なんかはある事件の犯人の心理を分析してレポートを書く仕事も受けたらしい。だからむしろ大学を出てなきゃだめなのさ」
「それなら納得だ。君もそういう……変わった仕事を引き受けているのかい??」
「今は人探しさ。なにしろ重大な罪を犯したアメリカ人がこのあたりに身を隠しているらしくて、そいつを探し出すんだよ」
「わお! なんだか映画みたいだね、ファンタスティックだ」
ジェームズはうきうきしながら叫んだ。それから二本目の橋のところで立ち止まると、名残惜しそうに別れのあいさつをしてからその向こうへと歩いていった。彼はなんかの歌を口ずさみさえしていた。サキオリはしばらくの間穏やかな心持ちでそれを見ていたが、自分がアリシアを待たせていることに気がついてまた歩き出した。彼とアリシアはリース通りの突き当たる”リース通りの足”と呼ばれる辺りに住んでいたので、そこからまだしばらく歩く必要があった。その時間、大体の場合二人は何も話さずに歩いた。サキオリは何を話せばいいか分からなかったし、アリシアも同じのようだった。彼女はいつもまっすぐと前を向いて、少しうつむきながら歩いた。
「あなたのそのバイト」
少し歩くと右手に新しく大きなアパートが見える。そしてそれを越えた辺りでアリシアがふと呟くように言った。彼女はサキオリの方を見ようとはせず、石畳の道の上に視線を落としたままだった。今日は彼女がフードを被っているせいもあって、右側の真横を歩いているサキオリには彼女の表情さえもよく見えなかった。
「うん」
「もしかしたら危険な目にあうこともあるんじゃないの??」
「まあ、ことによると、そういうこともあるかもしれない」
そこに少しの間沈黙があった。
「気をつけてね」
「うん、気をつけるよ。ありがとう」
道は何度か微妙に折れ曲がって、やがて商店の並ぶ少し大きな通りへと突き当たる。それはわりと賑やかな通りだったが、プリンセス通りのような観光客のためのものではなく庶民的な賑わいであった。サキオリがその場所に部屋を借りたのはほとんどが偶然のせいだったが、一つにはその庶民的な雰囲気とちょっと古くさい町並みが気に入ったからという理由があった。サキオリが答えたとき、彼は自分の家の入り口の前にたどり着いていた。それはちょうどその突き当たりのところで、セカンドハンドストアが一階に入った建物だった。
「じゃあまたね」
「またね」
アリシアは彼が以前家まで送っていこうとしたときにそれを断った。すぐ近くに住んでいるからと説明したがその言い方には何か別の理由があるようだったので、それ以降彼はそのまま家に帰ることにしていた。彼女の家はその突き当たりを左に曲がった、ラウンドアバウトの辺りにあるらしかった。彼はボロいコンクリートの階段を上った三階の、6という数字があてられた部屋のドアに鍵を差して回した。金属製のドアは開くときにひどく大きな音を立てるので、いつもそれが階段に響き渡る。夜戻るときにはずいぶん気を使うのだった。
彼は着ていた薄いジャケットの袖を捲ると、ケトルにお湯を沸かしてコーヒーを淹れた。それから今朝食べようとして忘れていたチョコレートチップの入ったクッキーを一口かじると、それらを机の上に置いてその横に置いてあった銀色のノートパソコンを開いた。彼は酔いがすっかり覚めるのと同時に眠気もどこかへ飛んでしまったので、仕事をしようと思ったのだった。パソコンの画面には彼が探している男のプロフィールがテキスト形式で開きっぱなしになっていた。それは48歳のユダヤ系アメリカ人で、まったく犯罪者とは思えないような貧弱な顔つきをした眼鏡の男だった。彼はどちらかというと大した発見をできずに苦労している学者のようだった。そして彼がアメリカのいわゆる一流大学を出ていたことがなおさらサキオリにそういう印象を持たせたのだった。会社がもたらしたその情報によれば彼は大学を出たあと弁護士になったが45歳のときに急遽その仕事をやめて南部に引っ越し、猟銃を扱う小さな鉄砲店を開いたという。そして驚いたことに最近大手医薬品メーカーの(メーカーの名前は出されていなかった)社長を拳銃で暗殺しようとしたところを発見され、逃走した。そして州警察はどこからか彼がスコットランドにいるという情報を得て、サキオリのいる会社に捜索依頼を出した。そういうことだった。
