IMPACT

IMPACT

「何が入っているの?」

「古くさいスチールの価値観さ」

「古いから捨てるの?」

「親友がずっと捨てたがっていたものだから捨てるんだ」

第一章

「私たちはいわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二度目は生きるために」、狙撃者が言った。「チャーリー、ライフルを忘れた」

 大きなワンボックスの後部座席で頬杖を突くその男は、平均的な身長と広い肩幅の体を茶色い羊毛のフライトジャケットへ沈めていた。信頼に足りそうな筋肉、いかつい顔の輪郭は彼が戦地に赴いていた人間であることを暗に示している。

「言い訳になってないぞ。それにな、用意されたライフルが気にくわないからって置いてくるんじゃねえよ」、運転席の陰でチャーリーが言う。それは図星だった。狙撃者は実用的でごたごたとした最近のライフルが大嫌いだった。レーザー照準器に着弾点計算機、そういったものは不確定な要素を完全に無視している。必要なのは遠くの世界を忠実に拡大してくれるスコープだ。

「まあ良いオールド・フレンド、足下にある長細いケースを開けな」

 チャーリーの声を聞いて狙撃者は眉間に皺を寄せた。顔を少し傾け、視線を宙のどこかに放り投げる。「うむ」

「本当だ足下に長細いケースがある。空けてみよう」、わざとらしく言って強化プラスチック製のケースを持ち上げる。

「びっくりだ。ライフルが入ってた」

「アホ、お前が絶対置いてくると思って持ってきてやったんだろうが、お前の火縄銃」

狙撃者が持ち上げたライフルは半世紀ほど前に主流だったものだった。ボルトアクションと呼ばれる、一発撃つごと手動で弾を装填しなければならないタイプのものだ。今では愛好家か間抜けにしかその銃の所持権は与えられていない。狙撃者は後者だったが、彼にとっての問題はライフル、M700の名ではなくそのライフルと共に積み上げてきた莫大で尚かつ正確なデータ、つまり経験だった。共にしたのが別のライフルであったなら今手に持っているのも別物だっただろう。ただ一つ確かなことがあるとすれば、自分で調整したライフル以外で狙撃をすることはないということだ。

「なんでも良いけどよ、そろそろ支度してくんな」、そう言ったチャーリーの声はいくらか楽しそうだった。この男は実にいろいろなことを楽しんでいるし、彼自身それを目標としているらしかった。特に声が弾むのは狙撃者が計画に無いろくでもないことをやらかそうとしているときだ。

「準備は?」

 声がする。耳の中に着けた小型のヘッドホンから聞こえてくるわけだが、相手の声が冷え切っているとなると耳が凍り付いてしまいそうだった。

「ばっちりだ。引き金を引くだけさ」、狙撃者はジャケットの襟につけたボタンのようなマイクに話しかける。それからそのマイクを手で押さえ、ちょっとばかし急いでくれとチャーリーに囁いた。

 衣服の擦れ合う音というのは時として非常に厄介なものとなる。どういう場合においてかと言うと、例えば誰かが人質を取って高層ビルに立て籠もった場合においてだ。ついでに誰かというのが複数で、人質が退職した大物政治家の集会とくれば不足は無い。

「HQだ。現時点で分かっている情報を伝える。敵は八名、そのうち四名はライフルらしきものを所持している。人質が捕らえられているのは屋上から三つ下の階、十八階だ。アルファは屋上から侵入、ベータは十八階に直接突入する。ガンマは一階から侵入だ。ベータがPM0910、アルファとガンマはPM0900だ」

「アルファ隊、了解」

「ベータ同じく」

磨き上げられた廊下の折れた先から陰が伸びている。ライフルと軽い防弾服を身に着けて、バックパックを背負っているらしかった。距離は十メートルと無く、一方通行の話し声が聞こえる。ヒラギはポケットからライターほどの大きさの機械を取り出して、その前面に付いた集音マイクを敵の方へ向けた。

「ガンマ隊、応答しろ。……おい、ヒラギ! また勝手なことをしたら首に――」、ヒラギは無線を切ると、ヘッドセットをベストのポケットへしまい、手に持っていた拳銃を右足のホルスターへと滑り込ませた。

 陰が敵の向いている方向を教えていた。ヒラギは隙を見て飛びかかり、口を塞いでから殴り倒す。そのまま部隊の戦闘を走り、階段を駆け上った。音無く、迅速に。それが求められているものだったが、ヒラギが実質的な隊長として率いるγ隊は確実にそれをこなしていた。それは才能でも運でもなく、日頃の訓練が与えてくれる特殊能力だ。

「おいHQ、すまないヒラギだが、電波が今届いた。首はまだくっつけておきたいとの意思を委員会に伝えておいてくれ。二一〇八、予定のポイントに到着した。接敵は一人だ」

「こちらA隊、屋上からの侵入に成功、二一〇八、予定のポイントだ。接敵は二人」

「HQだ。これから敵の無線を傍受する。各員チャンネルをCに合わせろ」

 チャンネルを変えると、敵の会話が聞こえてくる。彼らは一階でヒラギが殴り倒した男と話していた。情報課があの男の声をサンプリングし、編集することであの男になりきっているのだ。侵入が気づかれないのは有能な情報課のおかげとも言えるだろう。

<……政府はまだ要求を呑まないのか。たかが情報公開なのに>

<政府もまったく情報を与えられていないのかもな>

<あれのせいでみんな駄目になっちまっているというのに>

<深入りすれば死ぬからな、存在を知るだけでも危険だ。開発者は自分がどれほど恐ろしいものを創っていたか、自覚していなかったんだ>

<……おい、あれは? 治安維持部隊か。くそ、撃て!>

 厚い木のドア越しにこもった銃声が響く。窓ガラスが割れる音がして、今度は銃声が乾いた音になった。敵が窓から銃を突きだしたということだ。βがしくじったのだ。さらに悪いことには、ライフル四丁に対抗しえる銃を装備しているのはβだけだった。

「こちらHQ、作戦は失敗だ、撤退しろ。これ以上の交戦は認めない」

 ヘッドセットが壊れるほどの大声だった。ヒラギは舌打ちをして、部隊の方を振り返る。全員が減音器付きのハンドガンを装備していた。作戦の前にサブマシンガンの使用を提唱したが、人質に危険をさらすという理由で断られたのだ。

 ヒラギはホルスターから愛用の拳銃を抜いて、深く息を吸い込んだ。

「おい、間に合わないぞ」

 チャーリーが言った。狙撃者は顔をしかめると、腰をずらしてシートの左側に移動し、右のウィンドウを開けた。勢いよく吹き込んだ冷たい風に一瞬だけ目を細め、それからライフルを右手に持った。「止まらなくて良い」

「またいつものが始まったぜ。何メートルあると思ってる? 止まらなきゃ無理だ」

「後続車がいるから急に止まるのも無理だ。橋の上にも駐車場を作れって知事さんに頼め」

「っていうか大体お前の靴磨きが長すぎるんだよ」

「馬鹿言うな、長いのはお前の飯だ。途中でピザなんか食らいやがって」

 狙撃者はそこまで言うと、耐えきれないというように笑った。チャーリーも笑う。

「オーケー、俺はこのまま運転を続け、予定のポイント、しけた橋の上を素通りし、レストランへ行ってバーガーを食べる、計画に差異はないな、オールド・フレンド?」

「今立てた計画に関して言えば、差異は無い。始めるぞ」

 狙撃者は急に真剣な顔つきになってライフルに左手を添えた。スコープをのぞき込み、せわしく右へ流れていく一五倍の景色を確認する。それはカメラでのんびりとした連写をし、それを使ってアニメーションを作ったような、狙撃には抜き出でて嬉しくない映像だった。

「なあ思うんだけど、私物にしてももうちょいマシなライフルは無かったのか? そいつはつまり、本当に五〇〇年ばかしも昔の火縄銃と似たり寄ったりじゃないか」

「心配するな、精度に関して言えばこの銃の左に出るものはない」

「なんか間違ってるぜ」

「間違ってない事実なんてのは、全てが間違っているという事実だけさ」

「よく分からん。そろそろ橋に差し掛かる、時速四五キロだぜ」

 チャーリーはそう言って、シートの向こうで耳に何かをはめ込んだ。狙撃者も左手に握っていた音量調整装置を耳にはめ、ボリュームをゼロパーセントに設定する。それが終わったころ、車は橋へと差し掛かった。

 歩道のないこの橋がまたいでいるものは、川によく似た十数本の線路だ。あらゆる列車の通る道がここへ束ねられ、爽快なまでに視界が開けている。線路は直線的に続いており、およそ八〇〇メートル先に大きな駅がある。そこらはいわゆる郊外と呼ばれる地域で、駅の周り、ここから見て線路の右側はベッドタウンとなっているわけだ。反対側には船の形をしたコンベンションセンターがあり、その脇で一つ孤立した高層ビルが、目的の場所だった。狙撃者はそれを“巨大な象徴”と呼んでいた。

 青灰色のジーンズのポケットから一発の弾丸を取り出し、手の腹でボルトを操作する。弾丸を押し込み、ボルトを押し戻す。金属どうしが擦れ合う音が聞こえ、装てんが完了したことを知らせた。セイフティを解除する。狙撃者は茶色い革のブーツを脱ぎ、右足をシートの上で折り曲げて狙撃の台を作ると、その上に銃を固定した。いつものように壁に背をつけ力を抜いて、スコープをのぞき込んだ。小刻みに揺れる視界の中に例の高層ビルが飛び込む。その建物の一面で白い四本の縦線が光っているのを見る。亀ほどに鈍いことで有名な展望エレベーターだ。

十字線はボディーガードに囲まれた初老の男に重ねられていた。車の進行に合わせて、ライフルの先端をほんの少しずつ右方向へと釣っていく。人形遣いが人形にヨガをやらせる要領だ。そうして、斜め下を向いていた銃口が徐々に平行へと近づいていく。車がゆっくりと坂を登り、照準は自然に上昇していく。

そのとき、狙撃者は自分が手に入れるべき一点を知っていた。そして、それがあと十分の三秒後に訪れることも予測済みだった。

狙撃者は人差し指へ力を込めた。

 ドアノブを捻り、低い姿勢で銃を構える。照準、標的を照準そして標的という動作を介して、立て続けに八回トリガーを引く。五発の銃弾は振り向こうとした二人を撃ち倒し、後の三発は白い壁に弾痕を作った。ヒラギは間髪入れずに空弾倉を地面に落とし、次を腰のポーチから抜いた。銃の下から押し込み、スライドを交代させたままにしているストッパーを押し下げる。単純だが難しい、生死を左右する動作だ。

 残りの二人がヒラギの存在に気がつく。振り返ってアサルトライフルを向けようとした敵に撃ち込まれた弾は二発ずつ、運の悪いことに二人目はトリガーを引いたまま倒れた。ライフルは銃弾を吐き出しながらゆっくりとした曲線を描き、それから地面に落ちる。人質の一人が曲線から不自然なまでに逸れた一発に撃ち抜かれていた。

「ガンマだ、制圧した」

「おいなんてことをしてくれたんだ! 人質が一人死んだぞ」、司令官が叫ぶ。

「撤退しよう」、ヒラギは言った。「委員会からのお褒めの言葉は俺が授かっておく」

「いやまったく我ながらすばらしい狙撃だった。ウィリアム・テルも嫉妬する精度だ。見たかあの八〇〇メートル先の着弾点!」

「見えねえよ」

「しかしよく驚いてたね、あいつら。やましいことをしていただけある」

「悪徳政治家なら撃たれ強くなきゃな」

「多分漢字違うぞ」

 狙撃者は上機嫌で歩いていた。それは隣で歩いているチャーリーも同じのようだった。実際のところ、すでにバーガーを食べながら祝杯も挙げたわけで、今日一日は完璧だったといえた。

「だけどおい、あいつは怒るぜ」、チャーリーが思い出したように言う。

「大丈夫さ、やつとは長い付き合いだからな」

 狙撃者が返事をした頃、二人は待ち合わせ場所である廃屋のドアへと行き当たった。それとほとんど同時に、携帯に電話が掛かってきた。

「計画通りにやれと言っただろ」

「いや、完璧だった」

「お前が用意のライフルを使って、予定通りのポイントから、止まって、一発だけ撃てば、お前の存在が突き止められる可能性は絶対に無かった」

 狙撃者は一瞬黙る。「エレベーターの中は禁煙だったんだ」

 電話が切れた。狙撃者はドアノブから手を放すと、チャーリーの方を向いて、何か土産を買いに行こうと言った。

「もう一度だけ、最後のチャンスをやる」、司令官が言った。手には電子新聞が握られている。勝手に受信して、電源を入れればいつでも最新の記事を読めるという物で、今では主流になり始めている。

「聞いているのか!」

 ヒラギはその声で我に返り、司令官の方を見た。

「聞いていた。そろそろ失礼する」

「待て」、背を向けたヒラギに司令官が慌てて声を掛ける。

「犯人たちの会話を聞いたか?」

「少し。それがどうした」

「極秘事項だ、絶対他人に漏らすな。できれば忘れろ」

「国民文化祭まであと十日」、そういったことが書かれた垂れ幕は、政府の建物に掛けられると相場が決まっている。そして今回それに選ばれたのがこの建物、県庁別館だ。ヒラギがいるのはビルの中腹に位置する場所で、公安委員会に割り当てられたフロアだった。しかもエレベーターに乗って十階というボタンを押しても降りることはできない、特殊な場所だ。外からじっくりと観察してそれと案内板を比べれば、十階と十一階の間にもう一つフロアがあることに気づくわけだが、そんなことを気にする者はいないのであり、秘密裏に生きる組織にとっては最高の隠れ家となっているのだった。

「もう一度だけチャンスを貰ってきた。六回目の、もう一度だけのチャンスだ。委員会は優しい。さあ会議を始めよう」

 ヒラギは窓の一部を遮る青い垂れ幕の裏側を見ていたが、やがて前を向き、会議室の象徴となる白い長机に思い思いの姿勢で腰掛ける男達を見回した。普通の会議室と違うことは多かったが、一番の特徴は机が円を描いていることだった。

「概要を」、とヒラギが言う。するとまるで係が決まっているかのように一人の男が説明を始めた。

「事件が起きたのは二十二時三〇分。大支日本石油、通称大日石油の本社ビルで稼働中のエレベーターに二発の銃弾が撃ち込まれました。一発は非常停止ボタン、もう一発は中にいた男のタバコを撃ち抜いて壁に刺さっています」

 ヒラギは話が終わると小さく頷く。するとそれに合わせて話をしていた男が座り、別の男が立ち上がって続きを始める。そうやってリレーのように調査結果を発表していくのが、いつものやり方だった。

「着弾の角度、高さなどから計算した結果、それとエレベーターの録音機能付きカメラに残った銃声。これらから推測して、狙撃者のいた場所はビルから約八〇〇メートル離れたところにある、車両専用の橋だと言えます」

「使用された弾丸は、一世代前に主流だったものです。おそらく狙撃者が使用したのは米製の単発式ライフル、M700でしょう」

「M700?」

 会議室に沈黙が現れた。それは長く冷たい冬の訪れのように、いつの間にかそこにいる。十数秒してから春を持ち込んだのは、最初に立ち上がった男だった。

「なぜ、M700なんだ? もっと高性能なものを手に入れることは可能だし、第一、あの銃の有効射程距離は――」、彼は会議室に居座る二十数人のメンバーの考えていることを代表して説明したようだった。いずれにしろそうしないことには会議が進まないということを理解していたのである。

「弾はもうしばらく飛び続けるが、有効射程距離は七〇〇メートルだ」、と後ろのほうで別の男が口を挟む。それはひどく間の抜けた発言のように響いたが、言っている内容は間違いなく事実であった。つまりこの事件とM700は、重なるようで重ならない、障子紙一枚で区切られた要素だったのだ。

ヒラギは目を閉じずに、机へと視線を落としていた。M700という銃が持つ記号性について考えていた。大国で銃規制が強化され、それに合わせ国内では銃規制が緩和された。規制で市場を失った大国内の銃器メーカーのための、新たな売り場というわけだ。そのような状態にあるこの国で、M700よりも高性能なライフルを手に入れることは難しいことではない。上手くやれば名前も残さないこともできる。それなのに古くさい単発式のライフルを使う理由、それが分かれば芋づる式に何か他のことまで引っ張れるような気がした。

「こういうのはどうでしょう」、今まで隅で聞いていただけの隊員が立ち上がり口を開く。

「犯人は新銃刀法以前から国内にあるライフルの所有者リストが消滅してしまっていることを知っていて、それを利用するために、銃身を取り替えるか何かして、M700に見せかけた。本当に使ったのは新しいライフルかもしれない」

 ある程度の説得力があったようだった。会議室の所々で頷きや賛成の声も上がっている。しかしそこでヒラギは一番重要なことを思い出した。

「そもそも狙撃者は、弾を目標から外したんじゃないのか?」

 会議室を再び沈黙が包む。

「そう言えば」

「だとしたら、有効射程距離もなにも知らない、素人の犯行ですかね?」

「二発も撃っている。しかも二つとも違う位置からだ。防犯カメラを見る限り、一発目と二発目の間は三秒。二点は三秒で動ける距離とは思えないし、動く理由も無い。二人いたのかも」

「二人とも外し、しかもそのまま諦めて帰ったのか」

「馬鹿なやつらだ。本当に殺す気があったのか?」

「標的が中にいた男だったのかどうか。重要なことだぞ。こいつは誰だ」、ヒラギが言う。

「色々な企業に太いパイプを持つ、大物の政治家です。政治とは別で募金や寄付などを盛んに行っており、住民からの人気は中々のものです。しかしその資金源にはかなり泥臭さがありますね。はっきりしない部分も多い」

「個人的な怨恨か」、隊員の一人が言う。

「企業テロ、政治的な背景の方が狙撃には似合う」、とヒラギが言った。「相手を殺したいと思うほど深い憎しみを持った人間は、その憎しみをたった一発の銃弾で終わらせようとはしない」

「それではいったい……」

ヒラギは時計に一瞥をくれる。

「ここまでにしよう。一班は犯人の特定、二班はその政治家に話を聞き、三班は現場をもう一度調べ直してくれ。俺は昨日の事件の後始末をしてくる。それから、掴んだ情報は全てまとめて情報課へ送れ」

 着信音――。

狭く細長い室内、パソコンとその関連品で埋め尽くされた机の上。灰色のパーカーを着て無造作に髪を伸ばした三十歳ほどの男は、手探りで携帯電話を探した。しばらくして手に掴んだ長方形の箱、画面には知らない番号の表示があった。

八回目のコールで諦めて通話ボタンを押す。八回目まで呼び出しを続けるということは、シマノがそうやって面倒を避けていることを知っている一部の友人からか、もしくは仕事関係の電話だといえる。そして銀色の縁の眼鏡を通して見る液晶に表示されているのが知っている番号でなかったために、溜め息を吐いた。

「はい、情報課。ただ今眠し」

「治安維持部隊の者です。ヒラギ隊長の指示で、昨日――といっても七時間ほど前ですが――起きた狙撃事件について得た情報を推論と共に送りしました。よろしくお願いします」

「ん、ああ。ヒラギ……あいつか。了解、目は通しておく」

「目は通しておく、ってちょっと」

シマノは構わず回線を落とし、三台並べられたパソコンのうちの一台を起動した。一番左に置かれた仕事用のパソコンだ。メールが数件届いており、それぞれに立体写真や動画、それに細々とした文章が星の数ほど詰まっていた。シマノは眉間にシワを寄せて大きく伸びをすると、それらの一通一通に軽く目を通した。

事件の概要は先日聞いていたが、送られてきていた情報はそこからかなり詳細化されていた。これを昨日の夜から朝までの間に完成させたのは、流石といえる働きだ。使用された銃弾についての調査結果、使用した可能性のあるライフルのリスト、それから現場の映像。調査に関しては、文句なしだ。

現場の映像ファイルを開く。映像とはいっても、全方向自由に視界を動かすことのできる特別な拡張子だ。シマノは大きくあくびをしてから、正方形の白いパッドの上で指を水平に滑らせた。モニターの中の世界が回転し、視界が変わる。画面は真っ暗の景色を若干だけ明るくして表示した。

橋の上には全くもって、何も残されていない。もちろんハンバーガーの包み紙とたばこの吸い殻以外に、である。シマノはそれらを注意深く観察し続けたが、五分ほど経った頃思い立ったようにそれをやめ、今度はエレベーターの録音機能付き防犯カメラのファイルを開いた。

会話は無い。もちろん、この間抜けな政治家がボディーガードとお天気の話をしていたことを期待しているわけではない。シマノはパソコン付属のスピーカーの音量を上げ、その瞬間をじっと待った。

やがて聞こえるか聞こえないかの音を立て、ガラスにぴしりとヒビが入る。それとほとんど同時に警告音が鳴り、エレベーターが止まった瞬間に、低い銃声が鳴った。これは特別なことではない。なぜなら銃弾、とくにライフルから発射された銃弾というのは大抵音速を超えて飛ぶからだ。部隊の連中もその到着までにかかった時間差を調べて、場所を割り出したのだろう。

ボディーガードたちが周囲に目を走らせる。少しして、一人が銃撃されたということに気がつく。それと同時にもう一度ぴしりと音がして、今度はぼんやりと立っていた政治家のタバコの先を撃ち抜いた。

何かしらの違和感があった。シマノは映像を巻き戻し、その瞬間をもう一度観察した。なぜボディーガードたちがすぐ銃撃に気づかなかったか。それは二度目に見て理解できた。銃声が減音器か何かで抑えられていたせいで、それだと気がつくことができなかったのだ。

なぜ狙撃者は二発撃ち、両方とも外したのか。狙撃者がただの素人だったという可能性は大いにある。減音器を装着したのも、恐れによるものか。シマノはそこで、二発が別の位置から撃たれているという事実を思い出した。間隔は約三秒、普通に装填したにしては時間が掛かり過ぎているし、二人いたならば両方ともエレベーターを水平に狙えるとき、同時に撃てば良かったはずだ。そもそも一人でやったとすれば、それは移動する車や何かの中から撃ったことになる。

つまり、狙撃者は素人だった。シマノはそう結論づけた。減音器を装着して車の中から撃ち、装填に三秒も掛け、一発目も二発目も外す狙撃者は素人である。減音器を装着せず車から降りて撃ち、装填を一秒と少しで行い、一発で標的を仕留める狙撃者はプロフェッショナルだ。

何かがしっくりこなかった。別の論証を行う。減音器を装着して車の中から撃ち、装填に三秒も掛け、一発目も二発目も外す狙撃者はプロフェッショナルである。こう仮定した場合、おかしいと思われる点は三つ。車、時間、そして精度だ。理由付けができる問題は……。

精度だ、とシマノは思った。そもそもの狙いがエレベーターを止めることだったとすれば、それを実現した狙撃者は相当な腕の持ち主といえる。そう考えると、二発目に関してはさらに、尋常でなくテクニカルな狙撃だ。そして、意味が無い。

意味が無い狙撃。それが狙撃者の思いつきによる行動だったとすれば。そもそもライフルに込められていた弾は一発で、それを撃った後に政治家を脅してやりたくなったのかもしれない。狙撃者はポケットからもう予備の弾丸を取り出し、横から装填して次の狙撃をする。掛かった時間が三秒――底抜けに、早い。

そして、移動中の車の中から稼働中のエレベーターを狙撃しようと考える、揺らぎ無い自信。こいつは、とシマノは思った。相当な実戦経験を積んだ男だ。

八〇〇メートルの距離から古いライフルで一点を撃ち抜く技術、とんでもない思いつきを実行に移す気まぐれ、そして自信。全てが成功すると確信済みでトリガーを引いた狙撃者。

シマノはため息を吐いた。疲れや絶望に因らない、揺れるため息だ。それから一息置いて携帯電話を手に取り、着信履歴を開く。数秒迷った後に、そのままそれを机の上に戻した。大きな伸びをして、他の二台のパソコンを起動させる。暗い部屋の中が三台のモニターの光で照らし出される。いや、それは夜明けを告げる太陽の光だったのかもしれない。いずれにしろどうでも良いことだったのだ。

シマノは立ち上がって、地面を這う沢山のケーブルに気をつけながら小さな湯沸し場へと向かった。飛びきり濃いコーヒーをマグカップに淹れ、冷蔵庫の扉を少しだけ開ける。手を突っ込んでチーズを一つ掴み出し、狭い作業場へと戻った。

明けてきたか。自分の部屋を囲む鋭く地面に突き刺さった高層ビル群と、それらに切り取られた淡い色の空を見ながらシマノは、久しぶりに掴みきれないその狙撃者について思案した。そして、意中で熱を持った静かな興奮が、眠気を奪い去っていくのを感じていた。

「MRIで見る限り、脳に異常は見あたりませんでした。前頭連合野に少し陰が写っていますが、おそらくは何かのミスでしょう」、看護婦が白衣を来た中年の女性に向かって言った。長年この病院で働いている彼女は、喜怒哀楽を備える今となっては珍しい医者だった。良くも悪くも、である。

「にしても」、彼女は続けた。

「一言注意を受けただけで相手をナイフで斬りつける少年というのは、どういう心理状態なんだろうねえ」

 ヒラギは黙って首を振る。

「しかも今になっても何の罪悪感を覚えていない。施設やスタッフに悪態を吐き、八つ当たりできるものがあれば当然のように攻撃する。知ってる? これと同じようなケースがここ数年で千件近く起きているってこと。子供だけじゃなく大人も含めて。今まで内側に向けられていたストレス発散の対象がそのまま外に向けられた、って感じね。実際自殺は減ったし」

 確かに国は荒れていた。犯罪件数は鰻登りに上昇し、それに伴って傘やハサミまでもが規制の対象となった。それを使って人に危害を加えることのできるものは次々と存在の場を失っていく。

「そういえば、誰かに面会するために来たんだってね。こんなところで足止めしちゃってごめんなさい」、ドクターが思い出したように言う。

「いくつか質問をして、報告書を作らなきゃならないんだ。昨日運び込まれた立て籠もり犯たちはどの階だったか?」

「八階だったと思うわ」

 ヒラギは軽く会釈すると、エレベーターを使って八階へと上った。白く磨き上げられた清潔な壁にもたれながら、宙に古くさいライフルの像を浮かべた。狙撃者が使ったとされるライフル、M700はここには似合わない。

 扉が開く。ほとんど同時に、低くこもった銃声が三発、四発と聞こえた。消音器付きのハンドガンだ。ヒラギはガウンの内ポケットの辺りから四五口径の小さな拳銃を抜くと、頭によぎった喜ばしくないイメージを目指して地面を蹴った。病室は建物の隅、廊下の突き当たりの左にある。ヒラギは道の折れ目で立ち止まり、ガウンからライターを取り出して、その表面に景色を反映させた。誰もいない。いや、無が微妙に揺れていた。存在を完璧に消してしまう魔法などないが、視覚情報だけならある程度まで液晶迷彩で誤魔化すことができる。

 ヒラギは銃を左手に持ち替えると、肩を乗り出して天井へ四発を撃ち込んだ。一発が白く同調していたオセロのような小型カメラを撃ち抜く。映像をリアルタイムに受け取って再生していた液晶のコートが元の黒色へと戻ったらしく、暗殺者の姿が真っ白な廊下に浮き彫りになった。既に窓枠に片足をかけている。ヒラギはすぐに銃を右手に戻し、それを両手で構える。三回トリガーを引いた時点で銃が弾切れを告げたが、暗殺者はそのまま窓から飛び降りた。どうやら防弾機能付き液晶コートというやたら特殊なものを着込んでいるらしかった。

 病室まで走ると、四人のうち三人はすでに息を引き取っていた。一人だけが淡い呼吸をしている。

「プログラムを見つけてくれ」、生き残りが言った。

「何のことだ?」

「プログラムだ、コイントス・プログ――」

 ヒラギは数秒たってから、人差し指と中指を束ねてその男の首筋に当ててみる。息は無かった。

 コイントス・プログラム? その冗談じみた名前のプログラムのせいでこいつらは命を落としたというのか。いや、確かその情報公開のために人質を取って立て籠もったとも話していた。プログラムとはいったい何なんだ?

 狙撃者は木の椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。狙撃者の部屋は郊外に位置する小高い丘の上にあり、遠くには街の中枢となる高層ビル群がぼんやりとかすんでいる。それよりも更に向こうで山際から姿を現す太陽はビルに削られ、ぎざぎざとした光をこちらへよこしていた。

 部屋は無表情であるが、侘びしいものではなかった。部屋の白い壁にはいくつかのパネルが掛けられ、棚には昔十五万円で買ったオーディオセットが置かれている。暗い色のクラシックギターも同じ棚に立てかけられていた。大きな観葉植物は緑色に光っており、それが放つ生気が部屋をいくらか明るくしていた。フローリングには若干の埃がかかっているが、質素なデスクは常に綺麗な状態を保たれている。

 机の上には一冊の薄い文庫本が置かれている。“ソクラテスの弁明”、英語版。表紙にはMartinとボールペンで走り書きされている。ずいぶんと古めかしい本、至るところに破れがあり、印刷自体も褪せ始めている。しかしシミや汚れはおよそ拭き取られていた。

 狙撃者はギターを手に取って同じ場所に腰掛ける。ずいぶんと軽いそのギターを左足の股に乗せて、親指の爪で優しく六本の弦を引き下ろした。三弦のペグを少しだけ回して調音をする。それが終わると、右手の指を弦の上で滑らせるようにしてアルペジオ、そしてマイナー調ともメジャー調ともつかない、スパニッシュタッチの曲を弾き始めた。

 数分が経つ。狙撃者は思い出したように立ち上がって携帯電話を手に取ると、ギターを元あったところに立てかけて、チャーリーへと電話をかけた。

「例の場所へ行こう」

「了解、すぐに車を出すよ」

「いや、いつもの場所で落ち合おう」

「分かった」

 挨拶もせず回線を落とし、次の番号へとかける。

「ちょっとばかし暴れる気はないかな」

「無い」

「嘘はよせよ、正直者」

「ある」

「しばらくしたら迎えに行く」

 狙撃者は携帯をジーンズのポケットに突っ込み、茶色いフライトジャケットを羽織った。音楽を消し、茶色いブーツを履いて外に出る。ドアを開けると冷気がどっと部屋に踏み込み、やがてそこへ居座った。

 ガレージの錆び付いたシャッターは持ち上げると悲鳴を上げる。狙撃者は三つの移動手段を均等に見て、自分の気分と照らし合わせた。一番左に置かれた平たい車には銀色のカバーが掛けられていて、それを持ち上げる気分とは言えない。その隣のコンパクトカーはそもそも気に入っていなかった。狙撃者はポケットから小さなキーを取り出すと、赤と黒でペイントされた大型バイクをガレージから引っ張り出した。自分が生まれるよりもずっと昔に販売され、二十年ほど前に生産終了となった、ひどく機嫌を損ねやすいバイクだった。

 バイパスを走り、セントラル・シティへと向かう。少しだけ地面から浮いたその道路の周りは、まるで堤防のような背の高いマンションに囲まれている。マンションの屋上にはほとんど例外なく企業の看板が設置され、至るところで文字がその存在を主張していた。全ての問題を言葉で解決しようと生涯を懸けた古代の哲学者たちも、二十五世紀もの歳月を経てソフィストが再来するとは想像さえしなかっただろう。

 待ち合わせ場所の公園は街から少し離れたところにあり、城跡を利用していることから少しばかりの高さを備えていた。狙撃者はバイクを公園の一端、セントラル・シティに面した一角へと停めた。十メートルほど下には水の流れる堀がある。バイクに軽く寄りかかって眺める街のビルたちは、空から色々な形の槍が降ってきて地面に突き刺さった、といった具合に見える。

「良い眺めだ」、チャーリーが後ろで言う。

「そう思うか」

「思うよ。これが人の求めていた姿なのか、そうでないのか。これが神に求められた姿なのか、あるいはその逆か。お前はそういうことを考える。けれど俺が考えるのは」

 狙撃者は振り返らずに、ビルの群れへと視線を投げている。

「俺が考えるのは、建築家がその強烈な個性を注ぎ込み、全身全霊でこいつらを完成させた時点で、こいつらも命ってやつを手に入れたんじゃないか、ってことさ」

 横目でチャーリーの方を見る。彼はポケットからライターを取り出して、口に咥えたタバコに火を点けるところだった。

「極論だな。物が個性を注ぎ込まれることによって生命を獲得する。俺ならその逆を考えただろうさ」

「お前らしいや」、チャーリーは笑った。「そろそろ行くか」

「三人は二十二口径で心臓を撃ち抜かれていたわ。残りの一人は、ナイフで同じく心臓の中心を突かれている。鑑識の調査によると、表面にざらざらとした塗装を施されたつや消し黒か何かの細いナイフが凶器だったみたい」

「了解。ありがとう」

「深入りしない方がいいわ、消されてしまう。それじゃあね」

「ああ」、電話を切る。

「気になることがいくつかあります」

 ヒラギの机の前に立っているのは隊員の一人だった。ヒラギはパソコンの画面から顔を上げると、是非聞かせてくれ、と言って立ち上がった。

「空いている机がある。そっちに座ろうじゃないか」

 二人は部屋の隅の方にある使用者のいない机を挟んで座った。窓から差し込んでいるはずの日光も届かない場所だ。若い隊員は机の上に何枚かの資料を広げて、ヒラギを見た。ヒラギはその資料を手に取り、紙の材質まで見抜いてしまいそうなほどゆっくりと、確実に資料を眺めた。

「狙撃者の目的がどこにあるか、考えていたんです。彼がわざわざエレベーターを止めたことが気になりましたので。それでエレベーターの防犯カメラに残された映像を念のため何日か分見てみたんですが、思わぬ人物たちが写っています。資料を」

 資料には一枚につき一枚の顔写真が載せられ、その下にプロフィールが書かれている。ヒラギは目を細めながら、その資料の一枚目に目を通した。同じように二枚目と三枚目を流し読む。

「先日狙撃された一人を含む三人は、輸出入の規制や調整を行う部署に携わる政治家。そしてもう一人は県警の重役です」

「大日が何かを密輸しているとしか思えないな、次の人物のことも考えると」

「ええ、こいつは決定的です。国内全土の密輸ルートを取り仕切る会“輸賛会”の会長。非常にわかりやすい」

「大日石油が扱っているのは鉱元だったか?」

「ええ、鉱元です。八年前に使用され始めた石油の代替エネルギー。実は特徴として、精製する際に、燃料気化爆弾を作るために生まれたような廃棄物が残る」

「なるほどそいつが鉱元の裏か。よし、お前はもう何人かを引き連れて大日の――」、ヒラギは五枚目の資料をめくり上げて固まった。左手で茶色い眼鏡のズレを直し、ほんのわずかな深呼吸をする。

「こいつがなぜ?」

 六枚目の男は、県警の重役ともマフィアのボスとも釣り合わない大物、半年前に爆発的にヒットした貯金型電子マネー“FAU”だけを商売とする会社の社長だった。そのカードは高い利息率や用途の多さを理由に十代や二十代の若者を中心とした強烈な指示を受け、瞬く間に国内一の電子マネーとなったものだ。今では国民の四十パーセントが利用していると言われている。

「わかりません。ただ一つ言えることは、こいつが関わっているとなれば、相当な大金が動いているはずです」

 ヒラギは眉間にしわを寄せ、宙の一点へ視線を合わせた。「つまり」

「狙撃者が注目させたかったのは人ではなく場所だったわけか。狙撃は大日石油に裏の動きがあると知った者によって、それを告発するために行われた。その可能性が高いわけだ」

 隊員は黙って頷く。しばらくの間沈黙があり、ヒラギはひとしきり考えにふけり終わってから口を開いた。

「全員集めよう」

メンバーは一時間足らずで全員集まった。ヒラギはいつもと同じ会議室で、同じ位置に立った。しかし、その表情に与えられたのは曇りのない確信だった。

「それぞれ調査を進めてくれていたところをすまないが、方針を変えようと思う。よく聞いてくれ」

 隊員たちは視線をヒラギに集め、ヒラギはそれに応えるように、隊員全員を見まわしていく。意図的な間が、五秒ほどとられる。

「隊員の一人が、狙撃者の目的をおよそ推測してくれた。要約して言うと、狙撃者の目的が大日石油の裏の動きを暴くためことだった可能性が高い」

 ヒラギは一通りの説明をした。

「次に起きる事件を推測する。それが仕事だ。当たりくじを掴む可能性は高いとは言えないが、糸くずほどの情報もない狙撃者を捕まえるには、現場を押さえるしかないだろう」、ヒラギはそう言い、楽しそうに付け足す。「オフィス勤めをお終いにできるぞ」

シマノはアイスコーヒーよりも冷たくなったコーヒーを飲み干すと、体を起こして湯沸かし場に行って新しい水をポットに入れ、火を点けた。結局一睡もしていなかったが、それについては特に気にしていなかった。シマノはもう少しで掴めそうな閃きに全神経をつぎ込んでいる。

 プロの狙撃者というのは求人誌に載っているような職業ではない。適性が必要な仕事なうえに、経験の有無がその腕を大きく左右する。しかも実力の無い者はその“経験”をしている最中に命を落としてしまう。つまり、情報は少ないがその代わり人数も少ないのが、狙撃者なのだ。

経験――。国内には長距離狙撃の練習場などほとんどない。まして対人の実戦経験となれば、国内で得るのは不可能だ。要するに、答えは海外にある。

思い出したように携帯電話を手に取り、国際電話をかける。長い呼び出し音の後に英語で返事があり、シマノは日本語で自分の名を名乗った。

「おお、シマノか」

相手はとっさに日本語へ切り替え、大げさなまでに嬉しそうな声でそう言った。受話器の向こうで古い友人からの電話を喜んでいる姿が目に見えるようだ。シマノは電話を片手にいつものシートに腰掛け、パソコンの画面を見ながらチーズを食べていた。

「聞きたいことがあるんだが」

「高いぞ」

「経費だ。狙撃の訓練をできる場所はあるか?」

電話の向こうの相手は笑った。

「ここだよ。傭兵部隊以上に素晴らしいところは無い。それで? またどうしてそんなことを。目覚めたか?」

「経費だと言ったぞ。ちなみに、ボルトアクションライフルを使って射程距離外の狙撃をするような間抜けな狙撃者を知らないか?」

「知っているよ。ボルトアクションライフルを使って射程距離外の狙撃をするような間抜けな日本人狙撃者が二年前にここ――米国傭兵部隊を去って帰国した。M700を密輸ルートで運び込む手配をした後にね」

まいった、という表情をシマノは作った。それからこれが推理小説ならどれだけつまらない話になるだろうかと考えた。答えにたどり着くまでもう少し回り道するのが、正当なやり方だ。

「詳しく教えてくれ」、シマノはそう言うと、チーズを机の上に置いた。

 二人の男が立っていた。一人は平均的な身長で肩幅が広く、茶色いフライトジャケットを着ていた。もう一人はそれよりもやや低い身長をしており、全体的にも小柄で、文字がプリントされた長袖シャツとコート、ダメージの入ったジーンズという格好だ。短めにカットされた髪の毛と黒く焼けた肌は、狙撃者とずいぶん異なった印象を与える。彼は短距離走の似合う男だった。

 二人がいるのは大きな工場の敷地の入り口だった。大日石油・機械製造工場と掘られた金属のプレートがある。工場の周囲を囲う壁は高く、天辺には焦げ茶色の有刺鉄線が渦巻いている。それはまるで何かの軍事施設のようだった。

 茶色が呼び出しベルを押した。入り口の扉もまた有刺鉄線と同じように隅から隅まで錆びている。しばらくすると扉の向こうから金属がぶつかり合う音が聞こえ、扉が開き、小太りの警備員が出てきた。

「やあ」、と狙撃者が言った。出てきた警備員は眉間にしわを寄せて、二人の顔を交互に見た。面白くもない天然記念物を見るような目つきだった。

「なんだお前らは?」

「水道管の修理屋」

「お前らがか?」

 警備員がそう言うと、狙撃者は隣にいる男と顔だけ向き合わせた。お互い水道管を修理する人間とはほど遠い服装をしている。

「嘘吐くときは一貫性が肝心らしいぞ」

「嘘は良くない」、正直者が言った。

 狙撃者はもう一度前を向き、言った。

「テロリストだよ、だめだぜ迂闊に扉を開けちゃあ」

 警備員はすぐに目をかっと開き、次の瞬間に腰のホルスターから中型のハンドガンを抜いた。狙撃者は瞬時に一歩身を引き、風切り音と共に右足を振り上げて斜め上から拳銃を蹴り落とすと、そのまま体を回転させ、今度は相手の首筋に左足のかかとを勢いよく落とした。

「軽やかなステップだ」

「昔ジャズダンスを習ってた友人がいてね、そいつの言うとおりにしたのさ」、狙撃者はそれだけ言うと、真剣な顔つきに戻った。「行ってくれ、正直者」

 正直者は狙撃者の声を聞くとすぐに警備員の上を飛び越え、それから一度立ち止まった。姿勢を低くしたうで重心を前へと持って行き、足の親指の付け根に体重を乗せる。正直者が全力で走るときに必ず行う動作だ。

 正直者は一瞬にして姿を消す。おそらく常人には考えられない速さのはずだ。狙撃者はそれなりの速さで駆け出すと、工場の建物へと飛び込んだ。

「やつはズレた時計を自然と正しちまう、規格外の歯車みたいなやつだった」

 友人はその一言に始まりを与え、記憶を辿るようにゆっくりと昔話を始めた。

「八年前にここ、米国傭兵部隊へと入隊した。日本人はもともと一人しかいなかったから、それなりな話題にはなった。やつがでくの坊なM700を買って、常にそいつに手を入れていたこともね」

電話を介して聞こえてくる話し声からは懐かしさと畏敬の念が滲み出ていた。何かしら特別な思いや記憶があることを確かにする声だ。

「誰もが馬鹿にしたよ、そのろくでもない銃を。しかし狙撃者は気にかけていないようだった。そういう状況で、初の任務が与えられた。誰も彼もやつがすぐに死んじまうと思いこんでいた。何しろ、与えられた任務は素人が生き抜けるような代物じゃなかったんだよ。当時革命真っ盛りのアフリカ新興国で、か弱い新政府に味方するっていう内容さ」

シマノはパソコンの画面を見るのもやめ、リクライニングシートを倒して横になった。

「戦いは意外なまでに上手く行った。しかし戦っていくうちに、新政府つう響きの良い組織の裏で何が起きているのかを、俺たちは目の当たりにするようになった。つまり、新政府と呼ばれた組織のトップが一人の武器商人だったんだよ。武器を大量に売るために人民を操作し――つまり旧政府を悪者にしたて上げ、革命を起したってことを、傭兵が知ってしまったんだ」

 工場の内部には十数人の武装した警備員と、同じだけの技術者がいた。多くのものが機械化されていて、アリーナ三つ分ほどの建物内にはS字を描く蛇のようなベルトコンベアーが通っている。その上を流れるのは、おそらく鉱元を精製するための機械だ。

「そこで何をしている」

 後ろから声がした。表面的な凄みを利かせた声に、狙撃者は振り返りもしない。

「どこを爆破しようか考えていたんだよ、お前さん。手伝ってくれたら後で旨いパエリア食わせてやるぞ」

「ふざけたことを言うな。お前はいったい――」

 狙撃者は右手で腰につけたホルスターを探り、ひんやりとした中型ハンドガン――M92Fのグリップを握った。これもまた、M700と同じ年代物だ。

「自分が何者かなんて、まるで興味が無くてね」

 狙撃者は親指でホルスターの留め具を払い、人差し指でセイフティを降ろしながら拳銃を抜き、同時に振り返ってその銃口を警備員の額に突きつけた。視線をそらすことなく相手の無線機を手に取る。

「警察を呼べ」

「そんなことは傭兵にとっちゃ関係の無い話だった。俺たちは金のために働いているんだからな。しかし、やつはそれを見過ごすことに強く反発した。周りのやつは嘲笑したよ。どうせ運で生き残った人間のくせに戯言を言うな、と」

 相手は話の所々で意味深な空白を作る。その度にシマノの頭の中でぼんやりとした若い狙撃者が、話の内容を映像として復唱した。

「そこで終わればあいつはただの、正義に溺れた若造だった。だがあいつは同じ考えを持っていたもう一人の日本人を連れ、たった二人で武器商人の屋敷へと殴り込みに行った。聞いた話によると、M700に馬鹿でかい消音器を着けて夜の闇に溶け込み、屋敷の護衛を片っ端から片付けちまったんだと。やつが八〇〇メートルもの距離から暗視スコープで狙撃をし、場所が悪い場合は相棒が素手で倒していく。全員を消したところで屋敷に飛び込み、ブランデーグラス片手に逃げ場を探していた武器商人に銃を突きつけた」

「コイントス・プログラム?」

「聞いたことないか」

「ありませんね」

「人をどうにかしてしまうらしい」

「人をどうにかしてしまうって、時計がズレるみたいに壊れてしまうってことですかね?」

「そういうことかもしれない」、ヒラギはそう言うと疲れの滲んだ笑みを浮かべた。沈黙が訪れたが、ほどなく携帯電話が鳴り始めた。ジーンズの右ポケットからそれを抜き取り、通話ボタンを押す。何度か返事をして、切る。

「全員を装備Aで輸送車に集合させてくれ」

 ヒラギは隣にいる隊員に向かって囁く。六枚の資料を提出した、若く勘の良い隊員だ。

「狙撃者がまた現れた。場所は大日石油の工場、お前さんに隊長の座を譲りたいぜ」

 若い隊員は笑った。ヒラギも同じように笑い、くるりと向きを変えて走った。

 狙撃者が目の前の男へと鋭いボディブローを入れると、ほとんど時を同じくして正直者からの無線が入った。

「やっぱり地下はお菓子工場じゃない。厳重な警備と共に大量の鉱元兵器が製造されてる。こいつらスーパーに出庫するつもりだ」

「オーケー、動画を撮ってそこを出てくれ。後で買い物に行こう」

「もう出た。しかし時間がかかる、少しの間上の連中と遊んでいてくれ」

目を細めて肩をすぼめると、辺りを見回した。ベルトコンベアーの向こう側から、十数名の警備員が走ってきている。狙撃者は音を立てて地面を蹴り、一番近くにあった大きなコンテナへと飛び込んだ。腰に着けた缶コーラほどの大きさの筒を手に取ると、耳に音量調節器を着けてから丸いピンを引き抜いた。五秒ほど待ち、相手が十分に近寄ったところで高らかに放り投げた。グレネードは空中で炸裂する。爆発は無く、その代わりに調節器を介しても耳に届くような轟音と足下で雷が起こったような閃光が空間を歪ませ、相手を戦闘不能にした。三十分は意識を取り戻さないはずだ。

「チャーリー」

「お待ちかねだ」

 長身の男が大儀そうに立ち上がった。長い髪の毛はワックスで跳ね上げられていて、顔立ちも大体整っていた。黒いトレンチコートの下にはワイシャツ、ズボンは黒だ。

 チャーリーはケースから妙なライフルを取り出した。一見すればそれは一世代前のドイツ製突撃銃だが、弾倉はメディカルキットの箱のように大きく、銃の上部には左手で支えるための取手が付いている。

「良いかチャーリー、お前の仕事はあくまで足止めだぞ。いくら傭兵上がりのお前さんとアホくさいG3ライフルがあっても、治安維持部隊の連中を相手にするのは無理がある」

「分かっているよ、オールド・フレンド。俺は無茶をしない男だ」

「そのようだな」

 チャーリーは大げさなまでにはっきりとした笑みを作ると、ライフルの左前に突きだしたレバーを引いた。大きな音を立てて弾が装填されたのを確認し、セイフティをフルオートへ切り替える。

 窓の外に広がるのは、背の低いスラムのような住宅街だ。屋根も壁も全てまとめて埃に覆われ、継ぎ接ぎに修理された屋根は血のように赤黒い。所々に干された洗濯物がそこを生きている街だと証し、同時に枯れ果てた植木がその絶望を物語っている。その中を突き抜ける一本の道を、大きな車が一台進んでいた。

チャーリーは六〇〇メートルほど離れたその車と照準を重ねると、ライフルをしっかりと構え、トリガーを引いた。轟音と共に雨粒のような薬莢が右へ飛び、同時に音速を超えるスピードの弾頭が次々と輸送車へ吸い込まれていく。銃の先が強烈な力で跳ね上がり、チャーリーはそれを全身全霊で押さえつける。十数秒がして、連射が止まる。最後の銃声が何度か空中でこだまし、それが終わると部屋の中でからからと薬莢が跳ね回る音がした。輸送車はほとんど無傷だった。しかしタイヤはその強襲に負け、その場でやるせなく沈んだようだ。

すぐにライフルをケースへとしまい、部屋を出る。階段を駆け下り、車に乗り込んでアクセルを踏み込んだ。五分ほど全速力で車を走らせ、ある程度離れた集合駐車場に車を停めた。

「やつはトリガーを引いた。そして、応援が駆けつける前に姿を消した。新政府軍が瓦解した日を覚えているな。あれはその武器商人が死んだことで抑圧されていた意見が解放され、新政府が不要であるとされたために起きたことだ。――つまりやつともう一人の日本人は、陰で紛争を解決しちまったんだよ」

 狙撃者は工場の前で正直者と合流し、金属の扉を出た。小太りの警備員は未だに気絶したままで、死んだように横たわっている。

「チャーリー、どこだ?」

「アメリカ本国に戻ったところだよ」

「飛行機をハイジャックして戻って来い。今から幹線まで歩き出るから、颯爽と拾えよ」

「はいよ」

 狙撃者は正直者と共に折り重なった住宅の屋根の下を歩きながら、大通りを目指した。そこは一昔前にスラムと呼ばれていたものそのものだが、呼び名は旧住宅街となっている。スラムと名付けるには増えすぎているわけだ。

「きつい暮らしだ」、と正直者が言った。狙撃者は頷き、辺りを一通り見まわす。路地裏には酒の缶やらよく分からないねじやらが星の数ほど落ちていた。どこからこんなものを集めてくるんだ、と思えるような粗大ゴミもある。

「建物なんか、ガキの頃にいとこと作った小屋よりもぼろい」、と狙撃者は言い、静かに付け足した。

「それでも住んでいるのはまともな人間なんだよ」

「俺には分からない」、正直者が小さく首を振る。

「ここに暮らしている人間のほとんどは数年前まで、まともな会社で必死にはたらく社員だった。安い給料でなんとかやりとりしていたわけだ。しかし二〇一二年、つまり九年前にある事件が起きた」

「職に就かない者らによるデモ。俺たちとほとんど同年代のやつらが主体となった」

「そう。職に就くことを嫌がった若者たちが、その理由を社会の制度による無気力感だとし、勉学のために奨励金を出すように要求した。政府は法人税を繰り上げし、それに応じた。もちろん要求をした若者たちはそれらを遊戯のために使ったから、経済自体はまわった。しかし収益が変化しにくく規模の小さい企業はそのまま潰れていったんだ。そこで働いていた人々が――」、狙撃者はそう言うと、もう一度辺りを見まわした。

「ここに住んでいるってわけか」

「彼らは今でも、赤茶色のトタン屋根の下で仕事を探し続けている。自分が学生時代に必死になって身につけた技術を生かせる職場をね。しかしそれが見つかる可能性は少ない」

 正直者は無表情に何度か頷く。そして言った。

「お前は少々感傷的になり過ぎだ」

「そうかもしれない。だが、そうでないかもしれない」、狙撃者は鼻で笑う。

丁度そのとき文明の裏側は表面的な姿を消し、細い路地は大通りへと突き当たった。

 部隊が工場に到着したとき、そこは北極のように静まりかえっていた。ヒラギは倒れた警備員が気絶しているだけであることを確認すると、救急車を呼び、中へと進んだ。工場の中も状況は同じだ。コンベアーは緊急停止しているが、どこかで火事が起きているわけでもないし、見たところほとんどの物は通常通りの状態を維持している。ただし、中にいる人間は全員、地面に倒れていた。

「スタン・グレネードだ」、ヒラギはそう言いながら、工場の中心辺りで腰をかがめた。小さな黒い金属の破片を拾い上げ、それを光にかざす。壁に設けられたガラス窓は曇りの入った物で、十分な光を取り込まない。ヒラギは諦めてそれをポケットにしまった。

「ヒラギさん、防犯カメラに映像は残っていませんでした。どうやらケーブルレスであることを知っていて、妨害電波を飛ばしたようです」

「十数名に警備員はいずれも気絶しているだけです。救急車はもう少しで到着します」

 隊員たちが次々と報告をする。その度に一つの疑問が大きく膨らんでいく。手の込んだ侵入をしたわりには、特に何もしていない。わざわざここへやってきて、警察に連絡させただけだ。

……警察に連絡させた?

