model24

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例えばそれは他のどこからも遮断された彼らだけの世界だった。それは優しく、柔らかな時間で、それはとびっきり居心地のいい屋根裏部屋の時間だった。

 

「人が前に進むときっていうのは、まるで平凡なくらいに穏やかでいいのさ。俺はつくづく思うよ。そりゃあもう、大人しい女の子がビールを飲むときみたいにゆっくりでいいんだ」

ジェームズ・グラディは少しだけ赤みの差した顔で熱弁していた。それは非常に大柄な男で、そこそこハンサムで、とんでもなく陽気なスコットランド人だった。彼の濃いブラウンの髪の毛は縮れていていつもボサボサだったし、無精髭をはやしていたし、着ているネイビーのパーカーや灰色の半ズボンもひどく適当なものだった。しかし彼は常に人を惹き付ける力を持っていて、大学の中でもかなり人気がある……いわば頼れるリーダーのような存在になっているらしかった。らしかったというのは、彼もサキオリも同じ大学に籍を置いていたが学部が違いキャンパスが別であるために大学内で会うことがなかったからだ。サキオリは歴史それも紀元前のすこぶる古い歴史が専攻で、ジェームズは文学部でヨーロッパ文学を学んでいた。彼は実に文学部というような雰囲気のしない男だったが、しかしひとたびその分野について語らせればそれこそ延々と熱弁できる知識を持っていた。そしてそれを知っているサキオリを含めた彼の友人達は、彼が陽気なだけでなく、威厳や誇りも兼ね備えている人間であるということをしっかりと心得ていた。

ジェームズは外もまだ明るい(といってもこの季節は夜8時過ぎにならないと太陽が沈まなかったが)午後4時のパブで一杯目のパイントグラスを空け終わったところだった。彼は大きな声でウェイトレスを呼ぶと、追加のビールを注文した。それはかの有名なアイルランド産の黒ビールで、彼はいつもそればかり飲んでいた。

「君は良いかい??」

彼は一応そう尋ねたがサキオリの半分ほどにしか減っていないパイントを見ると、まだ良さそうだな、と呟いてからウェイトレスに自分のだけでいいと告げた。サキオリが飲んだのは名前も知らないスコットランドのビールで、彼が半年ほど前に初めてここでビールを頼んだときにそのウェイトレスが適当に持ってきてくれたものだった。それ以来彼女は彼がビールを頼むと必ずそれを持ってきた。それはどことなくハイランド系のウイスキーを思わせる甘みとナッツのような香りのする琥珀色の軽いビールだった。

「俺はつくづくこの店が好きだよ!」

ジェームズが言った。

「雰囲気もいいし……特にこの2階席は最高だ!……料理もいい。ハンバーガーを頼めばカリカリに焼いたハンバーグのさくっとしたバーガーが出るし、パスタも、ムール貝の白ワイン蒸しもトマトのスープも、どれをとっても……」

「フィッシュアンドチップスを忘れているよ」

サキオリが話を折った。

「そう、フィッシュアンドチップスもね。とくにここのチップスは素晴らしい! というか全てが最高に美味いんだ。それに彼女……あの無愛想なウェイトレス、親愛なるレベッカも俺は大好きさ。もうこの店からは一生離れられないんじゃないかと思うな」

確かにこの店は非常に居心地がよかった。店のテーブルは全て赤っぽい木のテーブルで統一されていて、壁は落ち着いた白で、所々にウイスキーの瓶やモノトーンな写真のフレームや乾燥したホップの束なんかがセンスよく飾ってあった。二人がいるのは二階の席で、一階とは吹き抜けになっていた。しかし現実にはそこはまるで屋根裏部屋のような感じだった。黒っぽいオイルフィニッシュで光る木の天井は触れられるほどに近く、広々と間隔をとって並べられた焦げ茶色の革のソファーは誰かがどこからかこっそり持ち出してきた、といった感じだった。彼らがいつも座っているその席からはちょうど一階が見えず、店の入り口や大きな窓、その向こうの石畳の道や細長く四角い港の海が見えるだけだった。そして何よりもその屋根裏部屋にはいつもひっそりと他や現実世界から隔離されているような雰囲気があり、それが言いようも無く心地よかった。ジェームズがこの店から一生離れられないんじゃないかと大げさに言うのも、ここに来れば誰もが理解できるだろう。