サキオリはすぐに彼の名前アルフレッド・ブレイファスをインターネットで検索にかけた。彼はどこかでその名前を耳にしたことがあるような気がしていたが、それを思い出すことは出来なかった。ネット上には彼が弁護士だったころの記事がいくつか上がっていた。最初の4つ以外のページはアルフレッドまたはブレイファスのみで引っかかったものであり、まったく関係のないものであった。これだけの情報でどうやって彼を探し出せばいいんだ?? サキオリは答えの無い数学の問題を押し付けられたような気分だった。
しかしアルフレッド・ブレイファスの足跡は意外なところに残っていた。それは彼が出たB大学法学部のホームページで、過去の優秀な論文をいくつか紹介してあるページだった。果たしてアルフレッド・Bと記された短い論文がそこにあった。それは道徳的には明らかに間違っている大きな力がその被害者である小さな力を法廷上で屈服させようとしているとき、弁護士は法律に基づいてその大きな力を弁護すべきか否かという論題で、彼はその中で弁護すべきであると述べていた。それは……サキオリの理解したところでは、道徳心においてであっても法律に例外を作るのは間違っている、というようなほとんどありきたりとも言えるような内容だった。驚くべきなのはその内容よりも彼の優れた論の展開の仕方だったのだろう、とサキオリは思った。画面を下にスクロールしていくと、彼への短いインタビューのようなものが載っていた。そこには彼がどこかの暗い部屋で石膏像のデッサンをしている写真があった。(そのときにも”絵”だったのだ!)彼がモデルにしているのはというゲオルギウスという古代ローマの軍人の石膏像だった。彼のすぐ横にはもう一つ木の椅子があって、銀色のケースがありその上には鉛筆が4本まとめて置かれていた。その横にばらけた2本が転がっている。彼の画用紙も写真に写っていたが、そこには長年書き続けて習得したと思われる技術があった。なるほど、とサキオリは思った。アルフレッド・ブレイファスはその他、将来について質問されたときにはこう語っていた。
「もちろん弁護士を目指します。それから老後にはニュージーランドで羊を飼うか、大工でもして過ごしますよ……」
次の日サキオリはいつもパブのすぐ手前を左に曲がり、橋を渡って西へ向かった。それはよく晴れた気持ちのいい昼時で、リースの住民達が買い物や外食に出て街が騒がしくなる時間帯だった。彼は500mほど歩いてからその道を右に折れて、ずいぶんもの寂しい通りへと踏み込んでいた。それは暗っぽい色の古いアパートが並ぶ通りで、アスファルトの道には使い古された車が所狭しと駐車されていた。そこをまっすぐと歩けば、やがて茶色く錆びた倉庫や油っぽい造船所のような建物が大きく見えるようになってくる。一列に並んでいたアパートがもうすぐ尽きようとするギリギリの所にこの国ではおなじみの日用品店がぽつりと一階に入った建物がある。彼はその建物の裏へと回ると、黒い螺旋状の非常階段を上った。それは建物の3階の廊下の角へと通じていて、その階段が廊下が突き当たるところに7という数字の振り当てられた部屋があった。彼はそのドアをノックした。動きは無かった。彼はもう一度ノックした。するとしばらくしてから扉の向こうでかすかな足音がして、小さな金属音と共にそのドアが開いた。
それはほんの子供だった。まだ10歳にもならないような子供で、小さく、痩せたが顔色が良く、目が生き生きと輝いていた。サキオリは違ったかな、と小さく呟いて少しの間迷っていた。しかし彼はふと廊下を歩いてくる男の存在に気づいた。