「銃の持った男が一人侵入し、人質を取って警察を呼ぶことを要求している。そう連絡が入った」、ヒラギは近くにいた隊員に言った。

「そのようですね」

「しかし、俺らは一応警察じゃない」

「はあ。どうして治安維持部隊直通の電話が分かったのでしょうね。ほとんどの一般人――それどころか警察官でさえここへの連絡手段を知らないのに」

「誰かに教えられていたってことだな。しかも、緊急連絡先は警察ではなく治安維持部隊である必要があった」

 ヒラギはそう言うと、ひとしきり工場内を見渡した。そして日の当たらない一角に小さな階段があることに気がついた。

「階段の下は?」

「さあ、見取り図を渡されましたが、地下があるとは書かれていませんでしたよ」

 隊員はそう言うと、同じように階段の方を見た。

「狙撃者は俺たちに、あの階段の下を見せようとしたのか」

 辻褄が合った。先日の事件を、告発を目的としたものとすれば、今自分たちに求められていることは、この工場を隅から隅まで調べ尽くすことだ。

「ご苦労だった」

 不意に工場の入り口の方から大きな声が響く。

「後は任せてくれ。現場の鎮圧はお前らの仕事だが、調査は俺たちが行う。さあ外へ出ろ」

 紺色の制服を着た男が数十人、一斉に流れ込んでくる。それぞれ似たり寄ったりの顔をしていて、例外なく白い手袋をしていた。隊員たちがヒラギに素早い視線を走らせる。

「引き上げるよ、今日のところは」、とヒラギは言った。目を細め、腑に落ちないチームの指揮をしているだろう男を睨み付ける。それは体格の良い、ヒラギと同じくらいの年齢の不気味な男だった。表情は常にわずかな笑みを刻み、目にはこれといって光がない。男は嘲けるように口元をつり上げると、顎で出口を指し示した。

 そうして工場は、封鎖された。

「まったく、亀と高飛びで勝負するような仕事だったぜ」

 チャーリーはふてくさったように言った。右手でタバコとハンドルを支えながら、もう一方の手で缶コーラを飲んでいる。残りの二人は後部座席に座っていた。

「成果も出るかどうか」、正直者はそう言ったが、声は楽しそうだった。

「揉み消されたら例の動画を上手く使おう。とりあえずは待ちだ」、狙撃者はそう言うと、いつものようにシートへ深く身を沈めた。それからゆえもなく、五年以上も前の自分を思い出した。

「やつの話はそこから始まったわけだ」

自分と異なる道で名を馳せた英雄の話は、非常に興味深いものであった。ある意味では非常に身近なものにも思えるし、逆に遠い世界の話であるように思うこともできる。シマノはいつの間にか遅くなっていた呼吸のペースを取り戻すように深呼吸をし、口を開いた。

「――それで、狙撃者の本名は?」

沈黙が姿を現す。友人が電話の向こうで深呼吸をしたのが分かった。

「なあシマノ」

「どうした」

「やつはその後、なんども俺たちの命を救った。直接的ではないが、やつの生き方が俺たちに生気を与えたんだ」

「気持ちは分からないでもない」

「頼みがある。お前が探しているということはやつが法を敵にまわしたんだろうが、恐らく何か考えがあるはずだ。その考えが何かを調べてくれ。いくら法律とはいえ、全てにおいてユニバーサルに働かせすぎると、取り返しのつかない失敗をしかねない」

シマノは黙った。敵味方の基準が偏った視点で定められたものであるとするならば、敵が何を考えているかを理解する必要がある。友人の言うことはもっともだった。

電話の相手がもう一度深呼吸をする。

 銃声が響くジャングル、砂の他に何もない荒地。狙撃者はそう言ったものをさんざん見てきた。しかしほとんどの記憶は色褪せ、その鮮度を失っている。さらに時代を巻き戻し、自分が傭兵部隊に入る前の記憶を探る。

 そこには油絵よりも色鮮やかな、一人の男に関する記憶があった。なぜ今になってその男のことを思い出したのかはわからない。ただ、その記憶は全くもって鮮明だった。

「サキオリだ。下の名前は名乗っていない」

無意識にコンロの火を消し、コーヒー豆を袋に戻す。

「俺は法律に全ての判断を売ったわけじゃない。どこに正義があるのか、確かめてみるのも悪くないだろ。それに、嫌な過去を消しさるチャンスなんだ」

シマノはそう言うと、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「よく分からないね」、と相手は言った。

「もう一つ、あいつが除隊するときの話をしよう。ヒントになるかもしれない」

 第二章

「それで?」、とチャーリーは口を開いた。その声は広大な自然の中で、宙に放り出されたバトミントンの羽のように響いた。とてつもなく明るい朝の光が声を掴み消してしまったかのようだ。

 射撃場は山の奥深くにあり、そこは脳みそが凍りつくほど寒い場所だった。木々は緑の葉をとっくに手放し、これから訪れる非情な季節に耐えるための準備を着々と進めていた。

「国民文化祭ってのは、いつなんだ?」

「バナナフィッシュにうってつけの日」、狙撃者が言った。正直者は呆れたように肩をすぼめ、明後日だと言った。

狙撃者はボルトを引き、ロングレンジ専用に特注した銃弾をM700へ込めた。ゆっくりとハンドルを押し戻し、焦りのカケラもないスムーズな動きでライフルを構えると、二脚を開いて木の台に固定した。手に吸い付くような形のストック、ほんのわずかなズレさえも許さずに調整したスコープ。射撃に特化した普段とは異なる意識、集中力。

とりあえず必要なものは全て揃っていた。問題は、ターゲットが遠すぎることだけだった。十八倍に設定した巨大なスコープを通しても、ターゲットはマッチ棒の先ほどにしか見えない。

距離があるということは、実に沢山のものを敵にまわすことを意味している。すなわち、ほとんど全てが邪魔になるのだ。風はもちろん温度や湿度、空気中のチリ。そしてありとあらゆる不確定要素。挙げ始めれば三部作の長編小説が完成するだろう。

狙撃者は呼吸に合わせて上下する十字線を、ターゲットに重ねた。

「前回みたいに動くターゲットを動きながら撃てとは言わない。ただとてつもなく厳重な警備をなんとかして避ければ良い。さて、当日の環境について。高さの違うビルが連なっていることから突風の可能性がある。また、ターゲットとの高低差より斜め下を狙わなければならない。影響は分かるな?」

狙撃者は十字線を少し上へ持ち上げると、心肺以外の全ての動きを沈めた。キレ良いことの代償として重さに取り憑かれた引きを感じながら、トリガーへ掛けた人差し指に力を込める。撃針の落ちるすぐ手前の一点で位置を保つ。ゆっくりと、ごくゆっくりと空気を吸い込み、それが止まったところでトリガーを切った。

「悪くない」

隣に座っていた正直者は、ライフルの向けられた先を見ながら言った。視線の先には広い空間があるだけであり、つまり正直者はこれだけの直線距離を持つ射撃場があることに対して感動しているのだった。狙撃者は大きな観測用のスコープを覗いて、金属の板でできた人型ターゲットの頭部に穴が開いているのを確認した。もっとも、着弾時に大きな激突音を放ったために命中したことはわかっていた。狙撃者はなんでもないように立ち上がると、口を開く。

「腕があれば閻魔大王も今までの罪を許してくれるからな」

「馬鹿」

「天国でも長距離狙撃の需要はあるんだよ」

「おーいサキオリ、正直者。俺はそろそろ行くぜ、例の作業を行わなきゃならんからな」

 チャーリーはそう言うと、なまけもののようにゆっくりと立ち上がった。キャンプ用のアルミテーブルから車のキーを取り、ポケットに滑らせる。狙撃者はすばやく右手を持ち上げると、会釈した。

「夜九時にいつもの場所だ」

「分かっているよ、オールド・フレンド。了解済みさ」

「夜九時に家を出るんじゃないぞ、スラギッシュ・フレンド?」

「コピー、アンドペースト」

 テレビが幼少期の子供のように騒ぎ立てている。液晶の下におまけ程度で取り付けられたスピーカーは耐えかねて、その新鮮な雑音をぼんやりとしたベールで包んだ。少なくともそう聞こえた。

 いくらか痩せすぎていて身長の高い男が、紅茶の入ったマグカップをテーブルへ置いた。ティーバッグが長らく浸かったままになっているせいで、色はコーヒーのように濃い。男の着ている丸首のシャツは無地の灰色で、全体に細かいシワが這っていた。干すときにしっかりと伸ばさなかったのだ。そもそも今となって外に衣服を干すのは、高性能化と共に値上げした乾燥機を買えないもしくは買わない一部の人間だけである。

 男は一度だけテーブルを爪で叩き、椅子を引いて立ち上がると、テレビへと歩み寄った。

ハヤマはニュースというものにうんざりしていた。朝起きれば何かが変わっているんじゃないかと期待しても、ニュースの内容は同じ、変わっているのは曜日だけなのだ。しかしそんなことを思いながらも、自分がペーパーメディアのしなびた生き残り、つまり週刊誌のライターをしていることはすでに、できの悪い皮肉でしかない。

 ハヤマは教卓の天板ほどの大きさのテレビを前に、大きくため息をついた。それからその上部を左手で掴んでゆっくりとかがみ込み、電源を落とそうとして固まった。そのとき始めてニュースの内容が耳に入ったのだ。

「フォーオールユーズが倒産」、テレビの中の男は、それをやたらと繰り返していた。声はその男が着ているワイシャツと同じくらいパリパリとしていた。フォーオールユーズ? ハヤマは目を閉じ、また開き、それから急いでしゃがみ込み、画面のテロップを睨み付けた。

 三文字のアルファベット、略語。FAU――国内でトップの電子マネーだ。自分も丁度一〇〇万を入金している。いや、利息のおかげで一〇五万にはなっているか。

 ハヤマはひとしきりそんなことを考えたあとで、倒産という文字の持つ意味を考えた。それは間違いなく倒産という意味を持っていた。

 テレビの画面が細かく揺れていて、それが自分の手の震えだと気がついたときにはおよそ一分が経っていた。テレビは未だに同じことを繰り返し続けている。

 落ち着けよ、落ち着け。例え倒産したのだとしても、金がそっくりそのまま消えてしまうわけではない。というかそもそも、こいつはどうして倒産したんだ?

 ハヤマは浅い深呼吸を三回した後テーブルへ戻り、ゆっくりと腰掛けた。波紋の浮かんだ味のない紅茶を口へと運び、テレビへ視線を落ち着ける。

「倒産の原因は、今朝早くFAUカードの預金情報がテロリストによって破壊されたこととされています。情報が破壊されたことで預金の所持者がわからなくなり、それらを返却するのは今のところ不可能とされています。警察はこれを企業テロとして捜査を開始していますが、一方で自作自演ではないかという声も挙がっており――」

 マグカップを持った右手が行き場を失ったように宙に留まる。心臓の立てる大きな音は焦りとも怒りともつかぬリズムを、不規則に打ち続けていた。

 図書館に出向いたのは間違いだった。しばらくこういった地道な調査をしていなかったからか、本というものが二〇二〇年以来ほとんど出版されていないということをすっかりと忘れていた。つまりここ二年間にあたらしく生まれた情報は、電子データとしてしか存在していないのだ。

「お探しのものは見つかりました?」、図書館のスタッフが言った。おそらくバイトの大学生だろう、自分よりも十歳ほど若い。ミドルカットの髪は濃い茶色で、チノパンに白いブラウス。背丈は平均よりも少し低かった。おまけに痩せているため、背が低いというよりも小さいと言う言葉が似合う。

「見つからないが、一つ分かった。どうやら探し物はここ二年で生まれたものらしい」

「なるほどねえ。それではネットの利用を手配致しましょうか?」

「いや、会社で使うよ」

「でも」、とスタッフは言う。「図書館のパソコンと一般のパソコンではネットが異なるんですよ」

「ネットが異なる?」

「ええ。オーソリテイティブ・ネットと言って、著者や出典の明記された情報だけを共有しています。ネット時代に入り、権利と責任の原則が失われてしまいましたよね。つまり、発言をする自由を得る代わりに、その発言に対して責任を負うという不文律です。出版という形で情報を紙媒体に保存する場合、コストや手間が掛かりますが、そのおかげで情報が淘汰されます。しかしネットが主流となった今、気まぐれの発言でも大統領の演説でも、全てが平等な価値を持った情報として、無秩序に記録されるようになりました。オーソリテイティブ・ネットは元来本として扱われてきたような、責任によって裏付けられた情報だけを検索できるようにと開発されました」

 ヒラギは目を細めて、眼鏡越しにそのスタッフの目をのぞき込んだ。

「詳しいな」

「大学で専攻なんです」

「ネットを貸してもらいたくなった」

「ありがとうございます」

「いや、待ってくれ」、ヒラギはネットルームへ案内しようと背を向けたスタッフを呼び止めた。「そこのカフェテリアでコーヒーをおごる。いくつか聞きたいことがあるんだ」

「それまでの生活を詳しく調べてみなければ分かりませんが、そういったケースなら、ネットの影響が全く無い、ということはないでしょう」

彼女はコトと名乗った。通っている大学は国内でも五本の指に入る名門国立大学、とは言えないが、指がもう十本あればランクインしそうな二流大学だった。しかし彼女の脳は非常に明晰で、知識と思考力を両立できている今時珍しいタイプの大学生と言えた。

「少年がすぐに相手を斬りつけたのは、その行動によって自分がどういった責任を負うことになるか、理解できていなかったからでしょう。小さい頃からネットの世界に没頭していると、そのようになりがちです。ネット上に存在するものは全て、奥行きのない、平面的な世界です。つまりそこにどんないたずらをしようと、二次的な影響は出ない。少年はその仮想現実の中で、可塑的、立体的な現実において形成されるべき人格を独りでに形作ってしまう。悪口を言われたら言い返す、気に入らないものは平気で誹謗中傷する」

「その、平面やら立体やらというのがよく分からない」

「一時の喜怒哀楽、長い因果関係のもとに成り立つ喜怒哀楽。前者を平面的感情指向、後者を立体的感情指向と、私がレポートの中で名付けました。これは同時に、二面か多面か、ということも示します。快と不快で判断をしてしまうか、あるいは他の選択肢を持ってこれるか」

「なるほど」、ヒラギは何度かうなずき、薄く湯気の立つコーヒーを一口すすった。「そのような人間は千人以上も発生し得るのか?」

 コトは数秒の沈黙を経て、再び口を開く。

「尋常なことではありません。人格を仮想現実の中で形成してしまうような子供はそう多くないはず。そういう子供って、三歳までの人格形成期と呼ばれる成長の第一歩で何らかの問題を受けている場合が多いんです。千人も、となるともっと別の可能性の方が有力になるでしょうね」

「別の可能性?」

「情報……情報自体にそういう傾向があるって可能性が高いような気がします」

「つまり、何かから影響を受けて、そういった人格が形成されると」

「そういうことです」

「だが人には個性がある、同じようになれるとは思わないんだが」

「なり得るんですよ」、コトはそう言ってずっと手に持ったままの白いカップを口元に持って行き、コーヒーを啜った。それから周りをひとしきり見回し、その視線がヒラギに戻ってきた辺りで話を再開する。

「人間はアメーバとは違い、有性生殖をします。それはそれぞれに個性を生じさせ、危機に直面しても誰かが生き残れるように、という目的で埋め込まれた、種を継続するためのプログラムです。たしかに人は生まれながら個性を持ちますよね。けれどそれが全てではない。親に育てられながら、異なる価値観を持った友だちと遊びながらそれを完成させていく」、そこに、と言って話にスラッシュを入れる。

「ネットが登場しました。子供たちは友人と遊ぶことよりもネットを選ぶ。親は子育てと仕事を両立するために、子供をネットに預ける。ネットが子供たちの親となるんです。でも、ネットで共有されている情報は、多かれ少なかれ画一化されている」

「多く子供たちが同じ親に育てられている」

「そういうことです。子供たちの価値観や性格も、画一化される。千人という数の人々が同じような犯罪を起こした、というのもある程度納得がいきます」

 ヒラギはまた、何度か頷く。もう一度コーヒーを啜ろうとしたところで携帯が鳴った。

「ありがとう、非常に興味深い話だった」

「いえいえ、私も自分の意見を人に伝えることが好きで。そうだ、連絡先を渡しておくから、何かあったら」

 コトはそう言って、小さな使い捨てメモリーをヒラギに手渡す。

「恩に着るよ」、ヒラギはそう言って微笑み、コーヒーの勘定をテーブルに置くと、出口の方に向かって歩きながら通話ボタンを押した。

ハヤマがアパートを出ると、熊の毛皮みたいなコートにすっぽりと身をくるんだ間抜けな人々が、地面を眺めながらせかせかと歩いていた。間抜けなデザインの車が間抜けな街を走り抜け、力の抜けるような絵を演出している。

足取りは重かった。消滅した一〇〇万以上の貯金のことを考えると、毎日の仕事なんてものひどく滑稽なものに思えた。それにその仕事の内容はひどく退屈で、給料はお世辞にも良いとは言えない。

 遠くで爆発が起きたらしい。無人の消防ヘリが頭上を飛び去っていく。これは生活に支障を来す事件が発生した後に必ず見られる景色だった。記事にもなれない些細な事件たちだ、いつもならそう言ってやっただろう。だが……。

 あいつらは人の生活をなんだと思っているんだ? 確かに一〇〇万なんてものは企業から見たら屑みたいな貯金かもしれない。しかし地道に働いている人間からすれば、それはとてつもなく大きな金額、いや、努力の塊なのだ。

 突然自分がひどくちっぽけな、金属製の部品のように思えた。円形で、周りがぎざぎざとしている、あのパーツだ。しかも欠けると全体が止まる、といった部分ではない。

「ハヤマ」、名前が呼ばれたような気がした。立ち止まったのは、短く大きな橋の上だった。四車線道路の脇、広い歩道には、フリーマーケットのように露店が並んでいる。ハヤマは足下に視線を落とした。

「あんたが欲しいのはこれじゃないのかね」、浮浪者のような男が、ブルーシートの上に置かれた黒い何かを指さす。ぼやけて現実感を失った視界がやっとのことで焦点を合わせたとき、それが拳銃だということが分かった。

「銃なんて、どうするっていうんだ。脅せる人間は小銭の一枚も持っていないし、大金の入った財布の口を閉めている人間はこんな下町には出てこない」

「違う、違う。あんたは選ばれた人間さあ。苦しみのない自由な世界に行く権利を持っている。できるだけたくさんの人間を一緒に連れて、こんなろくでもない世界から抜け出すんだ。たくさんの人間を一緒に連れて行ければ、あんたは英雄だぞ」

 目眩、視界が白くフェードアウトしていく。しっかりとしたままの皮膚感覚が、ひんやりとした金属との接触を告げる。「あんたは英雄だ」

 フェードイン。ハヤマは掴まされた拳銃の引き金を引こうとして、止めた。自分の手が、思ったよりも白く見えたのだ。

 銃をその場に置く。厄介な代物を渡した不吉な男は、何も言わずにハヤマを見返した。ハヤマは目を逸らす。辺りを見回しても、こちらを気に掛ける人は一人も見あたらなかった。隣では靴磨きをする子供たちが三人並んで客を待つ。その反対側では自分と同じくらいの青年が変革についての歌を歌っている。

「FAUの倒産も、狙撃者グループの仕業なのでしょうか?」

「わからない。M700を使ってアナクロな狙撃をしたり直接敵地に乗り込んだりといったものとはまったく性質が異なる事件だ。しかしそれでいて、FAUというところで微妙な共通点もある、微妙なところだ。いずれにしろ、FAUにクラッキングをかけられるほどの能力を持つというのはただ者じゃない。国宝級のハッカーだよ」

 ヒラギはそう言うと、眉間にしわを寄せながらパソコンの画面をのぞき込んだ。ネット上では今回の件で生活を失った哀れな若者や、連なって倒産した企業についての記事が国民の同情を寄せ集めている。

「大日との関連性を掴んでいる者はいないようですね、今のところ」

 隣のデスクで同じくパソコンを操作する隊員が言う。

「俺たちにしても、予想に過ぎないがな。国民の四十パーセントはパニックを起こしたままだ、ここで大日の話が持ち上がったら、これまたひどいことになるな。」

「つまり」

「次に狙撃者が出る行動がいくらか特定されてくるだろう」、ヒラギはそう言って小型無線の電源を入れた。

「知っていると思うがFAUの顧客情報がクラッキングされた。俺たちがそれについて調べるというのは酷な話だ、調査は情報課に一括することにした。俺たちがすることは、次の狙撃を食い止めることだ。ターゲットは大日社長であると断定しよう。次の狙撃が起きる可能性のある状況を予想し、各人思うがままに調査をしてくれ。食らいついたら離れるなよ」

 通信を終わる。あとはそれぞれの判断に任せればいい、自分も現場に出るべきだろう。ヒラギがそういったやり方をできるのも隊員全員が有能で、また個性的な者だからだった。一人一人が持ち合わせる視点は違うから、それだけ多面的に事件を見ることができるのだ。少数精鋭の場合つまらない制約で動きを縛るのは得策ではない。

 何度かまばたきをして眼鏡の下から目を押さえると、インターネットブラウザを閉じようとした。しかしその瞬間に画面がせわしく切り替わり始める。しばらくして、一つのページに落ち着いた。

「大日石油とFAUに裏のつながり。FAUが資金を集め、大日石油が鉱元兵器を製造、輸出――」

 ヒラギはゆっくりと、携帯電話をポケットから抜いた。

「そんな長距離の射撃をしてどうすんだね? 若きお二人さん」

声がして始めて老人の存在に気がついた。よろよろと歩いているわりに、足音が無い。外見は八十歳を超えた老人だが、その動きには違和感がある。

「暗殺の練習だよ」、狙撃者はそう返事した。年老いた射撃場の管理人は納得したように何度か頷きながら、近くにあったアルミの丸い椅子へと座った。

「まったく、若い衆は元気で良い」

「希望なんていう安っぽい概念が未だに根付いているのさ」

狙撃者の言葉に、老人は寂しく笑う。

「そして君らは今でもその、安っぽい概念を信じている。そうであろう」

「それとなくね」

穏やかな楽しさを浮かべた表情で、狙撃者と正直者を交互に見る。「しかし」

「大日石油を消すのは難しいことだよ。社長だけで機能している組織ではないし、関係する企業も多い」

狙撃者は自分の頬が一瞬だけ痙攣したのを感じた。それは気にならないほどの小さな変化だったが正直者の方はもう少し深刻らしかった。一瞬凍りついてそれを隠すようにすぐ、老人から視線をそらしたのだ。狙撃者にとってなぜそのことを知っているのかは甚だ疑問だったが、これだけ騒ぎになっていることだ、それがありえないこととは言えないだろう。

老人は二人の反応などは一切気にかけない様子で続けた。

「変化が起こったとき、そこには二つの存在が生まれる。片方は利益を得る者、もう片方は不利益を被る者。大日石油は実に多くのつながりを持っている。そしてそれらのつながり全てに、同じだけの利益が回るように調整をかけている」

「ローマ帝国のやり方、それの逆だ」

「そうだ。よく知っている。昔ローマ帝国が、支配していた周辺国に行っていたのと真反対の政策だ。それによってどういうことが起きるかも分かるのであろう」

「ローマ帝国の場合周辺国が利益を一致させて反乱を起こすことを防ぐために、国々の利権に差を与えた。その逆を行った場合、それを上手く制御できさえすれば、圧倒的な後ろ盾になる」

「よく分かっているな、若いの。そして大日石油はそれに成功している。君たちは上手く消されてしまう」

老人が話し終わると、必然としての沈黙が現れた。鳥が鳴く声、何かの小動物が枯れ草を引き摺る音、辺りは自然の音だけに包まれた。

沈黙を破ったのはシマノだった。

「……聞こえなかったんだが」

「今日起きたクラッキングの犯人を調べてくれ」

「き、聞こえなかった――」

「ほざけ」

 シマノは顎髭に指を沿わせながら、無表情にパソコンの画面を眺めていた。

「あのな有能な隊長さん、雇われ情報課ながら一つ言わせてもらうぜ。このクラッキングはプロの仕業じゃない、神の仕業だ。光ファイバーのケーブルの中で突然変異が起き、そこで生まれた神様が大日にお怒りになったんだ」

 電話の向こうの男がため息をついたのを聞く。

「分かったよ、調査はしてみるさ。というかもう手口に関しては分かった。いくらか前にあらゆるところに種を蒔き、それぞれのパソコンに拾わせた。その種が今朝一斉に文明開花するって寸法だったのさ」

「開化の文字は違うが、どうやって調べた?」

「それとなく」、とシマノは言った。

「そんなことよりもお前さん、しっかり次の狙撃を防いだ方が良いんじゃないか? もちろん、四日後の国民文化祭に大日社長がゲスト出演するってのは知っているな? その会場がとてつもなく縦に長い公園の突き当たりにある広場で、狙撃するにはうってつけの場所であるってことも」

「待てよ、国民文化祭の内容については全く告知されていない。どうやって知った?」

「そこはかとなく」、シマノはそう言うと、間を空けずに続ける。

「今回のクラッキングの犯人、そいつと狙撃者は別人と見える。それでいて、犯行の目的はまったくといって同じだ。あるいは同じ目的を持った全く別々の計画が、上手い具合に重なり合ったのかもしれない」

 電話の向こうから聞こえてくる声はあくまで落ち着いている。しかし内容はあまりにも都合が良すぎる可能性だ。「例えばそうであるとして」

「やつらが何らかの方法でお互いを知り、手を組むという可能性は?」

「さあな」

「狙撃者についての情報は何か掴んだか?」

「いいや、皆無だ」、と相手は答え、それから静かに付け足した。

「分かることがあるとすればそれは、やつが何らかの理由で大日石油、つまり大日社長を狙い、またその狙撃を成功させるに値する腕を持っているということだ。そしてクラッキングをやった間抜けにもそれだけの腕がある。すなわち」

「すなわち?」

「さっきも言った。国民文化祭でとてつもない事件が起きる可能性があるってことだ」

 ヒラギは電話を片手にパソコンを操作し、細長い公園の衛星写真を見ていた。それは他でもない国民文化祭の会場で、なおかつヒラギのいる建物から小さな堀と四車線道路、それから市役所を挟んだすぐそこに位置する公園だった。

 シマノが切るぞ、と言う。

「待ってくれ」、慌てて止める。

「なんだ」

「別件だが、コイントス・プログラムというのを聞いたことないか」

 少しの沈黙。

「ヒラギ、だったか」

「ああ」

「俺は長らくこういった仕事をしているんで、針の先みたいに鋭いカンが働くことがしばしばある。そしてそのカンが、今回の事件がお前や俺、おそらく狙撃者たちが思っているよりもずっと大きく、尚かつ重大なものであると告げている。事件として片付けるだけでは不十分な、単純かつ複雑な思想が事件全体を渦巻いているんだ。俺たちは一つ一つの事象の意味を深く考えながら、事件の真意を追わなきゃならない」

 シマノは続けてじゃあなと言うと、電話を切った。

ヒラギはしばらくの間、シマノの放った言葉の意味について考える。“事件として片付けるだけでは不十分な、単純かつ複雑な思想が事件全体を渦巻いている”、口に出して復唱する。それを終えて大きくため息をついたとき、隊員の一人がオフィスへと入ってきた。

「全員が国民文化祭の日と断定しています。わずか数十分前にインターネット上で大日社長の出席を示唆する情報が流されたとか」

「不条理はあたかもそれが普遍であるかのように、存在している。誰もがそれを感じ、一部の人間が行動を起こす」

老人はそう言うと、狙撃者のM700を手に取った。手入れの行き届いた各部をじっくりと眺め、ボルトを引く。狙撃者は一瞬の緊張が体を這ったのを感じ、瞬時に右手を拳銃へと走らせたが、正直者がそれを止めた。

「海外から視察に来ていた外交官と、それを迎える首相。ライフル――ブレイザーの銃口は確実に、首相を捕らえていた。十字線に重なるターゲット、トリガーに掛けられた人差し指。高まった鼓動を、なんとか抑えるのに必死だった」

老人は台に置いてあった308winを一つ手に取り、ライフルに滑り込ませた。ボルトを押し戻し、銃を構える。動作の一つ一つは線でつないだように滑らかだ。狙撃者は自分に緊張を与えているのが何か理解した。異常なほど洗練された動作、年齢からは予測できないような恐るべき力が、ライフルに新しい力を吹き込んだように思えたのだ。「そして」

「トリガーを引こうとした。だが、わしはそこで固まった。その首相が消え、他の国会議員の中から代わりが選ばれる。それだけだと気づいたんだよ」

銃声。真っ直ぐと立った老人が水平に構えたライフルは、ほんのわずかでもその位置を変えなかった。全ての反動が別の世界に吸い込まれてしまったようだった。沈黙、そして金属と金属の激突音。

「なあじいさん、見た目に因らず俺も狙撃者なんだが、二脚を使わないでその距離の狙撃を成功させるってのは何か間違ってる」、狙撃者が言う。狙撃者は目に見たものは全て信じられる柔軟さくらいは持ち合わせているつもりでいたが、狙撃というひどく現実的な行為の前において、それはひどく頼りないものだった。

「どうにでもなることだよ、若いの。お前さん方の思い次第でな。所詮は隠喩で形作られた世界だ」、老人はそう言ってライフルを置いた。「そして」

「隠喩は常にその形を変えていくのだ。不変なものなど存在しない。不条理であれ正義であれ、あるいは真理であれどもその形を変えていく。諸行無常の世界において不変を追求するのは不可能、正義や真実を手に入れるのも不可能ではないのかね」

「ハヤマ、そいつについての記事が終わったらまた別の仕事がある。俺のデスクへ来てくれ」、社員を取り仕切る中年の上司が言った。彼は雑誌社よりもサーフィンが似合う顔つきの男で、雑誌社の社員としては相当の実力があった。サーフィンはできない。こういう人間を、ちょっと恵まれていない人間と呼ぶのだ。

了解ですとハヤマは答え、小さくため息をつく。パソコンの画面はロゼッタストーンに刻まれた文字のように見えているし、全ての音は黒板を爪で引っ掻く音のように聞こえていた。ぞれでも記事は完成した。問題のページから文章を引用し、画像を貼り付け、新車のレビューのような感想を書けばそれで終わる。昔はもっと手の込んだことをしていたらしいが、今の時代に週刊誌を買うのは大正時代の価値観に生きているような人間だけであり、そういう者にとって週刊誌はただの習慣誌であるために手をかける必要がないのだった。ハヤマは構成係と記事のデータを共有して立ち上がると、恵まれないサーファーの元へと歩いていった。

「別の仕事というのは?」

「仕事の内容だけを聞くか、回りくどい説明付きで聞くか」

「回りくどくない説明付きでお願いします」

「分かった。簡単に言うと、雑誌をぺらぺらやっているだけじゃ会社が持たない。そういうわけで大日石油とFAUに関する一連の事件をとてつもなくスケールのでかい、複雑の犯行思想を持った、ある種の革命であるかのように取り上げて、特集号を作りたい。そのために事件と周辺関係を徹底的に調べ上げてほしい。まとめるところまでやってくれると助かる。記事が売れればボーナス、売れなければ無給、きつい話だが」

「僕が、ですか?」

「そうだ」

「なぜ」

「他の連中は」、と相手は声を抑える。

「絶望にやる気を失っている。しかしお前さんにはなんとなく、ちょっとばかしの気力が残っていなくもないように見える。所帯持ちじゃないのはお前だけだからだ」

「しかし危険ですよ。相手はプロの狙撃者です。単独でやらなきゃなら無茶をしなければきりがない、だから――」、ハヤマは言葉が喉で詰まるのを感じた。これほどまでに絶望的な状況なのに、そこにまたリスクを持ち込むなんてどうかしている。そうして俺を捨て駒にして、記事だけを取り上げるつもりなのだ。

「ハヤマ」、ろくでもない上司が口を開く。ハヤマの考えていることは大体理解しているようだった。ハヤマは自分のデスクに戻ろうとしたが、男の表情が大きく崩れたのを見て固まった。

「俺はまた、夢に手を出しちまった」、と相手は言った。か細く、弱々しい声だ。

「五百万もする新車をローンで買ったんだよ。俺はこうして偉そうに上司を気取っているが、ローンのための金は一件で消え、五人家族と四百万以上の負債だけを抱え込んでいる。もう少しすれば路上生活さ。このオフィスにいるたくさんのやつらが同じような問題を抱えている。出来ることなら俺が動きたいんだが、ここをまとめなきゃならない。だからお前に頼んでいる」

どうしてこんな男の新車のために同情してやらなければならないのだ。そんなことを棚に上げるなんてどうかしている。悲しみ気取りにも程度がある。

 だが、とハヤマは思った。このまま何もしなければ自分は……。無意識に、橋の上の景色を思い浮かべている。子供たち、浮浪者、変革の歌を歌う青年。ヘンカクの歌――分かりましたよ、とハヤマは言った。分かった。自分が何かいつもと違うことをしなければ、そこには一ミリほどの変化も生まれないのだ。

「正義は天秤に掛けられ、真実は作られる」

 狙撃者はそう言ってステンレスのマグカップを手に取る。コーヒーから立ち上る湯気にその視線を預ける。「それがじいさん、あんたの考えだな」

「いかにも」、老人は一度だけしっかりと頷く。

「季節風。この国の人間は様々な気象の変化に遭遇することで、それを制すのではなくそれを受け流すことを学んだ。人間界に気象同様の変化が現れるのなら、それをまた受け流していけばよい」

「則天去私、自分を捨てようってのか」

「人生の目的は空になることにある。神への同化が行き着く地点なのだ」

 狙撃者は一口のコーヒーを啜る。それから、少しだけ口元を持ち上げた。

「だがその神ってのは二つのフヘンの象徴だ。それに同化することを目的地とするなら、不変は存在し得ると言える」

「存在はしている。だが神は人間が作ったものではない。それはすでにそこにあり、人間がその輪郭線をなぞっただけのもの」

「つまり、神もまたその存在においてはフヘンだが、人間が思い浮かべたその姿のイメージは流れゆくものだと」

「そういうことになる」

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」、狙撃者はマグカップをテーブルへ戻した。「水という真理は常に存在する」

「なるほど」、老人は目を細める。

「ではその真理へどう辿り着こうとしているか、話してはくれんかね」

狙撃者は正直者を見た。親友はその視線を重ねただけで、黙っていた。

「俺が狙撃阻止の計画を立てる?」

 シマノは驚いたように聞き返した。

「嫌だねそんな面倒なことは。札束積まれてもやらないぜ。いつも厄介事ばかり押しつけやがってまったく、ろくでもない部――」

「パルミジャーノ・レジャーノ丸々一つを、フランスから輸入したんだが」

「愛する部隊のためだ、計画は俺が立ててやろう」

 シマノは電話を切ると、大きく、まんざらでもないため息をついた。それからパソコンの画面に目をやり、眉間に皺を寄せる。画面に映っているのは国民文化祭の会場周辺を衛星から撮った3D写真だ。いくつかの衛星から送られてくる画像を組み合わせているために、3Dとして視点を動かすことができる。

 一般的に、狙撃者が利用する可能性がある建物は三つだった。会場から直線に伸びる細長い公園、その突き当たりに位置する背の低いビル。会場から七五〇メートルほどの距離で、もちろん視界は良好。問題はそれが市役所であるということだけだ。もう一つは工事中の超高層ビルで、距離は七〇〇メートルほど。会場に対し斜めに撃ち込む必要があるが、その高さ故に障害物は無い。

 最後の一件は、紛れもなくジョークのようなものだった。そのビルは県庁であり、またその前方――つまり公園側にあるのは治安維持部隊を含む公安関係の本部なのだ。とはいえ市役所の真後ろよりもビル一つ分右方向にずれているために、一番左隅の部屋を陣取ればほとんど直線に近い角度で狙撃が可能な位置に入る。

 シマノはそこまで考えると、目を閉じ、県庁の一角で見る景色を想像した。一〇五〇メートル、それが県庁と会場との距離だ。狙撃者がいくら人間離れした技術を持ち合わせているにしろ、その距離での狙撃は九割九分不可能だ。M700以外のライフルを使ったとすれば可能かもしれないが、一キロ以上の狙撃ができるような大口径のライフルをこの国へ持ち込めば必ず綺麗な足跡が付く。

 狙撃者……お前はどれほどの技術と、どれほどの応用力を持っている? 上限を知らない理想に値するだけの現実的な思考を、手に入れたのか? もしもお前があの非情な建物を利用しようならば、多くの人間たちの目を欺く代わりに、過酷な現実を308winで撃ち抜く必要がある。

 シマノはまた、大きくため息をついた。それからリダイアルリストに無い番号へと電話をかける。

「308winのM700を一艇、用意してくれ」

提出する書類を作り終わったとき男の顔には、不気味なまでに計算し尽くされた笑みが浮かんでいた。

「なるほど」、と老人は何度か頷く。その顔には文字通りの喜びが浮かんでいて、それはまるでスプートニクを見上げる少年のようであった。

「目的は別にあるのかね」

「そういうことだ」、と狙撃者は言った。

「それにしても」、老人はゆっくりと息を吐き、それから続ける。

「何が君らそこまで強く動かすのだ? 君ら自身にとって利益になる行動とは思えないんだが。確かに名誉のある行動とは言えるが――」

「名誉は」、と狙撃者が口を挟む。

「およそ不確かなものだ。なぜならそいつは他人の評価だから」

「それでは、何を求める」

 老人は目をしっかりと見開き、狙撃者と正直者の目を交互にのぞき込む。狙撃者はわずかに視線を落としたが、正直者はまっすぐと老人を見返した。五秒ほどの長い沈黙があり、狙撃者が口を開いた。

「生きることさ」、声のトーンはいつもに増して下がっている。

「今となっては誰一人として自分自身でありたがらない。そういう状況にうんざりしたのさ、俺は。生きるってのは、そこに存在することじゃない。何かを為すことなんだ」

 老人は頷いた。表情は無か、若干の哀愁に傾いた刻みだ。

「そしてそこの間抜けは非常に欲張りで」、と正直者が不意に口を開く。

「他の人間まで巻き込もうとしている。俺はその第一人者になる」

 狙撃者は肩をすぼめて見せ、それから小さく笑った。老人が笑い、最後に正直者が口元を緩ませる。

「君らを突き動かす力は、確かなものだ。しかし一つ足りないものがある。薄々勘づいてはいるのだろう。それを認めているかどうかは別として」

「わしはあえて君らに、それについて言おうとは思わない。しかし、君らはもう一度考えてみる必要がある。計画に必要不可欠なものが欠如しているのだから」

 三人の男の中で一番長く生きた男がそう言った。背の低い男は無表情にその老人を見返している。茶色いフライトジャケットを着た男の掌はかすかに震えていた。

老人はふらついた足取りで小屋へと戻っていく。残されたのは狙撃者と正直者、それから深い沈黙だった。

しばらくの間はどちらも動こうとしなかった。数分が過ぎた頃、狙撃者はかがみ込んでM700を持ち上げ、真っ直ぐと構えた。小屋へと戻っていった老人が作ったのとほとんど同じ形。しかしそこで狙撃を邪魔する何かが渦巻いているのを、狙撃者はあからさまに感じていた。二脚が無いことがその理由ではないということも、理解していた

ボルトハンドルに手を掛ける、ゆっくりと持ち上げる。滑らかな曲線でつながれた一つの動作を介して、弾が薬室へと送り込まれる。しかし狙撃者は何万回も繰り返されたその動作の中にざらついたサメの皮で擦られたような感覚を覚え、今までと同じ動きが自分の意識に当てはまっていないのを理解した。

ゆっくりと深呼吸をし、トリガーを引く。撃針がカチリと音を立て、次に鋭い衝撃と銃声が体中を突く。弾はほんのわずかにターゲットを外れ、後ろの砂袋に着弾する。狙撃者はスコープから目を離さず、間髪を入れずに次の弾を装てんする。着弾点からさらさらと砂が零れ落ちるのが見える。弾を受け止めるために開発された特別な砂、透明な鉱物が光を反射して、細かな輝きを星の数ほど作っている。

「――サキオリ」

 声、おそらく正直者の声。

「いつもの考え方で良い。必要な物はそのときになればしかるべき形で姿を現す、そう信じていろ。根拠やら理論やらは他に任せれば良い」

トリガーを絞った。その瞬間大きな衝撃が肩を打ち、それに違和感を覚えた。いつもと違う種類の反動が伝わり、その波が体中に響いたのだ。全身が銃と共に共鳴したような気分だった。

狙撃者はスコープの十字線がトリガーを引く前とまったく同じ位置に乗せられているのに気がついた。ほとんど時を同じくしてターゲットに穴が開く音を聞いた。喜びは無い。意識がこの結果を当然であるように認識しているのだ。

狙撃者はライフルを降ろした。それから長い射撃場の向こうにある、肉眼では見えない距離のターゲットへと視線を投げた。

 ヒラギが雑誌のように薄いノートパソコンを操作すると、投影機を通してホワイトボードに立体地図が表示された。上から見た図で、高層ビルが横向きに突き出ている格好になっている。一番高いのは建設中のビル、二番目に高いのは数年前に建て直された県庁本館だ。市役所は数十年も前に建てられたものを使い続けているため、今となっては目立たない中高層ビルとなっている。

「というわけでシマノからデータが届いた」

 ヒラギはしばらくその針立てのような建物群へと見入っていたが、やがてそう言った。

「狙撃者が利用する可能性がある建物は二カ所。建設中の高層ビルと、市役所。高層ビルの方は会場から斜めにずれたところに位置するが高さがあり、進入脱出共に容易だ。市役所は位置にしろ距離にしろ文句なしだが、問題はそれが市役所であることであり、捨て身覚悟で望む必要がある。俺たちはこの二件を徹底的にマークするというわけだ。細かいフォーメーションにも指示がある。質問は?」

 隊員の一人が小さく挙手する。

「雇われの情報課をそこまで信用しても良いんですかね」

「シマノの他に三人の専門家に同じ建物を指定された。他の場所は視界や距離、逃走ルートの関係で排除されている。フォーメーションに関しては俺が検討して十分だと判断した。シマノの合図で突入する。狙撃者に感づかれる可能性があるため、当日までは建物へ近づいてはいけない」

 隊員たちは今ひとつ納得できないといった様子で話を聞いている。

「そうするしかないんだ」、ヒラギは言った。

ライフルをケースへと戻す。

「正しかろうが間違っていようが、自分らしく生きろ。それは安易に服従してしまう臆病者よりずっと立派だ。正直者」

「なんだ?」

「うまくいくと思うか?」

正直者は荷物をまとめて立ち上がり、無表情に言う。

「結果はどうであれ何かを貫き通すことは人生において最も美しい行動だ」

狙撃者は車の方へと歩き始めていたが立ち止まり、振り返った。「そいつは誰の格言だ?」

俺だ、と正直者は答えた。

「もしも一貫した生き方を貫き通せば、当初それを嘲笑した者たちもお前を尊敬する。途中で辞めればさらに嘲られる」

 狙撃者はわずかに肩を窄めると、再び歩き出した正直者の背中に話しかけた。

「二〇〇〇年以上も昔に同じことを言った人間がいるよ。松葉杖を突いた解放奴隷のじいさんでね。変わり者という点ではお前さんも良いセンいっているんじゃないか?」

「お前に言われたかない」

「お互い様か」

 隊員たちが散った後の会議室で、ヒラギは一人立ちすくんでいた。机に両手を突いて、窓の外に視線を投げている。太陽が地面の下へと溶けていく姿を見ているようであったし、何も見ていないようでもあった。自分でそれを感じていたのだ。

「君がガンマ隊の隊長か。よろしく」

ヒラギは突然聞こえた声が自分の近くで発せられたものだと認識するのに少しの時間を要した。すぐ近くにスーツを着た初老の男が一人、二人のボディーガードを付けて立っている。ぼんやりし過ぎた自分に腹が立ち、眉間にしわが寄る。男の次の発言を聞いたとき、それはさらに深く刻まれることとなった。

「私が公安委員会の委員長だ。恐らく初見だろう」

見たことはないが、この男がどういう者かは知っている。権力を握る者独特の喋り方、一ミリのズレさえ許さない縫い目で仕立てられたスーツ。現場に下りることなく指示を出す高学歴のエリートだ。ヒラギは目の前の男を心の底から嫌っていた。

「何の用だ?」

「ほう。最近の部隊長は礼儀の一つも知らんのか」

「俺とお前の生きている世界は違う。よってその間には上も下も無い。それで、何の用かと聞いているんだ」

男は目で笑った。軽蔑と哀れみの表情で口を開く。

「今回の文化祭に関わる任務の一切を中止してもらいたい。つまり会場に姿を現すなということだ」

ヒラギは目に怒りを浮かべた。実戦に出て自分の力を試す機会を実戦に出ない上層部の人間によって剥奪されるのがたまらなく嫌だった。

「なぜ」

「話す義務はない」

「何を隠す?」

「君には関係あるまい」

会長が最後に表情を変えてから、すでに数十秒が経っていた。隠したい何かがあるというよりは、その何かがヒラギによって知られたところで全く問題ないと確信しているようであった。

「それで? 俺がお前のくだらない命令を無視し、狙撃者を捕まえたらどうなる」

「部隊には戻れなくなるだろう」

「つまり。お前たちは大日社長を殺したいか、あるいは別の部隊をたてて公安とは別の機関で狙撃者を消したいか、どちらかだな」

「君はまだ、死ぬには若い。おとなしくマニュアル通りの動きを、上の命令通りの動きをしていたほうが良い。考えることはこの社会において不必要なことだ。それに」

初老の男は権力が表出したというような笑みを作る。

「君が勝手な行動を取れば部隊員が犠牲になる。それでも構わないのかね?」

 シマノは少しだけドアを開けて部屋へと滑り込み、手に持っていた白いビニール袋をいつものリクライニングチェアへと投げた。買い物とちょっとした寄り道をしただけだったが、時刻は夜九時を回っている。そのちょっとした寄り道が思ったより遠かったからだ。

 チャーリーが家から車で十五分の距離にあるレストランのドアを押したとき、時計の針は九時十五分を指していた。狙撃者はそれを楽しそう笑った。

「遅いぞカウボーイ、馬が機嫌を損ねたか」

「ビリーと栄光の炎について語り合っていたのさ」

「おい、なぜ俺を呼ばなかった。そいつはともかくとして、ネット上は恐ろしいことになっているね」、狙撃者は背の低いデュラレックスのグラスを持ち上げ、真っ赤なオレンジジュースを一口飲む。正直者はその反対側の席で現実の匂いがするコーヒーを啜っていた。

「おかげさまで俺の苦労は隅へ追いやられちまったぜ、オールド・フレンド。洒落にならん」、とチャーリーが言う。

「俺が書いた文章をコピーアンドペーストしただけだろうが」、正直者が目を細めて言った。

「何か大きな力が動く。それも一つではなくいくつかの力だ。敵になるかもしれないし味方になるかもしれない、起きてみないことには分からない不確定な要素」

 狙撃者はそう言うと、目で笑う。「楽しくなってきたな」

チャーリーがつられる。「お待ちかねだ」

正直者は顔をしかめてため息を吐くと、飽きずにコーヒーを啜った。

 ヒラギはパイプ椅子に腰を下ろし、変わらず窓の外へ視線を投げている。その目には怒りが浮かび、雰囲気全体には迷いが表出している。

 朝は想像以上に素早く姿を現す。寝起きの悪い太陽が光を出し渋っている間に闇が姿を隠し、万事解決する。

シマノは何時間が経ってもその椅子に座っている。左手に白カビのチーズを持ち、右手でタッチタブを操作する。それはペンタブレットをそのまま指で操作するようなもので、慣れればとてつもない効率の良さをもたらす。シマノは五本の指を同時に動かし、常人の五倍の量の仕事をしていた。

 日が暮れ、やがて闇が太陽を眠りへ押し込む。シマノはまだ、チーズを食べながらパソコンへと向かっている。しかしある瞬間でぴたりと指の動きを止め、深い深呼吸を一度だけした。ずっと編集し続けていたそのファイルを保存し、パソコンをシャットダウンする。そして思い出したように大きな欠伸をすると、数秒後には深い眠りへと沈み込んだ。

第三章

 黄色い風が吹いている。隣国からの黄砂、光化学スモッグにコンクリートの粉塵。それらはまるでアメリカ西部の荒野を駆ける砂嵐のように、空気を淡く染めている。空気は冷たいが、しかしどことなく無慈悲な暑さを秘めていた。群れを成すビルたちはまるで、縦に長く削り取られたモニュメントバレーだった。

 チェックのワイシャツと緑のガウンに身を包んだ男が、ゆっくりとビル一群を見回した。彼の周りに隊員たちはいなかった。それは彼を少しの哀愁で包み、また孤独の強さを放つ。男は一人でいることを苦にしていない、もしくは好んでいるように見えた。

 長細い公園にはいくつかの店舗が出されていて、集まった人々はシュガーを追い求める蟻ほどに多い。皆の顔には怒りが浮かんでおり、その目的が祭ではないことが分かる。

 男はひとしきり背の高いビルを見回し終わると、小さくため息をつく。ほとんど同時に彼の斜め前でため息をついた者がいた。長い髪の毛をワックスで立てた、背の高い、ほとんど同年齢に見える男だ。黒いジーンズのポケットに右手をつっこみ、左手で長細いたばこを吸っている。右肘は九十度に折り曲げられており、まるで腰についた拳銃をかばっているかのような姿勢だった。

 眼鏡を押し上げ、会場と正反対の位置にある市役所へと視線を移す。窓ガラスの向こう側の状況まで見える距離ではない。彼は目を細め、市役所の左奥でぼんやりとかすむ県庁別館、そのさらに後ろで佇む背の高い本館へと視線を当てる。

「楽しんでいるか、オールド・フレンド」

右前の男がつぶやいた。それはまるで、誰かに話しかけているようであった。

 窓からは黄色がかった朝日が投げ込まれていた。がらんとした部屋の床には四角い日溜まりが落ち、灰色の絨毯を覆う埃の膜を照らし出している。部屋にはシーツのかけられていないベッドと質素なプラスチックのデスク、それから緑色の合皮が張られた椅子がそれぞれ二つずつ置かれている。どれも同じように埃を被っており、金属のねじは一つと残さず錆びているが、いずれも使われた痕跡が無い。

 茶色のフライトジャケットを着た男が、壁によりかかって座っている。左肩に古いライフルを立てかけ、右手でステンレスのマグカップに注がれたコーヒーを啜る。表情はほとんど無に等しく、今のところ、反対側の壁に寄りかかって目を閉じている男の存在も気にしていないようだった。

 蒼白な顔色の痩せ干せた男は自身のビデオカメラを右手持って、会場の前に立っていた。彼は全てを記録し、まとめ上げるつもりでいるように見える。しかしその顔はいくらか頼りなく、組織という土台のありがたさについて改めて思い知っているようだった。

 九時から――つまり十五分後に大日社長の演説が始まるというアナウンスが入る。男はその興奮によって小刻みに震える左の拳を強く握り込む。じんわりと手汗がにじみ、さらに震えが大きくなっても、それについて気にしている様子はない。

 シマノは会場で緊張を募らせる、カウボーイのように孤立無援な男たちについて考える。古くさい価値観を振り回し、ライフルに希望を捧げる男。それをフォローする仲間。命令を無視し、ウォンテッドを追うハイエナ。他にも重要な役割を果たす者がいるのかもしれない。

「くそ寒い」、正直者はそう言ってコートに深く身を沈める。彼は灰色の絨毯にあぐらをかき、紙のノートへ何かを書き込んでいた。使っているのは未だに一ダース単位で売られている木の鉛筆だ。

「まあそう不機嫌になるなよ、朝日のようにさわやかにいこうぜ」

 狙撃者は軋みのひどい椅子に背を任せ、黒い鞄の中を手探りでかき回していた。手に乗ったタバコの箱ほどの大きさの機械を掴み出す。それは黒いプラスチックのボディやその大きさに反して重く、長方形をしていて、両面にはレンズ、側面にはいくつかのボタンが付いていた。

「どうするつもりだ?」

「いなくなるのさ」

 手に持った奇妙な機械を、会場に面した窓ガラスの右上に貼り付ける。レンズの視界に入らない位置へと身を捻り、ボタンの一つを押し込む。シャッターを切る音を確認して別のボタンを押し込むと、今度は窓ガラスの色がわずかに暗くなった。

「中の景色の写真を撮り、そいつを窓に映す。外から見れば立派な透明人間さ」

 狙撃者が笑って見せると、正直者は呆れたように肩を窄めた。

「いったいどうやってそんなものを?」

「赤い靴下に入って枕元に置かれていたんだよ。取り扱い説明書には“大企業の社長を政府の施設から狙撃するのには使用しないでください”って書いてあるけどね。“作戦の結果に関するクレームは受けかねます”とも」

「親切だ」

「メイド・イン・ジャパンだから」

「納得だ」

 正直者は保温水筒からコーヒーのお代わりを注いでいるところだった。中身はもちろん味の薄いアメリカン・コーヒー、チャーリーが用意した物だった。やつは豆の量を少なくすることでアメリカーノができると思いこんでいる。おまけに使っている豆は浅煎りときているから、これはまるで紅茶だった。

それでも香りは部屋中を例外なく包み込む。ジャングルの中で赤く群がるコーヒーチェリーを思い浮かべれば、味の薄いコーヒーも大して悪いものではないように思える。しかし氷で冷やされたこの部屋が想像力をもフリーズドライにしてしまった。ついでにどこかが狂ったらしく、今度は古い記憶をたたき起こす。それは粉塵で黄色く染まった空気とごった返しの町並みだった。

 中信と名付けられた天を突く矛のようなビル、その前方に広がる広場、規則的に並べられた黄色い街灯。中信の反対側には青いネオンで彩られたとてつもなく大きな駅。急ぎすぎた発達を象徴する錆びた高層マンション群と、そのすぐ隣で根を下ろすスラム。それらを一望するプール付きのホテル。それは埃を被っていない、クリアな映像だった。今となっては国内でも見られる景色だが、そのとき受けた印象は未だに色褪せていない。

「広州を思い出すよ」、と狙撃者が言う。

「コウシュウ?」

「ああ。香港から電車で二時間ほどの所にある、中国南端の商業都市。俺は十数年前にそこへ行って、人生を六十度ほど――つまり今いる道へと折り曲げて来たのさ」

「初耳だ」

「そう、始めて言った。そこでちょっとばかし大きくて、形の無い拾い物をしてきちまったんだ」、狙撃者は目を細め、宙の一点に視線を投げている。「正直者」

「何?」

「足りないもの、わかったか?」

「いや」

 四秒間の沈黙の後、正直者が狙撃者を見る。「お前は?」

「まだだ。だが、いずれ分かる気がする」、狙撃者はそう言って、ステンレスのマグカップを口に運ぶ。

「アドバイスすることなどないんだが」

シマノはいつもと同じ場所に座っていた。いつもと同じ灰色のパーカー(同じものを七枚持っている)を着て、チーズを食べている。毎日風呂に入っているため清潔ではあるがファッションには全くもって気を使っていないのだ。

「そんなことを言わずに、現場に出てきてください」

「カメラの映像は現場にいるような臨場感だぜ。動きについても計画書に記しただろ」

「状況は変化します」

「そうだな。映画を見るようで面白い」

「あの――」

「分かった、まったく人任せな部隊だ。作戦中止命令も受けているし。まあ気が向いたら行くから、とりあえずしっかりやれ。俺の直感が狙撃者以外のテロリストの存在を呟いている」

電話を切り、立ち上がる。それからぼんやりとした表情でパソコンの画面を覗き込んだ。そろそろ演説が始まる頃で、とてつもない数の人が集まっていた。人々の手に握られたジュースのビンが、最初に大日社長を狙撃するだろう。

シマノは机の隅に立てかけた新型にしては大きな黒いノートパソコンを手に取り、リュックの中へと滑らせた。冷蔵庫へ歩き、チーズを一キログラム分取り出す。それらもまとめて詰めたリュックを左肩に背負う。

白いスニーカーを履く。ドアノブに手を掛け、捻りの力を加える。その瞬間何か冷たいものが背中を走った。シマノは数秒そのまま立ち止まってから後ろを振り向いた。もちろん誰もいないし、何も変わっていない。窓が少し開いていて生温い風が入り込んできていたが、それに関してはいつものことだ。

「例外的な歯車が――」

声がした。ゆっくりとした極めて非現実的な声に、シマノは目を細めた。作業場に戻り、一枚しかない窓を閉め、パソコンの電源を全て落とす。机の引き出しの一段目を引いて黒い拳銃を手に取った。

「動き出す」

シマノは拳銃をリュックにしまい、入り口のドアを開けた。薄暗い部屋に日光が差し込み、視界が広がる。槍のような高層マンションが群れを成してそびえ、空を細長く直線で構成された人工物へと変えている。

何か大きな変化が起きようとしている。長く専門としてきた数値による処理の範囲から外れた、気まぐれな変化が。それがどういったものなのかは分からない。何に対して起こるのかも。自分自身の考え方ですら変わってしまう可能性がある。