「さて、今日は彼女達は来るのかな??」

ジェームズはときどき一階の入り口の方へと視線を投げていた。

「さあね、でも来るんじゃないかい?? 君のお姫様は特に、君に会いにくると思うな」

「それは……くそ……お前はそうやって……俺はもう……」

「たかだかパイント一杯のビールで君がそんなに酔ったのかい?? 君は真っ赤だよ」

「くそ……」

サキオリは笑うと、ビールを口に運んだ。それから一分も経たない頃、果たしてそのお姫様が入り口のドアを押して店に入ってきた。彼女は下のバーカウンターのところに寄ってはっきりとした声でパイントを頼んでから階段を上ってそこにやってきた。

「はあい、お二人さん! あらジェームズ、あなたはもうずいぶん飲んでいるのね、真っ赤だわ! はあい、サキオリ、元気??」

ケイリー・レイナルドはいつもそんな具合に挨拶をした。彼女はかなり大柄な女性で身長はサキオリと同じくらいあり、スウェットパンツに黄緑色のトレーナーという格好だった。彼女は誰から見ても美しいというタイプではなかったが、よくアメリカのホームドラマに出てくるような美人だった。白っぽい金色の髪を短く整え、いつも前髪をピンでとめていた。彼女は大学には行っておらず、グレッグズというチェーンのパン屋で働いていた。サキオリは元気だと答えてすかさず、君は??と尋ねた。

「もちろん元気よ、ありがとう! 今日はアリシアは来ないのね??」

「さあ、わからないよ、そのうち来るんじゃないかな」

ジェームズはそう言うと、ウェイトレスが今しがた持ってきたパイントグラスを口元に持っていてビールを注ぎ込んだ。ちなみに彼の大きな手のひらの中では大きなパイントも小さなコップのように見えたし、彼はコップに入ったビールであるかの早さでそれを飲み干した。ケイリーはあらそう、と言うとジェームズの横に座って、今日あった出来事をひどいスコットランド訛りで話し始めた。朝乗ったバスが急停止して一番後ろの席に座っていた男が運転席まですっ飛んだ話から始まり(彼はそのあと運転手にグッドモーニングと言って一番後ろに戻ったらしい)実にいろいろな話をした。彼女は日常の小さな出来事を非常にドラマチックに語る才能があり、ジェームズとサキオリはいつもそれを面白がって聞いていた。

15分ほど経った頃には何かの拍子に話が変わり、今度はまたジェームズが話し始めていた。それは彼の近代文学批評から、彼すでに語り尽くした彼の夢の話へと移っていった。

「俺はねもちろん学者にはならないよ……なれないしな。俺はただ大学院にいる間に大学の図書館にある文学を全て読み尽くしてだね、それから言うんだよ、文学などやはり現実には遠く及ばない! なぜなら本を読んでもビールの味はしないからってね。コナン・ドイルがいくらスリリングなミステリーを書いても、シェークスピアが魂の震えるような悲劇を書いても、ビールの味はしないんだ! このソファで友人たちと飲む黒ビールの味はね!」

「また始まったわ」

ケイリーは笑った。サキオリもつられて笑った。半年ほど前に彼と出会ってから何度もその話を聞いていたから、もはやただの習慣として笑ったのだった。いずれにしろサキオリには彼のその夢を否定する気にはなれなかった。仲間と飲むビールは彼の全てだったのだ。

