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彼は白いシーツのベッドで目を覚ました。しかしまだ夜は完全に明けておらず、あのときに比べればひどく快適なベッドだった。あのときのは温かく、貧しいベッドだったと彼は思い出した。しかも包帯にするためにシーツを破って使ってしまっていたから、スプリングが飛び出しかけているのが外から見えていた。それを思い出したとき、彼は素早く笑おうとしたがやはりできなかった。代わりに自分への憎しみのようなものが重々しく笑った。

彼はとにかく起き上がると、いつものように数分間窓からの景色を眺めて、それから机の上にあった本と財布を手に取って四角いベージュのカバンに滑り込ませた。ポケットに鍵が入りっぱなしになっているのを確認し、部屋を出る。それは古ぼけたアパートの3階の部屋だった。彼は階段を下り、アパートの中庭を抜けて通りへと出た。

どうやら夜のうちに雨が降ったらしく地面は湿っていた。橋を渡ってセンナヤ広場の方をまわってネフスキープロスペクトへ向かう。彼はレストランのドアを散歩よりも先に押した。そしてピローグとコーヒーを頼み、先に出てきたピローグを時間をかけて食べると、後から出てきたコーヒーを飲みながら持ってきた本を開いた。それは今ではすっかり古くなったロシア語の本だった。彼はロシア語の本を完璧に読むことなどできなかったが、その小説は翻訳されたものを何度も何度も読んでいたために、おどろくほどすらすらと読めた。私はドストエフスキーが好きでね、とアンドレイ・イリヤノヴィチは言った。

「娘の名前まで、彼の小説から頂いてしまうくらいね。まあ娘がピーテルに行く言い出したときは……といっても一昨日だが……そのせいで余計な心配をしたよ」

彼はそして笑った。それから君らは読んだことがあるか、と聞いた。サキオリは大学にいたころに一冊だけ読んだことがあった。チャーリー・オールドは首を振った。サキオリはしっかりと体に力を入れると、毛布を軽くのけてベッドの上に起き上がった。脇腹の傷はじりじりと痛み、そこだけが燃えるように熱かった。チャーリー・オールドはその怪我人の横に昨日のボロい椅子を持ってきて腰掛けていた。

「彼の小説を読んでいると……こんな生活をしていても、自分の中の”人間”が生き生きしてくる、まあ、少なくともそんな気持ちがするんだよ。だから私は彼の小説が好きなんだ」

アンドレイ・イリヤノヴィチはそこで、失礼と言って机のあるほうの部屋に行った。どうやらまたコーヒーを淹れてくれているらしかった。

ちょうどそのとき、チャーリー・オールドがウェブ上のあるサイトを通して仲間からの暗号通信を受け取った。それはマーティンという彼ら二人の親友が流したもので、”75パーセントが集まる12時間前、青年思想の紙は水に流せ”という文章を含んでいた。それは11月26日つまり今日の深夜0時にモスコフスキー通りの橋に集まれという意味の、マーティンがよくやる類いの古くさい暗号だった。出来の悪い暗号だよ、サキオリがそう言い二人が力なく笑ったころに、アンドレイ・イリヤノヴィチがコーヒーの入った昨日と同じ白い小さなカップを2つ持ってきた。

「あなたは??」

サキオリが聞くと彼は首を振って、今はいらないよと言った。コーヒーは昨日よりも若干薄めだったが、やはり変わらない香りがした。サキオリはそのとき何か妙な感じがした。例えばそのコーヒーがひどく大切な宝物か何かで、それを自分が飲んでしまっているようなそういう感じだ。それはやはりその香りのせいであった。それはそのときサキオリの思ったところでは、そういう妙な気分にさせる作用のある香りなのだった。

「おっと」

アンドレイ・イリヤノヴィチはありがたがってコーヒーを飲むその二人を嬉しそうに見ていたが、ふと何かに気がついたらしく椅子から立ち上がった。

「君のコートには糸杉の枝がついているよ」

彼はそう言って笑うと、ベッドの上にたたんでであったコートから小さな茶色の枝をつまみ取って、その右手と一緒に自分のズボンのポケットへそれを押し込んだ。彼はきっといつもこんな風にして娘を育ててきたのだとサキオリは思い、また少し悲しくなった。