シマノはドアに鍵を掛け、小さく深呼吸をすると、少しだけ表情を変えた。呼応するように、灰色の街が大きく表情を変えた。

「始まったぞ」

正直者が今日の天気についてお話しするような調子で一言述べた。狙撃者はスコープ越しの丸く切り抜かれた世界でそれを確認し、短く返事をした。部屋に残された一組の机と椅子を窓の近くに持っていき、狙撃のための台を作る。二脚を開き、M700を置く。窓から銃身を出すスナイパーがいるとすればそれは、映画向きの固定概念で味付けされた初心者だ。狙撃者は二脚の高さを調整すると、スコープを覗き込みながら小型マイクへと話しかけた。

「無線の向こうのチャーリー君、状況はどうだい?」

「演説は期待通りだよ、温室効果を期待できちゃうぜ」

暗号通信は少しのノイズを伴っていたが、それが騒音によるものか音質の劣化によるものか判断するのは簡単なことだった。罵る言葉ばかりで演説は聞こえもしない。そして声を聞く限り、会場で待機しているチャーリーはそれを楽しんでいるようだ。狙撃者は軽く笑い、M700から離れて床に座り込んだ。

「もう少し待つよ、チャーリー」

「結構だが、演説、この調子じゃ一時間も掛からないぜ。せいぜい三分くらいで言い訳のネタが尽きる」

「その後はコマーシャリズムの弊害を受けた興味深いお話を延々と続けるんだろう。頼むから、これより自動車の燃料は鉱元にするなんて言い出さないでくれよ」

「まさか! そんなことあるわけないだろ」

チャーリーが言った。「リッターいくら安いんだ?」

狙撃者は呆れたように肩を窄め、冷たい壁に寄りかかって目を瞑った。まったくもって愉快な友人を持ったものだ。

「とにもかくにもチャーリー、計画を大切にしろよ。プランに対する思いやりが重要だ」

「そのままお前に返すべき言葉だ、サキオリ」

「鏡は磨いておくぜ」

「正直者は?」

「準備はできている。そもそもやることが無い」

「そりゃ良い、太陽を日向ぼっこにでも誘っておけ。それじゃ、また連絡する」

チャーリーは通信を切ったが、それはありがたいことだった。耳の中で騒音に鳴り続けられれば、ストレスが溜まって発狂しかねないだろう。現地にいる人間がどういう気分なのか興味があるような気もする。

「預金の片隅が千切れたくらいで騒がないでもらいたいね」

隣でそんなことを呟いている正直者は、FAUカードで八割の財産を失った父に三〇〇〇万を貸していた。正直者はさんざん説教をした後に高金利で貸したと言っていたが、その契約書は実家からの帰り道で公園のゴミ箱に捨てていたため、本当はどうでも良いようだった。父親の方も、ろくに物事を考えない親戚に半ば強制されて預けたというから、妙な状況だ。

「預金の片隅か」

狙撃者はあきれたように呟いた。壁に寄りかかって白い蛍光灯のついた天井に視線を投げると、莫大な金額が消えた先を考えた。テロリストによって奪われたか、あるいは――いや、今となってはそんなことはどうでも良いことだ。

「トリガーを引ける瞬間は一度だけ訪れる。意識と状況が調和した一瞬だ」

正直者が言う。狙撃者はゆっくりと頷く。大きな力に押し進められているような奇妙な気分で、そのタイミングを待つ。

 ハヤマはとてつもない不安を抱えていた。しかしすぐに、その感情の上に若干の怒りが上書きされたのを感じた。大日社長の演説がそうさせたのだろう。

 会場にはハヤマと同じように預金を失った人々が大量に集まっていた。皆怒りに満ちた表情で罵声を放ったり、泣きながら被害について語ったりしている。様々なものが大日社長へ向けてフライトし、ボディーガードがそれを弾く。まるで間抜けなゲームをしているようだった。

 会場の周辺を守っているのは民間の警備会社のようだが、警備員達は防弾ベスト、ヘルメットを身につけ、アメリカ製のカービンライフルを持っている。これは当然の処置であれ、異様な光景だった。

 ハヤマは彼らがひどく緊張しているのを見て取った。そして、それに呼応するように自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。耳から伝わってくる音がだんだんと小さくなっていく。その分、自分の心拍の音が浮き彫りになる。

次の瞬間、何かが自分の中で音を立てて切れた。付随してとてつもなく大きな苛立ちが体中を占領する。それは大日社長への苛立ちであるのと同時に、何かもっと他の、もっと身近なものに対する苛立ちだった。

会場に集まる数百の人々はまるで、一匹の大きな生物のように見えた。一人の動きに呼応しもう一人が動く、それに呼応して他の一人が動く。そんなようなことを繰り返すことでエネルギーを生み出して生息する、とてつもなく強力な怪物だ。おそらくそれはまとまった一匹としての意思のみを持ち、それぞれはパーツとしてしか機能していない。少しでも外れるものは削除し、生物を生物として認めないような、非人道的なシステムによって守られている。

 ハヤマは深呼吸をして、カメラの電源が入っていることをもう一度確認した。

 シマノは細長い公園に面した喫茶店に入った。ガラス張りの入り口付近には二人用のテーブルがあったが、それを通り過ぎ、部屋の隅の六人用の席に腰かける。メニューにお気に入りのフードが無いことを確認すると、サンドウィッチと紅茶を注文した。

 ウェイターが戻るとすぐに黒いノートパソコンを開き、現場の状況を確認する。演説は始まったばかりで、今のところ大日社長は生きているようだった。会場は暴動の一歩手前といったところでとどまっている。ほとんど全ての人間が物を投げたり罵声を放ったりしている。流れや匿名性に守られた人間がどうなるかを象徴しているようだった。

 シマノは何度か首を鳴らし、パソコンの画面を閉じようとした。しかしせわしく切り替わる視点の中、三人だけが落ち着き払って立っていることに気がついた。一人は背の高い男、もう一人は痩せた男、最後の一人は覚えのある顔――ヒラギだった。直接会ったことはないが、写真は見たことがある。

 痩せた男は手にビデオカメラを持ち、演説を撮影している。時々辺りを見まわしたりしていることからも、メディア関係者と見えた。狙撃者の存在を知り、今回の演説に可能性を賭けている、そういった感じだ。他の報道関係者は大きなカメラを会場へ向けているが、男は小回りを重視している。目的が演説自体でないことの印だ。

 背の高い男は不思議だった。演説を好んで聞くような人間には見えないが、何をするともなくぼんやりとしている。演説会場や公園一帯を見まわすことはあるが、高層ビルの窓を見上げたりはしない。たまに独りごとを言うように、口を動かす。

 シマノは口元に笑みを作る。パソコンを閉じ、上体を捻った。まず左方向、そして右方向。左を向いたときにはガラス張りの入り口の向こうを長方形のケースを持って通り過ぎていく五人組が見えた。ロシア系の白人で、全員分厚いコートを着ている。いや、コートが厚いのではなくて、その下に身につけている防弾ベストが厚いのだ。ケースの中身はおそらくイスラエル製自動小銃、それの廉価版。シリアルと牛乳くらいステレオタイプな組み合わせだ。

 電話が鳴る。

「はい、情報課」

「警備の者だが、お前は現場に来ているのか? 計画を立てておいてそれを見届けないつもりじゃないだろうな」

「ひどい言い草だ。人が立てた計画を治安維持部隊から取り上げたうえに、その責任まで取れってか?」

「なんでも良いからすぐに来い。今のところ異常は無いな?」

「無い。強いて言うならば武装した外人グループが今ここを通り過ぎたことくらいか」

「おい、なぜ止めなかった!」

「馬鹿言うな暴力は専門外なうえに丸腰だ。怒るなら睡眠学習している警備員を怒れ。場所は並木通り、市役所から百メートル」

「くそ」

電話が切れる。シマノは肩を窄めてから小さく伸びをし、パソコンをしまって立ち上がった。千円札を一枚テーブルの上に置き、リュックを左肩に背負って歩き出す。

「あの、お客さん。紅茶とサンドウィッチは――」

「とっておいてくれ、一年以内に取りに来る」

 遠くで響いた銃声は雑音に埋もれていたが、ヒラギの神経は聞き取るのに十分なほど研ぎ澄まされていた。目立たないようゆっくりと後ろを振り返り、何百メートルも続く細長い公園を見渡すと、十名ほどの警備員が市役所の方向へと走っていた。しばらくすると前進は止まり、ここから七〇〇メートルほどのところで銃撃戦が始まる

 銃声は高らかには響かず、高級車のドアを閉めるときのような音が届いている。両方とも消音器を使用しているのだ。普通の人間がこれを銃声と判断するのは不可能だろう。音の続きからして自動小銃、それも若干旧式の中型ライフルだろうが、消音器で加工された音から細かいことはわからない。

 ヒラギは会場へと視線を戻した。警備員の一人が大日社長に合図を送っている。恐らくはもともと予想できたこの自体のために、民衆に気づかれずに連絡を取る方法を用意しておいたのだ。民間の彼らに超小型無線は手に入らない。

 合図を受けた大日社長は、演説をしながらゆっくりと首を振る。それから民衆に投げていた視線を市役所――あるいはそれよりも遠く、高い位置へと持ち上げて小さく笑った。あたかも狙撃者の技術、あるいは論理的思考を試そうとするかのように。

 銃声はゆっくりと確実に近づいてきている。見ればすでに五〇〇メートルほどの距離まで警備員が後退している。武器だけはしっかりしているが、頼りのない部隊だ。あのろくでもない男が治安維持部隊を抑えつけなければ、すでに制圧している頃だろう。

 ヒラギは歩き出した。真っ直ぐと、戦線に向かう。自動小銃で武装した相手に立ち向かうのに十分な装備をしているとは思わないが、生憎くだらない権力に屈しないだけの向こう見ずさは持ち合わせている。

「ヒラギだな、約束を果たさなかったようだ。上から射殺の命令が出ている」

三十歩ほど歩いたとき、後頭部に銃口のひんやりとした冷たさを感じた。それは金属の性質というよりも、死を隣に持ち込む厄介な物としての冷酷さによるものだった。

「一般人を撃つのか。消音器の無いそのハンドガンで俺を撃てば、メディアの連中がコンドルよろしく飛んでくるだろう」

「情報操作は何とでもなる」

「しかし物理的な問題は何ともならないな」、ヒラギはそう言うと、相手が適度な距離を取らなかったことと、すぐに引き金を引かなかったことに感謝しながら身をひねり、相手の方を向いた。突きつけられていた銃のスライドを掴んで押し下げる。弾頭のついた45口径が一つ、空中へと放り出された。

「ご使用前に取扱説明書をよく読め」

 相手の腹に蹴りを入れる。相手は大日の警備員と同じ格好をしているが、米粒みたいな小型マイクを胸ポケットに着けていた。民間企業の会社員ではないわけだ。ヒラギは倒すと同時に奪い取った拳銃から弾倉を抜くと、それをポケットにしまう。拳銃を公園の噴水の中へと投げ、今度は姿勢を低くして走り出した。

銃声、今度は消音器無しの銃声が高らかに響く。重く沈黙がのしかかり、会場が無音に包まれる。数秒して大日社長が演説を再会し、それとほとんど同時にとてつもなく大きなパニックが訪れた。

「ハロー、サキオリ。今のは聞こえたな、今度は減音器無し。そろそろやらんとまずくない?」

 チャーリーはそう言うと、辺りを見まわした。人々が逃げ場を探して戸惑い、警備員が威嚇射撃を行いながら地面に伏せさせる。そんな状況が続いていた。世界の終わりを見ているかのような声が何百も飛び回っている。「ああ、ああ」

「銃声はこれで二十六発目なのに、まるっきり気づいていなかったんだな。いっそ死んでから気づいてくれれば静かなのに」

「チャーリー、どうしてる」

「どうかしてるよ、頭が」

「――チャーリー」

「聞こえちゃいねえや」、チャーリーは諦めると、大きく深呼吸をした。それからもう一度辺りを見まわして、考えた。

 この群衆が絶望であり、そのうえ主役なのだと。

 ヒラギはかがみ込み、並木通りに停められた車の陰へと隠れた。公園の両脇にある並木通りは細く、また多くの横道を持つ。敵が現れるとすればそこを使うだろうが、問題はどれが敵でどれが味方なのかが分からないことだった。

 戦っていたはずの警備員は全滅している。その仲間は会場付近でパニックを沈めることで手一杯だ。誰かが戦わなければならない――。手に握られているのは一丁の拳銃、旧式のコルト・オート。いずれにしろ、やらなければならないことに変わりはないだろう。

 ヒラギは立ち上がると、車の向こう側でゆっくりと前進してきていた敵に二発ずつ弾を撃ち込んだ。頭部を狙い、確実にトリガーを引いていく。四人が倒れたところでスライドが止まり、弾切れを知らせた。ポケットから奪い取った弾倉を抜き、弾を一発ずつ移し替える。

車に銃弾が着弾し、大きな音を立てている。弾を移し替え、今度は一回ずつトリガーを引く。そうしているうちに横道から数人の警備員が現れ、ヒラギに銃を向けた。これはあまり良いとは言えない状況だった。新たな逃げ場を探すにしろ、時間が無い。

 銃声が鳴る。警備員に変装した敵が倒れる。横道の奥の方から前進してくる見慣れた服装の男たちが見える。それはもちろん、治安維持部隊だった。

「なぜここに?」、ヒラギはカービンライフルを差し出す仲間に言った。

「そういうこともあるんですよ」

「そういうこともあるのか」、ヒラギは満足そうに笑う隊員の肩をぽんと叩いた。

「助かった」

「サキオリ、そろそろだ」

 正直者が言う。狙撃者は湯気のないコーヒーを一口すすってから立ち上がり、M700の置かれた台の前で、椅子を引いた。

「成功すると、思うか」

 狙撃者は振り返らずそう言うと、冷え切ったボルトハンドルを手のひらに乗せた。持ち上げればボルトが六十度回転し、後方へと引けば雷管を叩く撃針が準備を完了する。狙撃者はそれら一連の動きを無意識に行うが、一つ一つの動作の意味に対する尊重を欠かすことは無い。

「レティクルを重ねたところへ弾は飛ぶ。それだけだ」

 正直者は落ち着き払っていた。何よりも計画を大切にする人間であるはずなのに、狙撃者の行動がどういう結果を生み出そうと気にしていない、といった感じだ。ポリマーフレームの拳銃にノートと鉛筆、飾り気のない服やナイロン製の運動靴も、このろくでもないライフルの前に脱力しているのだろうか。

 ボルトを押し戻す。鋭い金属音がして、特注の308winが装填される。狙撃者はスコープをのぞき込む。見慣れた円形の風景の中はまるで別世界のようにかすみ、小刻みに震えながらゆっくりと上下していた。

「時間がないぜサキオリ」、チャーリーが無線の向こうで怒鳴る。会場のすぐ近くで銃撃戦が起きているようだった。

「もう少しだ」

もう少しだ、と狙撃者は言う。丸い世界を区切る十字線は演説をする男に重ねられていたが、それはさっきよりもひどく震えていた。

寒さか? いや、それには慣れているはずだ。

セイフティを降ろし、トリガーを引く。カービンライフルはうなり声と共に細長い空薬莢が吐き出す。敵が倒れるのを確認し、倍率の入っていない照準を素早く次へと合わせる。銃は自分の腕と一体化し、意のままの方向へと生きた金属を送り込む。

ヒラギは無線の周波数を変えて、警備員の通信を傍受した。会場付近まで到達している敵がいるという通信が、実戦経験のない素人たちへと流されている。

「会場を守るぞ、A隊は俺と共に来てくれ」、ヒラギが叫ぶと、戦っていた隊員の一部が隊長の後ろへとついた。姿勢を低くし、二人一組で細い路地をクリアリングしながら群衆の方へと近づく。悪魔のように慎重に、天使のように大胆に。

 会場までの距離は三〇〇メートルほど、人の姿は見えない。本物かどうかわからない警備員も、特徴的なロシア人の顔立ちをしたテロリストもそこにはいなかった。いや――人の姿が見えなくても、そこには新たな敵が姿を現していた。

「正直者、警備会社の無人戦闘ヘリが見えるか?」、チャーリーが叫ぶ。正直者は立ち上がり、狙撃者のすぐ横の窓枠に手をついて観測用の望遠スコープを構えた。

「挙動が変だ、おそらくクラッキングされている」

 正直者の視界の中で、銀色に光りを反射する虫のような物がいくつか飛び回っている。それが無人戦闘ヘリだ。会場の上空でからかうように円を描く姿は、まるで大群をなす猛禽類のようだった。大きさも丁度それくらいで、爪よりもいくぶんか強力な機関銃が載っかっている。

「撃ち落とせば会場に彼らの亡骸が落ちる。ほっとけば危害を加えてくることは、まず間違いないだろうな」

 ヘリの一台が大日社長を避難させようとした警備員を攻撃する。一番重要な人物がそこにいるというのに攻撃せず、まるで他の誰かが暗殺するのを待っている、むしろ助けているようにさえ見える。

 正直者はさりげなく、横目で狙撃者を見た。相変わらずスコープをのぞき込んだまま固まっており、焦りの類は表していない。しかし面の皮が厚い人間の心情を読むというのは、とてつもなく難しいことだ。

「警備員は全滅だ、一般人が暴動に出たら止まんねえぜ」

 チャーリーの言葉に、正直者は低く返事をする。次から次へと不確定な要素が重なり、それに合わせて取るべき行動は姿を変えていく。ノートを真っ黒に染めていた計画はすでに意味を為さなくなり、全ては狙撃者の人差し指、数センチメートルの動きの上で綱渡りを始めた。

 これ以上やれることはない、と正直者は思った。あとのことはこの気まぐれな男と、呑気なライフルに賭けるしかないのだ。

 会場へとたどり着く。すでにテロリストの姿は無く、上空で無人戦闘ヘリが輪を描いているだけだ。大日社長はその場に伏せ、動かない。混乱の中、狙撃者の308winがどこかへ着弾するわけでもない。警備員は全滅し、パニックに陥っていた群衆はすでに言動を失って地面にくたばっている。

 何もかもが混沌としていた。いったい何が想像通り進んだだろう。一ミリのずれさえ許されない長距離狙撃はこの混乱に敗退してしまったのか。では誰の手に勝敗が渡されたのか。大日石油、自分を殺そうとした裏の部隊、狙撃者にメディア、治安維持部隊。どれもしっくりと来ない。

 ヒラギは空を見上げた。そこには勝ち誇ったように飛び回る警備会社の無人戦闘ヘリがあった。円を描きながら、段々と高度を上昇させている。何か不吉な予感だけをそこに残して。

空が広々と感じる。何の障害物も無い空は――。目尻の辺りに一瞬の痙攣が走る。振り返って市役所を見れば、会場とその間を遮るものは何一つ無かった。

「市役所に突入する班があったはずだよな、警備会社のやつらで」、ヒラギはすぐ隣にいた隊員に聞いた。

「ええ、まだ狙撃に備えて装甲バンに待機しているはずです。そろそろシマノが合図を出し、突入する頃だろうと思います」

 胸騒ぎがする。心臓が規則的なリズムを崩し、不定な量で血液を送り出し始める。視界が正常な速度を失った。0.6倍したような速さだ。

 不意に心臓に爪を立てるような叫び声が聞こえた。若干の距離、開けた場所からの声。会場の台の上で一人の男がナイフを振りかざした。見たところは一般人のようだ。

大日社長がすんでの所でナイフかわし、取っ組み合いが始まる。ヒラギは照準器に倍率を入れて銃を構えたが、見るからに二人の動きは大きすぎた。忙しく前後が入れ替わっているために、大日社長を撃ちかねない。しかしこの取っ組み合いも長くは続かず、悲惨な結果へとリードされていくだろう。

ヒラギはトリガーに指をかけた。じっくりと息を殺し、撃つことのできる瞬間を待った。

「気が違った一般人だ、大日を襲っている」

チャーリーからの通信。とてつもない騒音が段々と絞られていく。

「サキ――どう――る」

急に連絡が途絶え、ノイズだけが残される。それも騒音とは別の、周波数が合っていないときのような音。それが終わると、完全な無音が訪れた。電源が切れてしまったようだ。

スコープの中の世界は紛れもなく、揺れ続けている。何かが間違っているというのか、それとも意中にためらいがあるというのか。

ヘッドホンの向こう側で集音マイクの電源を入れる音が聞こえる。ぼんやりとした騒音が流れ、しばらくしてから聞き覚えのある声がした。

「ずいぶんと引き金が重いようだ。それともびびって撃てなくなったか、狙撃者のくせに。なあ、サキオリ」

低く、どうしようもないほど落ち着き払った声。全てが計画通りに動いている、そういう考え方が滲み出たような声。

「足りてない。お前にも分かっているはずだ」

狙撃者は何も言わない。代わりに正直者が口を開いた。

「お前は、誰だ?」

時間が沈んだ。遠くから聞こえる騒音がまるで違う世界のことのように思えた。ありえるはずのないわりに絶対必要とされている状況が、どこか別の次元で展開されているようであった。

少しの沈黙、そして声。

「通りすがりのハッカーだ、正直者」

 スコープの中で大日社長が押され始めているのが見える。そろそろ時間切れになると直感が呟いていたが、呼吸は安定する気配を見せない。それどころか、落ち着けようとすればするほど暴れたがる。引き金にかけた指は無感覚になり、その引きが途方もなく重いようにも軽いようにも思えた。

 落ち着け、まだだ。

 ヒラギは人差し指へ一番小さい分銅一つ分ほどの力を上乗せする。もう一つ乗せれば弾が発射され、ナイフを持つ男か大日社長が倒れる。

 もう一度、呼吸を――。

「サキオリ、どうする」

正直者が言った。狙撃者は返事をせず、引き金を絞る指に力を加えていった。確実なタイミングを直感が探している。心臓はゆっくりとリズムを打つようになる。やがてスコープの中の世界が揺れるのを止め、何かを確信したようにずっしりと安定した。

「任せろ」

大きく重たい音が響き、銃弾が細い銃身を飛び出した。反動はほとんど無かった。弾頭が自らの意志で動いたかのようだった。

金属の塊が、熱と共に空気を切り裂く。

 ヒラギは構えた銃を降ろした。それは男が大日社長を突き飛ばし、ナイフを振りかざした瞬間だった。男がその場で固まり、一息置いて重々しい308winの銃声が聞こえる。それは間違いなく狙撃者の放った一発だった。

 振り返る。市役所は先ほどとまったく同じ姿勢でこちらを見下ろしている。ヒラギが見たのはその左奥にある、背の高い県庁だった。照準器の倍率を高くし、角部屋を下から順番に見上げていく。上から三番目の部屋の窓がわずかに開いているのが目に飛び込んだ。

「ちくしょう、倒れたのは社長じゃない」

いつの間に回復していた通信の向こう側で、チャーリーが叫んだ。正直者が大きく息を吐いてからゆっくりと喋り出す。

「チャーリー、そこを出てくれ。計画通りの地点に集合だ。聞いているか、ハッカー野郎。ここからの動きはどうなっている……おい」

無線機が鳴る代わりにドアが開いた。立っていたのは、同年齢かそれよりも少し上に見える男だった。銀色のメガネを掛け、髪を無造作に伸ばし、灰色のパーカーを着ている。

男は黙ったまま、パーカーのポケットから手を抜き出そうとした。

 正直者は自分の拳銃を鞄の上に置いたままであることを思い出す。男の手に拳銃が握られていたならば、狙撃者の動きが間に合わなければ、自分か狙撃者のどちらかが消されるだろう。

背筋を電流のようなものが這う。その瞬間に、目の前でフライトジャケットの裾が風を切った。サキオリは、こいつは、ファースト・ドロウを生きてきた日数分ほど経験している。どんな不利な状況においても、ろくでもない小さな突破口を見つけ出してそいつをすり抜ける。いつもならそれでなんとでもなった。しかしこのハッカーは――。

小指が金属に触れる。もちろんそれは、拳銃のグリップ。ほとんど同時に親指が払ったのは銃を押さえるベルトのボタンだ。柔くなった革製のホルスターは何の抵抗もなく拳銃を吐き出せる状態にある。

サキオリは何千と繰り返したその動作を終えると、手首にスナップをかけ、精一杯の力で銃を目の前へと持ち上げた。

M92FSは男の額に照準を合わせてぴたりと静止する。そしてその弾道を遮るものは、もう相手が構えたM92FSだった。

二丁の同じ拳銃が、銃口を突き合わせていた。いや、突き合わせていたのは似たり寄ったりな外見を持つ、二つの全く異なる価値観だった。

正直者は拳銃を抜こうとしたが、その必要がないことを悟り、止めた。

「シマノ」、十数秒の後、狙撃者が言った。

「お前の計画は穴だらけだ、サキオリ」

シマノはなんともなさそうに言うと、ポケットから携帯電話を出し、いくらかの操作を経た後にそれを耳へと当てた。

「俺だ。突入班を入れろ」

正直者は鞄の上から拳銃を拾い上げ、その銃口をシマノへと向ける。ハッカーは何も言わずに微笑むと、黒い携帯電話の通話音量を上げ、スピーカーを正直者の方へ向けた。

<突入した。くそ、ライフルだけが残されている! 狙撃者はどこへ逃げたんだ>

<水路でもなんでも良い、抜け道となりそうな場所全てを塞げ。急げ!>

「さあ、行くぞ」、シマノは電話を切ってからそう言うと、扉から出て行った。狙撃者は正直者と目を合わせて、行こう、と言って後に続く。正直者は呆れて大きなため息を吐いてから部屋を出た。

「県庁だ、やつは県庁にいる」、ヒラギは周波数を警備員の無線に合わせて叫んだ。しかしその叫びは途中で掴み取られてしまったかのように無音へと消え、突入班に届くことはなかった。再び背の高い建物へと視線を走らせる。距離は丁度一キロメートルといったところだった。とんでもない距離の狙撃だが、今となってはどんなことでも信じてやれる気がする。常識なんてものは火の点かないライターほどにも役に立たないのだ。

 ヒラギは走り出した。間に合う自信は無かったが、何もせずに見逃すほど心の余裕も無かった。とにかくやれることはやるしかないのだ。汗が滲んで流れ、視界をぼやけさせる。それが回復したとき、目の前に一人の誰かが飛び出してきていた。

 カービンライフルを投げ捨て、拳銃をホルスターから抜く。足で体の動きを止め、肩が射撃のフォームを作ったのとほとんど同時に、相手が五十口径の銃口をヒラギに向けた。

「銃は無しといこう」

 そう言った目の前の男には見覚えがあった。大日石油の工場で捜査をしようとしていた治安維持部隊を追い出した連中、その指揮官だ。例の不気味な笑みを浮かべたままこちらを見ている。

二人同時に拳銃をホルスターに戻す。ヒラギはそれと平行して、目線をそらさずに右足を蹴り上げた。よほど接近戦に慣れ親しんだ者でない限り、この奇襲をかわすことはできない。右足が衝撃を受ける。しかしそれはさんざん受けてきた柔い感覚ではなく、ある程度の鋭さを持った反動だった。見ると、蹴りは手のひらで押さえられていた。

 男が掴みを入れる前に足を引く。一歩手前に下がって距離を取ると、一瞬で詰まりかけた呼吸を取り戻す。男が刃渡り十センチほどのサバイバルナイフを腰辺りから抜いた。左手を前方に出し、ナイフを持った右手を後方に引いて構えを作る。ナイフは低い位置で水平に倒した状態で構えられていた。ブーツが地面を蹴る鈍い音が聞こえ、男が獣のような速さで突進を始めるのが見える。

 男が右手に持った冷酷な刃がヒラギの心臓辺りをめがけて突き出された。身を捻り、鋭い金属がガウンの表面を切り裂くのを感じながら、相手を受け流す。そのままかがみ込んで、脛に着けたケースから細いナイフを抜く。立ち上がるのと同じ軌道で、振り返ろうとする男の頸動脈へと刃を旅させる。

 金属の衝突音。ナイフが弾かれ、気づいたときには相手はさっきと同じ体勢を作っていた。ヒラギは眉間にしわを寄せ、またしても一歩手前に下がる。両肘を直角に曲げて脇を締めて、刃を高い位置に構える。目の前の不気味な男は防刃防弾のベストを身につけていた。中途半端な斬りつけに意味は与えられない。

 もう一度、突き。今度は若干無防備な緩いスピードの突きで、ナイフは斜め上方を向いている。突きと見せかけて別の動作に切り替えるつもりかもしれない。ヒラギは身を引き、右足でナイフを蹴り落とす。確かな感覚がブーツの底から伝わり、メッキのような銀色の刃が、空中で光りながら回転した。放物線を描いて左方向へ飛ぶその脅威を見送り、ヒラギは再び前方に視線を戻す。そのままの勢いを利用して体を回転させ、左足の踵を蹴り出した。相手が一歩身を引いてそれをかわす。

 冷や汗が手の中に、じんわりと滲む。左足を一歩踏み込んで、水平な楕円形を描くようナイフに突き出す。切ったのは相手の残像だけであり、手応えは無い。

 敵が見えない。いや、やつはしゃがみ込んでいて、次は強力な打撃を加えてくるつもりなのだろう。しかしその位のことに耐えられる自身はある。だが――ヒラギは視線をわずかに落とした。男の左手は攻撃に出ていない。腰の辺りで小さく手首をスナップさせ――。

 その手にはサンドブラスト処理をされた、つや消し黒の細いナイフが握られていた。持ち主に似た性格の悪いやつだ。次の瞬間にはやつらは同化し、このあくせくした心臓を突き上げるはずだ。対処のしようがない。

 ――くそ!

 諦め時か、ヒラギがそう思った。しかし、何も起こらなかった。相手はナイフの刃を心臓の中心、その手前で華麗なまでにぴたりと静止させると、すぐに身を引き、一瞬立ち止まってヒラギに嘲笑を送ってから細い路地へと消えていった。

 ヒラギは少しの間その後ろ姿を目で追い、それから県庁へと意識を投げた。隊員が周りに集まり、同じように県庁を見上げる。

 遠くから響くサイレンも報道局のヘリも、全てまとめて無気力の象徴のように見える。誰もが予想した事態が誰も予想しなかった形で起きてしまった今、次に取るべき行動を知る者はそう多くないだろう。

 黄色い風が吹く。太陽が冷たく冷えた全てに温かな光を送り、“始まり”のイメージをくっきりと浮かび上がらせる。それは地上絵のように不滅で、巨大なイメージだった。

第四章

「つなげてくれ」

拠点を無くした犯罪者四人組はその日の夜、車内ライトで照らされた明るいワンボックスの中にいた。まずはこの中途半端に狭い空間から抜け出すのが必須だったが、そのためには公安がどれほどの情報を掴んでいるかを知る必要がある。

ノートパソコンの画面に映っているのは、監視カメラからの映像と音声だ。シマノが特別調査班の会議を盗んでいるのだった。

<撃たれた男から摘出された弾頭はかなり変形していたが、回収されたライフルから撃ち出された物と断定された。つまり狙撃者は市役所にいたが、銃撃後すぐに、何らかの方法でそこを抜け出したと言うことになる>

「どうやったんだ?」

なぜ自分が撃った弾がカモフラージュ用のM700と一致するのかが、狙撃者には不思議で仕方なかった。銃のバレルにはライフリングと呼ばれる渦巻き状の溝がついていて、弾頭はそれに合わせた傷――線条痕がつく。しかしライフリングは一つずつ微妙に異なっており、同じ銃から撃たなければ一致しないはずなのだ。

 シマノは狙撃者の考えていることを察したのか目が合うと少し笑みを作った。

「ある射撃場で一発だけ、砂に刺さった308.winを見つけた。そいつから作ったデータと本物のデータをネット通信上ですり替えたんだ」

狙撃者は呆れを混ぜて笑った。そして射撃場で見た、零れ落ちる砂の光を思い浮かべた。いずれにしろ、どういった反応をすれば良いのか知れたものじゃない。

<市役所に残されていたM700の入手源は分かっていない。おそらくは前日の件と同じ狙撃者の物だろうが、カモフラージュの可能性もあるだろう。治安維持部隊の情報課には連絡したか?>

<長期の休暇を取るとかで国外にいるらしい。携帯電話を置いていったのか、連絡はつかない。まだ事件は解決していないってのに何をやっているんだ!>

缶のコーラを飲んでいたチャーリーが笑った。「国外だとよ」

「俺の車もやっと独立国家として認められるようになったか。まったくお前さんは分からない人間だよ、シマノ。信頼できそうな髭面してるしな。結局なんなんだ?」

「俺のオールド・フレンドさ。それもいわくつき」

狙撃者はジンジャーエールのプルタブを起こして十ミリリットルほど口に含むと、辛さも何もないその貧弱な味にうんざりした。飲むのを止め、缶をドリンクホルダーに戻して横になる。やはり瓶の辛口ジンジャーエールでなければ飲む価値は無い。

椅子を全て収納した車内は驚くほど広かった。運転席と助手席は一八〇度回転して後ろに下がり、車の中は大きな長方形の空間となっている。二つしか椅子がないうえに屋根が低く出入りがしにくい車に乗っている狙撃者にとっては、本当に国と呼んでも良い代物だった。

「で、どうすんだ? 大日社長もさぞかしびっくりしただろうから、演説はもうやらないだろうな。警備も厳重になるはずだ」

しばらく間を置いてチャーリーが言った。確かにそうだった。一件が終わってから既に半日が過ぎようとしていたが、ピザを食べるやらコーラを飲むやらで、誰もこの先どうするかを考えていなかったのだ。

「どうするシマノ」

「ん、考えている」

「なるほど。それはこれからのことについて考えているということか」

「おそらく」

正直者とシマノは短い会話を交わし、すぐにお互いの作業に戻った。シマノはパソコンと向き合い、正直者は何かをノートに書き出している。チャーリーはコーラを飲む。

狙撃者はライフルを分解して一つ一つのパーツについた汚れを丹念に落としていた。しばらくその作業を続け、それが終わると目を閉じて車のボディに寄りかかった。

――沈黙。聞こえるのは鉛筆がノートを擦る音に、パソコンのキーボードを叩く音。それらはまったく異なるようでいて、奇妙な共通性を持っている。

「サキオリ」

数分が経っていたか、あるいは数秒しか過ぎていなかったか、とにかく自分を呼ぶ声が聞こえた。シマノが、上着を羽織っていた。「コーヒーを買いに行こう」

一瞬にしてライフルを組み立て、ケースにしまう。それから茶色の上着を背に回した。いくら広いとは言え、流石に車内で大きく動くのは辛い。そんなことを考えながら袖に腕を通していると、正直者と目が合った。狙撃者は意識のレベルでしか認識できないほど小さく頷く。

ドアを開けると、どっしりとした凍った空気が車内にもぐりこんできた。

 ヒラギはありったけの予備弾倉を鞄に詰め込むと、拳銃をホルスターへと滑らせた。一トントラック張りの重さになってくれることを期待していたが、鞄は気が抜けるほど軽々としている。つまり予備弾倉は五つしかないのだった。

 思ったよりも、少ない。荷物をまとめながら思ったのはそれだった。筆記用具とノート、資料。それから拳銃に予備弾倉。他に何かあるだろうか? いや、何もない。多分やって

得たものもそう多くはない。

「やっぱり行ってしまうんですね」、いつの間にかオフィスに入ってきていた一人の隊員が言った。この事件の切れ端を見事に掴み取った人間だ。

「俺はやはり、一人の方が良いようだ。死ぬ可能性は増えるが」

「部隊は?」

「責任は全て俺の方に回しておいた。君らは作戦中止命令が出ていることを知らなかった、そういうことになる。俺はこのちっぽけな命を抱えて一人旅をするよ」

「狙撃者を追うつもりですね」

「俺は拳銃を不法所持した一般市民となる。警察から追われ、裏の組織から命を狙われるだろう」、ヒラギはそう言うと自然な笑みを浮かべる。

「正直自分でもよくわかっていないんだが、俺は狙撃者を追いたいと思う。漠然としたいろいろなことの答えがそいつにあるような気がしてならないんだ」

 隊員は目を細めて笑う。声にはならないその笑いには、あらかじめの予測からくる呆れと若干の心配が混ぜられている。

「やり直しですね」、とその若い隊員は言った。

「完成しかけたものを更に良くするために作り直すというのは、勇気のいる行為です。どうやらうちの元隊長は非常に勇敢な人のようだ」

 真剣な表情、浮かんでいた笑みは消える。

「命を捨ててしまうほど勇敢でないことを祈ります」

「それで? どういうつもりなんだ、シマノ」

狙撃者は自動販売機で買った缶コーヒーの栓を開けながら、言った。七十度ほどで保温されたコロンビア・ブレンドを一口啜ると、昔は泥水みたいに不味かった缶コーヒーが若干改正されていることに気がついた。

「どういうつもりもなにも、缶コーヒーを買いに来たんだ」

「どうして俺達に協力する」

「協力? 馬鹿なことを言うんじゃない、俺はお前の狙撃を止めて、ピザをおごってもらい、ノートパソコンと戦っているだけだ。どこで俺が協力をした?」

シマノは近くにあったバス停のベンチに腰かけると、コーヒーの缶で両手を温めながら言った。狙撃者も腰を下ろす。

「お前は面倒なことが嫌いなはずだろ、シマノ」

「最も憎むものではある」

コーヒーから上る湯気は、暗い空気中に散らばって消えていく。田舎であるはずのこの場所にも明かりが無数に存在し、それが湯気を白く照らし出していた。山が連なり、この寂れた村を覆い隠している。電気が通っているのが不思議に思えるような場所。セントラル・シティまでそう離れていないのに、とてつもない差だった。しかしこの村は好きだ。便利さだけを追求した都会の傍らに、人としての重要な何かを残した村が存在する、それ自体が特別な感情を生み出すものだった。都会と田舎の良し悪しを言い出せば、人間が進化を望み続けること自体が良いことなのか悪いことなのか考えなければならなくなるわけで、そこについては言及しないことにしていた。

狙撃者は缶の栓を抜いてから、ゆっくりと口を開く。

「お前は自分が生きていると、確信を持てるか?」、言葉を選びながら、慎重に。

「生きることは易くない。自分が生きているということを証明することは不可能だ」

シマノは少し間を置いてからそう答える。相変わらずの無表情。狙撃者にとってはそれが一つの疑問であり、また、安心でもあった。

「このところ大勢の人間が生きること、いや生きようとすることを止めた」と、少ししてから狙撃者が言う。

「この国は豊かで、ひどくたくさんの物に溢れている。なんとなく日々を過ごしたとしても大人になれる。大きな流れに身を任せていれば生きていける時代になったんだ。情報を受け取るにも物を消費するにも判断を代行してくれる大きな流れに」

「豊かさから生まれた一つの生活方法。そういう中で努力した人間が流れを操作する、それが現代の構造だ。当然としてできあがる結果」、シマノが言う。

声は、夜の中へ沈んで消えた。それでもなおその重みは厳密に伝えられ、狙撃者はそれらが与える影響力にもう一度感心した。

「シマノ。俺にはその大きな流れのたどり着く先が破滅であるとしか思えない。思考の停止、そして受動的な快楽と自身のイドだけに従って一生を終える。それでは意味がない」

「生憎、社会の行方には興味がない。いや、あるいは興味があったとしても、第三者がそれを変えるのは不可能だ。第一人者の自覚を経て、初めて変化は訪れる」

シマノは湯気が消え行く先を見つめている。狙撃者の答えを待つように、故意的な沈黙を作る。狙撃者はそれを横目で見ながら、口を開く。

「俺達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。俺はそう思っている」

 シマノが視線を折り、狙撃者の方へと移した。

「シマノ、お前が言うことは分かる。しかし俺は信じている。人は二度生まれる、一度は存在するために。問答が第二の誕生へのきっかけと成り得る」

シマノは今になって初めてコーヒーを啜る。そして口を開いた。「なるほど」

「俺は生きるか死にたかった」

妙な感覚。その一言が入ってきた瞬間に、体中が内側から引き伸ばされるような不思議な状態がやってきたのだった。息苦しさのようなものを押さえながら、無理に笑みのようなものを作る。「そいつは隠喩としての話か」

シマノは表情を変えない。

「そして今がその時だと気づいた。おそらく大勢の人間が今まで作り上げた何かを捨て、自分が生きていることを証明しようとしているのだと。それに参加しようと思った」

 狙撃者には分からなかった。何が分からない? それさえも曖昧だ。隣で腰掛けている男が考えていることが自分を混乱させていることだけが分かった。

「根拠を探して結びつけて解答欄を埋める。数学とまったく一緒だ。お前だってそろそろ挑戦してもいい頃だろ、どうせいつも白紙で出したんだろうからな」

シマノはそう言うと、少し笑った。その笑みには説明し難い確信があった。

「お前は数学で全てを処理するつもりか」

「お前のやり方には不足がある。だから俺はお前の行動にちょっかいを出しに現れたんだ」

狙撃者はシマノの方を向いた。数学者は真っ直ぐを向いたままコーヒーを飲みほすと立ち上がり、空き缶を回収ボックスに投げ込んだ。車の方へ向かって歩き出してから、振り返らずに言う。

「この世で唯一確かなものがあるとすればそれは、全てが不確かであることだ。それがお前の言い分だな。悪いがくつがえさせてもらうぞ」

シマノの表情が気になるところだったが、計画済みか偶然かシマノは振り返っていない。狙撃者は立ち上がることなく少しだけ残っている冷えかけたコーヒーを飲み干す。いくら味が改善されたといってもぬるくなった缶コーヒーはその価値を失っていると言えるだろう。

車からわずかに声と笑いが聞こえる。チャーリーとシマノが話しているのだった。

「長かったな、いつから缶コーヒーが五〇〇ミリリットルになったんだ?」

「マグマみたいに熱かったんだ。冷ます時間でサキオリと数学の話をしていた」

「やめろよ、俺は数字が大嫌いなんだ。お金は除いて」

狙撃者は鼻で笑い、コーヒーの缶を回収ボックスに投げた。

 部屋は捨てられた物独特の雰囲気を放っていた。妙な臭いもどこからともなく漂ってくる。錆とカビの臭いだ。だが同時に、存在のにおいもする。ハヤマは目を細めた。この部屋は使われていないと聞いたが、そこには明らかに、人のいた痕跡がある。痕跡というよりは、気配かもしれない。

 かがみ込み、絨毯を低い位置から見る。陰になっていると分からないが、日光の落ちる場所には足跡が浮かび上がっている。四角く切り取られた日向の世界で、影が明るみに曝されているのだ。

 会場の混乱の中――。ビデオカメラは映像を記録し続けていた。発狂した男が撃たれてから銃声が聞こえるまでの時間差も残っている。計算すれば狙撃者のいた距離が出るらしいのだがもちろん、ハヤマにはそのようなことを可能にする知識がない。直感に頼って予測をし、たどり着いたのがこの建物だった。

 窓へと歩み寄りアルミのサッシへ手をつこうとする。すんでの所で止める。埃被ったつや消し銀の中に、自分のよりも一回り大きな手形が残っていた。

音を立てずに窓は開く。スムーズに、なんの滞りもなくただ必要な分だけ横へとスライドする。会場はとてつもなく遠かった。人は蟻とも比べられないほど小さく、わずかな点としてのみ存在している。同じ世界として扱ってはいけないほど大きな距離だが、そこに狙撃を遮るものは無い。

「そこから撃てるか?」

 不意に声がした。背筋が凍り付き、振り返ることを邪魔する。同時に駆けめぐった想像は、その相手が狙撃者で、自分に拳銃を向けているといったものだ。しかし厳密にイメージしようとすればするほど、その映像に狙撃者がしっくりと来なくなる。

 やっとの思いで振り返った先にいたのは、無表情にこちらを見る、自分よりも少しだけ年を取った男だった。細い眼鏡をかけ、二日間外に掛けておいたといった感じのワイシャツを着てその上にガウンを羽織っていた。ワイシャツのチェック柄は所々、小さな皺で歪んでいる。

「僕にはわからない」

 相手はわずかに微笑む。いったいこの男は何者なんだ? ドアを開ける音、足音、衣服の擦れる音、全てを消すことができる。それなのに殺しのプロといった雰囲気はない。

「もしもお前が狙撃者だったら、ここから撃とうと思うか?」

「僕は狙撃についてよく知らない。だからどの距離までが狙撃可能な範囲なのかも分からない。だから、ここから撃ったと考えたんです」

 男は笑みをまた少し大きくした。「なるほど」

「なぜおおよそ誰もこの場所に注目していないか。それは皆お前さんとは違って、自分の考えの中に常識と呼ばれる枠を作っているからだ。俺も初めは一〇五〇メートルの狙撃など信じていなかった。しかし昨日の事件でよく分かったよ、世界に枠なんて物が存在しないんだとね」

「……あなたは?」

「大きな分類で言えば、公務員だ」

「小さな分類で言うと?」

 男は眉間に皺を寄せて、視線を斜め上方へと浮かせる。少し考えてから視線をハヤマへと戻し、言った。

「ヒラギだ」

外から、鳥の声が聞こえていた。少しだけ開いた窓から入ってくる空気は信じられないほど冷たく、朝の空気は鮮やかに辺りを包んでいた。緑色に変わった山の木々達も、これからは冬に向かって枯れていくのだと正直者は考えた。出来るときに出来ることをしておくべきだ。

「計画が出来た」

シマノがノートパソコンに向かったまま、呟くように言う。シマノは四人の中でただ一人、睡眠をとっていなかった。正直者は少し前に目を覚まし、ぼんやりとしていたのだった。チャーリーと狙撃者は要するに、朝に弱い。

「正直者、計画を話す。後で起きた連中に教えてやってくれ、あいつらは一生の半分を寝るつもりでいるからな」

「わかった。始めてくれ」

正直者はすぐ隣に置いてあったノートを膝の上で開き、鉛筆をその上に立てるようにして持った。

「半年以内に大日に関わる全ての悪事をいぶり出す」

「まいるね」

鉛筆を持った右手で頭の後ろの方を掻く。

「……まいるね」

「全部を308winで狙撃するわけじゃない。サキオリ氏の大嫌いなメディアを有効に使う」

三回目のまいったを言おうとして、止めた。確かに単純な話だった。逆に単純すぎて、本当に成功するのか不安になれそうだ。しかも理にかなっているというか、今のところそうするしかないような気もする。

「本当に成功するんかね。確かに目的と合ったやり方だが」

「聞くな、説明するのが面倒くさい。後でデータを読め」

「遠慮する、他に手はないから根拠なんて無いくらいが丁度良い。サキオリ」、正直者は大きめの声でそう言い、後ろで横になっている狙撃者の方を見た。

「聞いていた、まったくもって冗談じゃない計画だ。それを考えるのに一夜漬けだったのか、シマノ?」

「九割だけ遊んでいた。許せ」、三人は笑い、その声でチャーリーが起きる。2

「お前ら俺を抜いて朝飯食ったなんて言うんじゃないだろうな、オールド・フレンド?」

「言わない。しかし聞けば腹がいっぱいになるような計画をシマノが考えてくれた」、狙撃者はそう言ってもう一度笑う。シマノが真顔になる。「馬鹿言うな、俺はまじめだ」

「半年以内に、日陰の悪事を全ていぶり出す」

チャーリーが目を細めると、沈黙が訪れる。言った本人のシマノが耐えられなくなり、笑った。

「すると、最初にいぶり出されるのは俺たちだ」、正直者が言った。

「彼らが次に何をするか」

 ヒラギはそう言って、窓枠に両手をついた。先ほど見た痕跡を見事に避けている。

「あなたは、狙撃者について何かを知っているんですね」、ハヤマは言った。もしかすればこの謎の男は、狙撃者たちと近い位置にいる人間なのかもしれない。

「少ない情報を精一杯掘り下げている」

「僕も一緒に行動させてもらえませんか」

「嫌だ、足手まといになる」、ヒラギは無愛想に言う。

「僕はジャーナリストです。地道なデスクワークなら誰よりも地道にこなせる自信があります」、ヒラギは振り返らない。

 沈黙が訪れた。ハヤマはその場で返事を待つ。ヒラギは何かを考える。

「そういえばお前さんはジャーナリストか」

「ええ」

「記事を書くつもりか」

「そうですが、許される範囲で結構です」

「なるほど」、ヒラギがもう一度思案に更ける。しばらくして、音無く振り返ったその男は、一度だけ頷いた。

「手を組もうじゃないか、ハヤマ」

「なぜ名前を知っているんです?」

「そんな気がしたんだ。身分証のついた雑誌社の車は目立つ、何か代わりを用意するか身分証を外せ。俺はバイクを使うが」、ヒラギはそう言ってポケットからHのマークが入った鍵を取り出し、出口へと向かう。ハヤマは自分の運に感謝しながらその後に続く。

部屋のドアを閉めたとき、その音が自分の旅が始まりを示したように聞こえた。

「我々にはある問題が迫っている」、車を出るとすぐにシマノが言った。

「つまり朝飯が無い」

「切実な問題だ」、狙撃者が言う。

海よりも深い沈黙が空気を湿らし、それを見計らったように鳥の鳴き声やら枯葉のささやきやらが届けられた。小動物の鳴き声も混じっているのは、ここが素晴らしく田舎であることの証拠だ。

「素晴らしい提案がある。正直者とシマノで計画の具体を決めて、俺はライフルを持って山に入る。その間に挫折調理師チャーリー君は薪を探して、俺が獲った獲物を担いで帰ってきた時点で調理をする。どうだ。調味料やら乾燥した物やらはワンボックスにわんさか詰まっているからな」、狙撃者が楽しそうに言った。

正直者とシマノは黙って頷く。

「これじゃ二時間走って峠を越えて街に戻ったほうが早いな」

狙撃者がライフルを持って山に入り、チャーリーが薪を拾いに出た頃にシマノがぼんやりと言った。

「あいつはただ狩りがしたいんだ」

正直者は呆れたように呟き、もう一度ノートを開く。

  スコープの中、丸い世界で動く物が見えた。最近増加した、体の小さい草食動物だ。子鹿と狐を混ぜたようなすばしこい動物だが、急に繁殖したうえに出所が分からないことからおそらくは外来種だろうと言われている。肉は脂気の無い素っ気ない味だが、だからといって鹿などという高嶺の花を追うのは時間がかかりすぎるだろう。

 十字線は狂い無く、そのターゲットへと重ねられている。弾はすでに装填されていて、引き金はその残す数ミリばかりの余地が愛想を尽かすのを待っている。しかし、銃声はまだ響こうとしない。

 狙撃者はあることに気がつく。すなわち自分が容易に引き金を引けなくなったということだ。人差し指を押し込むその度に、その行為が何を意味するのか入念に考えなければならない。妙な癖がついたものだった。

 そして、今まさにその弊害がやってきていた。

 チャーリーは乾燥した流木の十二本目を拾って抱きかかえたコレクションに付け加えると、何かを迷うように数秒立ち止まり、全てを砂利の上に置いた。大きな伸びをしながら狭い河川敷を見回し、それが終わると今度はくしゃみをする。

 未だ山から銃声は聞こえない。それがどういう理由かは分かっている。やつは狩りをしたいと自分で思いこんでいるくせに、本当は動物を撃つのが嫌いなのだ。撃つと決めた人間は確実に仕留めるくせに、相手が動物となると尻込みしてしまう。

 やつは全てのことに意味を必要とする。原因や根拠とは違う、もっと抽象的で精神的なものだ。結局全てが感情に左右される。多分それがやつの弱点となる。チャーリーは目を細めて山の方へと視線を投げると、もう一度くしゃみをした。

 相手は自分をからかっている、とサキオリは思った。視線をこちらに向け、試すような表情で笑っている。やつをしとめるにはこのトリガーを引けば良い、それはわかっていた。ただ単にトリガーが固いのだ。

 これは生命が始まったときから続いているシステムだ、どちらかに責任があるわけではない。責任の無いものに自由は無い。

 チャーリーは真剣な表情で何かを狙撃者に手渡した。

「良いか、チャンスは――」

「二度欲しい」

「一度だ」

 狙撃者はチャーリーの方を見て眉間に皺を寄せた。「おい」

「お前はどうしていつもそうへそ曲がりなんだ。俺が右と言えば斜め右と言い、俺がカリフォルニアだと言えばオハイオだと言う。アマノジャクめ」

「いや、アマノジャクではないと思うぞ。というかおいサキオリそろそろだ」

 すかさず取っ手に手を掛ける。

「待て! 早まるな」

「ばーかファルファッレってのはな、真ん中に少し芯が残っているくらいであげるのがコツなんだ。分かるか」

 お湯をザルにあけた。チャーリーは不満そうな顔をする。狙撃者は構わずにオリーブオイルを手に取ると、蝶の形をしたパスタに満遍なくかけた。

「エキストラ・ヴァージン。良いオイルだ」

「もうちょっとケチれよ、高いんだぞ」

「うーむ、良い香りだ」

パスタを鍋に戻し、刻んだ黒オリーブを放り込む。ハーブ入りの岩塩を振りかけレモンを搾ると、それをチャーリーに差し出した。「あと頼む」

「おい」

「俺はアンダルシア料理が食べたい」

「何?」

「アンチョビの酢漬けさ。ワンボックスの冷蔵庫にあるはずだ」

シマノは携帯電話を手に取り、五回目のコールが鳴り終わった後に通話ボタンを押した。かけてきた相手は、前にシマノが狙撃者について尋ねたアメリカの知人だった。

「シマノか」

「俺に聞くな」

「サキオリについて何かわかったようだな」

「ああ、お友達になれたよ。どうしてそのことを?」、シマノは眉間に若干のシワを寄せた。いくら昔からの知人でも、自分達の動きや計画が洩れているのなら、それを放っておくことはできないだろう。

「……サキオリのことをここ、米国傭兵部隊に尋ねたジャーナリストがいる。サキオリと、数人の仲間の存在に感づいているようだった。その中にお前さんが含まれているんじゃないかと思ってね」

「大当たりだ。みんなで仲良くテロリスト」

「それで、だ。一応スナイパーの特集だとか言っていたが、ありえないだろう。サキオリは部隊の中では伝説的だったが、一般にその名が知れ渡ったことはない。つまりはお前以外にもなかなか良い線まで掴みかけている人間がいるってこった」

「そうか。そいつは相当頭のキレる人間だな。で、ジャーナリストってのは?」

「分からない。だが周りの動きには注意するに越した事はないし、調べてみるのも良いかもしれない。それだけだ」

「そうか、感謝する」

シマノは携帯をポケットに滑らせると、再びノートパソコンの電源を入れた。無線インターネットに接続し、同時にあるソフトを立ち上げた。テロ対策部隊に売りつけようという企みで作ったソフトだ。いつかから大国が使っているものと同じようなもので、自称それの高精度廉価版だった。

しかし効率が悪すぎる、とシマノは思った。サキオリやシマノといった語句はそれこそ星の数ほど存在し、まったく関係の無い通信記録まで全て拾ってしまうのだ。リストアップされていく通信記録は実に、何千にもなった。この効率の悪さをなんとか改良しなければ、部隊に売りつけるのは不可能だろう。いや、テロリストからソフトを買う部隊があるのだろうか。

