Watercolors

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6時から半時間ばかりが過ぎたネフスキー通りは、土曜日の朝であるのにも関わらず非常に忙しかった。にわか雨のように通り過ぎる車、先を急ぐ人々、深海のように濃い青色の空、明るい黄色のライトに照らされたその表情はいつだって険しかった。サキオリはいつもと同じ道で、<血の上の救世主>寺院に向かって歩いていた。これはまったく、このサンクトペテルブルクに来たその日から少しも変わらない散歩道である。やがて見えてくるネギ坊主の寺院が異様なまでにサキオリの心を惹き付けたのはもう彼が思い出せないほど昔のことだったが、驚くことにその鮮やかな感動は未だに失われていなかったばかりか、見るたびに色を強くしていくようだった。その感動とはそのロシア古式に乗っ取ったすばらしく鮮やかな建築様式ではなく、その歴史でもなく、もっと別のところから来ていた。彼はいわば強烈なまでの”人間”をその寺院に感じていた。

もしも観光客がその時間にその場所を歩いたなら(サキオリのような妙な感覚を覚えることはないにしろ)荘厳で美しい構図に心臓が高鳴るのを感じただろう。石畳の道が運河と共に一直線に伸び、その突き当たりには丸みを帯びて難色もの装飾が施された寺院がある。ボートの浮かぶその穏やかな運河では黄色い街灯が一列に並んで揺れ、やがて夜が青みを帯びて朝が再び現れるそのときそれは、ほとんどラピスラズリのような色を醸した。しかしそれはまだ観光客の時間ではなかった。昼間になれば何台もの観光バスが停まり、アジア人やアメリカ人に溢れるその場所も、今は黄色いジャケットを着た年配の女性がほうきを持ってゴミを掃いているだけだった。その静けさは10月を誘う9月中旬の涼しい風と絡まって、身体にしみ込むような落ち着きを生み出した。

サキオリは<血の救世主>寺院の横を通り過ぎると、道を右に折れた。彼はまた初めて見るかのように背の高い寺院を見上げ、感動し、それが終わると道なりに左へと曲がって一本目の交差点で右に曲がる。しかしどういうわけか、彼はその次のいつもの交差点で右に曲がらなかった。それはどうやら、今になって彼の思うところでは、すなわち”The Recipt for the Story”というものだった。そう、そこで物語が始まったのだ。

彼は美しい橋のかかる運河へと突き当たった。その場所は知らなかった。厳密に言えばそこを右に折れ運河に沿い歩けばネフスキープロスペクトに戻れるということは分かっていたし、地図でいうどのあたりに自分がいるのかも分かっていた。しかし彼は自分がまったく新しい場所にいることを感じた。ちょうど太陽が昇りきったころだった。運河の水が光の粒を幾千も浮かべ、きらきらと輝いていた。その下の水はこの街を流れる他のどの運河よりも深そうだった。

細い棒のようなものが靴の先へと転がって止まったのは、サキオリが橋の手前で右へと向きを変えたときだった。はじめ彼にはそれが何なのか分からなかったが、身を屈めて拾い上げるときにはそれが絵筆だということがはっきりと見えた。彼がその平たい筆先の絵筆を拾い上げ、それが転がってきた方へと視線を向けると、そこに彼女がいた。

彼女は絵を描いていた。彼女は橋の手前、運河と道路の間の柵にA4サイズのボードを乗せて絵を描いていた。2本の筆を交互に使い、時々地面に置いた水彩絵の具のパレットに筆を走らせる。彼女は大学生ほどに見える若い女性で、整った顔つきをしていた。栗色の髪は後ろで束ねられ、鼻は高く、小柄で細々としている。しかし唇や目ははっきりとしていて、特にその目はアクアマリンのような透き通った青だった。それは美しい光景だった。朝の光に浮かび上がるクラシック様式の黄色がかった建物と、運河と、絵を描く人。そして彼女の描いている絵は非常に特別だった。飛び抜けて写実的なわけでもないし、エルミタージュで見る絵画のように強烈なコントラストを持つわけでもない。しかし彼女の絵の中では石で作られた橋が(彼女は橋を描いていた)ひとたび見れば忘れられないような個性を与えられていた。光の射し方も素材感も、普通の人とは全く違う目で見られたもののようだった。それらは現実の橋や景色とはずいぶん異なった色彩だったが、そのくせ彼女は完全に見たままを描くように厳密に色をつけた。彼女は例えば白の色を何十通りも使い分けていたし、それらの微妙に違う何十もの白を、一つ一つ名前があるかのように覚えているようだった。白だけではなく全ての色においてそうであった。さながら500色の水彩絵の具をまったく完全に覚えていて、それをその14色の絵の具で再現しているようだとサキオリは思った。