「あなたは??」
その男はアルフレッド・ブレイファスだった。彼は写真で見たものとほとんど同じ外見をしていたが、まだいくぶん不健康な色をしていた。彼は少しの食料品と牛乳の入った白いビニール袋を持っていた。
「僕はサキオリと言います。アルフレッド・ブレイファス??」
彼はその見知らぬ男が自分の名前を口に出した瞬間に、一瞬表情をこわばらせた。それから何も言わずにサキオリを観察し、それが終わるとドアの隙間から様子を伺っていた子供に向き直って、ドアを開けてはいけないと言っただろう、と静かに注意した。
「あなたは警察ではないようですね」
彼は疑うような目でそう言うとドアを広く開けて、部屋の中へ入っていった。
「紅茶をいれるよ、飲みますか」
サキオリの仕事はすでに終わっていた。彼はどうやらアルフレッド・ブレイファスを見つけ出したようだった。しかし彼はその犯罪者のあまりにも意外な態度に困惑し、深い疑問に包まれていた。そしてこのままでは済まないかもしれないという漠然とした、青空に浮かぶ灰色がかった雲のような予感が、みぞおちの辺りから沸き上がってきたのを感じたときには、彼はすでにその部屋へと足を踏み入れていた。彼は自分で意識することもなくその敷居を超えたのだった。アルフレッド・ブレイファスはサキオリに椅子をすすめると、自分の息子らしいその子供に寝室にいるよう優しく指示した。それは2LDKの、外から見るよりもずいぶん広い印象を与える部屋だった。部屋は昼間なのにうっすらと暗く、家具は質素で、派手なものは一つも置いていなかった。しかし食卓の上には小さなスケッチブックと鉛筆と練り消しゴム、部屋の隅にはデッサンのモチーフの置かれた台があった。
「奇妙に思われましたか、しかしモチーフはいつも対称で選ぶんですよ」
ワイングラスと何かの四角い木の箱、それに金属のフォークとが波打ったチェック柄の布の上に置かれている様子をじっと見ていたサキオリに、紅茶を用意し終わったアルフレッド・ブレイファスが笑いかけた。
「して、あなたはどうやってこの場所を見つけましたか……ああ、砂糖とミルクは??」
彼は古いウェッジウッドのカップに入った薄い色の紅茶をサキオリの前に置きながら尋ねた。サキオリは首を振ると、出された紅茶に視線を投げた。
「毒は入っていませんよ、ミスター・サキオリ?? それで……」
「あなたの写真を見ました。大学のホームページで」
「ああ、あの写真。それは古い写真ですね。それから場所が割り出せたんですか??」
「何しろ情報がなかったので、つまり……ちょっと強引な予測を立てたんです。それが当たりました」
「というのは??」
「芸術大学に通っている友人がいましてね、その人がまだデッサンをしているのなら、静かで、北向きに小さい窓がついているだけの暗い部屋に住んでいるかもしれないと言ったんです。それにあなたは熱心なキリスト教徒ではないですか??」
「ええ、確かにそうです。しかしどうして??」
「あなたは聖ジョルジョのデッサンをしていましたし、インタビューでそう答えていたじゃないですか。それに、それらしい数字のこだわりがあるようだと。そこに希望をかけたんです。イギリスでの3階はアメリカでいう4階、もしそこに7という数字がついた部屋があったなら、きっとそこをいるだろうっていう半ば冗談のような憶測ですが……3階に7という数字がくるアパートは形と大きさが少し変わってますから、リースであれば衛星写真で10件ほどに絞れました。で4件目にここを見てみれば窓は小さく北向き、大通りから離れていて……おまけに一階に生活用品店があるから買い物で遠くに行かなくて済む。そしてちょうど扉の目の前の非常階段です。7のことは忘れても、いい条件ですよ」
アルフレッド・ブレイファスはほとんど感心したような表情に悲しみを混ぜて、サキオリの話を聞いていた。話が終わると短くため息をつき、それから曖昧な笑みを浮かべた。