諦めようと思い始めた頃、一件の興味深い通信記録を見つけた。明らかな、狙撃者についての文書だ。シマノはそれを見ようとしたが、一瞬視線を持ち上げてからそのページを最小化した。ネットを開く。

「ちょっと通るぜ」、狙撃者はそう言ってワンボックスに乗り込み、後部座席から身を乗り出して小型の冷蔵庫を開ける。

「シマノ、俺のアンチョビ見なかったか」

 狙撃者はシマノの方を見る。

「み、見てないぞ」

 シマノは答えた。狙撃者が目を細めてのぞき込んでくる。

「怪訝だ。とても怪訝だ」

「何を言う」

「食べなかったか」

「まさか」

「あれは食い物じゃないんだ。スペインのカタルーニャ地方で伝統的に使われている羊の餌でさ。超がつくほど酸っぱかったろ?」

 シマノは眉間に皺を寄せた。狙撃者の言うとおりだった。今までに食べたものの中で一番と言っても過言ではないほど酸っぱかった。

「羊好みの酸味さ」

「そ、そうか。それは……」

 狙撃者は意味ありげに笑って、ワンボックスを出て行く。シマノは大きくため息を吐いた。

「色々と電話しましたが、情報はありませんでした」

 ハヤマはそう言うと、紙のカップに入った酸味の強いコーヒーを一口啜った。四角い木のテーブルを挟んだ反対側ではヒラギが紅茶にレモンを搾っている。オフィスと家を往復するだけの生活をしていたハヤマにとって、カフェはあまり慣れない場所だった。

「だろうと思った。実を言うとお前さんの根気強さを試してみたんだ」

「一時間以上探し続けたんですけど」

「大丈夫、情報がないということが分かった。これは大きな功績だ」

 小さくため息を吐いた。ヒラギはその様子を楽しそうに見ている。

「それでは、どうするんです?」

「俺だって一時間三十七分ずっと紅茶にレモンを搾っていたわけじゃない。つまりどうするかというと、やつらの次の計画を予測し、そこで接触する」

「そんなこと、分かるんですか?」

「もう予測は立てた。やつらの目的からして、次に狙うのも大日関係の施設だろう。最も大きな兵器工場が国内に置かれていることを知っているのなら、そこを狙わない手は無いだろう。十五日後にそこへ、大国からVIPが到着することも、調べ方次第ですぐに分かる」

 ヒラギはそこまで言うと、紅茶をすする。

「兵器工場?」、ハヤマは息の通りが少し悪くなったのを感じた。

「ミョウナガイライドウブツ a la caldereta(妙な外来動物の煮込み)。こいつはアンダルシア地方に伝わるトラディショナルな料理で――」

「材料はそれで合っているのか?」、正直者が口を挟む。

「何だその妙な外来動物って」、チャーリーが笑った。

「アンダルシアは長らくの間イスラムによって支配されていた地域だが、その影響は主に使用する材料に――」

「妙な外来生物はイスラムの影響か」

「アンダルシアってどこだ? フィンランド?」

「でも旨いぞ」、シマノは紙の器に分けられたその煮込み料理をスプーンで突きながら言った。

「ちょっとは聞け」、狙撃者は拗ねた。

「FS-Dだ」、ヒラギが言う。

「もちろんそれは狙撃者の狙いが大日を潰すことにあれば、だが。今までのやり方から考えて、その可能性は高い」

「今までのやり方、ですか」

「そう。工場に侵入しておいて治安維持部隊に連絡だけして帰る、大日社長を狙撃しようとする――」、ヒラギはそこまで言いかけて止まった。

「どうしたんです?」、ハヤマは少しの心配を表情に乗せた。ヒラギはそのまま何も言わず、宙の一点を見ながら何かを考えている。

「なぜ狙撃者は工場を破壊しなかった? わざわざスタン・グレネードを使い、部隊を呼ばせた。やつはなぜ大日社長を撃たなかった?」

「やはり外したのではなかったんですね?」

「狙撃者は大日社長より動きの大きかったあの男、しかもそのうえ最も動きの大きな頭部を撃ち抜いた。外れ弾が偶然当たったとは思えない」

「撃たなかった」

「そうだ。まったく、わからないやつだ。そういうやつには実際に会って話を聞くのが一番だ。今はFS-Dに賭けるしかないだろう」

「計画を話す」

シマノがゆっくりと言った。その声はまじめだったが、もちろんチャーリーとサキオリは笑わずにはいられなかった。

「おい待て、笑うな、俺はまじめだ」、とシマノが笑いながら続ける。

「FS-Dを訪ねる。今回の騒ぎを起こした間抜けな狙撃者一行を始末するために、大日の暗殺部隊が動く。その武器を積んだ輸送機が十五日にFS-Dへ着く」、シマノはそう言うと、狙撃者の方を見た。

「おっかないね」

「へい、そのFS-Dってのは偉い人の別荘じゃないのか?」と、チャーリーが聞く。

「表向きはそうだ。地下は深く、全て兵器工場になっている。待ってろ、パソコンを取ってくる」

シマノはそう言うと数メートル離れた所に停められた車へと歩いていった。チャーリーは焚き火で肉を焼きながらその光景に見入っている。正直者はノートに何かを書き込み、狙撃者は右手のひらを開いたり閉じたりして自分の人差し指が自分の一部である事を確認していた。

「これが、FS-Dだ」

FS-Dはまるで、要塞だった。そのコンクリートの建物は深く生い茂った森の中、高い山の中腹に建ち、三方は切り立った崖で囲まれていて、建物の裏には更に舞台背景のような崖が切り立っている。山の一角を削り取ったのだ。建物の前面には、コンクリートの“城壁”を介して一キロメートルほどの平地があった。何に使うのか、森を焼き払って整地したものだ。

「良い感じに侵入できなそうな所だな、おい。こいつぁ税金か?」、チャーリーが言う。

「それ以外にどこから出す」、正直者は呆れることすら忘れてその特徴的な建物に見入っていた。

「んいや、そうだ」

パソコンの画面は高画質な衛星写真のようなものから立体映像へと切り替わる。シマノが画面へ触れてその指を上方向へ滑らせると、視点が地面へと近づいた。一定の位置まで近づくと緑色の線が表示され、写らない地下飛行場を形作る。

「これだ、飛行場」

緑色の線によれば滑走路は二五〇〇メートルの長さがあり、真っ直ぐと山の中を突き抜け、海へと出ている。出口はダムに偽装されているようだった。

「VIPは十五日後の日の入りに、ここへ着陸する。豪華な装備をたんまり積んでな。というわけで手始めにそれを落とす」

 シマノが無表情に言う。「そういうわけで出番だ、サキオリ」

 画面が切り替わる。新しく表示されたのは大きく太ったカラスのような、つや消しブラックの輸送機だ。

「“オモチャ箱”、そいつが通称だ。ボディの全てが特殊なファイバーでできているために、レーダーには映らない。大昔にあった木製の輸送機みたいなもんだ。隠蔽性能は高いが、防御はティッシュペーパーみたいなもんだ」

「それで、俺がどんな狙撃をするって?」

「わかっているんだろ。正直者に、チャーリーも」

二人は頷く。

「二人は俺が言うものを用意してくれ。サキオリ、お前は俺と共にある人物に会う」

狙撃者も、黙って頷いた。

「彼らがどういう方法で、何をするか。少しでも知っておく必要がある」、とヒラギが言った。表情は穏やかで、すでにその解決策を手の内に握っていることは明らかだった。ヒラギという男は案外単純なのだ。

「つまり、銃を用意するはずなんだよ。M700を使うならともかく、もっとでかいライフルを使おうとすればそれは密輸するしかない。で、この国の密輸ルート全てを仕切っている組織がある。そこに協力を願い、それらしき物を密輸したら、もしくは密輸した記録があったら一報してもらうよう頼む」

「ライフルの種類で距離と方法を推測する」

「そうだ。正確じゃないが、気休め程度にはなる」

「しかし一報してもらうって言っても――」

「ちょっとした貸しがあるんだ。俺は出かけてくる。また連絡するから、それまでお前は休んでいてくれ」

 ヒラギはそう言うと、千円札を一枚ポケットから取り出してテーブルに置いた。

最初に用意する必要があるものは資金だった。四人の(実質的にはサキオリと正直者の)貯金を全て引き出すとかなりの額になったが、それでもまだ不足している。正直者は兵器購入ローン――六十四回払いをどこで組めるのかを知らなかったので、資金の調達をどうするかは難しい問題だと言えた。

「募金を呼びかけようじゃないか、オールド・フレンド。テロを起こすための資金を調達しております、皆様のご協力をお願いしますって。ついでに俺のコーラ代も」

チャーリーは楽しそうに言った。彼はこうして一つ一つの仕事を考えながらこなしていくのが好きなようだった。正直者もそういったことは嫌いではなかった。

「十五日後には実行だから、三日以内には欲しい。一円玉と五円玉をコレクションしている暇はない」

「確かに。そうなると日が暮れるまでには方法を考え出さなきゃならない。痕跡が残りにくくて尚且つ大きな金を――」

二人とも黙り込んだ。そんな都合の良い話があるはずはなかった。もちろん、常識的に考えればの話だが。沈黙は長く続いた。沈黙についてはあまり苦ではなかったが、解決策が出ないのは問題だった。

「……いくら用意する、って言ったか?」、不意に金額について気になる。チャーリーは無表情に、三〇〇〇万だと言った。

「三〇〇〇万か」

思い当たる筋がある。しかしそれが用意されている可能性は低いし、今更渡してくれと言うのも妙なことだ。何しろ、契約書は公園のゴミ箱の底だ。しかしこのまま考え続けていても仕方が無いだろう。

「一応思い当たる筋はある。行ってみるか」

「どこだ?」

「親父だ。丁度三〇〇〇万貸している」

やたらと黒光りする高級車に乗せられて、その建物の前へと連れて来られた。もちろん自分から頼んで面会を要求したわけで、これは予期せぬ手厚い歓迎だった。黒いスーツの男達がコートの中でずっと拳銃をこちらに向けているあたりが熱い。これは敵の多い業界では仕方のないことか。

輸賛会の建物はかなりの山奥にあった。セキュリティに自信があるからか、ある程度信頼されているからか、目隠しをされることはなかった。もっとも、長い道のりと入り組んだ山道を、もう一度思い出して紙に書き出そうとしても無理だろう。

「降りてください」、凄みの聞いた声は、もっとも敬語が似合わない類のものだ。ヒラギは軽く礼をして、車を降りる。すでに日は暮れていたが、太陽の光の残骸が、わずかに山の輪郭線を照らしていた。

二人の黒スーツに連れられて城のような建物の中へと入る。内部は中世のヨーロッパを意識したつもりのような家具で飾られていた。やけにナンセンスに感じたのは、金色が多すぎるからだろう。

「お連れしました」

会長は黙って頷くと、二人に出て行くよう顎で示した。部屋は広く、天井もやたらと高い。会長は大きな木の机の向こう側で、椅子に座っていた。ヒラギは自分の住んでいた部隊員用の寮を思い出してため息を吐きそうになった。広い部屋で好きなものを食べてほとんど何もせずに生活する。こんなに悲しい暮らしは他に無いだろう。そしてその証拠に、いかにもといった感じの太った会長の表情には、持て余した退屈が浮かんでいた。追おうと決めたものを追いながら生活していつ自分がどれだけ幸せか、実感したためのため息だった。

「この前のことは例を言おう。それで、何の用かね?」

「情報をいくらか提供していただきたい」

「情報を得るためには、理由が不可欠だ。全て話せ」

嘘はつけないと、ヒラギは直感した。この組織は裏づけを取り、こちらの発言が正しいかどうかある程度の調査をするだろう。

「一つの陰謀が浮かび上がっている」

正直者が非常に安全運転なのはありがたかったが、できることならば実家の連絡先くらいは知っておいてほしかった。着いてからまだ準備できてないと言われる可能性はわりと高いのだ。長い一直線の高速道路でなんとも退屈な思いをしておいて時間だけ浪費というのは悲しすぎる。

「音楽、かけてくれ」

正直者がそう言ったのを聞き、チャーリーはタッチパネルのカーナビを操作した。画面を変え、青い背景に表示された一覧表から英語のアルバムを選択する。特に基準は無い、直感だ。

「BonJoviか」

正直者が流れていく景色を見ながら言う。チャーリーは正直者がその古臭い曲を知っていたことに驚きもせず、答えた。

「そうだ」

日は沈みかけている。右手には大きめの湾があり、それは夕日でオレンジ色に染まっていた。まるで誰かがペンキをこぼしたようなオレンジで、遠くにいくに連れて色は霞んでいく。表面はガラスの粉のように輝いていて、地平線あたりにはいくつか船があった。

「簡単すぎていないか?」

しばらくの沈黙の後、チャーリーが言った。助手席に座り、左の肘をドアの内側の肘掛けに突いて頬杖をついていた。

「シマノが現れてからは三倍速で進んでいるようなもんだ、というか国民文化祭はまだ昨日。信じ難い」、正直者は無表情だ。

「俺はあいつを信頼したい。しかし、あいつが何を目的として動いているのか分からなければ、それは無理かもしれない」

「何か裏があっても良いだろう。あの男はサキオリと旧友だからという理由だけで全面的に協力するような人間には見えない。自分の利益とつりあう行動しかしない、そう見える。すると何があいつを動かすのか」

正直者は前を見続けていた。太陽は地平線へ消えた。海は真っ黒で、まるでそこには無があるように見えた。しばらくすると道路は、山を貫くトンネルへと導かれていった。

「動機と、目的。それを知れば動きが分かる。だけど俺には……自分が何を求めているのかすら、はっきりとしていない。成り行き感があるんだわな」

 チャーリーはそう言うと、シートにもたれかかり、缶コーラを一口啜る。

「全力を尽くしても出来ないことは、神様にお願いすれば良い」、正直者はそう呟き、眠そうな目を閉じる。チャーリーはその姿を横目で見ながら、高速道路はどこか自分達の置かれた状況に似ていると思った。

そこは、人口密度の高いこの都市の中では人気が無いと言える一角だった。とはいえその、オックスフォードの裏通りのような町並みは、青みがかった空と街灯で照らされ、洒落た風景を作り出している。狙撃者が最も愛する時間帯だ。

石畳調の道、左右に喫茶店やレストラン、バーが立ち並んでいる。

「この二階だ」

シマノが指差したのは、こぢんまりとした喫茶店に上にある、更に目立たないバーだった。細い階段を上り重い木の扉を開けると、広いとは言えないが少なくとも清潔で落ち着いた雰囲気の空間があった。黄色い間接光に浮かび上がるテーブルやカウンター、青いネオンで形作られたBARの文字。棚にはとてつもない数の酒が置かれている。ウィスキーやワイン、フルーツリキュールに日本酒でさえも揃えられており、その数を数えるのはおよそ不可能だった。驚くべきことにアイリッシュ・ウィスキーだけでも数十の種類がある。

「お久しぶりです」、狙撃者よりも少し年上に見えるバーテンダーが、木のカウンター越しに言う。二人は上着を脱ぐことなく腰掛けた。狙撃者はカウンターとバーテンダーの間に設けられた低い仕切りから銀色のフックを取り、それをカウンターに引っかけて手荷物を掛けた。

「何にする?」

「対物狙撃銃」

「サキオリ、相手が違う」

「まじか」

「何を飲む」

「ダルモアを水割りで――」、狙撃者はそう言いかけて訂正する。「いや、ジンジャーエールだ」

「俺はいつものやつで良い」

シマノは言うと、立ち上がる。「手洗い行ってくる」

 狙撃者は小さく頷くと、壁に埋め込まれた水槽に視線を投げた。

「ディスカス、熱帯魚の女王と呼ばれる熱帯魚です。こいつらはコバルト・ブルーですがいろんな色のやつがいます。ひどく繊細でアンモニアにめっぽう弱い。しかも高価です」

バーテンダーがそっと言う。

「手の掛かるやつだな」

「確かに。アンモニアを発生させないためには餌の量にさえ気を付けなければならないし、水草も選り好みする」

「水草を?」

「そう。最近は水草も養殖がほとんどなんです。水草の養殖っていうのは水上で育ててから水中に戻すもので、質が悪いと戻す行程でさらに質が落ちる」

「魚の方も養殖なのか」

「こいつらは天然ですよ。けれど実際のところ熱帯魚のほとんどはその通り、養殖です」

 狙撃者は納得できないといったように目を細め、もう一度幅六〇センチほどの水槽へと視線を移す。コンパクトディスクほどの大きさの成魚が二匹、それよりもっと小さな幼魚が数匹その周りを囲むように泳いでいる。

「もう一つ」、バーテンダーは柔らかそうな布を手の上に乗せ、それを使って包み込むようにグラスを拭く。

「ディスカスは稚魚を母親が育てるんですよ。個性もある。臆病なやつ、騒がしいやつ。思い思いに生きているんでしょうね」

 狙撃者は無表情に何度か頷く。そして次に自分に言い聞かせるようにもう一度ゆっくりと頷いた。そのときちょうど、髭を蓄えた五十代後半の男が扉を開けて入ってきた。シマノも戻ってくる。

「そうだな……ラフロイグにしよう」

男はそう言った。狙撃者はシマノにも分からないほど、小さく笑った。

「久しぶりだな。相変わらず元気そうじゃないか」

「お前に心配されるほど歳じゃないぞ」

男はシマノの隣に座ると、ラインの入った派手なスーツからタバコを取り出そうとして止めた。狙撃者たち二人への気遣いだった。金のブローチ、真っ青なシャツ。それらは彼をマフィアのボスのように見せたが、どうやら見た目で判断するべきではないようだった。

「君がサキオリかよろしく。俺はあまり名前を使わないから、自己紹介は省略させてくれ。誰かが“仕送り屋”と呼び出して、それが定着したがね」

仕送り屋は穏やかな表情で言った。狙撃者はシマノを挟んで軽く会釈をした。

「早速だがお二人さん、取引に入ろう。何が欲しい? 鉱元弾頭の対人ミサイルか、アンチマテリアルライフルか、そんなもんだろ、どうせ」

「対物ライフル、つまり後者だ。難しい注文だが驚かないでくれ。C125が欲しい」

仕送り屋が僅かに表情を変え、それとほぼ同時にマスターが飲み物を出した。狙撃者の頼んだジンジャーエール、仕送り屋のラフロイグ、そして――。

「シマノ、そいつはなんだ?」

「見れば分かる、ミルクだ」、シマノは一口飲むと、満足そうに狙撃者の方を見た。「言わなかったか? 俺は乳製品が好きなんだ」

狙撃者は眉間に皺を寄せて目を細めた。仕送り屋はラフロイグを少しだけ口に含むと、言った。

「それで。C125と言ったな、あれはご存じ、手に入れ辛い代物だ。あの馬鹿でかいライフルを手に入れるには、そうだな、二週間必要だ」

「……間に合う。それで結構だよ、おっさん」

「お前におっさんと言われる歳でもないな。一つ言っておかなきゃならないことがある。銃を密輸する場合、俺がやるにしろ必ずある組織を経由することになる、それは知っているか?」

「輸賛会か」

「そうだ。やつらに情報が漏れるのは確かだ、注意しろ」

「大日石油を潰そうとしている者がいる」、ヒラギはそう言った。会長は鼻で笑うと、つまらなそうに言い返した。

「大日を? 不可能だ、考えられないことだ」

「可能か不可能か、判断するのは狙撃者だ。大日社長の一件の日、ナイフを持った男が社長に襲い掛かったのは知っているだろ。そいつを狙撃したのはテロ対策部隊ではなく、狙撃者だった。彼はいきなり計画を変更し、大日社長を殺さなかった」

ほう、とだけ会長は言った。火の点いたタバコから白い煙が上っている。それもまた、裕福になりすぎた会長の、退屈の象徴のようにも見えた。もう彼には、何を欲するでもなく金を集めることしかできないのだ。

「殺せなかったのではなくかね?」

「ああ、殺さなかった。殺すつもりならナイフで切りかかろうとした男を生かしておけば良かっただけの話だ。そいつはやろうと思えばいつでも大日を潰せる能力を持っている」

「しかし私には関係のないことだ」

「どうかな。狙撃者は次々に、関係のある企業や組織を潰していくだろう。確信は無いが、直感はそう呟いている。輸賛会も、まったく無縁な組織とは言えないんじゃ?」

「脅すつもりか」

「まさか。忠告しただけで。俺の願いはただ、該当しそうな銃の密輸があった場合にご一報頂きたいということだ」

ほう、と会長はもう一度言う。

「お前の推理が合っているという確信はあるのか?」

「ある」

会長は頷いた。違和感を持った、了承だった。そしてもう一つ気になったのは、会長が机の向こう側で拳銃を握っていたことだった。もちろん腕の置く位置と、かすかに聞こえた物音から推測しただけであって、勘違いの可能性もある。

ヒラギは後ろを向き、部屋を出る。金色の大きなドアノブに手をかけた時、会長は意味深な声でこう言った。

「これで、お互い貸し借りは無しだ」

それはチャーリーにとってはただの古い家だった。三十年前に主流だったような建築様式と壁の色で、若干ボロが出ている。最近は少なくなったタイプの住宅だが、この辺りにはまだそういった建物が多く残っていた。

正直者がチャイムを鳴らすと、六十歳ほどの女性が出てきた。女性はひとしきり微笑むと、穏やかな表情で二人を居間へ通した。

「連絡をくれれば良いのに。でも丁度良かった、お父さんが話あるって言ってた」

正直者の母親はそう言って、コーヒーを出した。居間は和室で、あるのは電気炬燵と大き目の液晶テレビくらいだった。

「親父はどこに?」

「仕事。もう帰ってくる頃ね」

どうやら正直者の父親は、借金のことを母親に話していないようだ。いずれにしろチャーリーにはあまり関係の無い話であり、できることはといえば、ニュースで自分たちがどれほどの悪人であるかを確かめることくらいだった。どの放送局も大日社長が受けた襲撃についてしか報道していない。

「まったく、物騒な世の中になったものね」

「まるで物騒な世の中だ」

チャーリーは正直者と目を合わせて笑いそうになった。本当に物騒な世の中だよ、自分で起こしておいて言うのもなんだけど。とはいえ報道では狙撃者に関しては一切触れていなかった。ナイフで襲いかかった男を撃ったのは警備員の狙撃班だということになっていた。もっともチャーリーが見た時には狙撃班は全て市役所の方向へ銃を向けていたが。

「でも……大日社長が襲撃されるのも仕方ないわね。無責任なデモンストレーションだったし」

チャーリーは正直者へ、目で言葉を送った。お前は母親似か? 正直者は肩をすぼめると、コーヒーを飲み干した。その時、外で車を止める音が聞こえた。中上級クラスの国産車の、ドアを閉める音。

「帰ってきたようね。私はちょっと買い物に行ってくるわ。ゆっくりしていって」

正直者は返事をすると、入れ替わりで入ってきた父親に軽く挨拶をした。

「おお、丁度良かった」

正直者の父親はそう言うと、手に持っていたカバンをそのまま正直者へ手渡した。正直者の父親は背が高く、白い髪は短く整えられ、きわめて清潔的だった。

「借りた金だ。全部で四〇〇〇万ある、全部持っていってくれ」

「貸してからまだ一週間も経ってない。どうやってこんな金を? それに俺は利子なんてつけてない」

「うむ、どうやらどこかにもう一つ口座を持っていたらしかった」

チャーリーは正直者と顔を合わせて小さく笑った。まったくどうしようもない父親だ、と正直者が目で言った。

「せっかくだ、飯食ってから帰んなさい。母さんはお二人の分も買ってくるだろうからな」

そう言うと正直者の父親は冷蔵庫からビールを出してきて、栓を抜いた。ラベルにはレーベンブロイと書かれている。正直者は大きなあくびをした後、横になって目を閉じた。チャーリーは自分が車の中で考えていたことについて、もう一度深く思考を巡らせた。

「それで。どうするつもりなんだい?」

正直者の父親が小さい声で尋ね、チャーリーは少ししてから自分が聞かれているのだと気がつく。

「ああ、食事頂こうと思いますよ、お言葉に甘えて」

「それは良かった。だが、大日社長をもう一度狙うのは不可能だろう」

耳を疑った。どうして目の前にいる初老の老人は自分達の計画を知っているんだ? 正直者は用心深い。たとえ相手が身内でも、うかつに話すような人間ではない。だとしたら――。

チャーリーはゆっくりと、相手に悟られないように、腰につけた黒い中型拳銃――M945へと手を伸ばした。

狙撃者はゆっくりと、相手に悟られないように、腰につけた黒い中型拳銃――M92FSへ手を伸ばした。それは間違いなく、コンマ三秒で引き出せる位置にあった。

話が終わり、最近の食生活について考えながらやけ酒やらやけジンジャーエールやらやけ牛乳やらをした後、見送りをしようと店を出た瞬間に、男が一昔前の拳銃を、狙撃者の二歩先にいる仕送り屋に突きつけたのだった。刺客は全部で三人いて、全員が拳銃を構えていた。皆若い男で、どう見てもルーキーのチンピラだった。

「やっぱり敵多い? おっさん」

シマノはそう言うと、仕送り屋に視線を送る。仕送り屋は異常なまでに冷静で、何一つ恐れていないようだった。そして拳銃の持ち主に向けて、ゆっくりと口を開いた。

「おい、知っているか小僧。お前が俺を殺せば、次の瞬間には俺の手下全てが動き出す。お前らは一日もしない内に捕まり、地獄で俺と再会することになる。地獄にもいくらかコネクションがある。居場所は無い」

「うるせえ! おめえがハッタリかましているのは分かっていんだよ」

男は腰が抜けそうなほどのびびりを顔に浮かべ、それを隠すために無駄に大きな声で叫ぶ。狙撃者は必要が無いと知りながらも、ホルスターの中で拳銃のセイフティを降ろした。

「俺は悲しい。お前達が雇われの素人と知っていながら殺さなきゃならなくなること、そして雰囲気の良いバーの前で下らない事件を起こさなければならないことが。もう一度言う。消えろ」

「オーケー、取引は済んだ」

 ヒラギはそう言うと、通話を切った。携帯をポケットに突っ込み、同時にキーケースを引き出すと、何本かの内から自宅の鍵を探した。街から少し離れたところにある、エレベーターの付いていないアパートの三階だ。

 ドアノブを捻り、玄関へ入る。何かがおかしい。いや、何かではなく、明らかにおかしい点が二つあった。電気が点いている。しっかり探せば他にも異変があるだろうが、どうせ中へ入れば分かることだ。

「もう少し警戒したらどうだ」、と男は言った。ヒラギは返事をする前に、食事を取るためのテーブルに鍵を投げ、軽い木の椅子を引いて腰掛けた。男はソファに座り、五十口径の銃口をこちらに向けている。

「本当に俺を殺すつもりなら、電気など点けないだろう」

「なるほど。そう思わせるカモフラージュなら?」

「土に埋まる。それで、何の用だ?」、ヒラギはそう言うと、hopeと書かれた箱をテーブルの上から取り、長いタバコ、最後の一本を抜いた。滅多なことでは吸わないが、滅多でないことがあれば吸う。朱色の弓矢が書かれた箱を握りつぶしてゴミ箱へ投げ、ポケットからライターを取り出すふりをして拳銃を抜こうとして止め、テーブルの上のジッポーを手に取った。

「話をしに来たんだ」、男はそう言うと例の不気味な笑みを強めた。

「若いの」

チャーリーは頬が引きつっているのを明確に感じつつも、笑顔を維持しながら正直者の父親のほうを見た。

「拳銃は抜かないでくれないか。私が撃たれて死んでいるのを見たら母さんが悲しむだろうからな。それに私は君ら四人と敵対するつもりはない。自分が正しいと信じて行動するなら、それで良いじゃないか」

チャーリーは拳銃のグリップから手を離した。正直者の父親の目に、懐かしさが浮かんでいたのを見たのだった。多分慈しむ感情も少々。

「聞きたいことがあります」

「なんだね?」

「戦う理由を理解していない戦いに、意味があると思いますか」、チャーリーは使い込まれた炬燵の天板を見ていた。

「理由はいつでも見つけられる、チャンスは一度しかない。ゴールへ着く頃までに見つかれば、それで十分だ」

チンピラが震える指でトリガーを引く。

仕送り屋はそのコンマ一秒前にしゃがみ込み、チンピラの腹に斜め上方向のボディーブローを入れた。見た目と年齢からは信じられない速さだ。他はその様子に唖然としている。

狙撃者は仕送り屋の目を見て動くことなく頷くと、鋭く地面を蹴り、自分に銃を向けている男の方へと飛ぶ。足が地面に着いていないことを感じながら、拳銃から手を離し、着地と同時に手の側面を相手の首筋へと落とした。

最後に残った男が向きを変えて狙撃者に照準を合わせた。シマノはそれを見てゆっくりとそいつに歩み寄る。相手はその冷え切った表情にいくらかの恐れを覚えたのか、拳銃の向きをシマノへと戻した。

「おい! 俺はいつでもトリガーを引けるんだぞ」

「セイフティを解除しないのか?」

相手は、はっとして銃の側面にセイフティを探す。次の瞬間にはシマノの視線が男の顔の向こうで右手を振りかざす別の男へと送られる。狙撃者は拳銃のグリップの底で標的の後頭部を殴り降ろした。

「お前の古いザウアーに手動セイフティがついているわけがねえだろ、間抜け。ご使用前に取り扱い説明書をよく読め」

仕送り屋は大きく伸びをすると携帯電話を手に取り、救急車を呼んだ。それから二人にこう言って、停めてある黒のメルセデスの方へと歩いていった。

「助かったよ、今日はいつもの護衛の二人が休暇をとっていてね」

狙撃者は笑い、もともと護衛なんかつけていないくせに、と呟く。二人は狙撃者のコンパクトカーへと戻った。大きな丸いライトを持つ、驚いた猫みたいな顔をした白い国産車だ。

「君には実戦経験があるかね?」

チャーリーは頷く。それは事実だった。一六歳の時に傭兵であった父が派遣先で死んだのを聞いたチャーリーは、兵役が終わってすぐ米国の傭兵部隊に入った。小さな頃から競技としての射撃を教えてくれ、家に帰って来た時はいつも面倒を見てくれた父。彼がどういう意思を持っていたにしろ、チャーリーはそうするしかないという一種の脱力感に襲われていたのだ。

紛争国に派遣されるとすぐに、現地の人間から父の話を聞いた。父は派遣された後、ひどすぎるその環境に涙し、任務を捨てて村に用水を引いた。いくつもの戦闘で活躍して信頼を得ていた父であったために、戦いから逃げているなどとは誰も言わなかった。それどころか仲間達は彼の行動を認めて、彼は戦死したと本部へ報告したらしかった。

村人は最初いきなりやってきた異国人を信頼していなかったが、それでも父は諦めず日本の農業技術を持ち込んで、大きな成功を収めた。やがて村人らも彼に信頼を置くようになり、共に村の活気をもう一度取り戻そうとし始めた。

そんな時だった。少し離れた場所に小屋を建てて寝泊りしていた父は銃声で目を覚ました。彼は埃被ったライフルを持って、村へ走った。

村は、貧しい隣村の者達によって襲われていた。父はすぐにその強奪を鎮圧したが、その村は全焼、生き残ったのはチャーリーにこの話をしてくれた男性を含む、数人だけだった。

生き残った村人が父の所へ駆けて行くと、彼は跪き、撃った隣村の住民を抱き、静かに泣いていた。

“俺一人にできることは、小さすぎる”

父はそのまま何時間も座り込んでいたが、翌朝には荷物を全て残したまま忽然と姿を消したという。無情なジャングルの中に自らを投げ込んだのだ。

話を聞いたチャーリーは、生きることを決意した。父が諦めたひとつのことを自分で達成しようと思った。父が何を諦めたかすらも分からないのに、とにかくそれが使命なのだと。しかしその矢先、敵の前線基地を潰すために出た作戦で部隊は全滅しかける。そこで部隊を救ったのが狙撃者だった。そして、ある計画についての話を聞いた。

「何処にいたかは知らないが、仲間に戦う理由を堂々と語れる者はいたかな?」

「……いや」、チャーリーを含め、戦う者は常に、必然として戦っていた。

「つまりそういうことなんだ。我々は戦う、戦わないではなく、まず戦わなければならないんだ。どういう方法であれ。そしてその理由を見つけようと努力する。君がどういった過去を持っているかは知らんが、戦う理由が見つからないなら簡単なことだ。戦い続ければ良い」

正直者の父親はそう言うと、笑った。

「さあ、母さんが帰ってきた。そこで寝ているのを起こして、夕飯を作るのを手伝っておくれ」

チャーリーは返事をし、正直者を起こした。

「そういやお前にしちゃまともな車だ」

「いいや、セカンドカーだ。目立たないように。十九年発売と同時に買った」

「そうか。最新の車はボタンがたくさん付いてやがる。キーの差し込み口も二つある」

「オプションでね。片方は自爆機能だったか」

「こいつはなんだ」

「押すな、追跡レーダーのジャミング装置だ」

「これは?」

「給油口が開く」

「おお」

「それより、次はどうするんだ?」狙撃者はハンドルを握りながら、聞いた。車は既に高速道路へと入り、次の場所へと向かっている、はずだった。

「なんだこの“行き先はどこでも”ってのは。自分の心境をナビに入力するな、おい」

「それが旅ってものだ」

狙撃者は肩をすぼめる。

「二人と合流する」、シマノはそう言うと、目を瞑った。

「お前と俺は戦わなければならない」

男は言った。「そして狙撃者とも」

灰が落ちそうになったタバコの先を灰皿へと持って行く。立ち上る煙が視界を曇らせていくのを感じながら、また目を細める。

「何が言いたい」

「つまりそうすることが求められている」

 ヒラギはタバコを灰皿に置いた。

「わからない。俺たちは必然的に戦っているのであって、それ自体に意味を求めているわけではない。違うか」

 男が笑う。

「そいつは違う。俺とお前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために」

 男はそこまで言うと、拳銃を腰のホルスターへと戻した。立ち上がり、ヒラギがたまにやるのと同じように、宙の一点へと視線を投げた。

「俺たちは戦う。じきに全て分かるだろう。俺とお前がよく似た使命を持って、いやむしろ鏡として存在しているのだということも。今日の内にここを出ろ。逃げ道の多い場所にあるアパート、地上から三階で非常階段の横の部屋、中は土足。良い環境ではあるが、プロの殺し屋を相手にするには厳しい」

「ありがとうございました」

チャーリーは持ち前の愛想の良さを全て流し込んだような、お別れの挨拶をした。正直者の母親は楽しそうに見送りをし、父親は微笑んでいた。

車に乗り込む寸前、正直者の父親がチャーリーに向かって囁いた。

「最初はつらい」

チャーリーはもう一度相手の方を見る。懐かしさが浮かんだ目、それに――。

「しかし最後には多くの人間が加わってくる。君らの計画の行き着く先は、そこにあるはずだよ」

チャーリーは頷く。腰に着けた拳銃の重さを、確信として受け取る。いつかはこのお気に入りを使わなくなる日が来るだろうが。

 ヒラギは男が言い残していったことについて考えていた。

「俺とお前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために」

 一回聞いただけなのに、その言葉をそっくりそのまま吐き出すことができた。彫刻刀で記憶に刻み込まれたようだった。それも鋭角に折れた刃による、深くて荒い彫りだ。

 やつは何者なんだ? やつは何を知り、何をしようとしている?

 ジグソーパズルとは、なんのことなんだ?

 ヒラギは自分がひどい頭痛を抱えているのに気がついた。はっとして時計を見ると、二時間ばかり、ひとえに考え続けていたらしいということが分かった。夜は更け、外から聞こえる騒音も少しだけ収まりを覚えている。

 駄目だ、何がなんだかわからなくなっている。狙撃者を追ってここまで来ているが、自分がなぜ狙撃者を追っているのか、それですら定かではない。

ふと、テーブルの上にコインが一枚、置かれているのに気がついた。置いた覚えはなかったが、疲れで無意識下にいたのかもしれない。コイン――自分はそもそも、妙なプログラムを追うはずだったのだ。

 コイントス・プログラム。そういえば忘れていた。調べてみようか。どうせ次の動きまでには時間がある。だがその前に眠らなければ、とヒラギは思った。明日は明日であり、今日を引きずって迎えるのは得策とは言えない。それに、太陽が眠っているときと起きているときでは、考えることが若干異なることが多いのだ。

 ヒラギはコインをそのままテーブルに戻した。

 太陽が昇ってから数時間が経っていたが、路地は暗かった。空には薄い灰色の雲が臼で引き延ばしたように広がっていて、地面と雲の間は霧のようなものに満たされていた。暗さの原因はそれだけではないようだ。今ではほとんど地中に埋められたはずの電線が空と宙の間で束ねられ、その束が平行線を描いているのだ。線には電気を盗んだ痕が無数残っている。人が三人並べるか並べないかの地面はコンクリートで舗装されているが、ところどころひびが入っていた。両脇に切り立つ壁にはいくつものドアがあって、その多くには看板が掛けられている。最新型の商店街といったところだ。

「正直者とは古い付き合いか。チャーリーとは戦場で出会ったな」、とシマノが言った。狙撃者は真っ直ぐと前を向いて歩いていたが、それを聞いてシマノの方を見た。

「おい、お前さんはいつから占い師になったんだ、胡散臭い面をして。ついでに今日の運勢も教えろ」

 シマノは見えないほど小さく笑った。当たり前だろ、という言葉を出しかけて飲み込んだときの顔だ。

「運勢などどうでも良い。全ては計画通りに運ぶ」

「全てが計画通りに運ぶってのは甚だ面白みがないぜ」

「お前はお前自身が不確定要素だ」

「嬉しいね。それで?」、狙撃者は再び前に向き直す。「昔話を聞いたのか?」

「いや。カンだ」

「カンではなく分析だろ」

「まあそうだ。やつらの性格、それをお前の性格と比べれば、お前がどういった状況下でやつらと知り合ったか分かる。お前の性格からして、戦場じゃ自分の意見を妨げず、かつ適切にフォローする人間を欲しがる。事細かに分析している暇はないからな。そして普段の生活を共にするなら、言い争いながらも自分の欠点を埋める、慎重で数学的な人間を選ぶ。お前と正直者がいつも意見の食い違いを起こし、尚かつお前が感情的にならないことを見れば、付き合いが長いことも分かる」

 シマノは無表情だった。しかしその声の調子から、分析することを楽しんでいることは分かった。この男は、特に欲しなくても、好奇心ほどの動機で他人を手の平に乗せてしまえるのだ。

「どうやら吐く嘘は鏡面仕上げにしないといけないらしい」

「どうせ嘘など吐かないだろ。問題は無駄に色々考えすぎることだ。ついでに感情まで思考で伸縮させる」

「それが生き甲斐なんだよ」

「喜怒哀楽、一切の感情をそのまま認めろ。必要以上にも以下にも加工せず素直に受け取るのが一番効率的だ。直さないと命取りになる」

「死ねば歯医者に行かなくて済む」

「ガキの頃歯医者に行くとき、必ず怖いと思いこんでいたか。あるいは担当医の腕が良くなかったか」

「両方だ」

「最悪だ」、シマノはそう言って眉間に皺を寄せた。狙撃者は笑みを浮かべたが、数秒すると、ふと思い出したように無表情になった。

「感情が行動に直結している状態ってのは良くない」

 シマノが笑う。「お前自身のことを言っているのか」

「今考えてみたのさ。俺が誰にも止められない操り人形になっちまったときのことをね」

「あのな」、シマノは正面を向いたまま言う。

「お前は良くも悪くも芸術家だ。突拍子もない発想、豊かなバックグラウンド。十分だ。確かに商売が上手くなければ芸術家は生きていけない。だから正直者がくっついているんだろう」

「俺の穴埋めはあいつにしかできない。同じように、あいつの穴埋めは俺にしかできない。俺は感情的な判断にも、甚だ説得力のある理屈を付けることができる。あいつにはそれに屈しない力があるか」

「ある。俺が保証してやろう。チャーリーはお前に同調する。だが、正直者はやはり正直者だ。自分の意思に嘘をついたりはしない。それにな、お前は思いつきで行動する間抜けだが、一つ非常に有用な能力を持っている」

 シマノは立ち止まる。狙撃者も少し遅れてから立ち止まり、シマノの方へと振り返った。

「数学について、思い出せ」

「嫌だ」

「だが思い出せ。平方根を知っているな? ルート二を二乗すると二になる。これは中学校で習う内容だ。しかし高等学校に行くとこう考えるように言われる。Xのn乗イコールaの答えがaのn乗根だと。お前は無意識下でそれを実行しているんだ」

「もうちょっと分かりやすく頼むぜ」

「文字ってのは数字の入れ物だ。つまりお前は、具体的な事象を、事象の入れ物を使って普遍化しているってことさ。そしてその普遍化した事象を、過去の偉人たちが残した普遍的な事実――哲学と照らし合わせてどうあるべきか論証する。頭の中に蓄積した莫大なデータと問答をするんだ」

 狙撃者は軽く壁に寄りかかり、ジャケットに両手を突っ込んで話を聞いていた。シマノの話が終わると、少しの間を置いてから口を開く。

「数学は嫌いだ」

「どうかな。お前は数学の本質を理解していなかっただけさ。いや、もっと言えば、お前は数を学んでいたんだ」

「数を学ぶ、数学だろ」

「数で学ぶ数学なんだよ。それを知っていたらお前の人生も違っていただろう、さあ入るぞ」、シマノはそう言うと、ぼろい木のドアの錆びた取っ手に手を掛けた。

チャーリーは正直者と共に、人と物でごった返す、街のメインストリートを歩いていた。一方通行の車道、両脇に広い歩道。そしてそれを挟み込む建物は、見上げれば首を痛めるほど高くまでそびえていた。チャーリーはそういった建物の三階より上に入ったことはなかったが、窓の配置を見る限り天井を可能の限り低くしてフロア数を稼いでいるようだった。

「こうやって下から見上げてみると不思議な気分になる」、チャーリーは言った。

「そうか」

「……このとてつもない数の窓それぞれの中で、それぞれまったく別の人生が進んでいると思うとね。望みがあるはずなのに、同じ間取りで同じ住み心地の狭い部屋に集められている。辛くないんかね?」

「集まっている」、と正直者が返す。「広く開放的な、孤独なスペース、それほどいにくい場所はない。もちろんそれを必要としない人間にとってはだが。人は無意識に、集団への帰属を望んでいるんだ」

「意思はどうなるんだ」、チャーリーは上を見上げるのを止め、辺りをゆっくりと見回していた。足取りに呼応してゆっくりと流れ去る景色は、どれも写真にするに虚しいものだった。今朝のチャンネルで紹介されたトレンド商品に列を作る人々、有名人の写真が起用された靴の広告。挙げ始めればきりがない、とはよく言ったものだがこれは違った。全てがどことなく虚しいのだ。どこにも生気が感じられないからだ、とチャーリーは思った。

「さあな」、と正直者がそっけなく言う。「意思なんてものを確かめる前に、人生のレールは尽きてしまう。どうせ、そんなものだ」

「人生は短い」、チャーリーが言った。

「俺は思うんだよ、正直者。人生は流れていく川で、俺たちは死に辿り着くまでずっと流され続けている。だけど川ってのはただの水の流れじゃない。いろんなもんが一緒に流れてくるんだ。そんでさ、俺たちは思い思いに何かを掴む。岸に這い上がろうとしているんだ。川から出るのは容易なことじゃないから、ほとんどの人が諦める。遅かれ早かれね。だが一部の人間は諦めずに、必死に掴めるものを探し続ける」

 正直者は無表情だったが、全く興味をそそられないというわけではなかったようだった。

「で、どうなるんだ」

「結局誰も岸に上がることはできないんだよ。だけどな、諦めなかった人間が岸に這い上がろうとした痕は、しっかりと残ってやがるんだ。どれだけ下流に、どれだけ岸の上の方に自分が生きていたかって証拠を残せるか。それが重要だと思うんだよ」

「教訓は努力しろ、か」

「それはちょっと違う。俺が言いたいのは、自分がどう生きるのか、それを自分自身の力で追求することを止めちゃいけないってことさ。俺が俺であることは、他人の存在を介して伝えられる。だからその他人ってのが消えたとき、俺の存在は消えて無くなってしまう。それじゃ虚しすぎるんだよ。どこかに、生きた証を残すのさ」

 チャーリーは満足そうに言う。

「お前、自分が望むことが何か分からないって、いつか言っていなかったか」

「分かってきたんだよ、この計画を進めていくうちにね」

「お前がサキオリと組んでいるのは、あいつが一番川の外の世界と近い存在だからか」

「力は借りる。けどよ、諦めるのも諦めないのも、何に掴まるのかも、結局は自分で選ばなきゃならないんだ。這い上がるのも自分さ」

「それじゃ、なぜあいつと?」

「なぜサキオリといるか。決まってんじゃねえか、そうするのが一番楽しいからだよ」

 正直者は小さく笑う。それからしばらくの沈黙。そして二人はメインストリートを横切る、入り組んだ路地へと入っていった。

 入り口のベルが鳴って、正直者とチャーリーが入ってくる。

「遅かったな」、シマノとテーブルを挟んで反対側に座った狙撃者が言った。

「川の話をしていた」、チャーリーはトレンチコートを脱いで、ぼろい木の椅子の背に掛ける。それから腰掛けてメニューを手に取ろうとした。

「どうせもう頼んである」、正直者が腰を下ろしながらメニューに一瞥をくれて言う。

「第六感を使ったな。せこいぞ」

狙撃者は笑った。同じ頃に、七十過ぎの老婆が海鮮粥を四つ運んでくる。八角に似た薬味の匂いが湯気と共に立ち上り、辺りを包む。老婆は続いて、黒い汁で煮込まれた蜂の巣のようなものが乗った皿を一枚、テーブルの真ん中に置いた。

「この店、これしかないんだが味は世界一だ。婆さんは認可外国人労働者の身内ということでここに来ているらしい」、狙撃者が言う。老婆は何の反応も見せずに戻っていく。

「なるほど旨い」、すでにスプーンを一往複させたチャーリーが言う。「熱いや」

 正直者は黙って手と口だけを動かし、シマノはスプーンで粥をすくう度に何度も息を吹きかけ、必死に熱さと戦っている。狙撃者はテーブルの隅に置かれた調味料のうち、色の濃い味噌のようなものを一さじすくって粥に落としてかき混ぜてからそれを口に運んだ。

「こいつは何だ?」、粥も残すところ四割となった頃、シマノがテーブルの真ん中に怪訝な視線を飛ばす。

「牛の腸、知らないのか?」

「知らん。食うのか」

「牛も嫉妬する味さ」、狙撃者は粥を食べながら言う。チャーリーがスプーンを箸に持ち替え、長方形に切られたそれを一つ、取って食べる。シマノも同じように食べる。

「んん、悪くない」、と言って続けて二個目、三個目を食べる。チャーリーは眉間に皺を寄せて急いで全てを自分の粥の上へと運ぼうとする。二個を運び終わった頃には、シマノがスプーンで残りの全てをすくって粥の上へと持って行った。

「おい、なんてことをするんだい。お前それでもシマノか」

「これが俺だ。あのな、常に一番合理的な方法を選ばないからお前は負けるんだ」

「俺はあくまで相手と正々堂々戦うために箸を使ったんだ。戦いにもルールがあるだろ」

「織田信長が天下を掴みかけるほどの力を持ったのは、それまでの武士道を完璧なまでに無視した、鉄砲による合理的な集団戦を行ったからだ。戦いはスポーツじゃない、あるのは勝ち負けだけだ」

チャーリーは黙る。シマノは満足そうに戦利品を食べる。狙撃者はそれを横で笑いながら見ている。正直者は老婆を呼んで、蜂の巣をもう一皿出すように頼んだ。老婆は烏龍茶と一緒にそのお代りを持ってくる。

「それで、どうだ」、とシマノが言う。烏龍茶に付いてきた、月餅に似た小さな菓子を爪楊枝で半分にする。

「金はなんとかなった。ショッピングはこれからだ」、チャーリーが蜂の巣のお代りを食べながら言う。「正直者に感謝」

「俺はこれからFS-D施設内のデータを手に入れに情報屋の所へ行くんだが、チャーリー、お前の強面が必要だ」

シマノは半分にした菓子を口へ放って、お茶を啜る。

「ちょい待て、強面ならサキオリだろ」

「こいつはそういうことが苦手なんだ」、正直者は菓子には手を着けずにお茶を飲んでいる。小さな茶碗に入った分を飲み干すと、ひとしきりテーブルを見回してから次を注ぐ。

「サキオリ、お前は正直者と一緒に買い物に行ってくれ」

「構わんさ。お買い物は大好きだからな」

「俺は嫌いだ」、正直者は腕にしたナイロンベルトの時計に一瞥をくれる。

 時間は止めどなく過ぎた。しかしその流れは遅く、ゆらゆらと立ち上る湯気と共に、少しずつ宙へ消えていく。窓の外では霧が漂い、時より小粒の水が薄いガラスを叩く。狙撃者は菓子を薄く切りながらその、わびしさとは違う一種の趣のようなものへと視線を投げていた。

「そろそろ行く」、シマノはそう言うと、薄く簡素な札入れから千円札を一枚出してテーブルの上に追いた。

「えらく多いぞ」

「小銭は持たない。カードが使える店には見えない」

コイントスは恐ろしいプログラムだ。その実態を明かせば私はこの世に存在しない者となってしまうだろうが、それが彼らに与えている影響は顕著である。私たちにできることがあるとすればそれは、強く意思を持つか、全てのネットを閉ざして孤独に生きることである。

ヒラギは異様なまでの存在感を持つ数行の文章を、何回も読み返していた。

それが彼らに与えている影響は顕著である。彼らとはテロリストのことか? いや、突入時に聞いた話では、確か第三者の存在を示していた。その影響は顕著である。ではなぜプログラムの存在を明かされない? その理由は明らかだ。その実態を明かせば私はこの世に存在しない者となってしまうだろう。作者は一年前に事故死している。この文章がネットに搭載されたのは十四ヶ月前だ。そしてこの存在を明るみに出そうとしたテロリストも消された。三人は二十二口径の弾を撃ち込まれ、一人は細いナイフで……。細いナイフ、確かつや消し黒と言っていたか。ヒラギの頭の中で、ある映像が再生された。自分の命が終わりそうになった瞬間というのは覚えていて当然だ。

 ヒラギは深く息を吸い込み、吐き出してから小さく伸びをした。そして、通りに面したガラス張りの方へと視線を投げる。大日石油が独占している鉱元、それを使って走る車がぎりぎり渋滞と呼べなさそうな列を作って進んでいる。ガソリン自動車は、道路の反対側に駐車されている古いフォードくらいだ。図書館が面しているのは街のメインストリートで、歩行者も多かった。レインコートを着た通勤中のサラリーマンやアタッシュケース型のサブマシンガンを持った男が見えた。後者は紛れもなく、こちらに向かっている。

 ヒラギは自然に立ち上がると、キーボードの右上についたボタンでパソコンの履歴をクリアし、電源を落として裏口へと向かった。

 店を出て数分歩き、細い路地を横切る、少しだけ広い路地へと入る。

「車はメインストリートに止めてある」、狙撃者は言った。正直者が黙って頷いたとき、目の前に汚れた服を着た子供が飛び出してきた。どうやら脇のコンテナの影に隠れていたらしく、数秒のうちに二人の周りを数人の子供たちが包囲する。

「おじさん、お金ちょうだい」、子供の一人が正直者に向かって言う。

「おじさんだとよ。傑作だ」、狙撃者は正直者の方を見て笑う。正直者は顎で他の子供たちを示す。狙撃者がそちらを見ると、みな怯えた表情で目を逸らした。

「おい、人の顔見てびびるな」、狙撃者はそう言って、最初に飛び出してきた少年を見る。

「もっと人の多い場所に行け。そうすれば誰かが何かを恵んでくれるかもしれない」

「駄目だって。メインストリートは上級生の縄張りなんだ」

「上級生? 初等学校には行っていないんだろ」

「うん」

「初等学校は基本的に無償だ。行って勉強をしろ。じゃないと俺みたいになる」

「おじさんは馬鹿なの?」

「大馬鹿者さ。偉い人の真似をしようとしているくせに暴力に頼ってしまう」

「偉い人?」

「学校に行けば教えてもらえるさ。いいか、そのじいさんはな、やってもいない罪で死刑だと言われて、友人の助けで逃げ出すこともできたのに、死刑を受けたんだ」

 男の子は首をかしげる。「どうして」

「どうしてか、それを考えるのが本当の勉強ってものさ。面白いだろ? 世界はお前さんがどうしてだか分からないものに満ちている」

「ふうん。おじさんは死刑だって言われたら死んじゃうの?」

「お前さんはどうだ?」

「死なないよ」

「どうして? こんな生活をしているのに」

「死んじゃったときのことは僕にはわかんないけど、生きてれば僕の人生だから」

 狙撃者は一瞬、喉に何かが詰まったのを感じた。「それが」

「それがお前さんの考えだな。俺は家に帰ったら、それを紙に書こう。誰かがそいつを必要とする」

「嘘だ。誰も欲しがらないよ」

「いや、命を賭けても良い。誰かが必要とする。だから、もっと色んなことを学んで、色んなことを考えるんだ。さっきの答え、俺なら死刑は受けない。考えるのが楽しすぎて死にきれないからな」

 狙撃者はそう言って、笑った。男の子も、ほんの少しだけ頬を緩めた。

「おい、何してる」、不意に路地に接する民家の裏口が開き、中から十四歳くらいの少年が出てきた。二人を見て一瞬固まり、それから子供たちを見回す。

「早く金を取れ、いつものようにやるんだよ」、彼は言った。子供たちは困ったように、狙撃者と正直者そして彼を交互に見る。どうやら彼はリーダー、いわゆる上級生のようだ。

「行けよ、お前ら。一番近くの初等学校へ駆け込むんだ。どうせいつも教室はがらがらさ」、狙撃者が言う。

「駄目だ、行っちゃ駄目だ。あそこは地獄なんだよ! あそこを出るときには、みんな同じ顔をしてみんな同じ服を着て、みんな同じことを話すようになっているんだ!」

 子供たちはゆっくりと、しかし確実に狙撃者の後ろへと下がっていく。

「地獄なのに……」、上級生は声を震わせると、膝を折ってその場に崩れた。

「誰にそう言われたんだ」、狙撃者は上級生に歩み寄ると、しゃがみ込んで彼に話しかける。

「親父が言ってたんだ。学校は一本の道だって。みんな最初は色んなことに興味を持っているのに、道が何にも面白くないから段々進むのが嫌になっていく。興味を失ってからは、真っ白い壁に挟まれた終わりを見えない道を無理矢理歩かされるんだ」、彼の声の震えは、どんどん振幅を大きくしていった。「それで」

「やっとやる気が出てスピードを上げようとすると、信号が赤になって、みんなが来るまで待てって言われる。それで、それでやっと抜けたときには自分が何をしたかったのか、それさえ覚えていないんだ。大人たちは最近の若者には個性が足りません、っていうんだよ」

