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彼は自分がひどく不思議で悲しい、とんでもない偶然のつながりの上にふらふらと立っているのを感じた。彼は運河に沿って100歩ほど歩いてから、チノパンのポケットに入っていた携帯電話を抜いた。それから81で始まる電話番号を押して、それを耳元へ運んだ。

「もしもし、どうした、仕事の依頼が入ったかいオールド・フレンド??」

「いや、そうじゃないんだ、チャーリー・オールド。君はモスクワで8年ばかりも前に俺たちをかくまってくれた老いた画家を覚えているかい??」

「モスクワ、ああ覚えているよ。たしかまだあの部隊でお前がルーキーだったころだ。グルジアに行くはずが、モスクワで足止めを食らって……あれはひどい状況だったな。あの画家がいてくれなければ本当にまずかったよ。だが……」

「君は彼の名前を覚えているよな」

「忘れられるかよ、彼はアンドレイ・イリヤノヴィチだ。覚えてるだろお前も。しかしいったいどうしたって言うんだ、オールド・フレンド??」

「彼には娘がいたよな、そのときはまだ14歳か、そのくらいの。名前はわかるか」

「ああ……確か……うん、いたよ。でも名前は思い出せない。そもそも会ったこともないしな。もしかしてお前、会ったのか??」

「いや、わからない。わからないけれど、ただそんな気がしたんだ」

サキオリは礼を言って電話を切ると、さらに歩いた。ドストエフスカヤに間借りしている部屋へと戻ろうとしていたが、仕事の入っていない今日一日は、部屋の中で過ごすには長過ぎると気がついた。といっても夕方にはアメリカ人の友人と会う約束があった。

彼はネフスキープロスペクトの、地下鉄の駅を出てすぐのところにあるレストランに入った。それは24時間営業のロシア料理のチェーン店だった。店の雰囲気は落ち着いていて、テーブルは深い茶色をした四角い木のものだった。テーブルの間には金色のコート掛けが並木のように突き出していた。およそいつでも客が多く煙たかったが、さすがにまだ朝早い時間だったので、客はグレーのウインドブレーカーを着た太り気味の中年男が一人だけだった。カウンターテーブルの向こうでは店員が3人、一列に並んで突っ伏している。彼が席に着くと、立ってカウンターに寄りかかっていた背の高い女性の店員がサキオリの前にメニューを投げた。サキオリは羊の肉の入ったピローグとコーヒーを頼んだ。ピローグにはいつもながら時間がかかるようだったが、コーヒーはすぐに出された。それはいつもこのレストランに立ちこめているタバコの煙のような湯気を立てて、古い新聞紙のような危うい懐かしさを放っていた。

「私はいいんだ、さっき飲んだからね」

アンドレイ・イリヤノヴィチ・アラヴェルドフはそう言った。一口含むと、それはまるで10年ばかりも戸棚の隅に大切にしまってあったわずかなコーヒー豆を挽いて淹れたかのような味だった。モスクワの冬は凍りつくような冷たさだったが、サキオリは身体の隅々で固まっていたそのシベリアの氷のようなものが和らいでいくのを感じた。まるでその暖かいコーヒーがそこへしみ込んでいって氷を溶かしているみたいだった。チャーリー・オールドもまたそんな風に感じているらしかった。二人は明るい色の木の椅子に腰掛け、アンドレイ・イリヤノヴィチが火を入れてくれた石油ストーブにあたっていた。それは古いスチールのストーブで、彼がマッチを擦って(彼はその後マッチの箱を捨てた)火をつけたときの懐かしいにおいは彼らに深い安心を与えた。

どこか古い大学の図書館で見るような色の家具が置かれたその部屋は、工場やら住宅やらがごった返すモスクワ郊外の古いアパートの三階だった。(後で調べてみれば)そこはアフトザヴォツカヤという駅から1kmほどの所だった。ペンキで白く塗られた木枠の窓からは二本の高い煙突が見えていた。サキオリはぼんやりと曇って、やけに黄色っぽく見える空へと視線を投げていた。