「条件が揃う部屋は何軒かあったんですがね、私もその数字に気がついてここにしたんですよ。しかしそこから探り出されるとは皮肉なものですね……本当に皮肉なものだ。しかしあなたはどうも鋭い、それで……」
彼は改めて、弱々しくサキオリの顔を見た。
「それであなたは何者なんです??」
「僕はバイトで……変わったバイトをしていて、依頼を受けて、犯罪者であるらしいあなたを探し出したんです」
「犯罪者であるらしい私を?? ああ、なるほど」
彼は何かを納得したらしく、悲しい表情のまま何度か頷いた。サキオリはもはや完全に困惑していた。この男の外見や目つき、言葉遣いや態度、全てが犯罪者とはかけ離れたものだった。とは言ってもサキオリはこれまで犯罪者と関わったことはなく、それは彼の持つ犯罪者のイメージとかけ離れていたのだ。
「私が犯罪者には見えませんか」
彼はサキオリの心の内を悟ったらしく、笑いながら尋ねた。
「見えません。少なくとも今の所は」
「どう見ても悪いことをできるようには見えない男がその実、犯罪者であるということは多いんですよ。そしてそういう人間は多くの場合、法よりももっと別の……別の力による犯罪者なんです」
彼が”力”という単語を口にしたとき、サキオリはふと昨日読んだ論文を思いだした。
「それで、あなたはどんな犯罪を??」
「私がどんな犯罪を?? そうですね、私には分かりません。説明できないんですよ……」
彼はそこまで言うと白地に野苺のペイントが入ったティーカップをそっと持ち上げ、それを口に運んだ。サキオリもまたそれを手にして一口飲んだ。それは若干青臭さのある香りの薄い紅茶だった。サキオリはカップを置き、それから彼の頭の中で渦巻いている困惑をなんとか解こうと必死になっていた。この男は、と彼は考えた。この男はまったく犯罪者に見えないが、その裏には妖しく光る覚悟のようなものがある。犯罪者であるということを肯定も否定もしない。この男は自分がどうなろうとまるで構わないというように思っているからかもしれない……。
「大学のページで写真を見つけた段階で出した報告書が最後なんです」
サキオリは試すつもりで言った。
「つまり??」
「もしかすると僕はあなたを見つけていないかもしれないということです」
「私が犯罪者でないと、あなたはそう思うんですか」
「あなたは大手医薬品メーカーの社長を暗殺しようとしたんですか」
「していません」
「それじゃなぜ彼らはあなたを探しているんです」
「私を消し去るためですよ」
アルフレッド・ブレイファスは驚くほどしっかりとした、確信に満ちさえした声で言った。
「あなたはまだ若いですね。大学は出ましたか??」
「今月終わりました」
「ではまだお分かりにならないかもしれません。私もその頃には分かっていなかったんですよ。正義感だけで武装したちっぽけな個人がどれほど弱いかっていうのはね。私は諦めているんですよ……終わってしまった人間なんです」
彼はそう言うと急に立ち上がって、そしてまた例の悲しい表情をした。
「今日はお引き取りください」
サキオリはお茶までいれていただいてどうもありがとう、と言って玄関の方へと歩いた。さっきはほとんど見ていなかった玄関には腰ほどの高さしかない木の収納があって、その上に写真が納められた小さなフレームが立てられていた。それは落ち着いた銀色をした横長のフレームで、中には今よりもずいぶん若いアルフレッド・ブレイファスともう1人のたくましい男が肩を組んでいる写真がおさめられていた。写真の下半分には二人の自筆だと思われる名前が記されていた。アルフレッド・ブレイファス、エミル・ヘッセ。彼は部屋から廊下に出た。それはカモメの鳴く声だけが聞こえる、静まり返った時間帯だった。
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