 少年は泣いた。

「確かに」、狙撃者は言う。

「教科書は取り扱い説明書より退屈だし、興味が沸くような授業をしてくれる先生は多くない。だけどな、勉強したことをどう使うか、それは自由なんだ。いや、それが勝負所なのさ。白い壁なんてものはぶちこわして、誰にも予想できないような茨の道を進むのさ」

「お前に何が分かる!」

「俺もその真っ直ぐな道が嫌で」、狙撃者は言った。

「傭兵なんかになっちまったんだ。別にお前さんが傭兵になる必要なんかない。掴んだほんのわずかな好奇心を、そいつを捨てちゃならない、ただそれだけさ」

「誰かが俺の将来をリストにまとめ上げたんだ、そこから選べって言ったんだ」

 狙撃者は笑う。

「馬鹿、って言ってやれ」

 正直者の肩をとん、と叩いて歩き出す。彼らがどうなるかはわからないが、自分にできることなどそう多くはない。

 しばらくの無言。子供たちのところを後にしてから十数分が経っていて、そろそろメインストリートも見えてくるころだ。

「本来教育ってのは、社会のニーズに合わせて変化していくものだった。企業やら何やらが求める人材、それにできるだけ近い形で子供たちを送り出すためのシステムだったのさ」

 狙撃者は思い出したように言った。「そして」

「高度情報化に伴って、社会は個性と、他の追随を許さない専門分野を持った人間を要求するようになった。だがどういう理由か、教育は二十世紀に合わせた、集団や努力を尊重する体系のまま固定化してしまった」

「俺たちの年代だな」

「今はまだマシさ。そう、俺たちの年代には“ゆとり”を重視した教育が行われたせいで、集団と努力から努力が消え、集団だけが残った。そんなこんながあって、今度は外国人が入ってきた。労働者じゃない方さ。得意を伸ばしてきた欧米人は、欠点を自分自身の中でではなく、人との関わりの中で埋め合わせするということを学び、持てるポテンシャルを最大限に発揮するようになったんだ」

「それで企業における“日本人の空洞化”が始まったわけか」

「俺はシステムの狭間に落っこちてしまった子供たちに、教育を薦めるべきかどうかなど分からない。だが、あの薄暗い路地で金を巻き上げながら生活しているのを見れば、マシだと考えざる得ないのさ」

 正直者は小さく、鼻で笑う。

「お前、あいつらが銃を持っていたらどうするつもりだったんだ」、正直者が重い口を開き、呆れたように言う。

「俺の詭弁のおかげで金を取られずに済んだろ。それともお前はあいつらに銃を向けることができたのか?」

「できた」

「信じられないね」、狙撃者は驚きもせずに言う。正直者はゆっくりと首を振った。

「あいつらはイノセンスなガキじゃない。生きることしか考えていない、大人よりも危険なやつらだ」

「あいつらは生きている。よっぽどマシさ、存在だけしているよりも」

狙撃者は真顔だった。そして思った。彼らもまた、真顔だった。

「どっちが、マシだったのか」

 チャーリーはタバコの箱の底面を軽く叩いて、飛び出た一本を左手の指に挟んだ。右手をコートの内側、腰の辺りへと忍ばせる。

「で?」、唸るように言った。

「どうしてわざわざ正直者とサキオリを二人にさせたんだ? お前がもし何か企んでいるならよ、冷静で客観的な人間は隔離しておく、もしくは自分の監視下に置くべきだと思うんだがね」

 チャーリーの三メートル後方、ワンボックスに寄りかかったシマノは、チャーリーの背中に視線を投げていた。少なくとも、そのように感じた。

「俺は何も企んじゃいない」

「そいつは違う。確かに俺はサキオリみたいに倫理やなんかに裏付けされた正義感を持っているわけじゃないし、正直者のように冷静で、未来を細分化できる能力を持っているわけでもない。だけどな」、チャーリーはベルトに差したM945を抜きながら振り返り、片手で真っ直ぐと構えたその拳銃の照準を、シマノの持ったチーズへと合わせた。

「一貫した意志を持った人間と、そうでない人間の違いぐらいの見分けは付くんだよ」、セイフティを外す。

「シマノ、お前は間違いなく前者だ。なぜ、俺たちと行動を共にする」

 シマノはほんの少しの笑みを、口元に浮かべる。

「なぜサキオリと正直者を二人にさせたか。それは俺とお前さんで話し合う時間を作るためかも知れない。そうでないかもしれない。いずれにしろ一つ言えることがある。それは全ての偶然は予測として存在し得ないが、全ての偶然が起こる確率は予測の範囲内にあるということだ。偶然を確率が、確率を予測が包み込んでいる。そして予測は俺の手の内にある。つまり俺の手の中には偶然が握られているということだ」

「微妙に話を逸らして混乱させようったって無駄だぜ。サキオリ好みの哲学的命題でも、俺にとっては興味のないことさ」

「なるほど。それじゃこれはどうだ。俺が一貫した意志を持っているように見えるのは俺が常に、既に完成された公式に物事を当てはめて行動しているからだ」

「それでは一貫性に欠く」

「なぜ」

「サキオリさ。いくらお前さんの頭が良くてもあいつを計測することはできない」

「なるほど」

「お前が何を目的としているか、どうだって良い。お前さんがお前さん自身の考えに反した行動を取らない限りな。だけどよ、サキオリを利用しようってんなら止めさせてもらう」

 シマノはいつの間にか無表情に戻っている。「何を」

「何を基準として利用という言葉を定義するか。同じ目的に向かっているが、辿り着くための方法は違う。それなら利用しているとは言えないだろう」

チャーリーが目を細める。シマノは表情を変えずに、パーカーのポケットから右手を引き抜く。それからその手に乗ったコインを強く弾いた。チャーリーはタバコを口に咥え、左手でコインを掴み取る。視線を上げたとき、シマノはワンボックスのドアへと乗り込んでいた。

 銃口を口元に持って行き、トリガーを引いた。カチリと間の抜けた音がして頼りない火が吐き出される。チャーリーはライターを腰のベルトへ戻すと、タバコを右手の指に挟んでゆっくりと煙を吐き出す。

 それから左手に握ったコインを、まじまじと眺めた。

「なぜセカンドカーで来ない」、正直者は不思議な形をしたシートベルトの金具を手探りで探しながら言った。

「誰かがキーの差し込み口を間違えてしまった」

「残念だ」

「冗談だよ。ただ、たまにこっちも動かさないとエンジン内にカーボンが溜まる。それに冬はゴムも硬化するからな、乗ってやんなきゃ」

「目立ってしょうがない、二十世紀中頃のフォードなんて。車高は四十フィートと少ししかないし、二人乗りだ。どうかしてる」

「流線型、紺のボディ、シルバーのストライプ。運転席よりコクピットと言う方が似合う、トグルスイッチだらけのインパネ。惚れない方がどうかしてるぞ。それにな、こいつは二〇〇五年の復刻版なんだよ」

「どうだって良い」

 狙撃者は音無く笑う。それを合図として沈黙が訪れる。低く唸るようなアイドリング音と、ワイパーの作動音。小粒の雨が湾曲したボンネットを叩く音。狙撃者はそれら一連のメロディを深く気に入っていた。正直者にとってはそうでもないようで、彼はうっとうしそうに曇ったフロントガラスを眺めている。狙撃者はそれを横目でちらりと見て、後付けカーステレオの電源を入れた。

「俺は何よりも俺だ、か」、流れた曲は、十年以上前の洋楽だった。それが一番のサビを終えた辺りで、正直者が言った。

「お前はさっき言った理由のためにこの車を持ち出したわけじゃない。だろ」

 染み込む言葉。狙撃者はゆっくりと、正直者が何を言わんとしているか悟った。しかしそれについて考えようとすると、頭痛に似たものがした。「どうだか」

「お前は自分が自分であることを特定するために、このろくでもない車を持ち出したんだ」

「分からないね」

「合理的なコンパクトカーに乗る自分が許せなかった。お前は自分が間抜けな思いつきと、極めて文学的な行動の中に生きるべき人間だと考えている。そして今の自分がそうでないこと――つまり合理性に閉じこめられているということを無意識下に悟った。だからこそこの、非合理的な車を持ち出した」

「俺が合理性に閉じこめられることなどない」

「どうだか」

「深読みし過ぎさ。俺の頭の中にはカーボンとゴムパッキンのことしかない。別に自分の象徴としてこいつを持ち出したわけじゃないぞ」、狙撃者はいつもよりも幾分早口で言う。正直者は返事をしなかった。

「だが」、狙撃者はアクセルを踏み込んで、クラッチに乗せた足からゆっくりと力を抜きながらギアをファーストに押し込む。

「自分の発想が活字みたいだと思ったりもする。最近はね」

「これから計画実行の日までは、自由だ」、シマノは携帯電話のマイクに向かって言った。もちろん相手は狙撃者だ。

「もう感づいているだろうが、輸送機はおまけだ。本来の目的は工場最下部にあるコントロールルームでリストを盗むことにある。四人で降りるぞ」

「正直者だけで良いんじゃないか」、スピーカーからの声。

「遠足のときくらい仲良くしろ」

「了解」

「計画の詳細を送っておく。見ろよ」

「嫌だ」、電話を切った。

入り口には二十四時間いつも六人の警備員が立っている。顔認識カメラがあり、あらかじめ登録されていない者が入ることはできない。強行突破しようとすれば、威嚇射撃無しで射殺される。それを超えてFS-Dの内部に入ると、至るところで小型警備ロボットがおもてなしをしてくれる。具体的にはコルク栓みたいな大きさの銃弾を毎秒二十五発送り込んでくるわけだ。そいつらと相手をしているうちに政府の特殊部隊が駆けつけてくる

建物の形は添付ファイルを見てのとおり、南北に向いた長方形。屋上南側にある六角形のガラスは室内庭園の屋根で、北側にある六角形のドームは対空機関銃。建物に入ることのできる“完成済み”ルートは三つ、正面口と飛行場の出口、山の麓に出る非常口だ。地下の兵器工場への入り口は建物南にある階段、ただ一つ。サキオリとチャーリーがおとり、正直者が正直。俺は観客。以上だ。

「らしい」、と正直者が言った。

「らしいな」

「なぜ四人で下まで降りると思う?」

 正直者は小さく聞く。何気なく、天気の話をするかのように。

「さあな。あいつが何かを企んでいるからだ」

 狙撃者は楽しそうに言う。「おとりってのが気に入った。さて」

「それそろ散ろう」

「ああ」

「んじゃ、当日に約束の場所で」

「ああ」、正直者が車から降りていく。

 狙撃者は一人になると、小さなため息を吐いてカーステレオの再生ボタンを押し、フロントガラス越しの雨の夜空を見上げた。

第五章

「今日も良い天気だ」

無線の向こうで正直者が言う。空は黒く曇り、小さな雨粒を八万ほど落っことしていた。狙撃者は地下飛行場の出口から一八〇〇メートルほど離れた所にある小さな無人島の岩場で、その様子を眺めている。

「ああ、まったく良い天気だ。ちょっと見通しが悪いかな」

対物ライフルはとてつもなく大きかった。水道管のように太いバレルは長く、その先端には衝撃を抑えるための四角い金具、マズルブレーキが付いている。可能な限り軽量化しようという試みがこのライフルを肉抜きしていたが、それでも重さは十キロほどあった。

銃の上部で固定された二脚を開き、安定しそうな岩の上に置く。愛用のM700に載せているものよりもまだ一回りも大きいスコープを覗く。余計なお世話ではあるが、ターゲットの自動捕捉機能や風影響の自動調整機能なんてのも付いていた。“自動”に頼るスナイパーはそういないが、飾りとしては愉快なものだ。

「分かっていると思うが、今あの馬鹿でかいコンクリートの扉が開いている最中だ」

 チャーリーは隣で望遠スコープを覗いている。

「ああ、確認しているよ」

拡大されているにしろ、扉はとてつもなく大きかった。ジャンボジェットは無理にしろ、普通に輸送機を飛ばすくらいなら全く問題ないだろう。入り口にはお約束の、自動制御で動く機関銃だ。もっとも、すでに正直者の手で大人しくされているだろうが。

狙撃者は深呼吸をすると、無表情にボルトを引き、とてつもなく大きい弾薬を薬室へ送り込んだ。

「いたぞ、あの小さな島で銃を構えてる」

 ヒラギはそう言うとボートを止め、狙撃者から一〇〇〇メートルほど離れた位置にボートを止めた。突き出た岩の陰に身を隠しながら、様子を伺う。

「そろそろ飛行機が着きます」、ハヤマが言う。

「しかしあそこからじゃ、着陸が終わる地点まで三四〇〇メートルはある。いくら超間抜けなアンチマテリアルライフルでも、二七〇〇メートルが限界だ」、ヒラギは双眼鏡を下ろすと、ため息を吐いた。

「乗っているのが誰だかはしらないが、相当でかい的じゃない限り、三四〇〇メートルから狙撃するのは不可能だ」

「シマノだ、輸送機が来るぞ」

狙撃者はその声を聞くと、ライフルの先の方を左手で掴み、一八〇度向きを変えた。同時に、カラスみたいに小さく見える輸送機を確認する。方向を脳にインプットし、スコープを覗き込む。倍率を経た輸送機がスコープの視界、半分ほどを覆っている。十字線は出来の悪い定規みたいに複雑だった。もちろんそれを見たのは初めてじゃないが、何度見ても慣れることがない。

狙撃者は大きく息を吐き出した。大きなセイフティレバーを降ろし、繊細さのカケラもないように見えるトリガーに指をかける。航空機が加速するように、徐々に力を加えていく。それもあるかないか分からないほど小さい、小人の使う単位でしか示せないような力の大きさの変化だった。どういう引き金であれ、それを慎重に扱うのが鉄則なのだ。どの世界であれ。

「一二〇〇メートル、方向は正面。風は東にわずか、湿気と雨の影響が少し」

スコープの中で黒い輸送機が段々と大きくなっていく。狙撃者はいつものように自分の中から動きを廃し、人差し指に全ての意識を注ぎ始めた。

トリガーを絞る。

空間が歪むほどの衝撃が肩を打ち、銃身が飛び跳ねる。耳を劈くような銃声が鳴り、大きな金属の塊が空気中へと飛び出ていった。狙撃者は半秒の間に右手をボルトハンドルにかけ、次の弾を薬室へ送り込む。マジックペンよりも大きな薬莢が右へ飛び出し、大きな音を立てて地面に落ちた。

 青い色をした特殊な弾頭は、着弾地点に火をつける。輸送機の主翼の中に埋め込まれた燃料タンク、エンジン付近の鉱元が気化する場所にそれを撃ち込めれば、エンジンは機能を停止する。

 二発目を撃ち込んだとき、最初のターゲットが穏やかな火を噴き始めた。

「おいおい、あの間抜けは何をやってるんだ?」

「どうやら銃で飛行機を撃っているみたいですね」

重々しい銃声が一発聞こえたかと思うと、すぐに次が連なる。それはまるで出来の悪いフルオートマチックライフルの銃声のようだった。黄色い光の筋が弾の尾を引き、彗星のように頭上を通り過ぎていく。

ヒラギは状況を信じきれていなかった。あれはありえない速さなのだ。普通ならボルトを引いて戻し、もう一度スコープを覗き込む位置を決めて十字線を重ねるのに二秒はかかるはずなのに、この銃声は一秒間隔で二発というのを繰り返している。

あの馬鹿は常識を覆すつもりなのだ。

四つのエンジンが炎上したのを確認して、狙撃者は耳栓を外した。スコープを覗くのを止め、薬莢が作った水溜りを見る。それから、今まさに頭上を通り過ぎんとする哀れな輸送機を見上げた。良いときも悪いときも、鉱元はよく燃える。

輸送機は二人の上で爆発した。ファイバーの機体が燃え、中に積んだろくでもない鉱元兵器へと火が移ったのだ。

「行くぞ、サキオリ」

 チャーリーが叫んだ。狙撃者は頷くと、C125を別のボートに乗せ、最低限の荷物を詰め込んだ袋だけを持つ。無人になるボートを自動運転に切り替え、チャーリーの乗るボートへと飛び移ってM700を左手で掴んだ。

チャーリーが操縦ハンドルを左手に振り返る。

「予選突破だ」、同時に言うと、ハイタッチをして互いに笑った。

「ヒュー、お待ちかねだぜオールド・フレンド」

 エンジンをかけ、ボートを加速させる。

「どうするんです?」

「あいつら飛行場から入るつもりだ。こっちは水陸両用じゃない、非常口から侵入するぞ」

 ヒラギは舵を取りながら、数百メートル前方へと注意深い視線を投げていた。四隻のボートが何かを追うように前進している。もちろんその標的は狙撃者だろうが、肉眼では見えない。

 手を貸すべきか、一瞬迷う。しかしすぐにその考えが愚かだということに気がつく。今この状況では間違いなく狙撃者が強い。助けるどころか、自分まで額を撃ち抜かれてしまうのが関の山だ。

進む道を、少しだけ曲げた。

狙撃者はM700を構えると、後ろからフルオートで銃弾を浴びせながら追ってくる敵に狙いをつけた。しかし敵のボートの風防が防弾であることは明らかであり、引き金を引くことはできなかった。

「イスラエル製の自動小銃を使っているってことは正規軍じゃねえな」

チャーリーが言う。ああ、とだけ狙撃者は頷いた。それは大そうな問題だったが、どちらかと言うと目の前の状況の方が問題だった。

「この弾じゃ風防を貫通できない。急旋回して横にまわれるか?」

「このボートが猫ぐらい気まぐれじゃないことを祈るよ」

頼りない運転手は舵をめいっぱい回した。ほとんどオートマティック化された操縦システムはレスポンスが良く、切り返しに時間を要さない。横転しそうになりつつも、鋭く一八〇度ターンをした。狙撃者は右手にライフルを構えたまま、左腰からいつもとは違うM92Fを抜く。先端上部に四角い穴が三つ設けられたバレル、長く伸びた弾倉に、普通のスチールとは違う鈍い光沢。全てはその拳銃がただの拳銃でないことを示している。

トリガーを引く。羊の皮を被った狼は一秒半の間に二十四発の銃弾すべてを吐き出し、すぐ隣を通ったボート、その奥のボートに乗っていた敵全てをなぎ払った。

少ししてチャーリーがボートの向きを元に戻す。狙撃者は前にまだ二台残っていることを確認すると拳銃をしまい、再度スコープを覗いた。

「正直者、そろそろだ。三つ言ったが忘れ物は無いな?」、シマノからの連絡。正直者はアキレス腱をじんわりと伸ばし、次に屈伸へ取りかかろうとしているところだった。

「やる気と度胸とカロリーメート」

「結構だ」

「お前らといると、俺まで馬鹿になる」

「素質は十分だ。対空機銃の捕捉装置を切った、いつでも行ってくれ」

「天国へまっしぐらだ」

 正直者はそう言うといくらか助走を取り、全速力で崖の縁へと走った。絶望に向かって走るような気分ではあるが、目はしっかりと開いている。全てを受け入れるつもりで走る。自分の前方に何か遮るものを置き、安心して崖へと向かうというのが一番くだらないのだ。

 地面を蹴る。数メートルの横移動があり、体は完全に、空中へと放り出された。下には

一五〇メートルの空間があり、か弱い人間の哀れな落下を待ち焦がれている。

背中につけたワイヤーが金具と擦れる音、空気の轟き、それに建物から聞こえてくる警報音。何もかもが別次元の音に聞こえる。こういう場合、五感というものはあまり役に立たない。風に打ちつけられる感覚も、もの凄い速さで迫ってくる地面というやつも、結局は大した意味を持たない。あるのは飛んでいるという事実だけだ。

 俺がいつでもこういう気分だということを、少し分かって貰いたいんだがね。

「ちょっと黙っていろ、ハヤマ」

 ハヤマは明らかに緊張しているようだった。やはりここに連れてくるべきではなかったのだろうが、この男は譲らなかった。死んでも生き残ってもこいつの責任だろう。

「まさかこの中に入るんですか? ちょっと待ってください、中の自動警備システムは国会議事堂に勝るとも劣らないような――」

「あのなハヤマ、俺は居眠りをして年収二〇〇〇万円を貰っていたわけじゃない、国会議事堂はどうでも良い。同じく、ここの警備システムにも興味は無い。あるのは狙撃者だ、あいつに会うまでは俺は死なない。ここで待つか、黙って入るか、二秒以内に決めろ」

「……分かりました」

「行くぞ」

 立ち上がると同時に、銃声が聞こえた。数十メートル先にある非常口の扉で銃弾が跳ねたのを確認し、瞬発的に身をかがめる。拳銃をホルスターから抜き、右斜め後方へと振り返る。茂った草木の陰に同化した暗い色の迷彩服が、わずかに揺れた。それに、鈍く光る自動小銃の金具も。再度立ち上がる。時間が足りない、照準を重ねずに、感覚だけでトリガーを引く。三発の鋭い銃声が連なり、相手が倒れる音が聞こえる。

 走れ、聞こえるか聞こえないかくらいの声で吐き捨てる。ハヤマは確かに頷き、後にぴったりと付いてくる。さらに銃声が聞こえ、足下の土が跳ねる。ヒラギは立ち止まることなくトリガーを引き、二人の敵を撃ち倒した。

 扉は近づいていく。三十メートル、二十メートル、十メートル――。目の前に敵が現れたのはその辺りだった。

 ハヤマの服を掴み、近くの木の陰へと投げ倒す。自分もそこへ飛び込むと、フルオートで発射される小さな金属が木の皮をえぐるのを聞きながら、その弾倉が空となる瞬間を待った。チャンスを待つ、掴む、その二つを確実にこなせば良い。そう、ちょうど狙撃者がやるのと同じ要領だ。

 銃声が途切れる。脳よりも先に体がそれに反応し、地面を蹴る。拳銃を持ち上げ、照準を目と水平な位置まで移動させる。すでにこっちの弾倉も空だ。残るは銃本体に込められた一発だけ、外すことは許されない。

トリガーを――。

ヒラギは右手人差し指に力を入れようとして止まった。いや、止められたと言うべきか。そこに立っているのは迷彩服の軍人ではなく、灰色のパーカーを着た、異様な雰囲気を持つ男だった。

「後方注意だ、馬鹿やろう」

シマノは拳銃のグリップの底で、敵を殴り倒した。

「治安維持部隊が俺達に何の用だ? ついでに隣のジャーナリストも」

シマノはそれを言って後悔した。ここ十年で一番後悔したと言っても過言ではなかった。そして心の中で自分の言葉を繰り返せば、笑わずにいられなかった。現行犯のテロリストへ拳銃を向けている治安維持部隊員に対し、何の用だ、などという台詞があって良いわけがない。大国に行けば裁判沙汰になるような発言だ。

「間違えた。用件は分かるが、任務にしちゃあ対応が早すぎるぜ? それにここの調査は委員会が許可しないはずだ」

相手は銃を向けたまま、鋭い目つきでシマノの方を見ていた。シマノの中に信念が存在するか、それを確かめているようでもあった。

「お前は……誰だ」

「お前のよく知る人間だよ」、シマノは微笑し、相手の目を見る。

「もう一度聞く、お前は誰だ」、相手は拳銃を下ろすことなく続けた。

隣のジャーナリストは何が何だかわからない、といった様子でぼんやりと立っている。いかにも頼りのなさそうな男だったが、それなりの“もの”は持っているようだった。

「情報課のシマノだ」

ヒラギはゆっくりと、コルト・ガバメントを下ろした。

「サキオリ、そろそろだ」

 チャーリーは風の音に負けない声でそう怒鳴ると、マグカップほどの大きさの白い筒をボートの底から拾い上げた。ボートはすでに滑走路の終盤に差しかかっており、トンネルの突き当たりが見え始めている。そこでは十数台の小型警備ロボットが固まり、銃撃を続けていた。

「スリーピース」、チャーリーはそう言って筒に付いた丸いピンを抜き、指を三本立てる。狙撃者はボート後方に取り付けられた金具を外し、壁を蹴り飛ばす。時速二〇〇キロから落下したプラスチックの板は、一瞬にして視界から消えていく。

「ピース」、二本指。今度は四方の金具を外し、自分達が座っている板を解放する。車輪とブレーキが付いた、政府の施設へ侵入するという用途に限り使用が許されている台車だ。

「グッド・ラック」、チャーリーは嬉しそうに笑って親指を立てる。狙撃者が右手でブレーキペダルを押し込むと、二人を乗せた台車はボートの後方へと落ちた。

「掴まれ」、狙撃者はそう叫ぶと、台車に付いた金属の棒を掴み、ブレーキのレバーを引いた。加重が前方へと逃げ、後方へ向いて寝そべった狙撃者の内蔵やらは足の方へと押さえつけられていく。手を離せばミサイルよろしく前方へ飛んでいけそうだ。

 数秒の沈黙、そして爆発。轟音が腹の底を揺らし、急激な気圧の変化が耳を引っ掻く。小動物が腹の中でもがき、甲高い電子音が渦巻き管の中でぐるぐるとこだましているような、最悪な感覚だ。

台車は突き当たりの一〇〇メートルほど手前で制止する。若干の息苦しさの中で視線を持ち上げると、前方には無が広がっていた。

 正直者は宙釣りの状態で次のステップを待っていた。どうやらシマノが忙しいらしく、連絡が入らない。ため息を吐くと、ポケットから金色の袋を取り出して、パサついた栄養食品をかじった。

「シマノ、まだか」

「……悪い、屋上のセンサーだな。赤外線、振動感知オフ。オーケーだ」

「了解」

 腰の辺りの金具を捻る。ワイヤーが少しだけ伸び、数メートル下にあった防弾ガラスの天井が三十センチほどまで近づいた。腰の辺りから大きなナイフを抜き、柄に付いた小さなトグルスイッチを押し上げる。それが終わると今度は、サイドパックのポケットから直径二十センチほどの吸盤を取り出してガラスに押しつけた。

「そろそろ入ってくれよ、正直者。こっちは少々派手にかましすぎたくらいなんだ」、狙撃者から連絡が入る。

「割に合った仕事だよ」

「慎み深いもんだ」

 正直者は少し笑い、吸盤の取っ手を左手で掴む。右手に持ったナイフでその周りに円を描くと、防弾ガラスは刃の動きに従って赤く溶け、いとも簡単に切り抜かれた。

ナイフをしまい、吸盤付のガラス板を横に置く。ワイヤーを外して穴へ飛び込むと、五メートル下の土へと音無く着地した。

「始めるぞ。お行儀良く不法侵入させてもらう」

「本当に、シマノなのか?」、ヒラギはまだ、状況を信じ切れていないようだった。もはや誰が見方で誰が敵か何が善悪か、分からなくなっているように見える。しかしこの男は冷静だ。心で驚いていながら、頭では次に出るべき行動を考えてる。

「何度も言わせるな。元は情報課のシマノ、今は……乳製品評論家だ」

 シマノはノートパソコンを片手に話をしている。もう少しでパソコン経由のネット通信を遮断する準備が整う。

「なぜ狙撃者に味方する?」、ヒラギが聞く。

 シマノはパソコンの画面を気にしながら、二人の方を見た。

「そいつは古い考え方だ。俺は俺として、俺の思うように行動している。ただそれだけなんだよ」

 妨害電波の発信を終える。シマノはパソコンをしまい、携帯電話を抜くと、予め用意しておいたプログラムを実行する。セキュリティが解除された。どんなハイテクなシステムもこの手にかかれば、ただのつっかえ棒と変わりないのだ。シマノは口元を緩めた。

「それじゃあな、お二人さん。今は俺の後を追わない方が良い」、軽蔑の笑いを残し、扉の方へと振り返った。「うお、“引”なのに取っ手が無い」

「シマノ」、ヒラギが呼ぶ。シマノは扉の隙間を爪でカリカリとやっていたが、打ちのめされた気分を表情に載せて、顔の向きを少しだけ横に向けた。

「教えてくれ。この事件は一体何なんだ? 狙撃者の目的は大日石油を潰すことだけじゃなかったのか?」、好奇心、不安、苛立ち、期待、全てが混ざった声。

 シマノはパーカーのポケットから正直者が使ったのと同じ吸盤を取り出し、扉に叩きつけた。

「大日など本当はどうだって良い。そのうち分かるだろう」

 扉を開ける。非常通路は死んだ魚のように固まった小型警備ロボットでいっぱいになっていた。狙撃者たちの相手をしているロボットはコントロール室からしか止められないが、あいつらに関してはまったくもって心配ないだろう。すぐに正直者が役割を果たすはずだ。

「じゃあな」、シマノはヒラギたちの方を振り返ることもなく中に入り、素早く扉を閉めた。

「やつらが現れました」、男が言った。例の、不気味な笑みを浮かべた男だ。

「思ったよりも遅かったか。まあ良い、とにかく準備を始めてくれ。私が指示を出したらすぐに打つことができるように」

 大日社長はそう言うと、革のソファに深く身を沈めたままタバコに火を点け、低いテーブルの真ん中にあった灰皿を手元に寄せた。

「もうできています。やつらが始めるのを待つだけです」

「結構だ」

 男は面白くもなさそうに頷く。

「後のことは?」

「それについては君に一任する」

 大日社長はそう言うと、小さく笑った。

「やることはわかっているね」

「計画については三人で考えたものを実行するだけです」

「君は実に優秀なフィクサーだ」

「権力があってこそ裏仕事が成り立ちます」

「悪くない言葉だ。さあ行ってくれ」

地下工場は地下深くまで掘り下げられていた。巨大なコンサートホールほどの広さの吹き抜けには、いくつもの空中回廊が設けられている。何年も前に見たSF映画のワンシーン、それを切り抜いて張ったような光景だ。違いがあるとすればそれは、回廊が妙な筒ではなく金属フェンスの簡素な橋であること、そしてそれらに錆が浮いていることだった。

「へんちくりんな景色だな、サキオリ」、とチャーリーが言った。「どうしてこんなでかい吹き抜けを作らなきゃならないんだ? 二十階建てビルくらいの深さだ。空間が無駄だぜ」

「設計者に聞け。底にある白いタンクは――」

 狙撃者はそう言って右手に持っていたM700を構え、銃口を穴底の方へと向けた。

「鉱元廃棄物の保存タンクだ。大日石油って書いてあるぜ」

「政府と大日石油は恋人同士ってわけか」

「……そういやチャーリー、お前彼女どうした? この国に帰ってきてから俺に紹介したろ。十六人くらい」

 スコープをのぞくのを止め、チャーリーの方を見る。

「失礼な、十四人だ」

「うむ」

「うむってなんだ」

「なんだって良いさ、そろそろ落ちよう。俺たちはこうして最上部でのんびりしてるが、恐らく正直者は下で戦いっぱなしだ」

「警報は鳴ってないぜ」

「忍び足、もしくはそれと同じ状況を作る。そういうことをさせたらあいつはピカイチなんだよ。行くぞ」

「どうするんです?」、ハヤマは焦りの乗せた声で聞く。さっきからずっと、こんな調子で喋り続けている。ヒラギは相変わらず何もせず同じ場所に立ったままだったが、それについて焦りを感じることはなかった。考えていることは、あとどれほど待てば良いか、どうやったらこのうるさい男を黙らせることができるか、その二つだった。

「あの、聞いてます?」

「少し静かにしろ」、ヒラギはハヤマが黙ったそのとき、警報が鳴りやんでいることに気がついた。誰かがコントロール室を制圧し、警備システムを停止させたのだ。そのときを待っていたのに、この間抜けのせいで遅れを取ってしまった。

「行くぞハヤマ」

「行くぞって言っても、この中は警備ロボットの巣窟みたいなもんなんですよ、それに入り口のドアだって開いてない」

「まったくだ」

 ヒラギはシマノが残していった吸盤を掴んでドアを開けると、ガバメントから弾倉を引き抜いて残弾数を数え、そしてハヤマの方へと振り返る。ハヤマは驚いたような表情でヒラギとトンネルを交互に見て、最後にため息を吐いた。

正直者は拳銃をショルダーホルスターへと戻すと、制圧したコントロール室の内部をもう一度見回した。数人の警備員と技術者が倒れているのみで、危険は横たわっていない。それは何度も確認した事実だった。

 すでに警備システムは停止させた。狙撃者たちもそろそろ工場に侵入したはずだ。やるべきことがあるとすれば――。

「OK。後は任せてくれ正直者」

 不意に聞こえた声は、シマノのものだった。正直者はショルダーホルスターに納められた拳銃に指を乗せたまま振り返る。

「早かったな」

「体重が重いと下方向への移動がしやすい」

「ほう」

 シマノは少し笑ってコンピュータへ近づくと、自分のノートパソコンをリュックから引っ張り出して一本のケーブルで二つを接続した。

「正直者、こいつから情報を盗む。まず間違いなく警報が鳴って、まずまずな数の警備員が押し寄せる。守りきれるか?」

「ナポレオンの辞書に不可能って言葉は無かった」

「お前さんの辞書には?」

「太字で」

「チャーリー、警報だ。通常のものとは違う」

「ああ」

「コントロール室の前に敵が集まり始めている。急がないとまずい」

「んなこと言ったって、まだ半分しか下ってないぜ、オールド・フレンド。何しろこの、壁にへばりついた階段しか移動手段がないわけだからな」

「エレベーターを使うわけにはいかないだろ。入り口も中も出口も危険なあんなもの」

 狙撃者は吹き抜けに設けられた折り返し階段を駆け下りていた。チャーリーは数段後ろの位置で、ぴったりとくっついてきている。

「フロアごとで別々のものを生産している。これほどの深さがあるのに階数が七しかないのは屋根を高くする必要があったからか」、チャーリーが言った。

「地下一階では鉱元燃料のハンドグレネードとその類、その下では各種ミサイル。ラジオコントロール戦闘ロボットをお求めの方は地下三階フロアへ」、狙撃者は余裕の無い声でそう言い、余裕の無い表情で笑った。

「恐れ入っちゃうぜ」

「回廊は収納可能になってる。それに、フロアとフロアの間が妙に広い。ことによるとこいつは――チャーリー、伏せろ!」

 レンズの光。視界の隅でわずかに光ったのは間違いなく、ドットサイトのレンズに反射した光だ。狙撃者に次いでチャーリーが腰を落とすと、半秒前まで頭があった所を銃弾が通過し、後ろの壁で跳ね返った。狙撃者は地面を蹴り、地下四階のフロアに飛び込むと、恐らくは防弾に使えるであろう透明な壁に隠れる。防弾ガラスか、その類の仕切りだ。階段に出るところだけが四角く切り抜かれている。少し遅れてチャーリーが入ってきた。

「どうする、サキオリ?」

「空中回廊を飛び移りながら落ちることは可能?」

「撃たれなければ」

「援護するが保証はない。ここの警備兵が使っている弾丸とは違った」

「別の部隊か」

「あるいは別の組織かもな。とにかく実力の知れない敵だってことだが、やれることはやる。行ってくれるか?」

「誰のバックアップだと思ってやんよ」

 チャーリーはそう言って笑うと、ライフルを肩に掛け、助走をつけるために吹き抜けから十メートルほどの距離を取った。目で頷く。狙撃者はM700ライフルを持ち上げる。スコープの倍率が一番低くなっていることを確認して、ボルトハンドルを操作する。チャーリーが地面を蹴る。

「シマノ、こいつは無理だ、防ぎきれない」

 正直者は厚い金属製の扉を閉めると、シマノの方を振り返った。

「サキオリたちの到着を待つ、しか方法は無い」

「あいつらはどこに?」

「わからない。ジャミングを解除しないことには連絡が取れない、解除すれば敵さんの行動まで助けることになる」

「待とう。とりあえず仕事を済ませてくれ」

 シマノは頷いて再びパソコンを操作し始める。製造した兵器のお届け先をまとめたファイルがどこかにあるはずだが、何しろダミーの数が半端ではない。まずはカモフラージュファイルの張り方を手がかりに位置を掴む。それは人間に任される仕事だった。

「ちょっと待ってくださいヒラギさん」、ハヤマが背中に声をかけた。

「待たない」

「行けば殺されます。狙撃者たちは戦闘のプロです、獲物を前にした鷹みたいなやつらですよ」

「奴らがホークなら俺はアローだ」

「わけのわからないことを言って――」

「うるさい黙れ文句は死んでから言え」

 ヒラギは巨大な地下工場に着きあたり、足を止めた。ゆっくりと目をこらし、一つ下の階の反対側で誰かだ銃を構えているのを確かめ、今度は近くにあったプラスチックのコンテナへと身を隠した。ハヤマも、命が惜しいのか金魚の糞のようにくっついてくる。

「ハヤマ、3Dカメラを回せ」

 ヒラギはそう言うと、ハヤマのバックパックを指さした。

 狙撃者はライフルの弾倉を交換すると、上方へと目をやった。敵は見えないが、誰かがいる気配はする。二人、いや三人か。動きの読めない不確定な要素だ。

「サキオリ、下で二人と合流した。制圧したぞ」

「助かるね。今行く」

 ライフルを肩に掛け、ナイロンのサイドパックから巻かれたワイヤーを取り出す。片端には握力計のようなグリップ、もう片方にはカラビナが付いている。つまりは、誰かに撃たれない限りチャーリーのように辛い思いをしなくても下まで降りられるわけだ。

 不気味な笑みを浮かべた男、フィクサーは身を叩くような風を感じながら、両耳に手の平を被せた。

「隊は全滅しました。四人は最深部に到達、どうします?」

「じきに終わる。遊びは終わりだ、引き上げて次の行動に移る」

 了解の返事と共に輸送機が急旋回を始める。ゆっくりと扉が閉まり、それが終わったところで機内が落ち着きを取り戻した。

 四人の前に並んでいるのは、何年も前に流行ったロボットアニメに出てくる機械とはほど遠い、ひどく合理的な戦闘ロボットだった。キャタピラの付いた二本足、その上に乗っかった一人用コックピット。その上部と両脇には武器を装備するためのレールが設けられていた。火炎放射器、機関銃、障害物を破壊するためのアームなどから二つを選んで装着するわけだ。

「ついに実践投入か」

 正直者は一番近くにあった一台、格納された数百台のうちの一台に手を突いて、寂しげに言った。

「長い間改良され続けたが、その改良のための実験は紛争地域で行われていた。さっき見たリストには、こいつの出荷記録が残っていた」、シマノが言う。小さなビデオカメラを手に持ってゆっくりと回していた。

「人が乗るだけマシさ」、狙撃者は若干の憎悪のようなものを混ぜて、短く吐き捨てた。

「善悪について言えばきりがないだろうが、生命が事務的に処理されるってのはあんまり楽しい話じゃない。行こう」

 狙撃者はそう言うと、格納庫から出て、コントロールルームの方へと半ば無意識的に歩いた。金属のように重い格納庫の空気に耐えられなかったのだ。

「撮り終わったか?」、ヒラギは吹き抜けの底を見下ろしながら聞いた。

「ええ。降りるんですね」

「いや、何か嫌な予感がする」

 振り返ってコンテナの所へと戻る。ブーツの底が地面を叩き、無音の室内にある程度のBGMを与えた。そう、この静けさが不気味なのだ。

「さっきの連中――恐らくは大日の特殊部隊、あいつらが増援をよこさないということは、諦めたか何か手があるってことだ。狙撃者を生かす理由でもなければ、諦めるってことはまずないだろう。なにしろ数で追い込めば倒せる相手だ。……少し待とう」

「我々にはある問題が迫っている」、シマノが言った。

「つまり上るのが面倒である」

「切実な問題だ」、チャーリーが言う。

「しばらくはここにいよう」

 腰に手を当てて上のフロアを見上げながら、狙撃者が言う。チャーリーは楽しそうに口元を緩ませ、正直者は眉間にシワを寄せた。シマノは目を細めてじんわりと狙撃者を見る。

「……それで?」

「疲れたんだよ」

 爆発が起きたのは、それから数分後のことだ。ハヤマには十分すぎる、恐ろしい体験だった。はじめ小さな揺れが起き、次にひどい爆発が起きた。轟音が腹を揺らし、怒りとも恐怖ともとれない感情をいぶり出す。耳が甲高い音に引っかかれ、息ができなくなる。

 しばらくの間は地面に伏せったままだった。ヒラギが起こしてくれなければそのまま気を失っていたかもしれない。肩を借りて立ち上がり、力の入らない足で吹き抜けのそばまで歩く。大きな穴の底の方を、地獄から沸き上がったような大波の炎が包み込んでいた。

「まんべんなく爆発した。地下三階より下は崩れ落ちたみたいだ」、ヒラギはまっすぐと地下を見下ろしたまま、無表情な声で言った。「鉱元が燃えている。これじゃ例え戦車に乗り込んでいたとしても蒸し殺される」

「彼らは……?」

 ハヤマの質問は立ち上ってくる熱風と共に掻き消されたようだ。ヒラギは沈黙のうちに地の底へ視線を投げていたと思うと、ポケットから携帯電話を抜いて何かを確認し、それをポケットにしまう。もう一度炎に視線を投げ込んでから、行こうと言って燃え上がる工場に背を向けた。

第六章

 鬱蒼と茂るジャングルの中では、汗が大した意味をなさなかった。どっしりと重い湿気が服を湿らし、重い荷物にさらなる負荷をかける。狙撃者はジャングルでの任務を嫌っていた。手にしたM700の木製ストックは水を吸うことで膨張して弾道に狂いを与えているし、そもそもここでは狙撃ではなく奇襲に重きが置かれている。この長物を構えるまでのほんの一瞬の間に、ナイフで喉元を掻き切られてしまうのだ。

「Sakikawa, somethin’ wrong? (サキオリ、大丈夫か?)」

 隣で話しかけてくるのは、マーティンだった。入隊当時からずっと行動を共にしている二人の内の一人だ。もっとも、もう一人であるチャーリーはすでに日本へと戻ったが。

「Nothing. But the jungle get the sniper like me feel a little uneasy, you know. (問題ない。ただ、狙撃兵にとってあんまし居心地の良い場所じゃないんだ、ジャングルってのは)」

「No one doesn’t.(誰だって同じさ)」

「Probably. (かもな)」

 ブーツの底は、ぬかるんだ地面の上をかろうじて進んでいく。少しでも油断すれば飲み込まれてしまう、そういう気分が思いこみか現実か分からないところがこの戦場の怖さだ。

「’Guess you’ll go back to your country just like Charlie, right? (国に帰るつもりなんだろ)」、マーティンは狙撃者の方を見ずに言った。声には若干の寂しさと穏やかな確信がこもっている。

「It would be cool if I can do so. But nothin’ is waiting for me in my country.(そうしたいところだが、俺は国に何も残してこなかった)」

 相手は何も言わず、何度か首を振っただけだった。それがどういった感情を表すのか、狙撃者には分からない。数十秒の沈黙があり、その後沈黙が始まった。沈黙には終わりの見えるものと見えないもの、二種類があるのだ。

 次の任務は簡単なものだった。紛争で傷ついた村を立て直し、そこに農業の種を植える。傭兵生活始まって以来の穏やかさだったが、それ故に漠然とした不安があった。タダほど高いものは無いというように、戦場では安全ほど危険なものは無いのだ。村へと続く道は細く、両脇から包み込む草木は敵を隠すのに最適なブッシュ、罠であれば全滅の可能性だってある。しかしその心配も長くは続かなかった。

「Here we are, Sakikawa! It’s a pretty nice, calm and broken village. We’ll have a pain on our back.(着いたぞ、サキオリ。こいつはなかなか素敵で穏やかなぶっ壊れた村だ、

骨の折れる仕事になるぜ)」

「’Imagine so.(だろうな)」

 狙撃者は大きく深呼吸をし、荷物を下ろす。それからゆっくりと周りを見回す。壊れた木の家、布のキャンプ。たき火と百人ほどの村人。村人はこれ以上失うものは無いといったように傭兵部隊の到着を心底喜んでいた。一方で二十名ほどの傭兵たちはみな安心と不安の両方抱えているようだ。それは自分も同じことだった。

「I feel like a rest.(少し休もう)」、マーティンはそう言って、切り株の上に腰を下ろした。狙撃者も同じく、近くへ座る場所を探す。

 空は青く晴れていた。これまでに数百の鳥の大群が二つ三つ、Su-47戦闘機が五台ほど頭上を通過した。遠く離れたところで爆発音が聞こえ、それが口火を切って古い自動小銃の連射音が連なる。幾度となく繰り返された面白みも何もない戦闘だ。最初は寄って集って取材をしに来たメディアのヘリも、代わり映えのしないエンターテイメントに飽きてやって来なくなった。

「So calm.(静かだ)」、相棒はゆっくりと言った。遠くから聞こえてくる仲間たちの会話、木々のざわめき、動物の鳴き声。戦闘機の轟音に銃声。そう言ったもの全ては風と共に流れ、一つの音楽のように聞こえる。子供の頃、山に囲まれた田舎で聞いた音楽だ。もう故郷で聞くことはできないだろう、懐かしさの象徴。

「It’s so calm when you start or end something.(始まりと終わりはいつも静かさ)」

 狙撃者はそう言うと、空を見上げるのを止め、今度は終わりの無い熱帯雨林へと視線を投げた。村のある一帯は開けた土地だが、それ以外は海のようなジャングルだ。

「Oh, so you wanna say we will die here, right? (俺らがここで死んじまうってのか?)」

「Nope, the reverse.(逆だ)」

「The rebirth.(生まれ変わる)」

「Somethin’ll start. I feel it.(何かが始まる)」

 マーティンは狙撃者の方を見て、小さく笑った。軽蔑とは違う、期待を込めた笑いだ。傭兵はいつでも何かにつけての理由を探している。あるいは何か大きな変化を。皮肉なことに一番起きやすい変化は、死だ。

「Sakikawa, what did you enter this unit for? (なぜこの部隊に入った)」

「Hmm? (何だって?)」

「’Guess you’re the last man who gotta be a mercenary. You could choose any jobs, because you graduated from the university of…(お前さんは傭兵になる必要なんか無かった。仕事は選べたはずだぜ。なんてたって出身大学は……)」

「Hey, I ain’t gonna be an attorney, even if you flatter me. And I didn’t guraduate the university.(よせ、法律家にはならないぞ。それに卒業してないんだ)」

 狙撃者はそう言って小さく笑ったが、マーティンは真剣だった。狙撃者は諦めて何度か首を振り、それから続けた。

「I’m tired of living in that society. Did you know? They’re always thinking how long they can live, but how good they can live. And they say”science has made too much progress.” I don’t think science can top humans. Humans failed in advance. There should have been a sense of responsibility.(俺はうんざりしたのさ。知っているか? 人々は長く生きようと終始努力し続けるが、いかに生きるかは考えようとしない。そしてこう言う。科学は進歩し過ぎた、とね。科学が進歩しすぎたんじゃない、人間が進歩し損なったんだ。あるべき責任感が無い)」

「Gotcha…(そうか)」

 マーティンはわずかに表情を歪めた。

「Let me give you this. It won’t be bad for you.(こいつを渡しておく。何かの役に立つだろう)」、狙撃者に一冊の本を渡す。「It’s my life.(俺の命でね)」

 狙撃者は笑った。

「Your will, right?(死ぬつもりじゃないだろうな)」

 マーティンも笑う。「I just want you to read it.(ただ読めってことさ)」

「Thank you, Thank you.(ありがとう、ありがとう)」

 村の復興が終わるまでに一週間と二日かかった。村人たちはやっと覚えたありがとうの言葉を何度も繰り返し、これ以上無いといったほどの笑顔と涙で傭兵たちに握手を求めた。

「Done.(終わったな)」、マーティンはそう言って狙撃者の肩を叩いた。狙撃者は短く返事をし、灰色に曇った空を見上げる。この村に来てからはずっと、空を見上げている。

「Yo buddy, somethin’ wrong? (おいおいどうかしたか?)」

「Yeah, get ‘em hide in the jungle! Now! (ああ。村人をジャングルに隠してくれ、急げ!)」

 狙撃者は仲間全員に向かって叫ぶと、荷物をまとめてある小屋へと走った。

「Damn apache! (くそ、アパッチか!)」、マーティンが古くさいアサルトライフルを構えようとする。

「AR15’s like an ant for that! Get down your gun.(止めろ、そんなものは役に立たない)」

小屋の扉を開ける。リュックの中から二つの筒を取り出した。両方ともコルク栓を大きくしたような形だったが、一つからはわずかに白い蒸気が出ている。

「There’re two grenades…one is freezer, the other is burner kind of Molotov cocktail. Hit the apache’s tale from below with these two, on the same place at the same time as near as possible, right? (二種類のグレネードがある。一つは冷却弾、もう一つは鉱元気化爆弾……一種のモロトフ・カクテルだ。こいつらを順に、アパッチのシッポに下から撃ち込んでくれ。できるだけ時間を空けずに、同じ場所へだ。できるか?)」

「Yeah.(ああ)」

 狙撃者はマーティンの返事と共に、壁に立てかけてあった長いナイロンのケースを手に取った。七キロもある、重たいケースだ。

「Will you shoot that with it? (そいつで撃つのか?)」

「Yep, kind of. Here we go! (ああ、まあな。行くぞ)」

 扉を開けた瞬間、数十メートル離れた辺りで爆発が起きた。攻撃ヘリがミサイルで攻撃を始めたのだ。轟音が響き、土が石を混ぜて飛んでくる。一機だけだが、戦闘力は圧倒的だ。

 すでに仲間たちが応戦に入っていた。ライフルで連射したり小型ミサイルを撃ったりしているが、まるで効果が無いようだった。マーティンが自前のランチャーを構える。狙撃者はケースからボルトアクションライフルを抜いて、弾を装填した。M700の弾よりも三回りほど大きい銃弾を撃つように改造してある。

「I’m there, Sakikawa! (準備できたぞ)」

「Fire! (やれ!)」

 マーティンが一発目のグレネードを予定通りの場所へ撃ち込む。液体冷却剤入りのグレネードだが、持ち出してから日が経っているために上手く働いてくれている確信はない。二発目のグレネード、今度は大きな火が点く。それとほとんど同時に粉々に散ったボディのカケラが地面へと落ちた。どうやら成功したようだ。

 トリガーを引く。ライフルから重い弾頭が飛び出て、厚いうろこを失った一点へと飛び込んでいった。すかさずボルトを操作して二発目、三発目と立て続けに撃つ。五発撃ったところで弾倉が空になり、次の瞬間には攻撃ヘリのテイルローターが停止する。言うことを聞かなくなった凶悪なハ虫類は、ゆるやかにスピンしながら離れた場所の地面へ落ちた。あっけない最期だ。

「Hey, I don’t want you to be my enemy, Sakikawa.(お前さんを敵にしたくないぜ)」

「Who does? No one wanna be shot with L115A3.(言えてる。L115A3なんて凶悪な銃には撃たれたくないぜ)」

 仲間たちが集まってくる。避難していた村人も一緒に戻ってきた。

「You guys, Martin is the man who shot the apache down.(マーティンのおかげさ)」、狙撃者はそう言うと、マーティンと目を合わせて少し笑った。ライフルをケースに戻して辺りを見回す。

「Village lies in the dust.(村は潰れちまった)」

「Some people were killed by missiles. Can you here that? (何人かがミサイルで死んだ。聞こえるか?)」

 村人たちの集まりの中、小さく泣いている子供がいた。六歳にもならないような男子だ。そしてその子の肩を十一歳ほどの姉が抱いている。彼ら二人を包むべき大人はいなくなってしまったのだ。

「Sakikawa.」、仲間の一人が遠くから走ってきた。手には小さな紙切れを持っている。

「This mark was on the apache. ‘Guess it’s Japanese, isn’t it? (こんなマークがアパッチに書かれていた。日本語じゃないか?)」

小さな紙に書かれた弱々しい漢字を見る。

 大日石油――。狙撃者は無意識のうちにある人物を思い浮かべていた。しかしこれとその人物が体験したものとはいくらかの差がある。攻撃はそうすることでしか生きられなければならかった者たちによって行われたのではない。あの切なく豊かな国で使う鉱元、その採掘に邪魔な村人を消すために行われたのだ。無意識に他を消費する者たちの望みを叶える、代表者として。

「They’re returning, Sakikawa.(大日の増援だ)」、仲間の一人が言う。それは確かなようだった。頭の上を通り過ぎた輸送機は間違いなく、大日の落下傘部隊をたっぷりと詰め込んでいる。

「We’re going to the hill top.(丘に登ろう)」、誰かが言う。

「Why weren’t we? (それが良い)」

 疑う余地もなく丘の上は有利だった。村から七〇〇メートルほどしかないし、輸送機がこの先で兵を落とせば圧倒的に有利な位置から攻撃ができる。そもそも人数的に不利なこの部隊にとって、それは最善の策だった。しかし、それは部隊にとっての話だ。

「What about ‘em? They can’t catch up with us.(彼らはどうするんだ? 登れないぞ)」、狙撃者はそう言って村人たちの方を見た。英語が分からない彼らはただぼんやりと、傭兵たちを見つめている。

「Get them hide again.(もう一度隠そう)」

「Hey, they came here to destroy this village.(あいつらはここを消すために来たんだ)」

「So what do you think can we do!? (じゃ、どうするんだ!)」

「Hey you guys, listen. I and some will stay here to fight with ‘em. Sakikawa run to the hill top, right? Stay with me? (やめろ。俺と数人でここに残って戦う。サキオリが丘の上へ行く、それで良いだろ。やってくれるか?)」

「No, Martin! (駄目だ、マーティン)」、狙撃者が言った。

「You’re incredibly stupid, martin. I’ll stay with you.(お前はとんでもない馬鹿だ、マーティン。一緒に戦うぜ)」

「’Guess I will, too.(俺もだ)」

 マーティンは狙撃者の方を見て、笑みを作る。狙撃者は首を振ったが、彼は気にしていないようだった。

「’Rely on your 408.(弾は任せたぜ)」

 何か生温いものが体中を包み、少ししてそれが雨だと気がつく。風が丘の上へと吹き上げてきて、霧のような雨が下から吹き上げてきているのだ。狙撃するにあたって最悪な環境だ、といつもならこぼしただろうが、今に限ってそんな余裕は無かった。スコープの中、丸い世界で待機するマーティンからは、十六倍にした緊張の鼓動が伝わってきそうだ。

 ボルトを操作し、弾を装填する。それとほとんど同時に、村から数百メートル離れた所で大日の部隊が降下を始めた。暗い空の色に合わせた灰色のパラシュート、シェルター。おそらくは慣れた人間がスコープを使わなければ彼らの姿を細かく確認することは不可能だろう。恐怖が降り注いでいることが分かるのに、それを撃ち落とすことはできない。これはまさしく死に至る病だった。

 トリガーを引く、弾を送り込む。その機械的な動作がひどく辛かった。ここで自分が撃ち落とせなかった悪魔たちが、自分の戦友たちを死に導くのだ。裕福な民衆から搾取した金がたらふくつぎ込まれた部隊、武器すらろくに支給されない部隊。数も装備も違うこの状態で、どちらが勝つかは予想ができる。

