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彼は飲みきったコーヒーのカップを二人分道路を挟んで反対側にあったゴミ箱に捨ててくると、昨日彼女がしていたように水の中へと視線を投げた。水には夜見たときのような深さは無かったが、それでもやはり彼をどことなく畏れるような気持ちにさせた。彼は自分が水を覗き込んだとき、水も彼を覗き込んでいるということを知っていた。彼はまた、彼が過去を覗き込んだときには過去も彼を覗き込んでいるのだとも知った。さあ、そして君はどうするんだ、と過去は尋ねてくるのだった。あのレンガ色のアパートも、コンクリートの階段も、初老の画家の穏やかな表情もその目も、サキオリは全て覚えていた。それは常に痛みとなって彼の心を締めつけた。特にあの目は忘れることなどなかった。

アンドレイ・イリヤノヴィチはあたかも旅に出る子供を見送る親のように、彼ら二人を心配そうに見た。それから絵のある部屋の戸棚からライ麦パンと、とっておいてあったらしかった干し肉の包みをチャーリー・オールドに渡した。サキオリが口を開こうとすると彼は首を振り、必ず生きなさいと言って二人と順番に短い抱擁をかわした。そして彼は微笑んだ。そのときの目だった。非常に深い青色をしたその目は人間の全ての罪を背負ってもその光を保ち続けただろう。サキオリはそれと同じ色を前に一度だけエル・グレコの絵の中で見たことがあった。

過去はしきりに彼を問いつめた。どうしたらいいのかなど、ずっとわからなった。あたかも誰かにもらった記念品のように、捨てることもできず使うこともできずただ後悔と一緒にしまっておくだけの記憶。サキオリは何かがそれを、一番良い形で終わらせてくれるのを待っていた。彼はふとソフィア・アンドレーエヴァナの方を見た。彼女は泣いていなかったし、まだ紙の上で筆を走らせていた。表情は素朴で、穏やかだった。

「私、後で気がついたの。彼があのとき私にくれたお金が、彼の全部だったんだって。彼は1コペイカも残さずに、全部を私にくれたのよ。私が家を出て7日後に父は死んだわ」

彼女は途中、唐突に言った。数分が経ち、はたして絵が完成した。それは彼女が水彩絵の具で架けた橋だった。過去と現在を隔てる深い水、その上に彼女の色が与えられた橋、光……何もかもを包み込む光。

二人が仲間と一緒にモスクワを脱出した次の日に誤解が解かれてからは、思いのほか全てがすんなりといった。グルジアでの仕事も予定よりずいぶん早く片付き、彼らは1週間後にはそこを出た。サキオリとチャーリー・オールドはすぐにモスクワへと戻り、老いた画家の部屋のドアを押した。しかしそのときにはもはや、アンドレイ・イリヤノヴィチはそこにいなかった。貧しく老いた画家が彼の持っていた全てを二人に与えていたということを、二人はそのとき知った。彼は娘に、それからほとんど名前しか尋ねなかった二人の外国人に全てを与え、そして亡くなったのだった。もう一つの部屋に置かれた絵は未完成のままだった。机の上の聖書や本のほとんどはなくなっていた。娘に宛てた一言が書かれた手紙とサキオリとチャーリー・オールドの名が薄くメモされた一冊の本だけがそっと置かれていた。サキオリが身を切るような涙と共にひざまずいた木の床にはまぶしく光が差し込んでいていた。それは何もかもを包み込む光だった。