「しかしこの8月の終わりには……」

ジェームズがそう言いかけたとき、ケイリーがあっと短く声を上げてアリシアが来たのをみんなに知らせた。アリシア・カスティーリアはまっすぐと階段を上ってくると、3人に小さな声で挨拶をしてサキオリの横に浅く腰掛けた。彼女はケイリーに比べると小柄(と言っても160cm以上はあった)に見える、若干シャイな性格の女性だった。4人はみな同年齢だったが彼女は少し若く見えたし、ジェームズがたまにそれでからかうと彼女は顔を赤くした。ついでながらアリシアは赤い真っ直ぐの髪の毛を長く伸ばして後ろで結い、革のジャンパーのしたにサーモンピンクのシャツを着ていた。彼女もまた(ちょっと高すぎる鼻とほっそりとして角張った輪郭を除けば)綺麗な顔立ちであった。しかしそれはどちらかというとスラブ的もしくはアジア的ですらある綺麗さであって、ケイリーのそれとはおよそ異なっていた。彼女はブライトンの出身だがエジンバラに引っ越し、芸術大学に通っていた。

「やあアリシア!」

とまずジェームズが挨拶をし、みなが順番に挨拶をした。

「なんの話をしていたの??」

アリシアが高く柔らかい声で尋ねた。

「ジェームズの夢の話だよ」

サキオリが言った。するとアリシアが小さく笑い、ジェームズは少し恥ずかしそうにさえしてそいつはもう終わったよと言い、それから早々と次の質問を切り出した。

「アリシア、君はイングランドに戻るんだったよね、いつ?? もう少しここにいれるのかい??」

「ううんジェームズ、私ここで仕事を見つけたわ。リースウォークの……しばらくの間は画材屋さんで働くのよ」

「本当に??」

「ええ、そうよ」

「そいつは良かった! ケイリーはそのまま、俺は大学院、サキオリは8月で終わるけど……当分ここでバイトをするんだろ??」

「ああ。まあ、割に合う仕事が見つかるまではバイトをするよ。仕事もここで探してるし……」

「ウラー!最高だ、何も変わることないじゃないか! 9月からもここでこうして会って話を出来るのさ!」

彼は見るからに嬉しそうに叫んだ。彼ら4人はみなこのリースと呼ばれる港町に住んでいて、半年前この店にいたサキオリにジェームズが話しかけたことでつながった仲だった。ケイリーはジェームズの元ガールフレンドで今ではジェームズの親友だった。アリシアはケイリーの友達だった。彼女はケイリーと一緒に何度かこの店に現れるうちにサキオリとも話すようになったのだ。最近には二人でランチもしたが、それはケイリーが4人の中でしきりにそれを提案したからだった。彼女によれば友達の友達はそういう風にして友達になるのだ、と言うことらしかった。そんな一風変わった関係ではあったが、さらに変わったことには彼らは集まろうといって声をかけ合うことがなかった。ただ時間があると気ままにここへ来て、コーヒーを飲みながらレポートを書いたり、アイスティーを頼んで本を読んだり、今日のようにビールを飲んで酔ったりするのだった。誰か一人が来ない日もあれば、逆に一人しかいない日もあった。全員集まったとしてもみなが自分のことに集中していてほとんど話をしない日もあった。最近はしかし、4人集まって長々と話をする日が多かった。それはサキオリが思うところでは、彼らが別れを近くに感じていたからだった。しかし今その別れも遠いどこかへ行ってしまったのだ!

彼らは晴れ晴れとした表情でなんともない話をした。サキオリももちろん話したし、アリシアもこの中では楽しそうに会話へと参加するのだった。ときおり話が途切れてみなが物思いにふけった。しかしそんな沈黙が訪れたとしてもサキオリはそれを苦と思わなかったし、他の3人も同じであるように見えた。サキオリはそれがまたこの上なく好きだった。しばらくするとジェームズが唐突なジョークを飛ばして、また賑やかな会話が始まる。安心しきった心が踊る、それは不思議だがとんでもなく幸せな感覚だった。19時になると照明が絞られ、やがて太陽が沈めばジャズが流れた。それはビロードのように柔らかな時間で、それはまさに屋根裏部屋の時間だった。

 

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