 まだ位置はばれてないのか、こちらに弾が飛んでくることはない。しかしそのうちライフルが吐き出す煙で自分の存在も知られるだろう。それが本望だった。

 地上で、戦闘が始まる。

 ひどく孤独だった。いつも共に戦っていた仲間たちが皆、どこか別の世界へと旅立ってしまったかのように思えた。怒りとも悲しみともつかぬ感情――おそらくは無力感が包みこみ……いや、いったいどこを包み込んだと言うんだ? 誰が無力で、誰が力を持っているのか。敵は見るからに優勢で、味方は心許ない。

だが狙撃者には、“彼ら”こそが無力だと思えて仕方がなかった。

 熱を持った銃身に落ちた雨が、音を立てて蒸発する。白い煙がスコープの前で揺らめき、着弾点を狂わせる。肩が麻痺し、次に人差し指が硬直した。それでも狙撃者は撃つのを止めなかった。ライフルの右側にある薬莢は一〇〇を超えている。

 ついに右腕が自分のものでなくなる。そのとき狙撃者は涙を流していたらしかった。生温い、塩味のする液体が口に流れ込んだのだ。しかしそれは、さらに別の味を含んでいた。酸味、消火に使われる特別な薬品の味だ。

 狙撃者はその瞬間、初めて空撃ちをした。カチリ、という情けない音が宙を叩き、同時に狙撃者の戦意を割った。それはひどく繊細で、なお且つ普段はガードの厚い部分を容赦無く突いてしまったらしかった。

 狙撃者は立ち上がり、ライフルを持って村に背中を向けた。爆発、とてつもなく大きな爆発。全ては炎のうちに葬り去られる。

 大きな音と共に空気が薄くなる。炎の揺らめく音は十数秒間続いた後に消える。狙撃者は拳を強く握ると、無理矢理自分を振り返らせた。彼らのしたことを、見ておかなければならなかった。

 手には紙切れが握られている。大日石油、下手くそな字だ。狙撃者は小さく笑った。ジーンズのポケットには一冊の本。狙撃者はそれを丘の下へと投げ捨てようとして止め、もう一度ポケットに戻した。

「国内の政府管理施設、通称FS-Dにおいてテロがあったことが、投稿ニュースサイトによる書き込みにて、発覚しました。FS-Dは国民の税金で建てられた政治家の別荘と言われ問題となっていた施設ですが、その地下にはなんと兵器工場、さらには滑走路までもが隠されていたようです。投稿された映像が信憑性の高い3D映像であったことから、大きな話題となっています」

 深く掘り下げられた工場の映像、そして爆発。

「テロの内容についても記載があり、それによると、数人のテロリストが警備と戦いながら工場の最下部まで降り、自爆を試みたと言うことです。ネットでは彼らを英雄、神などと言って崇める書き込みが多発し、これまでに国内の数カ所で、模倣犯による自爆テロが発生しました。その他にも、情報公開を求める署名活動が何カ所で行われている模様です」

 狙撃者たちが“消えてしまった”今、とりあえずはコイントス・プログラムを追うことが最優先だった。それにプログラムが大日石油と関わっている以上、狙撃者たちとなんらかのつながりが可能性は低くない。

大日石油、コイントス・プログラム。そして狙撃者。それだけじゃない。きっと、それだけじゃないはずだ。何か重要なことを見落としている気がしていた。あの日、この事件が始まった日。政府管理のビルに、俺はいた。

 ヒラギは思い出したように、リュックから手帳を取り出してメモページを開く。

A<……政府はまだ要求を呑まないのか。たかが情報公開なのに>

B<政府もまったく情報を与えられていないのかもな>

A<あれのせいでみんな駄目になっちまっているというのに>

B<深入りすれば死ぬからな、存在を知るだけでも危険だ。開発者は自分がどれほど恐ろしいものを創っていたか、自覚していなかったんだ>

A<……おい、あれは?>

C<畜生、治安維持部隊だ!くそ、撃て。追い払ったら人質も数人殺せ!>

コイントス・プログラムの名を耳にしてから、一応と思ってメモしておいた彼らの会話。あきらかにプログラムのことを話している。しかし――。

しかしBのセリフを言ったのは情報課、つまりシマノなのだ。声は模倣できても、その記憶までもをコピーできるわけではない。彼はプログラムを知っていたのだ。

そして彼は狙撃者と行動を共にしていた。一体何のために? ヒラギはため息を吐いて腕に目をやる。どうやら時計を忘れてきたらしかった。ポケットから携帯電話を抜いて時間を確認した。それからふと、FS-Dで自分に送られてきたメールの存在を思い出した。場所と、時間の記されたメール。爆発が起きなければもっと進展があっただろう、そう思うと好奇心が悔しさに変わって堪らなかった。

「ヒラギさん、じゃないですか」、突然後ろから声がする。ヒラギははっとして、目の前に置かれたパソコンを改めて見て、ここが図書館であることを思い出した。

「その事件なら私も知っていました、というかこの国で知らない人間は少ないでしょう。でも、そんなに詳しい説明はありませんでした」、コトは言った。

「事件の詳細は話したとおりだ。狙撃者たちについて、思想、動機、目的、分かることがあればなんでも教えてくれ」

 カフェテリアはいつもながら空いていた。休日の昼間とはいえ、図書館を利用する人間はそう多くないのだ。

「彼らは死んでいないと思います」、コトは何事もないように言った。

「爆発にのまれたんだ」

「狙撃者たちはいつも、常識とは外れた行動をとってきた。しかもそれらは、狙撃者自身の意思を具現化した行動でしたよね。つまり、狙撃者は気まぐれな人間でも、その陰でしごく計画性のある人物が彼を支えている」

「シマノか?」

「わからない。でも、そのシマノという人の言葉。俺は俺の好きなように行動している、でしたっけ。それによるとつまり彼は仲間として狙撃者たちの計画に従っているわけではなかったってことですよね。シマノっていう人、他に何か言っていませんでした?」

 ヒラギは記憶の引き出しをあさる。シマノの言葉、携帯電話の向こうから放たれたいくつかの言葉が、形を変えずに保存されていた。

“今回の事件がお前や俺、おそらく狙撃者たちが思っているよりもずっと大きく、尚かつ重大なものであると告げている。事件として片付けるだけでは不十分な、単純かつ複雑な思想が事件全体を渦巻いているんだ。俺たちは一つ一つの事象の意味を深く考えながら、事件の真意を追わなきゃならない”

「やつはやつ自身で、捜査を進めていたというのか?」

「その可能性は高いですよね」

「だが、やつらと手を組んでいた――あるいはそう見せかけていたなら、捜査など続ける必要は無かったはずだ。隙をついて逮捕すれば良い」

「彼が、自分自身の目的のために狙撃者たちの力を借りているとも考えられちゃいます。いずれにしろ、狙撃者の突拍子のない――囚われていないアイデアを、誰かが具体的な計画へと書き下している。彼らがそういう行動パターンに従っていたなら、彼らが死ぬことはまずないはずですよ。死ぬことが計画に含まれていない限り」

 確かにその通りだった。狙撃者たちは狙撃者たちであり、狙撃者ではなかったのだ。ヒラギはそうか、と呟く。

「目的についてはどう思う?」

「大日石油への、何かの復讐というのが一番わかりやすいですけど」、コトはそう言って、わずかに視線を落とす。カップの中、冷めたコーヒーの黒い面の上。

「私には狙撃者もシマノという人も、大日石油もジャーナリストもヒラギさんも、今のところはみんな平行線上にいるような気がしてならないんです。それぞれ別々の目的とか動機とかを持って行動している。でも向かっている方向は同じで、最後には誰かが、あるいは何かがその平行線たちを一点にまとめてしまう。しかも、それがまとまった瞬間に何かが起きるっていう予感を誰もが無意識に携えている」

「難しいな」

「んー。もっと分かりやすくっていうと……あ、パズル」、コトは嬉しそうに視線を持ち上げてヒラギの方を見る。

「ジグソーパズルってありますよね。みんなであれを完成させてる感じなんです」

 ヒラギははっとして、テーブルを挟んで反対側にいる相手の目を、のぞき込んだ。光に満ちあふれた目。

「俺とお前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために」、ヒラギは目の前に浮かんだ文字を読み上げるように言う。

「大日の部隊を指揮する男が以前、これを言うために俺のところへやってきた」

 コトは少しの間何かを考えるように固まり、その後に言った。

「ある意味では流れに身を任せれば良いんじゃないしょうか。つまり、自分にできて、自分がやるべきだと思うことをやるべきだと思うんです」

「それが、使命だと」

「わからない。でも、道はつながっている気がします。すごく抽象的な話だけど」

 ヒラギは返事をせず、小さく頷いた。

「行動し続けることが重要だということは確かです」、コトが言う。「ていうか、完成したパズルを見てみたいと思いません?」

 ハヤマはテレビを見ながら、あの日から何日が経過したかを数えてみた。五日、おそらくはそれで合っているだろうが確信は無かった。太陽が何回昇ったかを数える気にはなれないのだ。

「――小学六年生の男子がハサミを使って同級生を殺害――これに対し県は小学校内でのハサミの使用を全面的に禁止――サッカーワールドカップを二日後に控え、スタジアムは厳重な警備体制の下で――爆弾テロの兆しも――インターネット掲示板には本物のデスマッチが行われるといった書き込み――スリルが欲しいなどとしてチケットを求める若者が後を絶ちません――」

 全ては興味の対象外だった。強烈な経験を食らった今では、細かいことなどどうでもよくなっていた。あらゆることがくだらなく、退屈なものに思えるのだ。

携帯が鳴る。会社の上司かと思うと憂鬱だったが、液晶に表示された番号はヒラギのものだった。

「話がある」

「つまり、調査を続けろと言うんですか」

「そういうことだ」、相手は鋭い視線をハヤマに突きつけた。それはほとんど有無を言わさない、前もって決定された選択肢を言い渡すときに有効な目つきだ。この男は常に何かしらの考えをもっていて、それに沿った行動を取っている。今回も例外ではないだろうが、その内容について知るためには説明を待つほかない。

「思い当たる筋全てを虱潰しに探せ」

「思い当たる筋全てといっても、筋なんか一本もありませんよ」、ハヤマはそう言って、わざとらしく笑って見せた。

「前に話をしたプログラムのことについてでも良い。おそらくは深い関係があるからな。いずれにしろ調べる必要がある。協力が必要なんだ」

「なぜそこまでするんです?」

 ヒラギは一瞬の沈黙を作り、それからゆっくりと口を開く。

「俺、お前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために」

 もう一度沈黙。「ある大日の部下が俺に残した言葉だ」

「この事件にはどうも釈然としない部分が多い。そもそも動機が分からないうえに、目的も大日の破壊とは限れそうにない。犯人たちの経歴は迷彩色で塗られているかと思えるほど発見しづらいし、やっと見つけた一人は実に意外な人間だった」

「彼らが目的としていたことを明確にする」

「ジグソーが完成するのを見るんだ。調査は午後だ。今から射撃場に行く」

「Cz75。チェコ製の中型拳銃で、その精度と耐久性の高さから莫大な信頼を受けている」、ヒラギはそう言うと、暗い灰色をした拳銃を手に取り、それをハヤマに手渡した。

「プラスチックでできているんですか」

「そんなようなもんだ。使い方を説明する、一度しか言わないからよく聞け」

 ハヤマは何が何だかわからなかった。なぜジャーナリストである自分が銃の使い方を習わなければならないのか、今更そんなことをしてどんな意味があるのか。分かることは、この男が本気であるということだけだった。

 ヒラギが銃の使い方を一通り説明する。

「弾が切れると、スライドは下がったまま止まる。弾倉を交換する場合、このまま交換して引き金の上辺りに付いているバーを押し下げれば良い。やってみろ」

 ハヤマは銃を受け取ると、弾倉を抜き取った。銃を台に置き、両手で弾を込める。最初はすんなりと入る。しかし十二発ほど入れたころには押し込まなければならないほど固くなっていた。数分かけてやっと準備を終え、両手で銃を構える。室内射撃場、実寸台の人型ターゲットまでの距離は四メートルほど。隣にはさっきヒラギが撃った、真ん中に大きな一つの穴が開いたターゲットが釣り下がっている。

 銃の上部には三つの点がある。銃の先端に一つ、後端に二つ。後ろの二つの間に前の一つを合わせ、その向こうにターゲットの中心を合わせる。直感的に分かる動作だ。恐る恐る引き金を引くと、タン、と短く乾いた音がしてそれなりに大きな衝撃が腕に伝わった。思わず閉じてしまった目を開く。そこには穴の開いていないターゲットがあった。

「弾、出なかったんですか?」

「外れたんだよ」

「まさか――こんな近くで?」

「最初はそんなもんだ。使わないときはセイフティを掛けておけ、グリップの上辺りにあるやつを押し上げろ。次はフォームを練習する。銃を撃つときは必ず両手を使え」、ヒラギはそう言って拳銃を持ち上げた。

「構えてみろ」

 ハヤマはさっきと同じ構えを作る。ヒラギは表情を変えずに頷いた。

「構え方には大きく分けて二種類ある。右手を真っ直ぐと伸ばし、それに左手を添える形。右足を一歩引く。もう一つは両手を突き出して肩を窄める形。足は揃える。どっちにするかは好みで選べと言いたいところだが、実際のところ前者は着弾点が左上にズレやすい。後者だ」

腕が細かな痙攣を起こし始めた。構えた七百グラムの拳銃は想像していたよりも遙かに重い。つまり、それを持つのではなく構える場合のことだ。

「腕が下がっているぞ。意識を集中させろ」、ヒラギはそう言うと、ハヤマが構えた拳銃の前へと立った。

「いいか、人を撃つというのは並大抵でない集中力と確信が必要だ。今から俺の言う通りに動いてみろ」、銃を取り上げられる。

「背筋を伸ばして、真っ直ぐと立つ。体重の全てを腰に乗せて、上半身をフリーにするんだ。それが終わったら拳銃を持つ」、もう一度手渡される。

「腕は真っ直ぐと伸ばせ。集中しろ……撃て」

 脳で考えるよりも先に、人差し指へ力を入れる。それはまるで、落ちる寸前のところにあったものが撃てという音の振動で落ちたかのようだった。トリガーを引ききる。自分がしたことの意味に気がついたのはそれからだった。三つの点の先にはヒラギがいて、自分はトリガーを引いたのだ。ハヤマはまた目を閉じ、今度はわずかな悲鳴を上げた。弱々しい絶望の声だ。

「どうやら嫌われているらしい」、ヒラギの声で目を開ける。目の前にはさっきと変わらない景色がある。

「大した集中力だ。もう一つ、確信。こいつは命を狙われるか、もしくは実戦を長らく経験すれば自然と沸き起こる。よし、もう一度撃ってみろ。セイフティを解除しろよ」

 一瞬悪い冗談に腹を立てたが、自分が思った以上に集中できていたことに感動していたのか、怒りはすぐに飛び去っていった。そこに残ったのは自分が今までの安全で退屈な生活から追い立てられ――むしろ抜け出し、リスクと共存する世界へと足を踏み入れた確かな感覚だ。銃を撃てるようになることに大きな意味があるとは思わないが、それはあのとき、そう大日社長の演説の時に感じた無力感を追い出すには十分な存在だった。そう、橋の上にいたときの気分も。

 橋の上。たった今まで忘れていた光景。あのときも同じように銃を持った。だが、あのときとは違う。銃が違うからではない。自分が変わったのだ。あの数分間について考えるてみても、それが自分だったという実感が湧かない

十六発撃ち、五発が的に当たる。子供が当てずっぽうに空けたような気まぐれな弾痕がやたら嬉しかった。ヒラギの方を見ると、彼もまた笑みを浮かべていた。今までの無力感が嘘みたいに思えるほど充実した気分。まだ戦いに使える技術までは遠いし、そもそも自分の仕事は銃で撃ち合うことではない。しかし自分が“彼ら”の一員――ピースになれたこと、それが自分を喜ばせている。

「さあ仕事の時間だ。これからは実戦編といこう」

 射撃場のアルミのテーブルを挟んで座る。キャンプ用の折りたたみテーブルだ。ヒラギがその上にパソコンを置く。

「あの日爆発が起こる直前に、俺のパソコン宛にシマノからメールが送られてきていた。目的は分からないが、そこに四つの場所名が記されていたわけだ。一つ目と二つ目には時間の指定もあった。同じ日だが」、ヒラギはそう言ってパソコンの画面に地図を表示させた。

「一つ目はFAUの本部。お前さんを局地に追いやった、あるいはそうすることになってしまったやつらだ。二つ目はアフリカ新興国にある大日石油採掘現場だ。三つ目は輸賛会――FS-Dで俺たちを襲った奴らだ。四つ目は大日石油本社。行ってみる価値はあると思わないか? 何かヒントはあるだろう」

 画面をメールに切り替える。

「流石にアフリカまでは行けません」、ハヤマは言った。

「そのようだが、一つ目と二つ目には同じ日時がふられている。別行動を取るつもりだったんだろう、俺たちはFAUへ赴く。この日時に合わせて。気が向かないか?」

「蹴り入れたい気分ですよ。しかし、狙撃者たちのいない今、本当に意味があるのでしょうか?」

「わからない。だが一つ言えることがある。それは――」、ヒラギはそこまで言うと、ハヤマの後ろの方を見て目を細めた。ハヤマも振り返る。

そこには八十歳を超えたような老人が立っていた。

「お前さんは、自分が捨てたものと得るものが釣り合わなければ満足できない。そこで彼らのいなくなった今も、彼らの幻影を追っている。そうであろう」

 すでにヒラギの手はホルスターへと被さっていた。ポリマー製のホルスターに納められたコルト・オートを引き出すのに掛かる時間はコンマ七秒、どう考えても自分の方が早いということは分かっている。というかそもそもこの老人は丸腰で、戦うつもりなどさらさら無いのだ。

「あんたは?」

「射撃場の管理人だよ。支払いは機械にやらせているが、わしはすぐそばの小屋に住んでいる。君らのような若い連中が現れるのを待ちながらな」

 老人がずっと話を聞いていたとは思えない。推測が事実であれば、この老人は彼らを知っていることとなる。彼らの何かを。

「狙撃者たちについて知っているのか?」

「ここがハブだ、知っていないはずがないだろう」

 ハヤマの方を見る。彼が老人の言っていることを理解していれば解釈を望んだが、若いジャーナリストはぼんやりと口を開けて突っ立っているだけだった。

「あんたはいったい何を――」

「ここには」、老人がヒラギの言葉を遮る。

「君らの他に六名の人間がやってきた。そのうち四名は、君たちが追い求める者たち。もう一人は君の鏡で、もう一人はわしの友人だ。みな目的は同じ」

「あなたは何者なんです」、ハヤマが口を開く。老人は無視する。

「他のピース達とつながり、一枚のボードとなること」

 聞き覚えのある、いや、忘れることのできない言葉だった。あの不気味な男、鏡だと名乗る男がこの老人に伝えたのか。

「不確定なものなど無い。全てのものごとの形がすでに決められている。わしには分かる。数分後にフィクサーが君と戦うためにここへやってくることも」

 フィクサー? ヒラギにはその男が誰か分からなかった。

「君の鏡だよ。駐車場を見てみなさい」

「準備が整いました」、隊員の一人が言った。フィクサーは小さく頷く。

「行くとしよう。B班はここでやつらの車を見張れ、A班は突入、Cはバックアップだ」

 全ての隊員がエイのような雰囲気を持ったサブマシンガンを持っている。弾倉がグリップより後ろにあり、薬莢は真下へと吐かれる。FN社のF3000を改良したものだ。

「老人はどうします? 消しますか?」

「やってみろ。だが命が惜しかったらやめておくんだな」

 フィクサーは射撃場を見上げる。射撃場は小高い山の上にあり、坂を上らなければならない。側面は十五メートルほどの崖で、出入り口は一本しかなく、逃げることはほとんど不可能に近かった。部隊はゆっくりと、音を立てずに進軍の準備を完成させる。

「じいさん、武器はあるか?」、ヒラギが小声で聞いた。

「ここをどこだと思っているんだね。いくらでもあるぞ」

「俺が欲しいのはM4とかそういった類じゃなくて、もっと喜ばしいものだ」

「ブレイザーは?」

「悪いがスコープアレルギーだ。他は?」

 老人は低いうなり声と共に背の低い木の扉を開ける。老人の住んでいる小屋の中はほぼ例外なく退屈な隠居生活に見合った内容だったが、その扉の中だけは別世界だった。第二次世界大戦中の武器から最新のレーザー技術を応用した自動照準銃まで、年表を作ったかのようにしっかりと壁に掛けられていた。合計で一〇〇丁はあるはずだ。ヒラギはその中から、小さな木のグリップが付いた古くさい筒を持ち上げた。

「これが良い」

「M79、確か一年ほど前にアメリカで譲ってもらった。なぜこんなに色々とあるのにそんなものを?」

「外人部隊にいたころ、こいつに何度か助けられた。無線操作できるものも何本か借りるぞ」

「好きにしなさい」

「ハヤマ、早速だが実戦だ。作戦を一度だけ言う」

「作戦って、相手は二十人以上もいるんですよ? こっちはその十分の一だ」

「スリルが足らない」

「さあ、急ぎなさい。敵が待っているぞ」

「死のチャンスをな」、ヒラギは自分が久しぶりに興奮しているのを感じた。

 A班が射撃場に到着する。隊員たちが目を光らせながら歩くが、二人は見つからなかった。小屋か、あるいはどこかに隠れているか。彼らが命知らずであれば、周りを囲む深い森へと足を踏み入れたのだろうが、その可能性は低かった。奥まで入ってしまえば山が尽きるまでずっと歩き続けることとなる。命が尽きるまでか。

 フィクサーはA班が先へ進んでいくのを見ながら、B班の到着を射撃場の入り口で待った。銃声がしたのはそのときだ。

「向こうだ! 長距離射撃フィールドのコンテナに隠れてる」

 隊員の一人が叫ぶ。部隊は少し広がり、ターゲットを包み込むように前進を始める。フィクサーはちょっとした嫌な予感を携えていたが、とりあえずは考えないことにした。なぜならこれはゲームなのだ。

 ハンドガン特有の甲高い銃声が立て続けに鳴っている。それに応戦するサブマシンガンの音は減音器によって木の箱をハンマーで思いきり叩いたように聞こえる。

「A班です。撃っているのはジャーナリストの方のようですね」、耳の中で無線が鳴る。

「知っている。銃声を聞けば分かる。元治安維持部隊員がどこかにいるはずだ、気をつけろ」

 フィクサーがそう言ったのとほとんど同じにC班が到着する。

「A班を支援しますか?」

「いやここにいろ。すぐにもう一人が現れる」

 辺りを見回す。そして視界の隅に、放射線を描いて飛んでくる黒い物体を捕らえた。声を張り上げる暇もなく、地面を蹴る。体が完全に地面に倒れた瞬間に爆発が起き、C班のほとんどを飲み込む炎が起こった。鉱元グレネードだ。

「B班、そこに二人残してこっちへ来い。急げ」、小型マイクに向かって怒鳴りながら、手に持ったサブマシンガンのセイフティを解除する。照準器の倍率を一から三に上げて、グレネードの飛んできた方向、小屋の方へとフルオート射撃をした。

「A班ですが、先にジャーナリストを消します。やつは屋内射撃場の裏へと逃げた」

 三〇〇メートルほど離れた辺りでA班がフォーメーションを組んでいる。屋内射撃場の建物に張り付き、裏に逃げ込んだ羊を挟み撃ちする機会を狙っていた。いや、狙われているのは羊を追うオオカミだ。

「駄目だそこから離れろ」、叫んだと同時に建物、正確には建物の半分が爆発する。どうやら積まれた土嚢を使って爆発を制御したらしかった。

 元治安維持部隊の隊長、ヒラギは組織を捨てたことであきらかに強さを増していた。忘れていたトリックの掛け合い、戦場での駆け引きを一つ残らず思い出したのだ。

各班、それぞれ残ったのは数名だった。しかも誰も彼もけがを負い、さらに士気を失っている。頼みの綱はそう、輸送車で待機する技術者だ。

「電波の発信源を掴むんだ……聞こえているのか?」

無線はノイズだけを伝えている。しかもこれは故障ではなく、妨害電波によるノイズだ。短時間でそこまで手を回したのか。

さらに爆発音が届く。今度は駐車場の方だった。

 車を見張っているのは二人だけで、制圧するのは難しいことではなかった。気づかれないように崖にロープを垂らし、敵の輸送車にグレネードを撃ち込みながら滑り降りるだけで良かったのだ。もちろん鋼のように頑丈な輸送車が壊れることはないが、見張りは倒せる。車の中には誰もいないはずだ。いるとすればそれはパソコン操作を専門とする技術者だが、そんな者がいたならとっくに無線コントロールを妨害されて作戦は失敗していた。運が良かったのだ。

 車に乗り込む。すぐにハヤマがロープを使って降りて来る。乗り込んできたときには相当息切れしていたが、訓練無しでここまでやり遂げることができたのには感心した。

「老人は大丈夫でしょうか?」

「あのじいさんを殺せるのは寿命だけだ、心配ない、行こう。なかなか楽しかったろう」

「とんでもない! 死ぬほど怖かったんですよ」、と言ったハヤマの顔は楽しそうだった。

「まずはこの車を捨てて、それぞれ公共交通機関で自分の移動手段を取りに行く。そのあとは目立たないように注意しながらどこかに潜伏しろ。仕事ができたら連絡する」

 ヒラギはそう言うと、私鉄の駅の近くでハヤマを降ろし、廃棄地区と呼ばれる、何でも捨てることができる諦められた地区で車を捨てると、タクシーを拾って自分のバイクが置いてある場所を運転手に告げた。

「すまないな」、ヒラギは自分が生きていたことに驚く若い隊員にそう言って電話を切った。

 治安維持部隊の電話に残ったシマノの電話番号。そこから発信源を特定すると、それは毎回別の場所にあった。恐らく乱数を利用して抽選した誰かの携帯をハッキングし、それを経由して電話を掛けていたのだ。オンラインのパソコンと専用の接続機器、それに技術があれば可能なことだった。情報課として雇われていただけある。

 雇用の際に必要な書類。これにある住所は架空のものだった。いや、雇用のときだけは存在していたのだ。シマノの自宅を見つける方法は存在しない。言い切って構わないように思えた。

 だが、何かが引っかかる。シマノは全てを計画通りに行い、その痕跡を残さない。しかし、シマノが痕跡だと考えていない痕跡があったとすれば、それは手つかずのまま残されているはずだ。

 ヒラギはFS-Dを思い浮かべる。シマノと会ったのは非常口のドアの前。彼は警備ロボットの残骸の中を歩いて、施設へと入っていった。自分は少ししてから、後に続いた。警備ロボットは死んでいた。

 なぜ死んでいたのか? もちろんそれはシマノが妨害電波を出して、外部から一括操作されていた警備ロボットを孤立させたからだ。……つまりあの一帯はオフラインだった。自分とハヤマが施設に侵入してからも警備ロボットに襲われなかったことを考えると、オフライン状態はずっと続いていたことになる。だがそう考えた場合、爆発後に襲われなかったことの説明がつかない。いや、そもそもオフラインにしてからドアを開けることは不可能だったのだ。

 全てを思い出すんだ、とヒラギは自分に言い聞かせた。そして、ヒラギがドアのセキュリティを解除するのに携帯電話を使ったことを思い出した。つまりシマノは、携帯電話だけを使用可能な状態にする妨害電波を発信したのだ。そう仮定すれば、自分の携帯に当てて送られてきたメールのアドレス、あれは本物だったということになる。あまりに単純すぎて、気づくことができなかった。

 アドレスを治安維持部隊に送る。やがてその携帯の電話番号、発信記録の記されたメールが帰ってくる。発信が行われた回数は少なかった。相手は米国を含む、恐らくはシマノが信頼を置いていたと思われる場所。発信場所はいずれも一カ所、メインストリートからそう遠くないマンションの一室だった。

相手は早口の英語で何かを言った。

「Will you speak slowly?(ゆっくりお願いします)」

「日本人か。どうしたんだい」

 ハヤマは面食らった。どうして米国の傭兵が流暢な日本語を話すのだろう。

「この前に狙撃者のことを尋ねたものです」

 相手は一瞬黙る。それから少し苛立ちの混じった声で言った。

「知らないんだがね」

「シマノさんとは知り合いなんでしょう」

「知らないね、そんなやつ」

「電話をしたことがあるはずですよ、記録に残っていたんですから」

 相手はもう一度沈黙を作る。しばらく間を置いてからゆっくりと、口を開く。

「何が言いたい」

「彼が何をしようとしていたか、教えてください」

「あいつが何をしようとしていたか、教えられないね。知らないんだ」

 相手は頑なか、本当に知らないかのどっちかだ。そして話した感じでは嘘のつけない人間のように思えた。

「何か言っていませんでしたか? 何でも良いんですよ」、ハヤマは本当に、心からそう思っていた。シマノの情報は少なすぎるわけで、彼の言葉を得られたのならそれはとてつもなく大きな収穫なのだ。

「そういえば」、記憶の隅を突きながら相手が言う。

「電話を切る直前にこう言っていた。嫌な過去を消しさるチャンスなんだ、と」

「嫌な過去を消し去るチャンス?」

「もしかすると、というかサキオリが嫌な過去に何らかの関係を持っていたのなら、サキオリを捕まえるもしくは消すことで復讐か、あるいはリセットをしようとしたのかもしれない」

 サキオリ、それが狙撃者の名か。ハヤマはそんなことをぼんやりと考えていたが、その次に出てきた言葉を思い出すと、心臓が締め付けられたような気分になった。復讐、リセット? シマノは自分自身を巻き込んでまでしてでも狙撃者を消そうとしていて、そのためにみなを地下へ集めて爆発を起こしたのか。

「お前、シマノたちのことを調べてどうするつもりなんだ?」、相手は凄みを利かせた声で言う。

「自分はジャーナリストです」

「あいつらをネタにして金を稼ぐつもりか」

「ええ」、ハヤマは言った。「最初はそのつもりでした。けれど」

「今となってはお金のことなんてほとんど、どうでも良いんです。ただ、彼らを動かしたもの、彼らが目指したもの、それを調べるのが楽しくて仕方がないんですよ。というか」

 自分の意思に言葉が先立っていた。短距離走で身体ばかりが前に進んでしまって躓いたとき、それに似た感覚だ。「というか調べれば調べるほど、自分が成長していく気がする。だから、狙撃者たちを追っている」

 しばらくの沈黙。それは絶望の香りのしない沈黙だった。

「サキオリ、あいつがこの部隊を去る直前のことだ」、ゆっくりとした声。

「あいつの最後の戦場はアフリカの新興国だった。そこであいつは自分以外の仲間全員を失って帰ってきたんだ。親友のマーティンも失って、ひどい顔をしていたよ。何年も前の話さ。それからしばらくの間、あいつはこの国に留まった。部隊の本部の宿舎に寝泊まりしていたが、やがてある噂が流れ始めた」

「本当か?」

「多分な」

「場所は?」

「アン――」

「スペインか。輸送機を手配してくれ」、狙撃者は相手の肩をぽんと叩くと、自室へ戻り、最小限のものを鞄に詰めて、飛行場の方を見た。小型の輸送機が暖機を始めている。この忙しいときに、一瞬で手はずを整えてくれたというわけだ。

「本気で行くのか? 所詮は噂だし、行っても見つけられるとは限らないぜ」

「見つけるさ」

 ライフルを持たずに飛行機に乗り込むのは久しぶりだった。

「やつはすぐにスペインに飛んだ。そこは、あいつと爆発に巻き込まれた親友マーティンが初めて会った場所だったのさ」

 街は変わっていなかった。所々色の剥げた白塗りの壁、砂埃の混じった空気。観光客のほとんどいない、静かな田舎町。地中海に面したこの町は、陽気さと穏やかさを併せ持った住民たちの隠れ家のような場所だった。

「あんた、日本から来ていたあの。久しぶりだねえ。その男なら、離れの小屋でうちの孫が看病しているよ」

「どうもありがとう、ドーニャ。この町は変わらないな」

「人が変わらないんだ、町も変わらない」

 狙撃者は石の階段を上って、丘の中腹にぽつりと佇むその小屋へと向かう。日は既に傾きかけていて、景色が黄色のコントラストを増している。水は粉々に砕いたルチル・クォーツのように輝いていた。

 木のドアを空けると、そこにマーティンがいた。

「サキオリ、来ると思っていた」

 親友は体中を壊していた。生きているのが不思議なくらい、とはよく言ったものだが、マーティンは違う。このくらいのことでは死なない。死ぬことはない……。

「俺は――」、狙撃者は言葉を見つけることができなかった。

「仕方ないことだったんだ」

マーティンが言う。それから優しく笑った。「いい場所で再会できた」

「何年前だったか。お前はバルでギターを弾いていたな」

「大学を中退して、その帰りだった」

「アンダルシアのバルでワインやシェリーを飲まずにウィスキーを飲んでいるようなやつは、スコットランド上がりに決まっているんだ」

 狙撃者も笑う。そしてふと真剣な顔に戻る。

「身体は、大丈夫なのか?」

「ああ、まったく元気だ。俺はここに住み着いてしまおうと思っているんだ。国に残してきたわずかな貯金、送って貰えるかな」

「もちろんさ」

「彼らと戦って、自分がどれほど弱い存在なのかを知った。アフリカを歩きながら、自分が今までどれほど無自覚だったのか悟った」、マーティンは笑った。

「良い気分さ」

「だろうな」

 狙撃者がそう言って沈黙、少しするとドアが開いて、十歳くらいの男の子が入ってきた。狙撃者を見て、その場で固まる。

「こいつの友人だ。君が看病してくれているのか?」

「そうだよ」

「ありがとう」、狙撃者は思い出したように聞く。「ギターはあるかな」

 男の子は黙って頷き、外へ出て行く。狙撃者はマーティンに目配せすると、男の子の後に続いた。小屋のすぐ横にある小さな倉庫、埃被ったギターが一本立てかけてあった。男の子はそのネックを小さな手の平で掴んで、狙撃者に差し出す。狙撃者は礼を言ってギターを手に取ると、その場で調音をしてから小屋の前の岩に腰掛けた。

 アランフェス協奏曲、第二楽章。目下に広がる町並みは、海に溶ける太陽の光でオレンジ色に染められていた。海は淡いグリーンに輝きながら穏やかに揺れ、風にその音を任せる。風はそれを音楽として、運んでくる。

「上手だね」、いつの間にか男の子は隣に座っていた。狙撃者は微笑み返して、ギターを引き続ける。

「ここでサキオリのギターを聴きながら、生きるということがどういうことなのかを知った」、男の子が言う。「あのお兄さんが伝えてくれって」

「良い気分だ。いつか言っていた、あの言葉の感じだ」、男の子はそこで、一息置く。

「私たちはいわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二度目は生きるために」、狙撃者と男の子は同時に言った。狙撃者は風が吹き止むようにそっと演奏を終え、空で紺がオレンジに染み込んでいく姿へと視線を投げた。

「あのお兄さんのところへ戻らないの?」、男の子は言った。狙撃者は答えず、切なく穏やかな表情でギターを男の子に手渡す。「ラスゲアートはできるか?」

 男の子はギターを膝の上に置くと、身体を被せるようにして構える。それからゆっくりとE7のコードを押さえて、右手の指を小指、薬指、中指、人差し指の順で素早く下ろす。素直で無垢な音のするラスゲアートだった。

「上手だ」、狙撃者は言った。

「ラスゲアートにちゃんとした形は無い。奏者によって癖があったり、こだわりがあったりする。気に入ったよお前さんのラスゲアート、その形を自分なりに極めるんだ」

 立ち上がり、階段の方へと向いた。

「ねえ、あのお兄ちゃんのところへ戻らないの?」、男の子は言う。

「俺もあいつに、ちゃんとラスゲアートをやれと言われてね。最後の人差し指のストローク、弾き終わったら戻ってくる」

「スペインから帰ってきたあいつは傭兵を止め、M700を輸入する手続きをしてからそっちの国へと戻った。あいつがどういう思いだったのか、想像はつくだろう」

ハヤマはやっとのことで言葉を絞り出す。

「ありがとうございました」、声は震えていた。

「俺は」、と電話の相手が言う。

「あいつやシマノが死んだとは思わない。いや、思いたくない。もし現実が彼らを殺してしまったならば、その意志だけでも必ず拾い上げるんだ」

「了解、細かいことは後で聞こう。こっちも今から入る所だ」

 ドアには鍵が掛けられていたが、それはおよそ簡素なものだった。手間取ることもなく鍵を壊し、ドアを開ける。空気が音を立てて引き出される。見ると長方形の部屋の突き当たりにある窓が少しだけ開いていた。

 足下のケーブルに気をつけながら台所と呼べそうにもない狭い湯沸かし場を通り過ぎ、作業場へと到着する。えらく時間が掛かったはずだが、この部屋は何か、時間の流れとは別の場所にあるような感じがする。ハヤマは窓を開け放ち、空気を入れ換えると同時にそこから見える景色――ビルに削られた空を確認した。

 静寂。一瞬、意識が飛んでしまっていたかのように、わけがわからなくなった。何度かまばたきをし、三台のパソコンの電源ボタンを押す。二台は何の反応も起こさず、一台はスタンバイモードから素早く立ち上がった。

 表示されたのはデスクトップではなく、電子メールのウィンドウだった。受信箱、ゼロ。送信箱、三件。

 一件目は一年以上も昔のものだった。“CP、始動”

 二件目は三週間ほど前。“IP、準備完了”

 三件目はFS-Dの一件の前日。“IP、開始”

 送信先はいずれも、同じアドレスだった。

外は生温い夜だった。空一面に輝いているはずの星は人工的な光で失われていた。崖のように急な丘の縁へと歩くと、視界が開け、下で地を這う鉱元採掘の巨大な施設が姿を明らかにしていった。初めて見る、ひどく馴染み深い景色だ。

 男はジーンズの尻ポケットから文庫サイズの本を抜くと、その裏表紙を月の光へとかざした。

第七章

廃屋の二階を陣取り、道を挟んで反対側にあるビルの様子をぼんやりと見ながら、すでに三十分が経とうとしていた。FAUの本部は人が予想するよりも小さい。というよりも、あの一件があってからすぐに四十二階立てのオフィスを手放してここに移ったのだ。両脇を自身よりも背の高いビルにぴったりと挟まれ、居心地悪そうに立っていた。

異常は無い。やはり自分はたいそうな幻想を抱いていたのかもしれない。プログラム、大日とシマノ、狙撃者。知りたいことは山積みなのに、どれも掴むことのできない虚像のように、存在だけを誇張している。

 ヒラギは何も言わずに監視を続けた。とにかく待つ他にはなかった。

「別の方法を考えましょう。そもそもFAUの社長が今やっていることはといえば、倒産の後処理くらいですよ。今更何かあるとは思えません」

「むしろ俺たちが突入するか」

「犯罪行為です」

「俺もお前も銃を不法所持している時点で犯罪者なんだよ。ざまあみろ」

 ヒラギはそう言ってから、向かいのビルの前に車が止まったのに気がついた。黒のレクサス、運転手付きと来れば、乗るのは重役の他ならない。つまり、社長の退社時刻なのだ。

「ハヤマ、あの紙を見せてくれ」、ヒラギが言う。ハヤマはしゃがみ込んで、鞄からクリアファイルを取り出す。五枚ほどある中から、ヒラギが言った紙を抜き出す。この男は中々カンが良いらしく、必要なものを必要なときに引っ張り出せる。

「読んでくれるか」

 ハヤマは頷いて、赤いペンライトで紙を照らす。

「七時、社長が退社。自宅はここから車で四十五分、送迎は運転手付きのレクサスで、警備員たちはその様子をモニターで監視します。以上があれば二階から駆けつける。過剰な警備で民衆を刺激しないよう考慮しているみたいで、ビルの一階はモニター監視のみです。二階から八階には二十四時間体制の警備員が各フロア五人ずつ。最上階である九階には特殊なロックがなされており、社長以外は入ることが出来ません」

「なるほど」

 ヒラギは再び、車の方へと視線を戻す。もうすぐシマノが示した時刻、午後七時まであと三分だった。車は暖房のためかアイドリングを続けている。運転手は何もせずに前方へと視線を投げていた。

「社長、時間です」、警備員が言った。彼がモニターを見ながらマイクに向かって話しかけると、社長室のスピーカーで声が流れるというわけだ。彼は毎日繰り返すその作業を今日も、眠い目をこすりながらこなしていた。突然モニターが点滅して見えるようになる。疲労をため込んだ警備員は、強く目を閉ざす。乾いた表面にわずかな潤いが与えられる。目を空けると、地球はちゃんと回り続けていた。社長はコートを肩に掛け、それから鞄を手に取る。昨日とまったく同じ映像に、警備員はため息を吐く。それはこの男であれ誰であれ一緒のことだ。

 社長室から社長の姿が消える。社長は部屋から直結したエレベーターへ、ゆっくりと乗り込む。十数秒、今度は一階のモニターに現れる。玄関にぴったりと寄せられた車のドアを運転手が開け、社長は会釈もせずに乗り込んだ。

 警備員は大きく伸びをして、椅子から立ち上がる。全てがいつも通りだった。変わったことはといえば、その十数秒後に聞こえた大きな爆発音だけだった。

 ヒラギは瞬時に身を引いていた。鉱元の鈍い爆発音、車のパーツが飛び散って周囲の建物を突く音。爆発したのはもちろん、あの車だろう。ヒラギは窓の無い窓から顔を出すことなく、ハヤマに目配せした。

 ハヤマが小型の通信傍受器を投げる。受け取り、ライターほどのプラスチックの箱からヘッドホンを引き出した。

<社長の車が爆発した。各フロアに一名ずつ残して、警備員を向かわせろ。急げ!>、警備員らしき人物の声。声を飾る感情は大体焦りだといえたが、その陰には事態を予測していたといった感じの冷静さが潜んでいた。プロなのかもしれないが、警備員のほとんどを外に出してしまうのはあまり賢明な判断とは言えない。

「ハヤマ、何か見えるか?」

「ここから一〇〇メートルほど離れたところ。車が炎に包まれているせいで、近づくことができないようです。消防用の無人ヘリが向かってきていますね。マスコミのヘリも五機……いや、七機飛んできています」、ハヤマはノートパソコンを開いて、建物の外に取り付けたカメラからの映像を見ていた。

 問題は爆発が起きたことではなかった。何のために、すでに用済みとなりかけているFAUの社長を殺したのか。どうやって車に爆弾を仕掛けたのか。なぜマスコミの動きがこんなにも迅速で、且つ規模が大きいのか。いや、そもそもいったいどこの誰が、シマノや狙撃者たちの計画を引き継いだのか。ヒラギは自分に問いかけようとした。しかしそれは不可能だった。

 彼らの計画を引き継げるのは彼らだけなのだ。

 あの爆発の中から彼らが無事生還できたとは思えない。となると、狙撃者の仲間であの現場にいなかった者がいた、その可能性が高い。ヒラギは底の無い推測へと落ち込みかけていたが、不意に銃声が聞こえたことで現実世界に戻ってきた。

「ハヤマ!」

「どうやら車に集まった警備員たちが銃撃を受けているようです。相手が段々と後退しているようで、少しずつ離れていきます」

 耳の中のヘッドホンも、途絶えることなく騒音を流し続けていた。物が燃える音、断続的な銃声、叫び声。

<くそ、敵を見失ったか>

<いや、もともと見えてない。いきなり撃たれて、それから銃声が少しずつ離れていっている>

<何が目的なんだ?>

 敵の動きはヒラギにとっても謎だった。車を爆破すればそれで仕事は終わりのはずなのに、わざわざ危険を冒して銃撃をする必要があるだろうか。しかもその姿が見えないとなると、さらに読めなかった。

「車の火が消されます」、ハヤマが言う。それとほとんど同時に、今度はまた、銃声とも爆発音とも違う音が届いてきた。ハヤマにカメラの倍率を下げ、視界を動かしてみるように言う。

「シャッターです。ビルのシャッターが降りていきます! 正面玄関だけでなく、全てです」、ハヤマが言った。警備システムが作動したのか? それとも――。

ある簡単なトリックがちらりと見え隠れした。ひどく間抜けな筋書き、だがあの男なら考えかねない計画。そしてヘッドホンを介して届いた次の言葉が、その計画の存在を浮き彫りにした。<車は無人だ>

「ハヤマ、カメラと拳銃だけを持ってここへ来い、早くしろ!」、今までの慎重さを水の泡にしかねない声の大きさで叫ぶ。

「いったいどうしたんです!」、そう言ったハヤマはヒステリックな声で表情を強張らせながらも、同時進行でカメラのケースと予備弾倉を持ち上げてヒラギの所へと駆け寄ってきた。

「誘拐だ、誘拐をするつもりだ」。ハヤマは何が何だか分からない、というように眉間に皺を寄せる。ヒラギは行くぞとだけ言ってハヤマに背を向け、窓枠に足を乗せた。スプリングを意識しながら足を伸ばし、建物を飛び出る。両手を後頭部へ回すと、着地した瞬間に右足の力を抜いて衝撃を回転へと転換した。ハヤマの方も、ヒラギほど上手くはいかなかったようだが何とか着地した。半分以上閉まったシャッターへと走る。

 ビルへと走ろうとする。しかしその瞬間、二人の存在に気づいた警備員の一人がフルオート射撃を始めた。毎秒二五発の早さで吐き出される金属の塊がすぐ近くの車に着弾する。ヒラギは下り続けるシャッターとその警備員へ、交互に視線を飛ばした。それからハヤマに手で合図をする。

「駄目ですよ、ヒラギさんが間に合わなかったらどうするんですか!」、ハヤマが言う。

「そのときはそのときだ。拳銃を捨ててジャーナリストだと言え」、そうは言ったものの、一階に警備員がいれば入った瞬間に射殺されるだろう。その辺りは運だった。

 ハヤマが駆け出す。同時にヒラギが車から乗り出し、拳銃の一弾倉を撃ち尽くした。相手が倒れる。再びビルの玄関を見ると、頑丈なシャッターはぴたりと下ろされ、ハヤマはその向こう側へと消えていた。

 ハヤマはすでに、その状況を受け入れていた。心強い戦闘のプロは建物に入り損ね、ここにはか弱いジャーナリストが一人、立ちすくんでいる。持ち物はカメラと拳銃、それに予備弾倉。自分が拳銃で何かをできるとは思えなかった。本業はカメラ、ヒラギがこれを持たせたのも何か意味があるはずだ。

 ハヤマはふと、自分が孤立無援というわけではないことに気がついた。ジャケットのポケットに入っている携帯電話は、希望の光だった。リダイヤルで電話を掛け、長い呼び出し音の後にヒラギが出ると、小さなため息を吐いた。

「いいか」、ヒラギが言う。「そのまま誰にも気づかれないように最上階へと上れ。階段を使い、エレベーターは八階で乗るんだ。犯人たちが立て籠もっているのはそこだ。接触ができたらこの電話をそいつに渡してくれ。俺が事情を話す」

「わかりました、やってみます」

「何かあったら電話しろ」

 ハヤマは返事をすると、電話を切った。カメラの入った鞄を肩に掛け、拳銃をホルスターから抜く。腰を曲げて姿勢を低くし、足下を足で、視界を耳で探りながら進む。ヒラギから教えられたことをそっくりそのまま実行する。それだけで生き残る確率がぐんと上がるような気がしていた。

 階段をゆっくりと上がっていく。二階のフロアが近くなるとさらに姿勢を落とし、素早く、好奇心と恐怖心を併せ持った子供のように様子を窺う。警備員の姿は見えなかった。いや、彼はそこにいた。床に倒れていたのだ。ハヤマは何度か周囲に視線を走らせ、それから階段を音無く上る。三階が近づくとまた同じように様子を窺う。そこには下の階と全く同じ光景が横たわっていた。

 四階、同じ光景。まるで録画されたテープ、いや、印刷された写真を見るかのように同じ状況が目に入った。五階、同じ光景。ハヤマはそこで初めて、恐怖に似たものを感じた。あるいは緊張が覆い隠してきたそれが、今になって姿を見せたのかもしれない。ハヤマは警備員に何が起きているのか、それを知る必要があると感じた。何か生物兵器のようなものが使われたのなら自分も危ないだろう。

階段からフロアに出ようとする。そして、止まる。最初にフロアに差し掛かった自分の右手の指が、途中で消えていた。不意に白い線が現れ、それよりも先が見えなくなったのだ。ハヤマは慌てて右手を引っ込めた。

どうやらこれは、映像のカーテンのようなものらしかった。恐らくこのカーテンの向こう側には警備員がいて、誰もいない階段の姿を監視しているのだ。天井を見上げると、そこには黒いカーテンレールのような機械が取り付けられていた。ハヤマはそれに感動すると共に、油断無く音を立てずに歩いた自分を心から褒めてやりたい気分になった。

まもなく八階に到着する。エレベーターに乗るためにフロアに入らなければならないのは問題だと思えたが、覚悟を決めて右手の先から足を踏み入れると、それが本当の姿だということが分かった。どうやら全ての階で、この光景の写真が映されていたのだ。犯人が何のためにそんなことをしたのかは、いささか不思議だった。

 ポケットの中で携帯電話が震える。

「映像のカーテン?」、いったい何のために? ヒラギは少しの間それについて思案し、それから考えるのを止めた。まったくもって理解できないのだ。とりあえずは処理できることから処理しなければならない。

「ハヤマ、俺はさっきと同じ廃屋の二階にいる。お前が入ってからすぐに、犯人からの声明が入ったんだ。メディアと警備兵に、社長室で社長を人質にとっていると伝えたらしい。犯人の要求はメディア関係者を一人、ビルへ招き入れることだ」

「何かを話させるつもりですね?」

「ああ」、とヒラギは言う。ああ、あのときと同じだ。テロリストが要人を人質に取り、情報公開を要求した。それを制圧したのは自分だった。

「……どうかしたんですか?」。どうやら自分は自分で思っているよりも長い間黙り込んでいたらしかった。

「話させないつもりだ」

「え?」

「要求は呑まれない。いや、呑むと見せかけて突入するつもりだ。一度切るぞ、そこで待機しろ」、ヒラギは電話を切ると、パソコンを操作してカメラを上方へ向けた。治安維持部隊と書かれたヘリが上空で待機している。

 くそったれ。ヒラギは右手の指で目を押さえると、そのヘリに乗っているのがγ隊でないことを祈った。そして治安維持部隊専用の無線をリュックから取り出し、チャンネルをα隊のものと合わせた。β隊はこの前の戦闘で壊滅状態になっているからありえない。γ隊がここに来るとは、考えたくもなかった。

「こういう汚れ仕事はヒラギの隊にやらせたらどうなんです?」、α隊の隊長が言った。

「それかこの前のβ隊のように、どさくさに紛れてターゲットを始末して、やつの責任にするとか」

 相手は司令官だった。

<あいつは失踪したんだ、良いからやれ。スモークを撃ち込んで、見えなかったことにして社長と犯人を殺すんだ。情報など公開されてはサークルに多大な被害が出る。各フロアに待機している警備員の連絡より、建物内には誰もいないことが確認されている。誰も見ていないということだ>

<隊長、マスコミの間ではすでに要求が呑まれたという噂が立っていますが。どうやら映像を受信する準備を始めているみたいで……>

<デマだ。要求を呑む気は無い>

<了解しました。突入の準備は完了しています、一九三〇です>

<へまをするなよ>

 ヒラギは無表情のうちに、静かな怒りを噛み締めた。自分が利用されていたことよりも、治安維持部隊が腐っていたということに、大きな衝撃を受けていた。もちろんγ隊を除いてだ。

 力が沸き上がろうとしていた。怒りがこれほどまでに強烈な動機になるとは、思ってもみなかった。しかし自分にできることは無かった。このまま部隊が犯人――ある種の希望でもある人物と不都合な真実を消し去れば、世の中は何事もなかったかのように回り続ける。腐った人間たちが財布を膨らませ、懸命に働く人間、絶対的な信頼を置いた隊員たち、γ隊はそのための捨て駒となる。

ヒラギは今までにない悔しさ、そして無力感を覚えていた。そしてそのとき、自分が無力ではないことを思い出した。“自分たち”が無力でないことだ。

「ハヤマ、どこにいる?」

「エレベーターの前です。犯人による張り紙がされています」

「読み上げてくれ」

「親愛なるジャーナリスト、ハヤマへ。七時二九分四八秒にエレベーターの扉を開ける。そうしたらお前はこいつに乗り込み、中にある通信機にお前のカメラをつなげ。置いてある対煙フィルターも着けるんだ。その後のことはドアの内側にある張り紙を読め。紙を映像に映すなよ」

「なんだって――」

「もう扉が開きます! この通りにしますよ」

「……ああ」

 扉が開く。ハヤマは電話を肩に挟んでそれに飛び乗ると、用意しておいたカメラを通信機から伸びるケーブルにつなぎ、置いてあった対煙フィルターをレンズに取り付けた。それから、扉の方へ振り返る。

「すぐに扉が開く。カメラを構えて部屋の様子を撮影しろ」

「突入しろ!」、隊長が叫ぶと、屋上からロープで降下し、窓のすぐ上で待機していた隊員たちが一斉に壁を蹴って、反動をつけた。それと同時に方向付けされたグレネードが社長室のシャッターを爆破する。三発のスモーク弾が撃ち込まれ、それに続いて部隊全体が突入した。

 扉が開いた瞬間、ファインダー越しに突入部隊が飛び込んだのを見た。窓の反対側の壁には二人の男が見える。煙フィルターのおかげで、はっきりと全員の顔を見ることができた。二人の男のうち片方は目抜きマスクを被った背の低い男で、もう一人はニュースで見たことのある、FAU社長だった。

 銃声が聞こえる。突入した隊員たちが発砲したのだ。彼らは信じがたいことに、社長をねらい撃っていた。レイザーポインターで社長の額に照準を合わせ、それを犯人寄りに位置へ動かしてから撃つ。煙に隠れて行われたはずだったそれら一連の悪事を、フィルター付きのカメラで筒抜けにしてしまった。ハヤマは自分の心臓が興奮で跳ね上がったのを感じた。

 扉が閉まる。ハヤマは大きく息を吐いて、紙に書かれた文の続きを読んだ。

「お疲れ。お前さんの撮影した映像は、全国のメディアに向けて送信された。英雄か吊し首だぞ。エレベーターは一階に下りる。隙を見て抜け出すんだ。Byシマノ」

「シマノ?」、ヒラギはビルの方へと視線を投げながら、思わず聞き返した。

「その通り、俺だ」、後ろでシマノが言った。

 ヒラギは拳銃を抜くことも忘れて、振り返る。

「まさか」

「足はある。それよりどうだ、大したショーだったろ」、シマノは笑う。

 言葉が喉で詰まる。聞きたいことが山ほどあり、そのおかげで渋滞が起きたのだ。それはどうしようもないことだった。

「例えば俺が世界一のハッカーだとしたら」、シマノが言う。

「モニターをハッキングして、録画した前日以前の映像を流す。声を変えて命令をして警備員たちを追い出し、予め仕掛けた射撃ロボットで彼らを建物から離す。命知らずのジャーナリストを一人招き入れてからシャッターを閉じる。ジャーナリストが最上階に行き易いよう、中に残した警備員が治安維持部隊に確証を与えるよう、細工をする。後はやましいなんやかやをジャーナリストの手でメディアに流させる。完璧だ」