ソフィア・アンドレーエヴァナはその絵をボードから離すと、こんな紙で悪いけど、と言ってからそれをサキオリに手渡した。彼女の表情はほとんど晴れ晴れとしていた。彼女は父親と同じように優しく笑うと明るい青色の目でサキオリを見た。それは自分を含め全てを許している目だった。サキオリは手渡された絵に視線を落とした。それは本当に美しかった。それはやはり繊細な色づかいだった。しかしそこには最初に見たときには感じられなかった鮮やかすぎるほどの願い……復活への強烈な願いが見えた。彼女が彼女の色使い、例の500色ばかりある記憶の中の絵の具をどこから見つけてきたのか今ではもうすっかりわかった。だから見れば見るほどその色使いは鮮やかに、苦しいほど鮮やかになっていった。彼女はもはや自分の色を取り戻していた。彼女の記憶の真ん中で全てを遮っていた深い水の上に、一筋の橋を架けたらしかった。

「本当にいいのかい??」

サキオリは彼女に尋ねた。彼女はうん、と答えて絵の具を片付けると、まっすぐと水の中を覗き込みながらつぶやいた。

「父はいつか、許してくれるかしら」

彼の机の上、光に照らされて手紙にはっきりと浮かび上がっていたのは、細い鉛筆書きの文字だった。アンドレイ・イリヤノヴィチの文字は愛情をそのまま形にしたような、見ていて心が苦しくなるほど優しい文字だった。サキオリはすっかりそれを覚えていた。彼はそれを伝える必要があった。今それを伝えなければもう全てのチャンスは失われるのだ。

キャンバスに色があれば、何もない無表情でなければ、それがどんな絵であっても私は愛そう。彼の文章にはその次に愛するソフィア・アンドレーエヴァナへ、と記されていた。しかしサキオリにそこまで口に出す勇気は無かった。それでもソフィア・アンドレーエヴァナの表情はすぐに変わった。驚きと喜び、そしてもう一度驚きだった。彼女は目を見開いてサキオリの方を何かを言おうとした。しかし彼女には言葉を探す余裕も無かったらしく、わずかに口を開いただけで何も言わなかった。そして今度はその唇をきゅっと結び、小刻みに震えながら今にも溢れ出ようとする涙をこらえた。しかし彼女の美しい目からは大粒の涙がこぼれた。彼女は首を振った。それが何の涙なのか彼女には理解できないらしかった。

「あなた……サキオリ、あなたは……」

彼女は言いかけたがすぐに途切れてしまって、また黙った。

「アンドレイ・イリヤノヴィチは常に君を愛していただろう。きっと許しを請う必要なんかないよ……きっと……」

言葉が詰まってしまって、サキオリは仕方なく笑った。しかしそれはひどく不器用な笑みだった。彼もまたずっと許しを請うていた。それを思い出すたびに必ず自分を責め、ひどい後悔の念と共に心の中で謝罪した。しかしソフィア・アンドレーエヴァナが橋を架けた。今は後悔と謝罪の代わりに身体を温かく満たすような感謝が次々に生まれてきていた。それはアンドレイ・イリヤノヴィチがずっと残しておいた豆を使い切って淹れてくれたあのコーヒーを飲んだときと似た温かさだった。それは彼が最後のマッチを擦って火を入れてくれたあの石油ストーブの温かさだった。

「素敵な絵をありがとう、ソフィア・アンドレーエヴァナ」

彼は絵を注意深くカバンに入れて別れを告げると、身体の向きを変えて歩き出した。もう少しでもそこにいれば、彼の目からも涙が溢れるところだった。待って、とソフィア・アンドレーエヴァナが後ろから声をかけた。

「アンドレイ・イリヤノヴィチは常にみなを愛していたわ。……さようなら、サキオリ」

サキオリが振り返ると、彼女は涙で濡れ赤く火照った顔で子供のように無邪気に笑った。彼女の向こうには金色の装飾の施された石の橋があった。太陽は空高くに上がっていて、分け隔てなくみなに光を届けていた。彼女はそこにいた。サキオリもまたそこにいた。そのときのサンクトペテルブルクには果てしなさも儚さも感じられなかった。それはただ水彩絵の具で描かれた絵画のように鮮やかで、美しかったのである。

watercolors

著:Henry Winston 訳:ライター田中

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