「これは君のものじゃないかい??」

サキオリは彼女が彼に気づいたところで尋ねた。彼女は素早くサキオリの表情や身なりを観察した。ちなみにサキオリは紺のセーターとブラウンのチノパンという格好だった。特別ではなかったが、かといってロシアで最も一般的な服装でもなかった。

「そうです、どうもありがとう」

彼女は綺麗な英語で答えた。サキオリは絵筆を彼女に手渡すと、もう一度その絵を見た。

「素敵な絵だね。君もネフスキー・プロスペクトで絵を売るのかい??」

サキオリが尋ねると、彼女は少し驚いたような表情をしてから急いで首を振った。

「いいえ、私は絵を売っていませんわ」

それから一度自分の絵に視線を落とし、もう一度サキオリの目を見ると、売るような絵でも、と小さく笑いながら付け足した。

「そうか。でもまったくその絵が気に入ってしまったね」

サキオリはそう言った。彼は完全にその絵にとりつかれていた。もはや目を閉じてもまぶたの暗闇にその色使いが浮かんでくるほどだった。しかし彼女は本当に絵を売っていないようだった。というのもあらためて見てみれば、彼女はボードに薄っぺらな普通の紙を何枚も挟んで、その一番上の紙に描いているだけだったのだ。

彼女はまた驚いて、もう一度自分の絵を見ると3秒ほど見つめてからサキオリに視線を戻して、これまた3秒ばかりその目を見つめてから嬉しそうに笑った。

「どんなところがいいと思うの……?? つまりその……」

彼女はいくぶん親しげに尋ねた。サキオリが先ほど思ったことを話している間、彼女はずいぶん真剣にそれを聞いていた。

「あなたも絵を描くの??」

サキオリが話終わると、彼女は尋ねた。彼女はその話にすっかり関心を持ったらしかった。

「とんでもない! まったく描けないし、詳しくもない。ずいぶん古い絵ならともかく。でも時々すごく惹かれる絵があるんだ」

「古い絵??」

「3000年くらい前の、つぼやなんかに描かれてるようなものだよ」

「そう……それは……ずいぶん古いのね!」

彼女はおかしそうに笑った。それはまた華やかな笑顔だったが、どことなく笑いきれていないような、遠慮の入った大人の笑顔だった。

「あなたは学者なの??」

「いいや」

「それじゃ何??」

「いくつか仕事があるけど、普段は個人の観光客のガイドをするんだ、いろんな国でね。明日の夕方にはスコットランドに戻るよ。君は??」

「私はまだ大学生。サンクトペテルブルク大学の」

「そうか!それじゃあ優秀なんだね。自分の友人にもサンクトペテルブルク大学に留学していたアメリカ人がいたんだけど、あまりにも大学の建物が大きすぎて遅刻の朝に教室まで走ると息がすっかり切れてしまうってんで、彼はアメリカに戻ってしまった」

「同感だわ。あの廊下は長すぎるもの」

彼女はそう言うと、また静かに笑った。サキオリも少し笑ったが、ふと自分が彼女の筆を止めていることに気がついてその場を去ることを思った。

「そろそろ行くよ。筆を止めてしまっているから。君の描いている絵は本当に素晴らしいよ。見ていると何か自分のいろいろなことが許されていくような、そんな気持ちになる」

彼がそう言うと彼女は少し驚いて、何かを見つけようとするかのようにサキオリを観察し直した。それから自分があからさまに相手を観察し過ぎたことに気がつき、少しだけ赤くなって、あなたは不思議なことを言うのねと早口で言った。

「そうかい??」

「絵を褒めてくれた人はいるけど……そんな風に言った人はいなかったわ……ええと……」

「サキオリ」

「サキオリ」

「君は??」

「ソフィア……ソフィア・アンドレーエヴァナ・アラヴェルドワ」

「ソフィアか、いい名前だね……」

サキオリはとりあえずそう口に出しながら考えた。ソフィア・アンドレーエヴァナ・アラヴェルドワ。ソフィア・アンドレーエヴァナ。アラヴェルドワ……。

「ことによると、君の生まれはモスクワかい??」

「ええ、そうよ。でもどうして??」

いや。サキオリは曖昧にそう返事すると、不思議そうにしている彼女に向かってそれじゃまたと言い、その場を離れた。