「だが」、ヒラギが言う。

「相棒は殺され、真実も消された」

 シマノはもう一度笑う。

「二人はそもそもあの中にいなかったんだよ。俺がモニターをハッキングした時点で俺の相棒が隣のビルから飛び移り、社長を抱えて戻った。部隊が撃ったのは映像で、カメラには彼らの狙いだけがくっきりと録画されたわけだ。今頃は正直者が社長に真実を吐かせ、その映像をメディアに送りつけている頃だな」

 数学者の眼鏡越しに光る目には、喜びなど表れていなかった。彼にとって計画は成功するためのものなのだ。シマノは何も言わずヒラギに背を向けると、パーカーのポケットに両手を突っ込む。

「シマノ。今度は何を始めようとしている? お前はコイントス・プログラムの何を知っているんだ?」、ヒラギは聞いた。

「プログラムなら知っている。というかそもそも、そいつのために無給で働いているんだ。俺たちが何を始めようとしているか。見ての通り、ショーだ。幕は開いた」。そしてシマノは、ゆっくりと付け足す。俺たちがやるとこうなる。

「相手のターンだ」、シマノはそう言うと、右手をポケットから抜いて、手の平に掴んだコインを宙へ高く放り上げた。

「始めろ」、大日社長が言った。そして、笑った。「いよいよだな」

 フィクサーは黙って頷く。

「彼らの受容能力は非常に限られており、忘却力が理解力を凌駕している。全ての効果的な宣伝は、重点を簡潔にし、それをスローガンのように利用することで、その言葉の目的としたものが彼らの最後の一人まで思い浮かべることができるようになるまで、継続的に行われなければならない」

 大日社長は重そうな木の机の上から、コインを手に取った。

「重点を簡潔にするんだ」

 ヒラギはまだ、そこにいた。ハヤマが階段から現れて声を掛けてくるまでずっと、そこに立ち尽くしていた。

「大丈夫ですか?」、ハヤマが言う。

「いや、なんでもないわけじゃないが、大丈夫だ」

「本当に彼らの仕業だったんでしょうか?」

「ああ」、ヒラギはそう言ってから、少し苛立ちを覚えた。こんなことができるやつが他にいるか、と若いジャーナリストに怒鳴ってやりたかった。

「アフリカでも何かが、起こっているんでしょうか」

「多分な」

 ヒラギはまた、ライトで昼間のように明るくなった夜空を見上げた。報道局のヘリは巣に集まる蜂のように鬱陶しくビルの上を飛び回っている。ネットテレビではリポーターが早口に解説をしながらハヤマの撮った映像を何度も放送し、電子新聞の発信社は文字数制約から解放されていることを心から喜びながら記事を作っているに違いない。隣にいるジャーナリストは自分の本職をとっくに忘れ去っているようだった。

 一通りメディアについて考え、再び疑問に思考を預け始めたとき、ふと、何かの言葉が頭の上を通り過ぎていった。記憶に留まる前に姿を消してしまったその言葉は、自分が考えていること――つまり人生を変えたこの一件をまとめるに相応しいものだった。しかしそれは失われてしまった。

 ヒラギは諦めて、ハヤマの方へ振り返る。

「帰ってニュースを見よう。彼らがFAUに何を喋らせたか」

 ニュースはとにかく、同じことを何度も繰り返していた。FAUが資金を集め、その金で大日石油が兵器を製造輸出していたこと、国が金を受け取ってそれを黙認していたということ。治安維持部隊がそれらをFAU社長に吐かせないために、社長を消そうとしたこと。メディアはそれら一連の関連性を、大日サークルと名付けた。

 情報は信憑性というものを飛び越えて、国民に驚きを与えた。シマノの計画によってとてつもない量の事実が明るみに出た。いや彼は、以前に誰かが証明しようとしたことを代わりに証明し、新たな事実までもを発覚させたのだ。国民たちは政府に情報公開を要求し、汚職政治家の解職ための署名を集め終わった。たかだか二五分ばかりで既に四〇〇万もの署名が集まったらしい。多くの人間が怒りを大日とFAU、そして政府に向け、姿を見せないテロリストたちを英雄扱いした。

「やはり大日サークルを抹消することが目的だったのでしょう。そう考えれば最初の狙撃から今までの全ての行動を理解できます」、隣でハヤマが言った。ヒラギは頷かなかった。確かにそう決められれば簡単で良い。だが、先ほどのシマノの言葉、そしてあの不気味な笑みを浮かべた男の言葉が気になっていた。情報戦だとシマノは言い、あの男はジグソーだと言った。

 ヒラギはポケットから、一枚のコインを掴み取る。こいつが、とヒラギは思った。こいつが謎であり、謎はいつも鍵となりうる。

 コイントス。ヒラギはそれを宙に放り、手の甲に乗せる。そういえば、その名前自体の意味について考えたことはなかった。放り、乗せる。いや、これじゃない。問題は、何が表で、何が裏かだ。

 じっくりとその形に見入る。平たく、円形の金属。表に何やら植物の模様、裏に数字。変わったことなど特にない。そう決めようと思った瞬間、ヒラギはコインの側面に平行な筋が入っているのを見つけた。ガウンのポケットからナイフを取り出して刃を差し込むと、コインは薄い二枚に割れる。その間には小指の爪ほどの大きさのチップが入っていた。ヒラギから借りているノートパソコンに、それを差し込む。チップに入っていたのは、写真形式の文書だった。

「ヒラギさん」、ハヤマが言う。デスクトップパソコンのディスプレイを示していた。

<テロリストの無法な行為によって職を失った従業員たちは、この寒さの中、野外で寝泊まりをし、わずかな食料で生活することを余儀なくされています。現地のVTRです>

<――市内の公園に、従業員たちが集まり、シートでテントを作って生活しています。朝昼夜とインスタントラーメンしか食べていないという話です。インタビューしてみます。……ここでの生活はどうですか?>

<苦しいです。寮を追い出されて、いつこの配給が無くなるかもわかりません。自分の明日のことを思うと心配です>

<テロリストたちについてどう思いますか?>

<彼らは遊び感覚でやったのかもしれませんが、僕らにとっちゃ生活がかかっているんです。自分たちをなんだと思っているんだ、と言ってやりたいですね。でも、そんなことはできません。いっそ死んでやりたいと思うくらいです>

<……お前はそんなことしか考えていないのか。誰か銃をよこせ、俺があんなやつら消し去ってやる>

<レポーターさんよ、俺たちは補助を受けて当たり前なんじゃないのか? なぜ国は動こうとしない。国民は何をのうのうとテレビなんか見ているんだ>

<(銃声)>

<おい、よせ>

<僕が死ななきゃ、僕たちがどれだけ辛い思いをしているか、分かって貰えないんだ>

<(ノイズ)>

<――以上、現場の映像でした。……たった今新しいニュースが入りました。ネット上で、従業員たちへの補助を政府に求める新たな署名活動が行われ始めているということです。既に二十万もの署名が……失礼しました、既に一四五万もの署名がされています。新しい情報です、政府が補助を行うと発表しました>

 ヒラギは唖然として、早口のニュースへと見入っていた。中ではニュースキャスターが興奮と同情を込めた声で断片的な状況説明をなんども繰り返し、目立たないながらも壮大なバックグラウンドミュージックが付けられている。まるで映画を見ているようだった。

 あのときの自分と同じだった。セリフ、表情、全てが一緒だった。自分は橋の上で失った貯金について考えながら、あれと全く同じような感情を持っていたのだ。つまりは自分たちも、画面の中の従業員たちも大して変わらない存在なのだ。

 破れ掛けのビニールシートで作られたテント、配られるインスタントラーメン。薄汚れた作業服に身を包んで、地べたを恋い慕うかのように生活をしている作業員たち。彼らは皆、例外なく黒い顔をしていた。髪の毛は油で鈍く光っている。

 ハヤマは背筋に何かが這ったのを感じた。手が小刻みに震え、かたかたという不快な音が耳の内側から聞こえている。できることなら自分という型を捨てて、こいつらの届かない無感覚に覆われた場所に隠れてしまいたかった。誰かに助けを求めるのだ。この感覚を消し去ってくれる誰か、この感覚を携えている誰か。

 息を整える。自分は冷静さを取り戻しているのだ、とハヤマは思った。怯えることはない、自分は……。ハヤマはもう一度、パソコンの画面へと見入る。

なぜ彼らには補助が出されて、自分たちには出されない? 補助、補助、補助。なぜあいつらだけに。自分も補助の対象となるはずだ。なぜ自分が差別されなければならないんだ。自分だって苦しいのに、なぜ注目して貰えない? なぜ自分は……。

「おい、大丈夫か?」、ハヤマは遠く、別の世界から聞こえた声の方を向いた。何も分かっていない男が怪訝な顔でこちらを見ている。

「どうして自分だけ」、ハヤマは言った。

「何?」

「平等じゃない。あいつらは確かにかわいそうだ、でも自分だって貯金を失っている。なぜ補助が出ないんだ」

 ヒラギが眉間に皺を寄せる。「おい、いったいどうしたっていうんだ」

 目の前の男を殴ってやりたいという衝動に駆られた。それは雨上がりのアスファルトに残った水ほどの危機管理能力に止められたが、苛つきは落ち着きを見せない。

「ネット署名だ」、ほとんど正気じゃなかったように思えた。自分が自分の外に放り出されてしまったような感覚だ。パソコンの画面に反射した自分の顔は、今までに見たことがないほどおぞましかった。

 既に署名活動は始まっていた。補助を求める人間は今のところ七〇万人、毎秒千人のペースで増えているのを見ると、どうやら皆このニュースを見て署名を思いついたようだった。ハヤマはほっとしてため息を吐く。

「おい、ハヤマ」、隣から声がする。いや、しない。別世界の何かの独り言だ。ハヤマは財布から身分証を抜き、住民ナンバーを見ようとした。しかし、自分の手を止める者があった。ハヤマは自分でも訳が分からないくらいの早さで腰から拳銃を抜いて、それを男の額に突きつけた。

「上手くいっているようだな」

 大日社長は電子新聞を机に置いて言う。

「いや、上手くいっているのはプログラムの方ですよ」。フィクサーは無表情に言う。「皮肉なことにね」

「君はどう思っているのだね、このプログラムについて」

「どうとも思っていません。消費されるものは消費されるもの。それが“存在する”ことで初めて、こっちのビジネスが成り立つ」

「私たちは“生きている”。そうだろ」

「狙撃者はそう言った。彼もまた、本質的には社長と変わりのない人間だ」

「集中しろ」、とヒラギは言った。

「そんなもんじゃなかったはずだ。もっと集中するんだ。全ての感覚を指先に収束させ、一切の邪念を横に置く。自分が正しいという確信を持て」

 ハヤマの腕は震えていた。目をつや消し黒の闇が覆っている。

「集中しろ」、ヒラギは怒鳴った。それと同時に左手で相手の手首を叩き、自由落下を始めた拳銃を右手で取る。セイフティを解除するとそれをデスクトップパソコンの画面に向け、スライドがその動きを止めるまで、ひたすら引き金を引き続けた。

 静粛。画面には大きな穴が群れていて、そこを中心として画面全体へモノクロの虹のような光が伸びている。

「なんてことをするんだ、署名が、署名が台無しだ。加わらなきゃ、彼らに加わらなきゃ」、ハヤマが怯えた目で言う。

 覚えがある、とヒラギは思った。こいつの行動には覚えがある。

“少年がすぐに相手を斬りつけたのは、その行動によって自分がどういった責任を負うことになるか、理解できていなかったからでしょう。小さい頃からネットの世界に没頭していると、そのようになりがちです。ネット上に存在するものは全て、奥行きのない、平面的な世界です。つまりそこにどんないたずらをしようと、二次的な影響は出ない。少年はその仮想現実の中で、可塑的、立体的な現実において形成されるべき人格を独りでに形作ってしまう。悪口を言われたら言い返す、気に入らないものは平気で誹謗中傷する”

 だがこのジャーナリストは違う。それなりの判断力を持ち合わせた男だった。現に今まで、過酷な状況下でもストレスに発狂せず耐え抜いてきたのだ。ではなぜこんなことになっているのか。もしかするとこの男は別行動をしている際に、脳へなんらかの衝撃を受けたのかもしれない。

 ヒラギは開いただけで読んでいない文書を閉じ、パソコンをスタンバイモードにすると、それをリュックに滑らせて、訳も分からないといったように虚ろな目をしているハヤマの腕を掴んだ。

「大した茶番だ」、シマノは笑った。

「金を貰っているのか、あいつらは」。正直者は無関心にそう呟き、テレビのウィンドウを閉じる。それからカーナビ自体の電源を落とし、収納した。チャーリーのワンボックスカーは相変わらず広かったが、乗っているのは二人だけだ。

「本気でやっているんだよ」

「笑える」

「だがそのおかげで大日の思った通りになったぞ。信じられないならカーテンを開けて、車の外を見てみるんだな」

 正直者はインパネに設けられたノブの一つを一番上まで押し上げる。電子音がしたと同時に、窓の透過率がゼロパーセントから一〇〇パーセントに上がる。

 八〇〇メートルほど先に見える県庁の一部が炎上している。長細い公園は人に覆われ、火炎瓶らしき炎が時々宙に放物線を描く。何千、何万もの人間がデモを行っているのだった。孤独な群衆。彼らは大日石油に補助を、と何度も何度も繰り返している。

 正直者は無表情のまま、ノブを一番下まで押し下げた。

「特に外傷は見つからないわね」、ドクターが言う。「けど」

「今までの行動があなたの言った通りだったのなら、今の状況は確実におかしい。一応MRIを撮ってみるけど」

「助かるよ」、ヒラギはそう言って、精神安定剤を飲まされて大人しくなったハヤマを見た。今は正気を取り戻したらしく、暴力的な行動に出たりはしない。だが冷静ながらも、ノートパソコンを手から放そうとせず、取り憑かれたようにニュースに見入っていた。まるで教祖様の説教を聞いているようだ。

 MRIを撮るときになってやっと、パソコンを手放す。ヒラギはそれを受け取ると、ガラスの向こうでゆっくりと機械に吸い込まれていくハヤマに動かないように言いながら、さきほどの文書を再び開いた。

 一枚目。大日石油で働く技術者たちの雇用における契約書だった。まず目に止まったのはその給料だ。当たり前のように支払われている額は、通常の石油会社に勤める技術者のおよそ三倍だった。どこからその金が出ていたのか、いや、どうしてそれだけの金を技術者たちが貰う必要があったのか。

 労働時間などの規定、労働三権と新労働基準法に関する記述。そして最後に、署名欄。その上には一文、こう書かれていた。

“大日石油での労働には常にリスクが伴っており、私は高額な給料がそのリスクの代償だということを理解し、解雇を含む全ての責任を自分に課したうえで社員となることをここに誓う”

 二枚目。FAUカードの利用規約。高い利息と、利便性。その利用規約は単純で、ひどく分かりやすいものだった。どこのカード会社の利用規約にも見られる、一通りの説明。そして、署名欄。その上に一文。

“FAUの融資活動には常にリスクが伴っており、私は高い利息と利便性がそのリスクの代償だということを理解し、消失を含む全ての責任を自分に課したうえで会員となることをここに誓う”

 ヒラギはため息を吐いた。今まで誰もこれらを読まなかったのだろうか。急に気分が悪くなり、その特殊な部屋から出る。廊下の突き当たりまで行って窓を開け、排気ガスの混じったある程度新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そして次の瞬間、胃にいっぱいの動物性油を詰め込まれたような不快感に襲われた。

 群衆。こいつらは……。ヒラギはいつの間にかメインストリートを覆い尽くした群衆を見下ろし、思った。

こいつらは一体、何なんだ?

「さあ、気分屋たちの番だ」、シマノが言った。

「身分証の提示を」、警備兵が言った。鉱元採掘施設の南ゲートに車で訪ねてくるのは上層部か、急ぎの用がある人間だ。つまり、こちらからの方が司令室に近いのだ。そしてジープに乗った二人は上層部の者ではなかった。両方ともサングラスをして、鍛え上げられた体をしている。背の高い方は赤い缶のコークを手に持っていた。

「おい、俺たちは臨時で呼ばれた軍事顧問だ。聞いてないのか?」、背の高い男が奥の運転席で言った。

「調べろ」、もう一人の警備兵が小屋で待機する仲間に向かって叫ぶ。南ゲートを守るのは合計で十人という決まりだったが、ちょうど非公認の昼休みに入ったところで、七人は施設内の食堂へと出かけていた。

「待てよ、そんなことをしている暇は無い。メインゲートから甚だ危険な侵入者だ」、今度は手前の、平均的な身長で肩幅が広い男が言った。身分証の提示を促していた警備兵は施設の方へ――その先にあるメインゲートの方へと視線を投げる。それからすぐに、強烈なボディーブロー。「すまない。南ゲートの間違いだった」

「お待ちかねだ」、コーラの空き缶をドリンクホルダーに戻し、チャーリーが言った。狙撃者はその横で、何度か頷く。チャーリーがジープを急加速させる。後方で銃声が響き、そこら中で蝉の鳴き声のような警報が鳴り出した。たかが穴掘り施設のくせに、相当念入りに警備をしている。といってもその目的が外部だけに対するものではないとすぐに分かる。中の寮に収容されて働かされている人間達が逃げないようにも、厳重な見張りを立てているのだ。

「目が乾いていけねえな」、チャーリーが言う。フロントガラスに弾が着弾し、そこから風が入ってくるのだった。

「目薬、あるぞ」、狙撃者が言う。

「二階から目薬より難関だぜ、オールド・フレンド」

 揺れる車内から動かぬ空を見上げると、それは青く輝いていた。あの日と同じだ、と狙撃者は思う。相変わらず空には戦闘機が飛び、遠くで爆発音と銃声が響く。後ろから聞こえてくるものもあるが、もっと遠くから、もっと絶望的な音が断片的に届いていた。

誰かが未だに戦っているのだ。狙撃者はひどく切なく、少し嬉しい気分になった。大日が介入した今、強力な支援を受けている政府軍に立ち向かう者はほとんどいない。実質的に大日が支配する政府軍は圧倒的な戦力を誇り、その力で反対勢力を片っ端から潰し、全ての人間を鉱元採掘の歯車へと作り替えている。狙撃者はその中で戦い続ける人間のことを考えずにはいられなかった。お前は感傷的になりすぎている、正直者とシマノが声を合わせて言った。

それで良い、と狙撃者は思った。自分には自分のやり方があるのだ。

 ジープは時速二一〇キロで未舗装の道を駆け抜ける。やがて見えてくる、施設の大きな入り口は金属製のドアで、左右から閉まるタイプだ。警報音が鳴るやいなや、黒板を引っ掻くような音を立てて閉まり始める。なんとしても閉店前に飛び込まなければならなかった。

 車が小さな階段で跳ね上がる。次の瞬間にはチャーリーが飛び降り、狙撃者も大きな袋を掴んでシートを蹴った。ジープは宙に浮いた状態でドアに挟まれ、そこで止まる。狙撃者はその下から転がり込むと、袋からチャーリーの銃を滑り出させて、ろくに構えもせずにトリガーを引いた。弾は銃を向けていた警備兵の胴体に当たる。防弾チョッキを着ていてもギリギリ貫通する銃弾はおそらく、主要な器官を傷つけることなく皮下脂肪の辺りで止まっているだろう。

「おい、俺の仕事だ」、チャーリーがそう言う。狙撃者は間抜けな機関銃をチャーリーに投げた。

「こ、ここを襲っても金は無いぞ!」、小さなフロアに一人残された技術者らしき男が悲鳴を上げるように叫ぶ。

「あのなあおっさん」、チャーリーはそう言って男に歩み寄る。男は恐怖で腰を抜かしてその場に座り込み、目を大きく開いてチャーリーの方を見た。

「お前さんが普段から金を欲しがっているからそういう言葉が出てくるんだぜ」、狙撃者がそう言って笑う。

「だが、本当に欲しいものは」、チャーリーが愛用の拳銃をホルスターから抜く。「命だろ」

「司令室に案内してくれ。ツアーは大嫌いだが、致し方ないんだ」、狙撃者が言う。男は大あわてで二十回ほど頷くと、立ち上がって走り出した。

 施設内はまるで迷路だった。金網の床の下にはバイクのエンジンを思わせる機械がぎっしりと詰め込まれていて、所々錆が浮いている。その具合を見れば、あの爆発の後すぐ、焼き払った木々の代わりとして建てられたのだということが分かる。

 角を何度も曲がり、階段を二つばかり下りた所でエレベーターに乗り、地上と思しき独立した場所に出たところであくせくした男は立ち止まる。彼の心臓が同時に止まってしまわないか心配になりそうだったが、それに関しては問題ないようだった。

「これが司令室だ」、と男が言う。司令室は中庭のような場所に建てられた頑丈そうな建物で、入り口にドアはついていなかった。その間の抜けた空間の横にはカードの差し込み口のようなものがある。

「あれはきっと通ろうとすると、じゅわっとなったりするんだろうね」、分かりきったことを聞くときの声で、分かりきったことを狙撃者が聞いた。

「そうだ」、と技術者。

「なんとかして通らせてくれるんだろうね」、チャーリーが無理なことを一応聞いてみるときの声で、無理なことを聞いた。

「無理だ」

「まあ良いや、帰れ」、狙撃者が言う。

「い、良いのか? 人質がいなきゃお前たちは殺されるぞ」

「おい、お前は強盗に人質に取られたとき犯人にシンパシーを覚えるタイプの人間か、馬鹿らしい。大日はお前を哀れな裏切り者として殺すだけだ、そうなる前に早く消えろ」、狙撃者は目を細めてそう言うと、顎で来た道を示した。

「さてどうする?」、二人になるとチャーリーが言った。

「どうもしないさ」、狙撃者が言う。

「だろうと思ったぜ」。チャーリーが言ったのとほとんど同時に、司令室から十名ほどの警備兵たちが出てきて二人に銃を向けた。狙撃者はそれよりもいくらか早くジーンズのポケットに左手を突っ込むと、小さな瓶を掴みだして床に落とした。そして風のような早さで拳銃を抜き、その瓶へ五発の銃弾を撃ち込む。透明な液体が地面を小さく濡らしたのを確認して拳銃を床に置き、両手を挙げた。

「異常は特にありません。ちょっと影が写っていますが、患者が動いたからではないでしょうか」、看護婦が言う。影?

「そう。良いわ、ありがとう」、ドクターはそう言って看護婦に笑いかける。ヒラギは彼女が手に持った写真へ視線を投げた。影、影と言えば……。

「ドクター、その影というのはなんていう場所にある?」

 ドクターは写真を白いボードにクリップで固定し、目を細める。

「前頭連合野……あ」、どうやら彼女も気がついたようだった。

「その、前頭連合野というのは?」

「論理的な思考を司る器官。偶然ではなさそうだけど……なぜ?」

「分からない、あいつと話をしてくる。ちょっと待っていてくれ」

無音。狙撃者が読んだとおり、そこには無音が訪れた。エレベーターの出入り口は地下へ潜り、ここは完全な陸の孤島と化していた。

「よし。そのまま――」、警備兵の一人がそう言いながら近づいてくる。

「そのままそこで立ち止まって息を止めた方が良いぞ」、狙撃者が言った。「実に非人道的で申し訳ないんだが、非常に凶悪な病原菌をぶちまけた。もちろん、この空間全てが頑丈な防弾ガラスで密封されているということを知っていてね。俺と相棒は、一掛ける十のマイナス5乗グラムずつ予防接種とやらを半年間してきたからなんともないわけなんだが、お前さんたちは死ぬ。それも苦しみながら二日間を満喫した後にね。安心しろ、死ぬのはお前たちだけだ、施設の人間全てじゃない」

 沈黙。全ての警備兵がその場で固まる。

「いいか、予防接種というのがキーポイントだ。つまりワクチンは持ち合わせていないということさ。そこのやつ、咳を我慢しない方が良いぞ。どうせ出るもんだ」、狙撃者はそう言って後ろの方にいた一人の男を指さした。すると別の男が乾いた咳をする。それが口火を切り、全員が断片的に咳をし始めた。

「今ここで決めろ。俺たちを司令室に入れて後でワクチンを手に入れるか、俺たちを殺して自分も死ぬか。後者の方がかっこ良いぞ」

 誰も返事をしなかった。

「だがそろそろ体中が熱を持ち始める頃だ。吸い込んだ菌は酸素に扮して肺胞の毛細血管へと侵入し、ヘモグロビンにくっついて体中を旅する。体のシステムは優秀だ、異変を感じてすぐに総攻撃を開始する。だが時既に遅し、菌はそこにはいない。体は愚かなことに、取り乱して自分自身を攻撃する。それからどうなるか。菌は組織液に混じって細胞に入り込む。その後は話さないことにしよう。激痛やら恐怖やらの話になるので退屈だ。早く答えを出せ」

 一人の男がポケットからカードキーを取り出す。

「カードキーを出した人間にのみ、ワクチンを渡す」、狙撃者はそう言って全体を見回した。「とは言っても感染症だ。みんなマスクを買ってこい、経費で落とせ。いや、空気感染だ」

 結局全員がカードキーを差し出した。というよりも、そうせざる得なくなった。狙撃者は銃を持ち上げると、行くぞとチャーリーに言って司令室へと入った。

「国が大日に補助をすれば良いんですよ。そうすれば全部解決だ」、ハヤマが言った。

「なんでも言い、とにかくこれを見ろ」

 ヒラギは画面の光度を上げ、文書の一枚目をハヤマに読ませた。三十秒、ハヤマはゆっくりと目を左右に動かしながら文字を追う。

「これが、どうかしたっていうんですか?」、目を細めて言う。

「次だ」、ページを変え、二枚目。ハヤマは最後の一文を読んで、眉間にシワを寄せた。「確かに」

「確かにこの文章、ありました。確かに……」

 そのとき、ハヤマの目が光を取り戻した。だらしなく開いていた口は意志によって閉められ、青ざめていた肌の色も正常になった。ハヤマは何度かまばたきをし、手の平を閉じたり開いたりして、自分が自分であることを確かめる。ひとしきり終わると、珍しいものを見る目で、ヒラギの方を見た。そしてその目に、恥を浮かべた。

「悪夢を見ていた気分です」、ぼんやりと言う。

「まず、まるで植物にでもなったかのように、自分を操ることができなくなっていきました。それから、何が何だか分からなくなった。そして助けを求めてどこかへ進んでいったんです。たった今、そこに辿り着こうとしていた。でも、すんでのところで引っ張り上げられたんです」

「悪夢に沈んだ理由、分かるか?」

「いや、分かりません。とにかく急なことだったんで」

 ヒラギは黙る。それから内線を使って、ドクターに電話を掛けた。

「もう一度MRIを頼む」

「まったく、あきれるよ」、とチャーリーが言った。

「司令室の警備兵を外に追い出して自分は入っちまうとは。五発撃ったのはあれを粉々にして素性がバレないようにするためか」

「そういうことさ」

「たいした思いつきだよ。面白い物語が書ける」

「小説家になろう」

「目標は?」

「トーベ・ヤンソンだ」

「ムーミン?」

「そうだ。知っているか、にょろにょろは地面から生えてくるんだぞ。そして嵐の夜になると、全員が同じ場所に向かって進み始める。ただ無言で集まるんだ。ムーミンパパはそれを、とてつもなく恐ろしい光景だと言うのさ」

「よく分からないね。だがどうしてやつら咳をしたんだ?」

「彼らにとってはあれが、凶悪な菌だったからさ」、狙撃者が言う。チャーリーは小さく笑った。「二階から目薬よりも凄いテクニックだ」

 入り口から入ると廊下はすぐに折れ曲がる。それから弧を描く廊下を少し歩くと、すぐに視界が開けて司令室に出た。変な入り口を頼りすぎだ、と狙撃者は思った。侵入されないことを前提としているせいで、中は無防備の溜まり場となっている。

「そこをどけ」、狙撃者がそう言いチャーリーが銃を向けると、コンピューターの前に腰掛けていたスーツの男が立ち上がって場所を空ける。狙撃者が座ろうとした瞬間に、スーツの下ショルダーホルスターから拳銃を抜く。狙撃者は無表情に男の手首を叩いて銃を落とすと、自分の銃の底で相手の後頭部を殴った。

「お前さんたちは自分たちがどういうことをしているかを心得ている。だからお前さんたちには.40SWも.308winも惜しみなく撃ち込む。妙な気を起こすな、俺もそこにいるミスター・ライトマシンガンも発狂しかねないからな」

 狙撃者はそう言って、操作パネルにあるたくさんのノブのうち一つを時計回りいっぱいに回した。

「鉱元の採掘量を最大にするとどうなるか。否応無しに爆発する、知っているな。施設全体にアナウンスしろ」、凄みを利かせた声で言う。

「強制収容して働かせている現地の人間を全て解放しろ、と」

「影が無くなっているわ」、彼女は言った。

「病気じゃないのか」

「分からない。恐らくは精神的なことが原因で、身体に影響が現れたのだと思う」

 精神的な。コトに聞いてみるか。

「ヒラギさん」、極めて冷静な顔で画面を見ていたハヤマが言う。ヒラギがそっちを見たのと同時に、ニュースが映像を切り替えた。ジャングルを空から映した映像で、ヘリから撮ったらしく視界が大きく揺れている。テロップには現代の強制収容所、解放されると書かれていた。

「狙撃者たちだ!」、ハヤマが叫ぶ。画面の中で、巨大な施設から大勢の人間が波のように走り出てくる。すぐにカメラの視点が地上へと写り、リポーターが通訳者を介してインタビューをする場面に切り替わった。

<二人の男が侵入し、司令部を人質に取って解放を要求したということです。目撃者の話により、犯人は日本人だと判明しました>

<現地の人々は国の命令で過酷な労働を強いられていたようです。これに対し国連は直ちに審議会を開き、意見が一致し次第現地の人々の解放させるよう命ずると発表しました>

「シマノの目的はどうやら別にあるみたいですね。まるで」、とハヤマが言う。「まるで言い争いを体現しているみたいだ」

「いや、言い争っているというよりもこれは……問答している」

「問答、ですか」

 ヒラギは頷く。画面に視線を移し、もう一度小さく頷いた。

「久しぶりだな、オールド・フレンズ」、チャーリーはそう言うと、昇ったばかりの太陽の下、シマノとハイタッチした。正直者もわりと穏やかな表情で二人を迎えた。どうやらシマノの計画的な行動が彼の機嫌を程度良く保っていたのだ。空港を出る頃にはまた不機嫌になっているに違いない。

「評判は良い感じだ」、シマノが言う。「だが俺らの方がクールだったか」

「いや待て。かっこよさで言えばこっちが上だ、なんと直接乗り込んだんだからな。ニュースちゃんと見たか」

 狙撃者は誇らしげに言う。

「車が扉に挟まった瞬間しか見てない」、正直者が言う。

 狙撃者は眉間に皺を寄せてチャーリーと目を合わせた。「だとよ」

「カメラの前で演説でもしてくれば良かった」、悲しく言う。

「そんなことしたらお前――」

「教科書に載るぞ」

「アホ、三回死刑だ」

「俺は一回で十分、二回目と三回目はお前さんに譲るよ」

そして笑った。

「次の行動に移る」、シマノが言う。

「今世紀最大のゲームだ。サキオリとチャーリーで行け。正直者はゲームがどうなっても動けるように待機しろ。俺が大日の部隊を誘い出し、メディアを集める」

「また不確定な要素か」

正直者は呆れる。

「面白くなってきたな」

狙撃者が笑った。

「お待ちかねだぜ、オールド・フレンド」、チャーリーはそう言うと、空港の臨時駐車場に止めてある狙撃者の車の方へと歩いていった。

 ヒラギはベンチに腰掛け、堀の向こうに見えるビルの群れをうち眺めていた。地面にはまだそう古くないタイヤの跡――バイクとワンボックスカーのものがあり、その上に重ねられた足跡は多くない。

「確かに、本人の性格の問題ではないようですね」、コトは同じベンチの70センチほど離れたところに腰掛け、ハヤマの言動を書き出したメモに目を通していた。タイミングから考えれば原因はニュースだと言える。しかし今までなんともなかった人間がいきなり発狂してしまうとなると、その仮定には無理がある。

「これは――」

 コトは何かを言おうとして止め、視線を持ち上げて街の方を見る。

「私、たまに思うんですよ。画一化された要素によって構成されたモノは命を所有していながらにして捨てている、つまり、存在しているだけなんじゃないかと」

 コトを見る。自分でもよく分からないが、隣にいる大学生がとてつもなく重要なキーワードを持っているように思えて仕方がなかった。いやむしろ、彼女はすでに答えに辿り着いているのにそれを隠し、あたかもゲームをするように、情報を小出しにしているのではないのか。考えれば考えるほどそうであるように思えてくる。しかし彼女の目はあくまで無垢だった。

 そうか、とヒラギは思った。おそらくコトは答えに辿り着いていながら、そのことに気付いてないのだ。何が答えか分かっていないからこそ、情報が小出しになるのだ。彼らの目的さえ分かれば、多分全てが芋づる式に解決する。

「画一化された要素」、コトは記憶を突くように呟く。「確か前に――」

 声を遮るように車のエンジン音。低く唸る、ガソリンエンジンの音だ。公園の一番端、ベンチから十メートルほどのところに車が止まる。背の低い、二十世紀中頃のフォードだ。紺のボディに銀のストライプ、どこかで見た覚えがある。

 車のドアが開き、茶色いフライトジャケットを来た男が降りてくる。肩幅が広く、鍛え抜かれた筋肉を持っていた。反対側からは背の高い、見覚えのある男が降りた。

「一度死んでも、この眺めは変わらないなオールド・フレンド」、背の高い方が言う。

「わざわざ生き返ったのにこの景色じゃ気が滅入る。スペインに戻りたいぜ」

「全て終わったら行こうや」

「ああ。そんじゃまあ、さっさと終わらせるか」

 茶色のジャケットの男がこちらに振り返って言った。

「デートの続きは明日にしろ。追いかけっこをするぞ」

 確かにヒラギという男はプロだ。すぐに隣にいた若い彼女を押し倒し、その前に立って銃をすぐ引き出せる位置に、右手を持っていった。

「俺がサキオリだ」

 ヒラギは右手をさらに、ホルスターへと近づける。

「止めといた方が良いぜ、ヒラギ。お前さんがコルト・ガバメントをホルスターから抜いてハンマーを起こし、トリガーを引くまでの一秒間。その間に俺はお前さんの心臓に二発の.40SWを撃ち込むことができる」

 ヒラギは自分の全身が戦闘のための集中力に染められていくのを感じた。冷静にありながら、圧倒的なリスクをエネルギーに変える。意識が戦闘という細い針の先端に集められていく感じだ。相手が強力であればあるほど、その感覚は鋭く研ぎ澄まされていく。

「何が目的だ」、ヒラギは言った。

「目的が何か」、狙撃者はコトの方を見た。「そこの彼女、第二の誕生の序文を言えるか?」

 コトは少しだけ考えてから、呟くように言う。

「私たちはいわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二度目は生きるために」

 狙撃者は小さく頷くと、ジャケットのポケットに手を突っ込んで一枚のコインを取り出した。「ゲームをしよう」

「お前さんの部屋に、誰かがこれと同じようなコインを一枚、残していったろ。風の噂によると、その中には一枚のチップが入っている。俺も内容を見ていないし、恐らくは誰も見ていない。置いていったやつもな。見たのはそう、そのコインを作った人間、“コイン”を作った人間だけだ」

 コインを作った人間。そう、プログラムが存在するということは、それを作った人間が存在するということだ。

「作った人間とは誰なんだ?」、ヒラギは聞いた。

 狙撃者は表情を変えない。「さあな」

「俺は実際、シマノに言われた通りにやっているだけなのさ。コインに何の意味があるのやら、知りたいもんだぜ」

 理由はどうでも良かった。つまりこの男がなぜわざわざ情報を知らせに来て、自分を不利に追い込んだか。そんなことは気にならなかったのだ。これはゲーム、あるいは罠だ。しかしこの男が、古くさいライフルで勝負を仕掛け堂々と戦ってきたこの男が、罠を仕掛けるとは思えなかった。

「俺たちとお前さん、そして大日の暗殺部隊。誰が真実を知るか」、狙撃者は楽しそうに言う。「始めるぞ」

 コインを高く放り上げた。そこにいる全員がその動きを目で追う。上昇、減速、静止。降下、加速――着地したのと同時に、狙撃者と背の高い男が地面を蹴り、車に飛び込む。派手なエキゾースト・ノートで回転数を上げた。

「どうする」、ヒラギはコトの方を見る。

「行きます」、コトは言った。

 ヒラギは頷くと、ベンチの後ろに停めてあるホンダの白いバイク――フルカウルの一一〇〇CCにまたがり、自分のヘルメットをコトに渡した。

 携帯電話をポケットから抜き、ハヤマに連絡する。

「俺の部屋に迎え」

「今向かい始めました」

 狙撃者のフォードが砂煙を上げながらその場でターンした。ど迫力のバーンアウトだ。

「掴まれ。左手は肩、右手は後ろのグリップだ」、ヒラギはそう言うと、エンジンを掛ける。フォードとは対照的な高い音でエンジンが吠え、心地よい振動が手の平に伝わる。クラッチを握ってファーストギアに入れると、同じようにターンし、狙撃者の後についた。

「ルートは?」

「高速を使うのが最速だ」

「了解」

 狙撃者はリアタイヤがグリップを失っているのを感じながらハンドルをいっぱいに切る。派手な音を立てて車が内側に吸い込まれていくのに合わせ、一瞬逆に切りまた戻すという動作を繰り返す。チャーリーは渋い表情をしながら真っ直ぐと前を見ていた。

「サキオリお前この車、二〇〇〇万すんだろ。大切にしろよ」

「いや、チューニング費込みで三五〇〇万だ。もともと足回りと駆動系だけ改造してあったんだが、今日に合わせてギア比と出力も変えてきた」

「だが最高速じゃブラックバードには勝てない」

「あのバイク白いぞ。ホワイトバードになら勝てる」

 目の前に料金所のレーンが見えて来る。狙撃者はアクセルに軽く乗せていた足を踏み込んだ。

「おい、二〇キロまで落とせ!」、チャーリーが叫ぶ。

「いや大丈夫だ」、狙撃者がそう言ってすぐに、電子音がする。反応はしたらしかった。車は開こうと精一杯努力したバーをへし折ってそのまま突き抜ける。

「ほら、二〇〇キロでもちゃんと反応したろ。最近の技術は凄い」

「違うと思うぜ」

 円を描いてほとんど車の走っていない高速道路に合流し、さらにアクセルを踏み込む。丁度そのとき、ヒラギのバイクが横をすり抜けていった。四車線あるのにも関わらず真横をすり抜けていく辺りがしっかりしている。

「最近のホンダは凄い」

「二人乗りに負けてるぜ。だからこの車は止めろって言ったんだ」

 狙撃者はチャーリーの方を見て眉間に皺を寄せる。

「お前俺のフォードGTにケチをつける気だな。ひどいぞ、こいつだって頑張っているのに」

「分かった、分かったから前を見てくれ」

「こいつのおかげで計画は成り立っているんだぞ。お前、こいつの他には俺のGPZか、お前のワンボックスしか無かったんだからな。落として軽量化しちゃうぞ」

「わかったから前を向け!」、チャーリーが怒鳴る。どうやら本気でびびっているらしかった。狙撃者は笑うと、サイドミラーに目をやった。

「あいつらも来たぞ」。数十メートル後方に、バイクが五台と車が一台。真ん中のバイクはやたらタンクの大きな黒いスズキで、あとは赤のドゥカティだった。横一列に並んでいたがやがて加速して、狙撃者の車の横を通り抜けていった。残った黒いBMWは鉱元燃料を使用する最新型だった。

「おいおいこれじゃ負けちまうぜ」、チャーリーが言う。

「うむ」、狙撃者は無表情に言って、それから聞いた。「朝飯は何を食べた」

「朝飯前さ」

「そいつは良い。じゃ、戻すもんは無いな」、狙撃者はアクセルを緩め、インパネに付いた一番目立たないトグルスイッチを上げた。もう一度アクセルを踏み込む。唸りにモーターのような甲高い音が混じり、とんでもない早さで加速が始まった。チャーリーの顔が瞬時に青ざめたのを見て、狙撃者は笑った。

 メーターは三二〇キロを上回り、前を走るバイク六台にぴったりと張り付いた。それと同時に車がガタガタと揺れ始める。今にもタイヤが地を離れ、クラッシュしてしまいそうだった。

「まずいんじゃないのか」

「ああまずい。何せデザインが半世紀以上前のもんだからな、ダウンフォースもへったくれもないんだ」

 BMWが隣の車線で追い越していく。フォードのタコメーターは既に、レッドゾーンの入り口へ針を重ねている。やはり根本的なデザインの差が出ていた。相手はトランクに乗っけたどでかい羽根で空気を味方にし、車を地面に押さえつけている。そのうえ最高速をさらに伸ばそうとしているわけで、性能には明らかな差があった。

 バイクの連中も相当な速さですっ飛ばしていた。ときどき遭遇する一般車を華麗によけながら、モトGPよろしくタイヤを並べていた。

「もう一個ぐらいトグルは無いのか? 上げるとターボが作動みたいな」

「ターボは嫌いだ。さっきので終わりさ」

「どうするんだ?」

「まあ見てろ」

 狙撃者はハンドルにわずかな回転を与え、ぴったりとBMWに張り付く。

「おい!」

「オービスがあるんだ。罰金を前のやつに払わせてやる」

響き続けていた空気の低い鳴き声がにわかに小さくなる。車一台分の車幅があったとしても前方に大きなスポイラーを付けた車がいれば、それは十分な風よけになる。後ろから誰かに押されているかのように、ゆっくりとスピードが上がっていく。メーターが三四〇キロを回ったところで、出口の表記が頭上を飛び越した。

「降りるぞ、どっかに掴まれ」

 チャーリーは狙撃者の言った通りにする。前のバイクが減速を始め、前のBMWもブレーキをする。狙撃者はブレーキを踏まず、右車線から追い越した。左前に細い出口が姿を現した。チャーリーが悲鳴を上げる。

 命知らずのフォードが減速せずに飛び出す。急な車線変更でバランスを崩したらしく、リアタイヤが派手な音を立ててスリップしていた。三〇〇キロでスリップすることがどういうことか、知らない狙撃者でもないはずだ。

 紺のボディがその頭を右に向ける。リア両端に設けられた丸型一灯のブレーキランプは光っていなかった。本当にバランスを崩したのだろう。車が大きく振れて、今度は頭が左に向いた。いよいよリアタイヤは空回りし、車が角度をつけた。ヒラギは右足を強く踏み込んだ。後ろにいたバイクたちが一斉に前に出て、後ろにはBMWだけが残る。

 狙撃者は間抜けだった。慣性を利用して車に角度を付け、そのまま出口に飛び込んだのだ。運任せにもほどがある。ヒラギは感嘆に口元を持ち上げ、自分も何かやってやろうと考えた。

タンクを挟んだ足に力を込めてバイクを傾け、ハンドルを右手に左手で拳銃を抜く。ろくに狙いを定めずに弾を撃ち切った。コーナリング中の二台のバイクがよろめく。リアタイヤからグリップを失ったバイクはスピンしながら転倒し、そのまま道を外れ、わずかな火花を散らしながら芝生へと飛んでいった。

 拳銃を戻し、再び前方を見る。残った三台のバイクが前方で滑らかにコースを沿っている。狙撃者のフォードが後輪を滑らせたままトップを独走していた。

 上空には報道局のヘリ。それも十機ほどが群れている。派手な事件、報道局のヘリ。いつもと同じパターンだ。そして今、自分はその一部となっているのだった。そう、それこそジグソーの一ピースになった気分だ。

 チャーリーが悲鳴を上げる。後輪も悲鳴を上げている。狙撃者はハンドルを同じ位置に固定したまま、アクセルを軽く踏んだり離したりしていた。車は斜めを向いたまま、円を描くコースにしっかりと適応していく。

「おいチャーリー、わめいてないで敵を一台ぐらい減らせ」、狙撃者が言う。

「あーばかばかばか集中してくれ! あー!」

「だめだなこりゃ」

 狙撃者はため息を吐く。窓を開け、ホルスターから拳銃を抜き、それを左手に持ち替える。広い空間に出た瞬間にハンドルを右いっぱいに回す。車はワンテンポ置いてから向きを変え、そのまま真横を向いた。窓から左手を出して十二発全てを撃ち切る。二台の赤が転ぶ。狙撃者は銃を自分の膝の上に放ると、シフトダウンをしてそのまま車をスピンさせた。後ろ向きでレーンに入ると、同時に隣のレーンを黒と白のバイクがすり抜けていった。BMWは虎模様の衝撃吸収缶に衝突して、その場で止まった。レーンを抜けると、車をもう一度スピンさせて向きを戻す。フロントバンパーを擦ったらしく、ひどく気の滅入る音がした。

「くそ」、狙撃者は苦い表情でアクセルを踏み込む。

「料金は、四五〇円です」、車が言う。

「どうも」、と狙撃者が言う。

「修理費は一三〇万、円、です」、車が言った。

「ご丁寧にどうも」、と狙撃者は言った。「紙粘土で直そう」

 狙撃者のフォードは遅れていた。敵のバイクも、黒――おそらくはフィクサーだけになっていた。

「コト、聞こえるか」、ヒラギは叫ぶ。

「はい」

「この角を曲がったら俺のマンションに着く。四階の非常階段の横の部屋だ。俺は下で敵を食い止める、先に行ってコインを取り、どこかに隠れてくれ。危険かもしれないがやってくれるか?」

「大丈夫だと思います」

「よし」

角を曲がる。すぐ前でフィクサーのバイクが止まり、ヒラギもその後ろに止まる。コトはヘルメットを置くと、飛び降りてマンションの階段へと走った。ヒラギは拳銃を抜いて弾倉を取り替えると、スモーク入りのヘルメットを取ったフィクサーに向けて三発、撃ち込んだ。フィクサーは近くにあった車に隠れ、すぐに五十口径の拳銃で応戦を始める。

銃撃が止んだ瞬間に、階段へと飛び込む。ほとんど同時に今度は別の銃声がした。自分の銃のものと酷似した、四五口径のものだ。離れた位置に、狙撃者の車の助手席に座っていた背の高い男がいた。

フィクサーからの銃撃。予備弾倉はもう無い。ヒラギは身を乗り出し、残りの四発を撃つ。フィクサーの動きは早かった。後方からの銃撃も、自分が撃った弾も、全てを意識して行動している。そして――そしてあの男はこちらに予備弾倉が残っていないことにも感づいていた。

 またか、とヒラギは思った。さんざん近接格闘戦を経験してきたのに、あの男に勝てる気はしなかった。あいつは極度の緊張下における心理戦にとことん長けている。いや、そもそもあの男は、緊張などというものをどうとも思っていないのだ。

 逃げるか。戦って決着をつけるか。そんなことを考えていると、背の高い男がこちらに何かを投げたのが見えた。銀色の何か、爆発物ではないようだった。近くまで飛んできて、それが予備弾倉だということが分かる。ヒラギが手に取ると、それはガバメントの物とほとんど同じ形の弾倉だった。

 背の高い男の方を見る。彼は小さく笑うと自分の銃の弾倉を入れ替え、姿勢を低くして歩き始めた。あの男からは、とヒラギは思った。あの男からは生きることに対するこだわりが伝わってくる。

 コトは四階まで駆け上ると、わずかに息が上がっているのを感じながら、非常階段の横の部屋まで走った。ドアの前に行き、立ち止まる。鍵を渡されていないことを思い出したのだった。

 ドアノブを捻り、力を入れて引っ張る。ドアは開かない。もう一度引っ張ろうとしたとき、銃弾が肩のあたりを掠めた。振り返ると、少し離れた所にあるマンションの六階で誰かがライフルを構えているのが見えた。狙撃者だった。

 コトはすぐに腰を落として、コンクリートの壁に身を隠した。銃の弾がコンクリートを貫通するのかどうかは知らなかったが、相手から自分が見えなければ大丈夫なような気がした。ドアの方を見上げる。一発目は上の蝶番を撃ち抜いていた。また銃声がし、今度は下の蝶番が撃ち抜かれる。少し迷ったあと、低い姿勢でドアに体当たりした。ドアは思ったよりも簡単に開き、そのまま倒れ込んでしまう。もちろん思った通り、それは狙撃者の射程内だった。マンションの六階を見ると、彼はいなかった。

 コトは立ち上がって部屋の中へ進むと、テーブルの上からコインを取る。

「負けちまいやんの」、チャーリーが言った。

「フィクサーは?」

狙撃者はライフルを車に戻し、周りを見回して言った。

「消えたよ」

「そうか」、今度は空を見上げる。報道局のヘリが円を描くように飛んでいた。狙撃者が無線に向かってヘリを撤収させるように言うと、返事があり、その十数秒後にはヘリが揃って帰路についた。シマノの情報操作は改めて恐ろしい。

 狙撃者は車に乗り込む。「帰ろう」

<超高速のカーチェイスが繰り広げられています! 情報によると、彼らは最近騒がれている大日サークルの真相が記録されたチップを争っているとのことです。――新しい情報が入りました。このうちの誰かがチップの抹消を目論み、誰かがその公開を目指していると言えるでしょう>

<彼らの中には、裏の兵器工場を破壊し、大日サークルの存在を明かした人物もいるのでしょうか? 国民の間では彼らを応援する声が多数上がっており、その行動が注目されています>

<彼らが一つの建物に集まりました。銃撃戦です、一体誰がチップを手に入れるのでしょうか?>

<現場の映像はここまでとなります。今日は犯罪心理の専門家にお越し頂き、これら一連の事件に関するコメントを――>

 ハヤマはネットテレビを切り、チップをパソコンに差し込む。

“プログラムは存在し、且つ存在していない。コイントス・プログラムは定義された範囲、象徴、そういったものに過ぎない。だがそれは作られてしまった。それは明確なプログラムとされてしまった。そして彼らは全てをコイントスにゆだねるようになる。恐ろしいことだ。全ての判断がコイントスによって行われるようになるのだ。状況は望んでいたものを遙かに超越している。これはこのまま利用するべきか、破壊するべきか。――大日社長”

「プログラムは」、とヒラギが言う。

「大日社長によって作られたわけではないのか」

「でも」、ハヤマの車、後部座席に座ったコトが言う。

「大日社長が望んでいたものを遙かに超越しているってことは、それが作られることを知っていたか、もしくは大日社長が自らの意思でそれを作らせたか、どちらかということですよね」

「これはこのまま利用するべきか、破壊するべきか」、 ハヤマはその意味を確かめるようにゆっくりと呟く。

「つまりプログラムは利用されているか、破壊されているかのどちらか」

「利用したがっている人間と、破壊したがっている人間がいると考えても良いですね」

 ヒラギは頷く。

「このまま利用するべきか。つまり利用しているのは大日社長だ。そして破壊しようとしている人間がいるとすればそれは、狙撃者だろう」

「なら話は早いんじゃないでしょうか」、とコトが言った。

「今までの事件を全て振り返ってみるんです、狙撃者たちの目的が大日自体の破壊ではないと仮定して」

「お前がカーチェイスで負けたのか。傑作だ」、正直者が言った。

 狙撃者は家のガレージに寄って持ってきた替えのバンパーを取り付けていた。

「あのヒラギって野郎、いつか負かしてやる。ニュルブルクリンクで」

 チャーリーが笑った。「アホ」

「ニュルブルクリンクってお前、あんなサーキット路面が荒くてバイクじゃ飛ばせないぞ」

 狙撃者は黙った。それを狙っていたのだった。

「んじゃダートラ」

「お前の車じゃ無理だ」

「おい、お前さん方。いい加減次の行動に移るぞ」、シマノが言う。狙撃者は頷いて立ち上がり、傷付いたバンパーをチャーリーの車に放り込んだ。

「で、次の行動ってのは?」

「飯か」、チャーリーが言う。

「飯前の一杯だ」

事件の発端は、大日石油本社における政治家狙撃未遂。未遂といっても、後の捜査によってその目的が大日石油の何らかの悪事を暴くことであると推定された。そこから調査を進め、その悪事にいくつかの組織が関わっていることが判明。その時点で“FAU”や“輸賛会”、つまり大日サークルの存在がほのめかされていたことを考えると、狙撃者はやはり、大日サークルについて何かを知っていたと思われる。

調査は進み、シマノによって狙撃者の名が明かされる。それから数日後に行われた大日社長の演説に狙撃者が再び現れる。テロリスト、狙撃者、フィクサー。複数の陰謀が入り交じった数十分の後、狙撃者は大日社長を生かす道を選んだ。市役所にそれと思われるライフルが残されていたが、彼は掴まらなかった。そしてそれと同時にシマノが姿を消した。

「演説の日のことは覚えています」、ハヤマが言った。

「あの一件は妙でした。なんというか、勝利が誰の手に収まったのかも分からず、混沌としたままで終わってしまった」

「確かにその感じはありますよね。狙撃者は狙撃を中断し、テロリストは制圧されてしまった。そのフィクサーって、さっきの黒いバイクの人ですよね? その人はどうだったんですか?」

「あいつは俺を殺せる状況下で、殺さなかった」、ヒラギはそう言って渋い表情をした。

「大日社長にとってはどうだったんでしょう?」

「一命をとりとめた、って感じだった」、ハヤマが呟く。

「狙撃者は大日社長を殺せる状況下で、殺さなかった」、ヒラギはゆっくりと言う。そして今まで考えたことの無かったその奇妙な共通点について、思考を巡らせた。偶然か、あるいは必然か。なぜ彼らはそのターゲットを消さなかったのか。

「俺とお前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために」、コトが存在しない紙を読み上げる。いつでもこの言葉は一字一句違わない状態で出てくるのだ。

「フィクサーはもちろん、狙撃者も皆がピースであることを知っていたんじゃないですかね」

 ハヤマが言う。なかなか鋭い意見だった。「となると」

「大日と狙撃者にもなんらかのつながりがあったか。あるいは目的が同じか」

「でも、狙撃者は知っていたのではなくて、気づいたのかもしれないですよね。何かがキッカケで」、コトはそう言う。それから何かを考えるように静かになった。

 沈黙。少し前進して壁に突き当たったとき、沈黙はやってくる。

「……そういえば」、ハヤマが思い出したように言う。

「シマノはどうなったんです?」

 ヒラギははっとした。あの日隊員たちの話では、シマノは並木通りまで出向いていたという。それから、どこかへ消えたと。いつ消えたのかは分からない。何しろテロリストやら、ヘリの暴走やらで――。