「本当になんとお礼を言ったらいいか……アンドレイ・イリヤノヴィチ」

チャーリー・オールドが改めてそう言った。

「この世には失われてはいけない小さな力がいくつもあるんだよ」

アンドレイ・イリヤノヴィチは綺麗な英語でゆっくりと答えると、二人がどのような人間でなぜ銃を持っていて、どうして追われているかなどのことはいっさい尋ねようとせず、ただ古い言い伝えや歴史についての話をぽつぽつとした。彼は穏やかな目つきをした初老の男で、ひどい近視らしくいつも眼鏡をしていた。栗色の髪の毛は短く切ってあったがカールして跳ねていた。彼はよれた白い硬そうなワイシャツの上にところどころほつれた灰色のセーターを着ていたが、その上からでも十分にわかるほど痩せていた。おまけに彼は身長が高かったので、いささか貧弱に見えた。しかし彼の話を聞けば、彼がただ貧弱なだけの画家ではないということがすぐに理解できた。彼は実にたくさんの本を読んでいて、文学や歴史について非常に詳しかった。現に彼の机の上にも本が何冊か積んであった。それらはほとんどかろうじて文字が読めるくらいに古くボロい本だったが、一冊だけはかなり新しく、綺麗であるように見えた。積まれた本の一番上にあるのはこれまたひどく古い聖書で、その上には木製の十字架がぽつりと置いてある。サキオリはさっきから何度も何度もそれらを観察していたため、もうすっかり何がどこにあるかを覚えてしまっていた。そもそもその部屋にはほとんど物がなく、開きっぱなしのドアの向こうに見えるもう一つの部屋にも、錆びたイーゼルに支えられた描き途中の絵画しか置かれていなかった。

サキオリとチャーリー・オールドは昨夜、追っ手から逃れこのアパートの裏で氷点下の気温に凍えていたところでアンドレイ・イリヤノヴィチに出会った。彼は最初二人を見つけたとき、黄色く暗い街灯のわずかな光をもとに二人の目を深く覗き込んだ。彼も二人も動かなかった。それは非常に長い一分間だった。二人の目には疑問と不安と、それから驚きが浮かんでいた。アンドレイ・イリヤノヴィチの目には何か驚くべき深淵のようなものがあった。一分が過ぎたとき彼は出し抜けに、来なさいと言って二人に背を向け、アパートへ向かって歩き始めた。二人は何も言わずに従った。アンドレイ・イリヤノヴィチは彼らにライ麦のパンを与えた。そしてどこからか二枚の毛布を持ってきて彼らに渡すと、自分は絵を描くからと言ってイーゼルのある部屋にこもった。

「あの絵は、東方の三博士ですか」

サキオリは描き途中の絵を眺めながら尋ねた。

「ああ、そうだよ」

画家は答えた。

「娘は水彩画を描くが好きでね、私も最近、大昔に買った水彩絵の具を出してきて描き始めてはみたんだが……その……やはり昔からずっとキャンバスに描いていたせいでどうも……すると君は聖書を読んだのかな??」

「いや、読んだと言えるほどのものでもありませんが」

「そうか。ここにいる間、もし何もすることがなければその聖書を……いや、それはロシア語だったね……すると何もない部屋というわけだから、まあゆっくりと休むのがいいだろう。君たちはどこかへ出かけるつもりはあるかね??」

「あとで少し、解決策を持つ人間と……なんと言ったか、近くの埠頭で接触することになっていますから」

「そうか」

アンドレイ・イリヤノヴィチは不安そうつぶやくと、気をつけなさいと付け足して優しく笑った。

「娘さんとは別に住んでいるのですか??」

「いや、昨日までは…ソフィアと言うんだが、ここにいたんだよ。しかしピーテルの親戚のところへ行くと言って出て行ってしまった」

彼はそう言うと、今度はひどく寂しそうに笑った。

「私は貧しいし、他の年頃の娘たちのような生活をさせてやれなかったからね。昔から彼女の望みで夜間の美術学校には通わせていたが……いろいろ考えるところがあったのだろう。何しろ年頃の女の子だ、携帯電話もなくテレビもなく、私は本しか与えなかったのだから……それは……いや、いいんだ」

彼の三度目の笑いは自分をごまかすような悲しい笑いだった。サキオリはそれを痛ましい思いで見た。チャーリー・オールドはさっきから視線をコーヒーに落としたまま、険しい表情で何かを考えていた。サキオリはもう一度描き途中の絵を見た。それは木のボードに水張りされた大きな画紙に水彩絵の具で描かれた絵で、美術館で見るような油彩の宗教画に比べると明るい色の絵だった。優しさに満ちあふれた青いマントの女性と彼女に抱かれる小さな赤ん坊、そして三人の博士、乳香、没薬そして黄金……しかし全ては描き途中だった。

彼はやっと出てきたピローグを少しずつナイフで切って食べた。それはかなり薄くぱりっとした生地に包まれたパイで、赤っぽいソースが小さな器に入って添えられていた。カップの底に沈んだコーヒーはもはや冷たく、風味もすっかり失われているようだった。今彼はそもそも味を感じていなかった。彼はひどい後悔の念が冬の風のように押し寄せてくるのを感じていた。なぜ気づかなかったのだろうか?? 全てのものが教えてくれていたのに、彼はすっかり見落としていた。彼は答えられない質問で自分を問いつめた。いやもしかしたら気づいていたのかもしれない。すっかり気づかないふりをしていたのだ、いやそうに違いない!

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