レストランには柔らかな日差しが滑り込んできていた。小さなカップが空になってしばらく、彼は窓の外が明るくなってきたことを確認して本を閉じると持ち帰り用のコーヒーを二つ注文した。それは障子紙のように薄いカップで出され、もしボール紙のスリーブが巻かれていなければ絶対に熱くて持つことが出来ないような代物だった。助かったことにカップはビールジョッキより背が高く、中のコーヒーはエスプレッソほどに少なかったからそのマグマのようなコーヒーがこぼれて手にかかることはなかった。彼はそしてレストランを出た。出口を左に折れると、暴れる馬の彫刻がある大きな橋の手前でもう一度左に折れて、運河沿いの道を歩いた。ずいぶん歩いて、コーヒーもほどよく飲み易い温度になった頃に彼はその橋についた。彼がコーヒーの片方を渡すと、ソフィア・アンドレーエヴァナはひどく喜んだ。

「私はコーヒーが大好きだわ」

彼女はまだ絵の具をカバンから取り出しさえもしていなかった。もう少しだけ空が明るくなった頃、夜の空にまぶしく太陽が現れてすっかり全部を明るくしてしまった頃が好きなの、と彼女は言って、コーヒーを飲んだ。サキオリもコーヒーを飲んだがそれは確かにちょうどいい温度になっていた。太陽は運河の向こう側にぎっしりと並ぶ建物の奥からその姿を現した。

「この街は幻想的だね」

サキオリが言った。

「そう??」

「つまり、幻想的っていうのは……どことなく果てしなくて、それなのにどことなく果敢なく、何か人間の世界から独り立ちしてかけ離れていくようなそんな感じなんだ。先が霞んで見えないほど長く真っ直ぐ伸びた通りを歩いたり、その両側に合間無く連なる建物を見ているとそう思うんだよ」

「私」

ソフィア・アンドレーエヴァナは昨日ボードを置いていた黒い手すりに肘をついて昇ってくる太陽を見ていたが、ふと思い出したようにサキオリの目を覗き込んで言った。

「あなたが昨日私に話した魔女の伝説、知っているの。父から昔聞いたわ。その鳥の足の魔女はこの街が1703年に出来たときからずっとここに住んでいて、人間の表情や、本……聖書までも食べてしまう恐ろしい怪物でもあったの。魔女がまだここに住んでいるっていう話もあるけど、それとは別にこんな話があるわ。それは、あるときピーテルの人々がその魔女を街から追い出そうと話し合って、ある賢い人が魔女の弱点をみんなに教えた。その弱点というのはたくさんの色を一度に見ることだった。次の日街の人たちはみんな別々の色の服を着て、みんな別々の色に顔や手を塗って魔女の住む家に行った。すると魔女は怯えて逃げてしまって、今はシベリアの向こうで生きているのだっていう、こんな話。面白いでしょ??」

彼女は無邪気に笑った。サキオリはそんな話があったのか、と驚いてみせた。彼はしかし以前に全く同じ語り口でその話を一度聞いていたばかりか、筋も完璧に記憶していた。その話はそれほどに彼には衝撃的なものであったのだ。サキオリは運河の水に視線を落としたまま、そのときのことをぼんやりと思い出していた。彼がもう一度ソフィア・アンドレーエヴァナの方を見たとき、彼女はすでにパレットも筆も描き途中の絵も用意し終わって、サキオリの方を見ていた。

「ぼうっとしている」

「ああ」

「どうしたの??」

「昔のことを思い出していたんだよ。ねえ、僕はやっぱり君の絵の橋が本当に好きだな。この橋も好きだけどね、あれはちょっと錆びてる」

彼は本物の橋の方をちらっと見ていたずらっぽく言ってみせた。ソフィア・アンドレーエヴァナはボードの方へと視線を落としてからにっこりと笑って絵の続きを描き始めた。それから小さい声で、少しの間そこで待っていてとサキオリに向けて言った。

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