 ヘリだ、と思った。ヘリは誰によって操作されていたのだろうか。大日社長の周りにいた護衛を追い払いながらも、大日社長を撃つことはなかった。恐らくテロリストの仕業ではなかったのだろう。そもそもヘリをハッキングして操作することなど、普通はできることではない。それが可能な人間は明らかに、一人しかいない。

 ヒラギは他の二人にその話をする。

「すると、シマノはヘリを使って狙撃に協力したってことになります」、ハヤマはそう言って続ける。

「狙撃者を試そうとしたのかもしれない。狙撃の技術、あるいは――」

「大日社長を撃てるかどうか」

「もしくは、大日社長を撃つべきか撃たないべきか、それを判断できるか」、コトが言う。

 ヒラギは一瞬黙る。そして考えた。シマノが狙撃者と行動をしているということは、シマノが狙撃者を合格と考えたからだろう。すると、シマノは撃たないことを合格基準にしていたわけだ。

 いや、もっと単純な話だった。

 シマノは狙撃者を利用するために、試したのだ。

 シマノは左手を腰に、右手にグラスを持ってミルクを飲み干した。

「うまい。仕事の後の一杯は格別だ。いやはや」

「何もしてないだろ」

「いやはや」

「だめだなこりゃ」、狙撃者は諦めると、自分の薄っぺらい車に寄りかかり、ゆっくりと空を見上げた。空を見上げてもシマノがミルクを飲んでいる姿が影写りのように浮かんできた。狙撃者はもう一度諦めた。まるで自分の一部になっている。

「俺たちの4STEPも、あと残すところツーステップだ」、シマノが言う。

「総合問題を除いてだが。ま、そんなこんなで次の話をしよう」

「ミルクを飲み終わるのを待っていたんだろうが」、狙撃者が言った。

「まだあるぞ、ほれ」、シマノはパーカーのポケットから紙パックのミルクを取り出す。チャーリーが後ろから奪う。「うお」

「だがまだある、ほれ」、また新しいミルクを取り出す。

「お前もサキオリもそうだが、一年に一分くらいはまじめになれ」、正直者が言う。

 シマノはミルクをしまうと、まじめな顔になって言った。

「一年に一分くらいは狙撃者に狙撃者になってもらうために、俺とサキオリでもう一度仕送り屋に合う。正直者、チャーリー。どっちかが一人で輸賛会に乗り込んでくれ。もう一人はアメリカに飛んでもらう。輸出品の受け取り先にな」

「おいおいやけに面倒な仕事だな、両方とも」、チャーリーが不満そうに言った。正直者は何も言わずに目を細め、シマノの方をじっと見た。

「いや恐らく」、狙撃者が意味深長な声で言う。「こっちも大変だろう」

 シマノは表情を変えずにそういうわけだ、と言う。それから、まったく大変な仕事をしてしまった、というように筋肉をほぐしてチャーリーのワンボックスへと歩いていった。

 正直者は狙撃者の方を見ていた。ほんのわずかな目が合った時間で、彼は全てを伝えてきた。そして、頷いた。チャーリーは、まあいいかという風に息を吐いて、ワンボックスの方へ戻ろうとする。しかしすぐに立ち止まって、正直者の方を見た。

「どっちが輸賛会で、どっちが俺の本国へ行く?」

「お前が本国に戻りな」、正直者は静かに言った。「英語は得意じゃないんだ」

「了解」、チャーリーはちょっと嬉しそうに返事をして、ワンボックスへ向かった。

「もう一度やるのか」、フィクサーは電話の相手に向かって言った。

「まあな」

「俺もそろそろ、決着をつけなければ」

「そうだ」

「全て終わったらビールでも飲もう」、フィクサーは言った。

「俺はビールを飲めない」

「そうだったか。それじゃ」

 電話をポケットに戻す。武器庫のロッカーに寄りかかったフィクサーは、無表情に視線を放っていた。この場所だけが自分の居場所になったのは、いつだったろうか。そんなことを考え始めても意味がないことは分かっていた。

 パズルはほとんど完成している。自分の取るべき行動は、はっきりしている。

 FS-Dでシマノと遭遇した。彼は大日などどうでも良い、と言った。それはシマノにとってなのか、狙撃者にとってなのか。聞いてみなければ分からない。そのあと彼らは、地下工場で爆発に巻き込まれた。

「爆発は誰の仕業だったんでしょうか?」、ハヤマが言う。

「最初は、シマノが四人で下に降りたこともあり、狙撃者たちを巻き込んだ自殺を図ったのかと思った。だが違った」

 ヒラギはシマノたちが次に出てきたときのことを考えていた。

「死んだと思っていた彼らが再び現れ、大日サークルを白日の下にさらしたときの衝撃は、ただならぬものでした」、ハヤマが笑った。「思いきり利用されたのもありますし」

「もしかしたらその、衝撃を大きくすることこそが目的だったとか」

コトの視点は何かしらずれていて、そのおかげか鋭い切り口を作る。今回の発言もそんな雰囲気を持っていた。

「衝撃が大きければ大きいほど、国民が大日サークルのことを気に留めやすくなる」、ハヤマが言う。

 確かに。そう仮定すれば狙撃者たちがアフリカで強制労働を解放した件についても納得が行く。だが、何か腑に落ちない気分だった。

「そのあとでした。僕がおかしくなったのは」

「もともとではなくて」、コトが言った。

「あの」

「いえ」

「狙撃者がわざわざカーチェイスを仕掛けてきたことについてはどう思う? メディアの集まり方からして、これも同じ目的だったと言えるだろうが」

 ヒラギはそこで、言葉を切らす。

「狙撃者はチップの中身を知らなかったんですよね」、ハヤマが言った。

「というか、作った人間のみが中を見たって」

「ということは、やっぱり大日社長がプログラムを作ったのか」

 ヒラギはふと、重要な問題があるということに気がついた。

「そもそも狙撃者が言ったことは、本当だったのか? コインはフィクサーによって置かれた。なぜやつはコインの存在を知っていたんだ?」

「コインがフィクサーによって置かれた物でなかったとすれば」、ハヤマが呟く。

「明日もう一度部屋を見に行こう」

 シマノは一人、チャーリーのワンボックスの後部座席を倒して寄りかかっていた。ちょうど自分の部屋のシートに身を沈めたように。車内灯はその手の上のコインを銀色に光らせる。彼はそれを放り上げ、手の甲に乗せ、また放り上げ、手の甲に乗せる。そのたびに特徴的な振動音が響き、宙で影と光が交互する。それをなんどもなんども繰り返し、ある瞬間にそれを止めて、パーカーのポケットからM92FSを抜いた。狙撃者と同じモデル、すでに市場からほとんど消え失せてしまったスチール製の拳銃だ。シマノには不釣り合いな情緒的な拳銃であるM92FSにはさらに、非合理的なロングバレルが装着されていた。

 ため息を吐いた。そして拳銃を右手に持ったまま、左手でコインを放り、銃口をそれに合わせてトリガーを引いた。カチ、と間の抜けた音がして、撃針が空を叩く。落ちてきたコインを左手に乗せる。

 やはり、とシマノは思った。

 後悔と名の付いただけのベレッタでは撃ち落とせない。最後のアンチテーゼを、早く捨て去ってしまいたかった。

 狙撃者はE7のコードを押さえると、親指でストロークをした。それから人差し指と中指で、単音のメロディを弾き始める。スパニッシュスケールの、哀愁が乗っかった旋律。一つ一つの音は至ってはっきりとしていた。狙撃者は指を固く保って茶色いナイロン弦を弾く。弾き終わった指は次の弦へと乗せる。

 ときどき、跳ねるように音を切る。ときどき、ハープを弾くように、弦を鳴らしたままにする。左手だけで音を出したり、右手で音にならない音を奏でたりする。

 全ては狙撃者の気まぐれに従うメロディだった。先人が見つけてくれた音階を使えば、自然で美しい旋律は、そこにあるものを拾ってくるように浮かんでくる。それは忘れかけた、懐かしい感覚だった。

 左手が和音を押さえ、右手がストロークを始める。異なる音が調和して、一つの音と鳴る。右手の親指が、弦を弾き上げる。小指の側面でボディを叩き、人差し指でもう一度弦を掻き鳴らす。

 そして、ラスゲアート。

 この感覚、この感覚が自分には必要だった。狙撃者は焚き火の向こうに停めたお気に入りのフォードに一瞥をくれ、その手前でノートに何かを書き込む正直者を見る。

 あいつの言ったとおりになった。だが、どうしようもない。

 曲が終わったとき、隣にはチャーリーがいた。

「チャーリー、いつか川の話をしていただろ。もう一度聞かせろよ」

 狙撃者はギターを小石たちの上に横たえさせた。

「人生は流れていく川で、俺たちは死に辿り着くまでずっと流され続けている。しかし川ってのはただの水の流れじゃない。いろんなものが一緒に流れてくる。だから俺たちは思い思いに何かを掴む。岸に這い上がろうとしてね。川から出るのは容易なことじゃないから、遅かれ早かれ諦める。だが諦めない人間もいる」

「俺は」、狙撃者が言う。

「洞窟の中で影を見ながら、振り返ることを考えた。そしていつだったか、振り返ってみた。本物を見るためにね。そこで見た本物ってのは、お前さんの言う岸ってのと同じじゃないかと思うんだ。結局誰も岸に上がることはできない。誰も本物になることはできない。だが上がろうとした痕跡は残せるし、本物の姿を自分の中に留めることもできる。本物の姿を模倣して、それをもう一歩のところで振り返ることのできない人間にそれがどんなものなのかを示す。それもまた、岸に這い上がる一つの方法。そうだろ?」

 チャーリーは笑う。「お前らしいや」

「使命感を固めて靴にするのも良いけどよ、楽しまなきゃだめだぜ、オールド・フレンド。成功するかしないか、お前さんのやりたいようにやれば良い」

 狙撃者は頷いた。そしてもう一度、焚き火の方へ視線を投げる。正直者は相変わらずノートに何かを書き込んでいる。

「まあ今度ばかりは」、チャーリーが小さく言う。

「騙されたと思って行動するしかねえな」

「騙されているのかも知れないぜ」

「そんときは騙された、って騒ぎ立てんよ」

「合理的だ」

 狙撃者が言うと、チャーリーは再び笑う。

「俺もお前も所詮、合理的になんかなれない。気まぐれはいつまでたっても気まぐれに、俺たちは俺たちらしくやるしかないぜ」

 少しだけ口元を緩める。それからM92FSを抜いて、弾倉を空の物と差し替えた。

 第八章

 正直者が朝日に浮かび上がった焚き火の跡を眺めていると、シマノがテントから出てきた。白い息を両手に吐きかけながら、肩を窄めて歩いてくる。寝起き、といった表情ではなかった。

「早いんだな」、シマノが言う。「ノートの中身、実は全部自画像だろ」

 正直者はノートをたたんで、それを地面に置く。「風景画だ」

「まあ良い。ワンボックスの中のお二人さんは一日二六時間くらい寝るやつらだから、先に飯を作っておこう」

「いや待て、お前さんが飯を作るなんて、そいつは死に至る病ってやつだ」、ワンボックスからのそのそと二人が降りてきた。

「お、珍しく早起きだな。早寝早起きは健康の基本、俺を見習って毎日この時間に起きろ」、シマノが言う。

「お前こそいつからそんな早起きになった」、狙撃者は眉間にシワを寄せる。。

「俺は寝てないだけだ」、シマノは誇らしげに答えた。

 ヒラギはため息をついた。自分の家は警察によって閉鎖されていて、その周りをマスコミやら野次馬やらが取り囲んでいる。諦めようとしたとき、マンションの横に停められた車が目に入った。治安維持部隊の軽輸送車。すると、閉鎖しているのは治安維持部隊の連中か。

 ヒラギは携帯を手に取り、いつもと同じ隊員の番号に電話を掛ける。

「ヒラギさん、あれは何だったんですか?」、若い隊員が聞く。

「カーチェイスさ。俺のマンションを閉鎖しているのはどの隊だ?」

「ガンマですよ。それより――」

「話は直接する。マンションの周りのやつらを追っ払ってくれ」

「来るんですか。分かりました、すぐやります」

 それは数分で終わった。爆発物が仕掛けられている可能性がある、などと言ったのだろう。周りにいた百人近くが、早足に離れていった。ヒラギはバイクから離れると、しごく普通な顔をして閉鎖区間へと入った。閉鎖していた二人の懐かしい隊員が、目で喜びながら敬礼をした。

 部屋には残りの隊員たちが集まっていた。

「映像で、バイクに乗っているのがヒラギさんだと気がついたんです。すぐに警察から現場の主導権を譲ってもらい、ここを閉鎖しました。調査という名目ですが、ほとんど手を付けていません」

 大日サークルの尾を掴んだ彼は、今や隊長になっていた。ヒラギはソファに腰掛けると、事情を大まかに話した。他の隊が大日サークルと癒着していたことを知ると、ガンマ隊の隊員たちは怒りを露わにした。しかし、その怒りはヒラギへの協力という手段で昇華されるようだった。

「一人の女性が最近ここに入った。それ以前――といっても、大日社長の演説以後にその他の誰かが入った可能性がある。調べて欲しい」

 狙撃者は車のドアを開けると、ウィンドウに手を乗せたまま正直者の方を見た。彼はやっと、ノートをしまったところだった。いつもと同じ表情で、いつもと同じ調子で歩いている。しかし狙撃者には分かった。考えていることはいつもと同じではないのだ。例外を嫌う人間ほど、外からその例外を発見されやすい。

「正直者」、狙撃者は声を飛ばす。正直者は顔のない顔を狙撃者の方に向ける。

「正直になれよ、お前に」

 彼は頷いた。全てを理解したという風に、小さく、確実に。

 チャーリーは自分のワンボックスへと歩き、運転席のドアを開けた。何度かフロントタイヤをつま先で蹴って、それからキーを回す。静かなエンジンがアイドリングを始めたのを聞くと、ベルトに突っ込んだM945を抜いて、スライドを引いた。一瞬金色がのぞく。どうやら今日はライターではなく実銃の気分らしい。

 狙撃者はフォードの固いシートに腰を下ろす。天井の低いコックピットに収まり、エンジンを起こすと、寒さで渋るエキゾーストが身と共鳴した。すでにシマノは助手席に座り、チーズを食べている。

「お前らしい車だ」、シマノが無表情に言う。狙撃者は何も言わずに微笑んだ。いや、頬を少し持ち上げた。

 ドアを閉め、アクセルを踏み込む。音がメーターの針に追いついていない。アイドリングは揺れ、一五〇〇と二〇〇〇の間をふらふらとさまよっている。

「場所は?」、狙撃者は聞く。

「この前と同じだ」

「この車、目立つんじゃないのか?」

「だろうな。まあ気にするな」

 固いサスペンションが跳ねるのを感じながら、河川敷を出た。土と雑草の地面はこの車には優しくない。小さな村を抜けて、峠道へと差し掛かる。狙撃者はゆっくりとハンドルを回し、アクセルに軽く乗せた足をほとんど動かすことなく道を縫っていく。

「ここで良いのか?」、チャーリーは中央駅で降りると主張している正直者に聞いた。

「もっと近くまで送ってっても良いんだぜ」

「ここで良い」

 正直者はドアを開けて、車を降りる。それから軽く挨拶をすると、そのまま去っていった。俺もそろそろ行くか、とチャーリーは伸びをした。

 空港までの道のりはそう長くない。コートのポケットにはシマノがどこからか手に入れてきた航空券も入っている。問題は無い、早く済ませて帰ってくれば良い。

 問題は無い……。

「ありました。誰かが入った痕跡があります。二人分、どちらもスニーカーです。小さい方はヒラギさんの言う人のものだと思います。それよりもほんの少し前の痕跡、こっちは男物です」

 隊員が報告をしにくる。ヒラギはハヤマのノートパソコンを開いてニュースを確認していたが、玄関の方へ歩いて、白く浮き上がった複数の足跡を見た。数十、いや数百の足跡。その中からブーツ以外の足跡を探し出すとは流石だった。

 ハヤマに電話を掛ける。

「コインは偽物だ」

「偽物ですか。僕もこっちを早めに終えて戻ります、もう一度考えましょう」

「ああ」、電話を切って、今度はコトに連絡する。

「コインは偽物だったらしい」

 一瞬の沈黙。

「本物と偽物の基準は」、とコトは言った。「何なんですか?」

 ヒラギは黙った。確かにコインがフィクサーによって置いていかれたものでない可能性は高い。だが、そのコインを入れ替えた人間がプログラムを作った人間ではないとは言い切れない。大日社長が作った、という可能性は捨てることも証明することもできない。

「堂々巡りか」、ヒラギはため息混じりに呟く。

「とりあえずはもう一度集まりましょう」

 ドクターはハヤマを見ると、優しく笑った。

「後遺症かしら?」

「いや、そうじゃないんです」、ハヤマはそう言って少しだけ笑い、また真剣な顔に戻った。

「以前ヒラギさんに話された少年犯罪についてのこと、覚えています?」

 ドクターはすぐに頷く。

「ええ。前頭連合野に影があった、あの」

「そうです。彼についてのこと、もう少し細かく教えてもらえませんか?」

 彼女は立ち上がって、壁一面を覆う棚から一つのファイルを抜き出し、付箋の貼られたページをぱたと開いた。

「私も考えてみたの。あの子、特に変わったことは無かったの。親からの虐待があったわけでもなく、友人関係もわりとしっかりしていた。ただ」

「ただ?」

「ちょっとキレやすかったみたいね、やっぱり。自分が何かをされると怒るけど、何かをしても気にしない。でも、普段は大人しい子だっていう話。自分から何かをすることなく、宿題はやって、言われたことはちゃんとやる。ただちゃんとやっていると本人が思っていても、それは表面的でしかない。それを注意されると感情的になるの」

 ハヤマはそれについて考えてみた。確かに、学生時代クラスに一人は大抵そんなような人間がいたような気がする。

「同じような事件が多く発生しているんですよね」、ハヤマが言う。

「ええ。半分は子供、半分は大人。なんか二本立ての何かで操られているみたいに。やっぱり一昨日ヒラギ君が言っていたような、何かのプログラムみたいなモノがありそうね。あなたみたいに、他に危害を加えてしまう前に止められれば良いんだけどね」

「どういうつもりなんだ?」、狙撃者は呟くように聞いた。

「どういうつもりもなにも、お前のライフルを用意するんだ」

「どうしてあいつらを遠く離した」

 狙撃者はずっと前方を見ていた。道が曲がりくねっていることと、シマノの表情がいつも同じであることがそうさせていた。

「俺の計画を実行するためさ」、シマノが言った。

「お前の計画は俺たちの計画と等しい。違うか」

「必ずしもそうとは限らない」

 狙撃者はクラッチを踏み込み、ギアを一つ落す。シマノは高鳴ったエンジン音が落ち着いてから、続ける。

「ノット・イコールではないだろうな。だが間に入るのは不等号かもしれないし、あるいはUかもしれない。Uの上に横線が入ることもなきにしもあらず」

「数学を使って混乱させるとはせこいぞ」

「お前には分かっているだろうが、全ての行き着く先は一点だ。違う動機と目的を持ったピースがはまり合うから、ジグソーは面白い」

 狙撃者は何も言わなかった。

「お前とちょっとした勝負をしようと考えている」、シマノが続ける。

「勝負?」

「そうだ。お前さんのアイデアルが、実現し得るものなのか否か」

 シマノの方を見る。思った通りの無表情。

「実現するための計画だろ」

シマノは答えない。答えずに、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。――M92FS、シマノのパーカーのポケットには、ミルクか拳銃が入っている。狙撃者はシフトの上に乗せていた左手をハンドルに乗せ、右手を股の辺りに置いた。

 シマノがポケットから手を抜き出す。背中に一瞬の緊張が走る。しかしそこには拳銃ではなく、銀色に光る何かが握られていた。コインだった。狙撃者は目を細める。シマノの行動が何を意味するのか、分からなかった。

「コイントス」、シマノが言う。

「コイントスをする」

「コイントス? 何をいきなり」

「その通りの意味さ。コイントスは確率の問題だ。そしてお前はその確率ってやつを、曲げようとしている。本当にそれが可能なのか」

 シマノは小さく笑った。「止めろ」

 狙撃者はブレーキを踏み込み、車を止める。シマノが降りてどこかに行こうとしているのかと思ったが、彼は動こうとしなかった。その代わり、もう一度口を開いた。

「アフリカでお前の仲間たちを殺したのは大日だ、知らないってことはないだろ」

 なぜこの男が傭兵時代のことを知っているのか。それは大した問題だった。しかしそれよりもさらに問題なのは、そのひどい映像を頭の中に思い描いてしまったことだった。

 なぜ彼らが死ななくてはならなかったのか。何度も何度も繰り返し問うた疑問だった。なぜ自然と共に簡素な生活をしていた村人たちが、虚しく豊かな国の欲のために死ななければならなかったのか。何度問うても答えの出ない問題だった。彼らは、彼らは死ぬべきではなかったのだ。

 ハンドルを握る手に力が入った。アフリカで鉱元採掘施設を開放したときには無かった感覚。絶対的な集中力と確信だけが、意識を過去から未来への一方通行に向けることができるのだ。

「その爆発の次の日から、施設の建設が始まった。そう、すでに資材やらなにやらは用意されていたんだよ。お前さんたち部隊をあの村に送り込むように米国傭兵部隊本部へ依頼したのも、大日だ。村を焼き払うのに、お前さんたちが自爆を計ったと言えば非常に楽だからな」

 あの光景。雨と絶望に打たれながら見た、無力感。目の前にはあの日見た終わりと始まりの風景がひどく鮮やかに浮かんでいた。

 ハンドルが小刻みに揺れていた。アイドリングのせいだろう。恐らく今日はあまり調子が良くないのだ。

「大日のやつはそのおかげで、相当な利益を得た。そしてその利益でFAUを設立した。集められた国民たちの金を、鉱元兵器製造と輸出に使ってさらなる利益だ。鉱元兵器の多くはアフリカに輸出されている。何に使われているか、知っているか? そいつらは――」

「やめろ」

 サキオリは静かに叫んだ。「もういい」

 シマノは笑わなかった。その代わりに小さく深呼吸をし、真剣な顔で言った。

「もう、遠回りは止めて良い」

 言葉に射貫かれた気分だった。そう、遠回りなど止めて、彼らのために戦えば良いのだ。大日が憎かった。今始まったことじゃない、ずっと憎かったのだ。自分で自分から憎しみを隠していたのだ。

 シマノが顎でフロントガラスの向こうを指し示す。一〇〇メートルほど離れたところ、プロジェクトの幕開けとなった背の高い大日本社ビルが、我が物顔で空を支配していた。

「俺はここで待っている」、シマノはそう言って緑色のズボンから携帯電話を抜き、サイドに付いたボタンを押した。上りはフリーだと言い、目を閉じる。

サキオリはドアを開けて立ち上がる。いつか自分で“巨大な象徴”と名付けたビルをゆっくりと見上げると、その建物は逆光を受けて、黒い張りぼてのように見えた。

「つまり」、とハヤマが言った。

「つまり共通点は、感情的になるっていう点ですね。話によれば、同じような症状で罪を犯した大人もやはりいるようです」

「感情的に、か」

 ヒラギは呟くように言った。感情的になるのがプログラムの効果だとして、それにどんな意味があるというんだ? 大日がプログラムを利用しているとなると、いよいよ分からなかった。

「やっぱり、何か特定の情報か何かを踏むと発症するみたいですね。すると、それに前もってプログラムが脳にインプットされたってことになります」、コトが言う。

「そもそも、誰の脳がプログラムの汚染を受けていて、誰のが綺麗なんだ?」

ヒラギはハヤマに向かっていった。ハヤマは苦笑いした。

「罪を犯した人たちに共通点があります。子供たちには必ず親がいました、特に母親は一〇〇パーセントです。そしてみな普段は大人しい。大人に関して言えば、年齢層がほとんど二〇代前半に集まっています」

「他には?」

「ありません」

「コト」

 コトはぼんやりと何かを考えていた。しばらく沈黙が続き、もう一度呼んでみようかと思った頃にふと、何かを思い出したという風な表情をした。

「感情的な判断。快か、不快か。私が図書館のカフェテリアでした話、覚えています?」

 少年がすぐに相手を斬りつけたのは、その行動によって自分がどういった責任を負うことになるか、理解できていなかったからでしょう。小さい頃からネットの世界に没頭していると、そのようになりがちです。ネット上に存在するものは全て、奥行きのない、平面的な世界です。つまりそこにどんないたずらをしようと、二次的な影響は出ない。少年はその仮想現実の中で、可塑的、立体的な現実において形成されるべき人格を独りでに形作ってしまう。悪口を言われたら言い返す、気に入らないものは平気で誹謗中傷する。

その、平面やら立体やらというのがよく分からない。

一時の喜怒哀楽、長い因果関係のもとに成り立つ喜怒哀楽。前者を平面的感情指向、後者を立体的感情指向と、私がレポートの中で名付けました。これは同時に、二面か多面か、ということも示します。快と不快で判断をしてしまうか、あるいは他の選択肢を持ってこれるか。

「一時の喜怒哀楽、平面的感情指向。二面的判断」、ヒラギが呟く。

「まさに症状のことですよ」、ハヤマは興奮気味にそう言った。

「たしかに関係ありそうだ」

「そんなんじゃないですよ」、コトがポケットからコインを抜く。「二面的判断」

 コイントス・プロジェクト――。

「君がサキオリか」

壁一面を覆うガラス、逆光のうちにゆっくりと振り返った大日社長は、以前スコープの中の世界で見たのとは別人だった。顔中に刻まれたシワは更に多く重ねれ、髪の毛には白い筋が目立つようになっていた。

「君は私を殺しに来たわけだな」

サキオリは数センチのずれも許さず、視線を三メートル先に立つ男の目に合わせていた。質問にはわずかに頷くことで答え、それ以外にはまったくの動きは無い。部屋が特別な素材に覆われていることも助けて、部屋の中には無音が留まっていた。十数秒後、その沈黙を破ったのは大日社長だ。

「君が戦っている理由なら、知っている」

サキオリは返事をしなかった。大日社長も返事が返ってくることは期待していなかったようで、間を空けずに続けた。

「努力した者がそうでない者を利用し利潤を得る、それは当然のことだ。そして当然のことが繰り返されるだけだ。現在の社会は当然から生まれた、当然の結果に過ぎない」

権力者は音にならない一瞬の笑いを口元に作ると、黒い革のソファーに腰掛けた。それから大きく息を吐き、背もたれに寄りかかって再び口を開いた。

「電車に乗るとき、君は現代の姿を見ることになる。老人が目の前に立っていても誰も席を譲らない。自粛の放送があっても、大声で話すのを止めようとしない。街中を歩けば、平日の昼間でも若者がたくさん溜まっている。点字ブロックの上に自転車を置き、ゴミを捨てる。働くことを知らない人間に限って、代わりに労働の義務を果たして国を支える者達、支えた者達に敬意を払おうとしない。流行や快楽に対する画一的な価値観を持ちながらも、不特定の他人には無関心な人間たちによって形作られたこの社会の象徴だ」

空気は重く沈んでいった。サキオリの目線が、わずかに下がった。

「しかし中には自分自身の行動に疑問を感じ、変革を起こそうと考える者がいる。しかしそれは無駄なことだ。現状維持を望む集団の中において、向上心や目的意識なんてものは邪魔以外のなにものでもないのだからな」

大日社長は数秒間目を閉じ、肘掛に乗せていた手を、ゆっくりと自分の体の方へ引き寄せた。サキオリは目線を持ち上げ、秒針が一メモリ動くのよりも早くホルスターから拳銃を抜く。跳ね上げたジャケットが再び元の位置に戻る頃には真っ直ぐと右手を構え、照準をターゲットの額へと重ねていた。

大日社長は構わず右手をスーツの中へと滑らせ、長方形の箱とライターを取り出す。白と赤でデザインされた箱の下を軽く叩き、タバコを一本取り出すと、鈍く光る金色のライターで火を点けた。金属音。あるいは拳銃の弾を装てんするときに似た音を、ライターは響かせた。

「私は諦めたのだよ。そういった無自覚を、他人が正すことはできない。不可能だ。だから、彼らを利用することにしたのだ」

 サキオリは無表情を、怒りと悲しみに傾ける。

「群衆を利用することの何がおかしい? 彼らは考えを持たずに生活し、義務を果たさずに生きて、歳をとれば社会保障を受ける権利があると主張する。努力した者の権利はどこだ? 初等学校も始まって間もない頃から欲を抑えて勉強をし、将来に希望を賭けた者たちの権利がどこにあるのか、君は答えられるか? 私がしたことは、無自覚に対する復讐なのだ」

低く、絶望に似て希望に飾られた笑い方を、大日社長はした。ゆっくりとした小さな声で、一人自分自身に聞かせるためにあるような笑い方だ。

「この国は資源を持たない。頭脳を用いなければ生きていけない国なのにも関わらず、それが考えるという行為が捨てられようとしている。民主の名を借りた衆愚だ。衆愚によって努力した者が潰されてしまう必要はない。だから私はFAUを利用して資金を集め、兵器開発を経て安い価格で鉱元を提供したのだ。多くの製造業が活性化し、経済は以前よりも高い水準で回るようになった」

沈黙。空気は少しの波も持たずにそこに居座り、サキオリはそれと同化していた。十数秒の間その状況が続き、またしても大日社長が口を開いて沈黙にピリオドを打つ。

「それで? 君は腰にさげた嫌になるほど古い価値観で私を撃ち殺し、社会制度に革命を起こす。その結果義務を果たさない者が更に強く権利を主張するようになり、果たすものが自身の行動を無意味だと思い始める。そうだろう」

指が細かく震えているのを、サキオリは感じた。拳銃自体はしっかりと固定されていたが、指先のみが小刻みに痙攣していたのだ。

「サキオリ。君は君自身の憎しみを晴らしたがっている。それを正当化するための理由を、社会現象から拾い上げただけだ」

大日社長はサキオリを見る目を細めた。焦点はその対象よりも手前か、もしくは奥に合わせられていた。とたんに視界が歪む。現実が空気中の穴、どこか別の空間に吸い込まれてしまったようだった。

サキオリは真っ白く、奥行きの無い空間にいた。真っ直ぐと構えたM92FSの先にはM92FSがあって、その先には狙撃者がいた。狙撃者は達観した表情で、サキオリを見ていた。

「なぜこんなことをしている?」

 狙撃者が聞いた。

「復讐さ。お前だって、結局は復讐を目的としている。同じ動機からは同じ行動しか生まれないんだ」、サキオリは答えた。

「復讐」、狙撃者は言葉を左手に取ると、それを何度か転がした。そして宙に放った。

「復讐の意味について、考えたことは?」

サキオリは答えなかった。その代わりに、小さく首を振った。

「そう」、と狙撃者が言う。「仲間たちは死んだ。確かに傭兵とは死と隣り合わせの仕事だ。それについて文句は言えない。だがあれはあってはいけない最期だった」

「だから戦うんだろ」、サキオリは言った。

「なぜ」

 狙撃者、問う。「なぜ彼らが死んだから戦う」

 サキオリはわずかなシワを眉間に寄せた。

「彼らのためなら、理由など必要ないだろ。お前にとって、あいつらの命はどうだって良いのか」

「違う」

 視界が揺れる。視界から飛びだそうとしているようだった。やがてそれは自分から離れ、二人を斜めに見下ろす位置に止まった。

「違うならなぜお前はそこにいる。」

「俺がなぜここにいるか。俺がサキオリではなく、狙撃者だからだ」

狙撃者は言って、わずかに口元をつり上げた。「お前は」

「お前はまだ独り、アフリカで戦っている」

 沈黙が訪れた。長い、長い無音。秒針が短針と入れ替わってしまったかのように、“二人”には感じられた。サキオリは厳しい表情を崩さない。対し狙撃者は穏やかに、何か自分を守る壁がそこにあるといった風に、サキオリを見ている。

「お前は、誰だ」、サキオリが呟く。自分にしか聞こえないような、小さな声で。

「俺は総体だ。アフリカで孤独と戦ったサキオリではない。サキオリ、正直者、チャーリーそしてシマノ。彼らの総体としてのみ存在しうる、狙撃者だ」

 狙撃者はそう言って微笑む。「復讐ではない」

サキオリがトリガーを引く。狙撃者は何もせず、その光景を見ている。サキオリの最後の銃声が響く。カチリ、という空撃ちの音。ひどく静かで無力な音。

「お前の負けだ」、狙撃者が言った。

「ソクラテスは衆愚によって殺された。プラトンは哲人による政治を望んだ。だが、無自覚への自覚が衆愚を哲衆へと変えうる」

狙撃者は拳銃をホルスターに戻し、後ろを向いてドアへと歩いた。大日社長が立ち上がる。「サキオリ」

その場で静止し、振り返ることなく耳を澄ませた。

「これは君と私との戦いだ」

「もうすぐエンディングさ」、狙撃者は明るい調子で言った。

大日社長は音を立てずに笑う。「君は興味深い人間だった」

「君は知らないだろうが、あるプログラムが働いている。その影響は君が考えているよりも深刻だ。もうすぐ猛威を振うようになる。残念だが、君にも止められない」

「やってみなければ分からないだろ」

「じき分かる。成功の可能性は一パーセントにも満たない」

狙撃者も同様に音無く笑うと、もう一度ホルスターから拳銃を抜き、ボタンを押し込んで弾の入っていない弾倉を床に落とした。左手で強装弾の詰まった弾倉をポーチから抜き、グリップの下から勢いよく押し込んでスライドを引く。スライドストップを掛け、拳銃が息を吹き返すのを確認した。

「チャンスなんてものは十分の一パーセントあれば足りるさ」

ストップを解除する。鮮明に光る目的を達成するための寂れた価値観が、軽快な音と共に装てんされた。

ワンボックスの後部座席で、チャーリーは大きく伸びをした。細長いケースからライフルを取り出し、ティッシュ箱のような弾倉を差込んでレバーを引く。金属の擦れ合う音が聞こえ、重々しい装填が終わる。準備が整うと、銃の上部についた持ち手を掴んでスライド式のドアを開けた。

大日本社。チャーリーは狙撃者がいる最上階を見上げ、笑った。後先考えない間抜けが意地と弾幕を張っているのだと考えると、可笑しかった。

地面を蹴り、そびえ立つ戦場へと走る。銃を構え、激しく上下する鉄の照準を警備員の腹の辺りに合わせ、トリガーを短く何回にも分けて引いた。二発ずつ発射される弾は正確にターゲットに吸い込まれる。鉱元採掘施設で使ったのと同じ弾、死ぬことはないだろう。

入り口に着くとガラスの大きな扉を押して、上品な黄色いライトで照らされた建物内に入る。大きな一つの空間に造られた一階と二階のフロア。厳密な区切りの無い二つのスペースは入り口から見て正面にある広い階段でつながれていて、その突き当たりに四つエレベーターがあった。そして、異変を察した。空間がわずかに、歪んでいる。フリーハンドで書いたみたいに、エレベーターの扉の輪郭線が曲がっていた。

照準を合わせ、トリガーを引く、引き続ける。金属と金属が衝突する音が響く度に少しずつ、FRの奇抜な輪郭線が姿を現した。液晶スクリーンに覆われたボディはラフカットの水晶のような形状で、それがステルス性を重要視したものだということは一目で分かった。機銃を含む全ての機構は金属の板の内側に隠されているため、一般人が見れば戦闘用とは思えないだろう。戦車にしては小さく、ラジオコントロール機にしては立派な佇まいを持つ。全てがステルスのためのデザインだった。レーダーに写らなかった理由も納得できる。

FRは対人ミサイルを発射した。チャーリーは飛び出した白い筒を目で捕捉してからコンマ三秒後にライフルの向きを変えて、ミサイルを撃ち落した。すぐ横の床を金属の破片が引っ掻くのを聞く。

気休めにもならない柔いソファに身を隠し、FRが続けて二発目、三発目を放ったのを確認すると、ジーンズのポケットからライターを取り出した。ミサイルは軽く投げた野球ボールのような速さで近づいてくる。四メートルほどの位置へ到達するのを待ってから火を点け、ライターを上方へ投げた。同時に地面を蹴って可能な限り距離を稼ぐ。追跡者は小さな火に誘導されて爆発する。

小さな爆発が治まるのを待たずにライフルを構え、撃つ。生き物のように飛び出た弾は装甲にわずかなへこみを作っただけではじかれ、兆弾として周囲の壁に突き刺さった。

チャーリーは一度トリガーから指を離すと、弾倉の横のつまみを回してから、銃撃を再開した。強烈な反動と跳ね上がる銃身を押さえ込む。弾倉から装てんされる銃弾が排薬莢として右側面から吐き出される。至ってシンプルな動作は、それ自体が機械の存在目的であるような雰囲気を持っていた。銀色の空薬莢は様々な方向に光を反射しながら豪雨の如く床に落ちていく。軽快な音を発しながら大理石を叩き、それぞれが別の方向へ跳ねる。

チャーリーはFRがボディの前方を開いて機銃を突き出したのを確認し、ライフルの向きを動かした。それに連動して場所を変える着弾点は、吸い込まれていくように機銃へと近づいていく。ドラムセットの前に立って金属のスティックでハイハットを連打しているような音がした。フルメタルジャケットの弾頭は機銃のバレルを使いものにならない金属のパイプへと変形させ、その発射機能を消し去る。

武器を失った哀れな機械は、急加速して体当たりを仕掛けた。チャーリーはひらりと身をかわし、大きくジャンプして魂無き生物の上へと飛び乗ると、ポケットから十ミリほどの大きさの円盤を取り出して金属のボディの一番薄い部分――すなわちネット通信用のアンテナが収納されている部分に叩きつけた。甲高い音と共にFRの全電力がシャットダウンされ、動きが止まる。

チャーリーは鉄の塊となったFRから飛び降り、短く息を吐くと、トレンチコートを脱ぎ捨て、ワイシャツの襟を整えた。

「ファッションに金を掛けたい気持ちは分かるが、自身の向上が先だぜ。子曰く、中身の無い者ほど外見を飾ろうとするってな」

階段の下から、警備兵が足音を殺して迫ってきていた。わずかな隙間からうかがっただけでは数は分からないが、十人ほどはいるということを直感が告げていた。狙撃者はポケットから小さな円柱の金属を取り出すと、それをその場に置いてその場を離れる。

「動くな! 銃を捨ててゆっくりと手を上げろ」

絨毯の敷かれた段を駆け上り、階段とフロアとの境目で立ち止まった狙撃者に銃口が向けられた。少しばかり旧式ではあるが、悪くないポテンシャルを持ったサブマシンガンだ。

「捨てろだなんてひどいぞ、お気に入りなのに。置かせてくれ」

「ふざけるな!」

狙撃者は腰を屈めて銃をそっと床に置くと、両手を挙げた。警備兵がゆっくりと慎重に近づいてくる。

「よせ、止めろ。近寄ると火傷するぜ」

数人がすぐ近くまでやってきたのと時を同じくして、グレネードの起爆装置が作動した。最初に短く鋭い破裂音を響かせて本体が破裂し、それから気化した鉱元に火が付く。赤い炎が辺りを包んだ。ほとんど同時にスプリンクラーが作動し、覚えのある特殊な水がシャワーのように噴き出した。

「だから止めろと言ったんだ」

狙撃者は床に置いたお気に入りのM92Fを拾い上げる。やはり敵の数に不足は無いようで、さらに数人が上ってきた。とっさに壁で遮断された廊下へと飛び込んで膝を突く。最初の敵が廊下へ進入してきた瞬間に銃を押さえつけ、ボディーブローを入れる。相手の防弾ベストを掴んで背負い投げをし、後ろについてきていた三人を巻き込ませるかたちで突き飛ばした。敵が状況を判断するのよりも先に、倒れた四人を飛び越えボロボロになった階段をほとんど飛ぶように走り降りた。

息が切れていた。疲れとは違うものだ。仲間の不在による影響を、ひしと感じ取っていた。よく考えてみれば、いつでもそばに誰かを置いていたのだ。

気がつくと視界がぼやけていた。そしてそれが治った時には三人の敵が階段の下のほうで銃をこちらに向けていた。

体の動きをひどくゆっくりに感じるようになる。というよりも、時間の軸自体が現実逃避をしてしまったようだった。危険を告げる意識が体を駆け巡る。拳銃を握った右手を持ち上げて、斜め下方向に銃口を向ける。リアサイトとフロントサイトを、その中心と敵の中心を一本の線上に重ね、トリガーを引く。

撃針が雷管を叩く音がし、ワンテンポ遅れて銃声が鳴るのと同時に反動が手に伝わり、視覚情報としてスライドが後退するのが見えた。バレルが上方へ逃げようとするのを抑え、次の敵に照準を合わせる、トリガーを引く。左から順に二人が倒れるのを焦点の範囲外で確認しながら三人目に狙いをつける。感覚の麻痺し始めた右手人差し指に再度力を込めたのと同時に激痛が左の腕と脇腹に走った。

脱力感。一瞬、体中の力がどこかへ消えてしまった。足が体を支えることを止め、床に崩れこみそうになった。狙撃者は右肘を壁に着き立て、かき集めた全ての力で体を支えた。体温が傷口へと吸い込まれていく。高速で撃ち出された弾頭は腕を貫通したようだった。少ししてから血が少しずつ流れ出し、弾痕から滴り落ちた。

狙撃者は今どの程度の気力を取り戻せばもう一度力を取り戻すことができるかを知っていた。そして戦場の孤独の中で気力を汲み上げることがどれほど大変かも理解していた。たいした傷ではない。痛みもそうひどいものではない。しかし与えられた絶望感は大きかった。敵は無数に湧いてくる。これが大日の力なのだ。

耳に入った鈍い音が、脳に緊張感を与える。それは自分の体が床に崩れた音だった。視界のコントラストが変わっていく。

ガラスの割れる音。もう幻聴か、と狙撃者は息を吐いた。このまま大嫌いな建物の踊り場に倒れ込んで、敵を待つのか。

手の平に、青い何かが乗っていた。何かの破片、冷たく澄んだ感触。暗い闇の中からパ青い目のような柄が浮かび上がっている。ホークスアイか、と狙撃者は思った。なぜ鉱物が手の平に乗っているのか、考えようとは思わなかった。

声が聞こえる。数人の足跡も、壁を伝って届いている。やがてその姿が見えた。銃が向けられた。そのとき、もう一度ガラスの割れる音がして、目の前に黒い人影が飛び込んできた。

 正直者はもう一度地面を蹴り、階段の下まで降りると、着地のついでに警備兵の一人を蹴り倒した。銃を向けようとした別の男を殴り倒し、身体を回転させて他が撃った弾の軌道から逸れる。そのまま勢いを利用して相手を蹴り倒す。それが最後だった。

 狙撃者は二箇所を撃たれていた。いずれも重傷には成り得ない場所だ。だが彼はその場に倒れ込んでいる。あたかも長いあるいは際どい戦いの後で、疲れ切っているというように。正直者は呆れて息を吐いた。こいつはさんざん自分と戦ったのだ。

「やあ」

「元気だ」

「そうは見えないがな」

「そうか」

 狙撃者は笑った。正直者も、穏やかに微笑した。

「行くぞ、間抜け」

 増援が来ていた。外の芝生には五台の輸送車が停められ、その中から大日の警備兵たちがわんさか降りてきている。チャーリーは持ってきた弾丸全てを撃ち尽くす勢いで戦っていた。一〇〇人ばかりの敵を相手に一人で戦うのは初めてではない。

 反動が収まる。どうやら一五〇発全てを撃ちきったようだった。ライフルをその場に置くと、待っていましたとばかりに警備兵たちが前進を始めた。チャーリーはベルトから拳銃を抜く。盾と共に近づいてくる重装備たちにこいつで相手ができるか、いや、できるできないではなく、しなくてはならないのだった。

 いつもと同じように片手で銃を構え、身を乗り出してトリガーを引く。身を隠している大理石の柱はだいぶ抉り取られていたが、なんとか身を守ってくれていた。どれほど持つかは分からない。

 八発撃って弾がきれる。弾倉を交換しようとしたが、止めた。急に銃撃が止んだのだ。低い位置から外をのぞく。兵が輸送車に戻っていた。やっと伝わったのか、とチャーリーは笑った。そもそもここで戦う必要はないのだ。

 エレベーターが着き、狙撃者と正直者が降りてくる。

「いたのか」、と正直者が言った。

「当たり前だろ」

 チャーリーは驚いたように言う。正直者は鼻で笑って、今度はチャーリーよりも少し後ろの方に目をやった。振り返ると、シマノが立っていた。肩に手が置かれる。狙撃者の手だった。狙撃者は笑っていた。「俺の勝ちだ」

 シマノも笑った。「負けたよ」

 ヒラギがそこに着いたときには、すでにビルは封鎖されていた。どうやら警備会社による封鎖らしく、警察の姿はまったく見当たらない。今回に限っては、上空にヘリが飛んでいるわけでも、記者たちが押し寄せているわけでもなかった。

 バイクを離れた位置に置き、ヘルメットを置く。それからゆっくりとビルに歩み寄った。救急隊員が怪我人を救急車に乗せている。それもどうやら民間の救急隊らしく、マークが無い。

「立ち入り禁止だ」、入り口から十数メートル離れたところで声を掛けられた。

「大日社長に合う予定はあるかね」

 相手は警備兵を取り仕切っているらしい男だ。

「何の用だ」

「こいつを渡して欲しい」、ヒラギはガウンのポケットから四つ折りにされた紙を二枚取り出し、警備兵の手に握らせた。一枚は札で、もう一枚はメモ用紙だ。

「頼むぜ」、そう言って、相手の目を見る。相手は早く帰れ、といったふうに顎で示した。ヒラギはその通りにして、バイクの方へと戻っていった。

 ヒラギは県庁の屋上にいた。鈍く光るステンレスの柵に寄りかかり、街を見下ろしていた。目の前には細長い公園、その突き当たりには大日社長が演説を行った広場。それを横切るメインストリート。この一件をまとめるならばこの場所が似合っている、とヒラギは思った。

 日暮れに近づく街並みは美しかった。あらゆるネオンや街頭がひしめき合い、その下で人が人の軌跡を横切りながら歩いている。地上で見ていても分からないが、こうして上から、細々動くたくさんの点を眺めていれば、それはまるで一枚の絹を皆で織っているように見える。

 誰かがドアノブを捻る音がした。ヒラギは振り返らずに、その音に耳を澄ませていた。そのオーラに、心を澄ませていた。そこからはプライドが感じられた。フィクサーは柵に背を寄りかけた。ヒラギから二メートルほど離れた位置だ。

「それで?」、不気味な笑みを浮かべた男は、低くゆっくりと口を開く。

 ヒラギはライターとタバコの箱をポケットから引っ張り出す。「俺は俺なりに」

「答えを出した」

「ほう」

「お前さんらが作った、コイントス・プログラム。それは人を二面的感情指向に、つまり快か不快かでしか判断できないようにしてしまうプログラムだったんだ。それを上手く使うことで国民を操りFAUの事件を起こした。つまりFAUは大日が設立した子会社で、顧客情報の破壊は自作自演だった。本来の筋書きは、FAUだけを切り離し、大日が莫大な金額を手にする、そんなもんだったんだろ。だが、そこに狙撃者たちが現れてしまった。狙撃者たちはプログラムの存在を知っていて、そいつがこの国に破滅をもたらすということを知っていた。だから大日を破壊しようとした、多分な」

 フィクサーは表情を変えない。

「だが二つ、分からないことがある」、ヒラギはそう言ってタバコを口に咥え、右手に持ったライターで火を点け、左手でそれを覆った。それでも火は風で揺らめく。

「なぜ狙撃者たちが毎回ショーみたいに戦いを繰り広げ、そのわりに大日社長を二度も殺さなかったのか。そしてもう一つ、お前の言葉だ。俺とお前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために」

 少しの間を置いて、フィクサーが口を開いた。

「お前の推理は面白い。特に、無意識下の思い込みがな」

「無意識下?」

「プログラムを上手く使うことで国民を操りFAUの事件を起こした、と言ったな。FAUカードの利用者は国内の四〇パーセントだ。つまりお前は、国民の四〇パーセントがプログラムに汚染されていると仮定したわけだ。犯罪を起こした数千人ではなく、国民の四〇パーセントが汚染されているのだと」

 ヒラギはタバコの灰を地面に落とした。それから、光の下に引きずり出された思い込みについて考えた。フィクサーの言う通りの仮定が自分の推理の根底に横たわっていた。

「当たりだ」、とフィクサーが言った。

 ヒラギは思わず、フィクサーの方を見る。「何だって?」

「お前の言う通り国民の四〇パーセントが、プログラムの影響を受けている。犯罪を起こしたのは、自身の性格とプログラムが相乗効果を起こしてしまった人間か、特殊な緊張にさらされた人間。もしくは末期だ」

「末期だと?」、灰が落ちる。

「そうだ。いずれはより多くの人間が犯罪に走ることになるだろう。それが十年後になるか、二十年後になるかは分からない。副作用ってものでね」

 太陽が街のビルに隠れる。辺り一面が影に覆われ、タバコの火がやけに目立って見えるようになった。

「プログラムはメインとサブの二つから成り立っている。お前と行動しているジャーナリストはサブの影響を受けたと言える」

「なぜ分かる」

「メインは子供にしか影響を与えないからだ。そう、コイントス・プログラムのメインは教育プログラムなんだよ。それも学校ではなく、家で行われるものだ」

 ヒラギは黙っている。

「まず、親世代の人間をターゲットとしたプログラムをネット上に設置した。感情のバックドアとでも呼ぼうか、特定の情報に対し特定の怒りを覚えるように洗脳する。特定の情報、つまり子供の失敗にな。お前も見たことがあるだろう、注意されたら一回で止めなさいと感情的に怒鳴る大人の姿を。それが洗脳の主な効用だ。子供は自分のしたことの何がいけないのか、何が怒られているのか分かっていない。それを知りたいのに、親は一回注意されたら止めろ、とだけ言う。何度もそれを繰り返すうちに子供には、注意されることは不快だから止める、注意されないことは快だからやる、という習慣ができる。お前の言う二面的感情指向の基礎ができるんだ。そしてそこにサブの効果。これ もネット上のプログラムだ。基礎のできた人間を上達させるのは簡単なこと。そこで大日の都合の良いレスポンスを返す人間を完成させるんだ」

 言葉が見つからなかった。役目を終えたタバコを捨てた。

「そこまでが大日の狙いだった。だが」

 いつの間にか、フィクサーから不気味な笑みが消えている。それは無表情よりも表情のない顔だった。

「副作用が起きた。基礎ができた時点で仮想現実が相乗効果を起こしてしまうようになったんだ。それが無ければプログラムは完璧な洗脳で終わった。だが、いきすぎてしまうようになったんだ。まあ所詮は副作用だ、何とかしようとは思わない」

 ヒラギはやっとのことで喉につっかえたものを整頓し、口を開く。

「ワクチン・プログラムを使う気は無いのか」

 フィクサーは再び、笑みを浮かべる。「そんなものは無い」

「存在しないんだよ」

 整頓の努力が水の泡になった気がした。また言葉を失ったのだ。沈黙が滑り込んでくる。風が柵の間を吹き抜けたのと同時に、太陽のカケラがビルから姿を表した。

 大日社長は壁一面に埋め込まれたガラスから、太陽がぎざぎざの地平線へと落ちていくのを見ていた。空はだんだんと黄色を強くし、次にオレンジ色へと染まる。それに呼応して、街全体が色を変える。

 大日社長は電子カーテンの電源を入れた。太陽が沈みきってしまうまで、外を見たいとは思えなかった。昔は好んで見ていた夕焼けも、今は憂鬱、あるいは絶望としてしか存在し得ない。

「お前の二つの疑問は、実は同じ本質を持つものだ」、フィクサーが言った。

「狙撃者は、プログラムを破壊しようとしている」

「ワクチンは無いんだろ」、ヒラギは目を細めた。

 フィクサーは頷く。「だが」

「ほんのわずかな可能性だが、狙撃者たちにはそれができる能力と計画がある。そしてその計画は、すでに始まっているんだ」

「何?」

「彼らは次の戦いで終わらせようとしている」、フィクサーはそう言って、初めてヒラギの方を見た。「すでに」

「大日の私兵や輸賛会の連中、大日を支えていた米国の裏組織がFS-Dに集結し始めている。大日サークルはそこで全てに決着をつけるつもりだ。狙撃者たちもな」

「あの要塞で、狙撃者たち四人が勝てるはずがない」、ヒラギは舌打ちをする。

「もちろん。だが、大日はそれに追い打ちをかけるつもりだ」

「追い打ち?」

 フィクサーが不意に柵から離れる。

「俺たちはここで決着をつける。俺が負ければ一つ二つ、重要なことを話そう」

 こうなることは分かっていた。それでも沸き起こる緊張は並大抵のものではなかった。フィクサーが腰の辺りに手を置いた。

 琥珀色の水は、木の実に似た甘い匂いを放っていた。狙撃者がグラスを持ち上げると、球に削り出された氷が澄んだ音を立てた。

「本当にやるつもりなのか」

 仕送り屋は寂しそうな表情をして呟いた。その手にはストレートのラフロイグ。スモーキーな、海草に似た匂いを漂わせている。

「四人で戦える相手じゃない」

「確かに」、狙撃者は言った。「だがやらなければ」

 隣でシマノがミルクを飲みながら笑う。

「こいつは頑固なやつだ。なんとしても完成させなければ、死にきれないんだと」

 シマノの言葉に、仕送り屋は小さく、何度か頷いた。まったく理解できないというわけでもないようだった。

「銃は部下が君らのワンボックスに移した。そろそろ失礼するよ」

「ああ」

 仕送り屋が立ち上がる。死ぬなよ、と言ってバーを出て行った。狙撃者とシマノは扉が閉まったのを確認すると立ち上がり、カウンターから離れてチャーリーと正直者の座るテーブル席に戻った。

「それで?」、チャーリーが楽しそうに言う。「次の企みはなんだ」

「今度はもっとサキオリを痛めつけるのさ、はっはっは」

「俺も入れろ」、正直者が言った。

「おい、痛いんだぞこれ」

「もう企みは無いさ。お前さん方があくまで独立した思考を持った人間だと、分かったからな。後はFS-Dで大日サークルを打ちのめすだけだ」

 少しの沈黙。

「打ちのめすだけ、ってお前。あそこに集まっているのは五〇〇以上の兵士と地下工場にから引っ張り上げられるFR十数台だぞ。本国からはステルス戦闘機が飛んで来る」

 チャーリーは相変わらず楽しそうだった。

「打ちのめされるだけって感じだ」、正直者が言った。

「今度は全員を痛めつけるつもりなんだろうよ」

 狙撃者はそう言ってウィスキーの残りを飲み干し、笑った。

 フィクサーが右手を腰から離す。つや消し黒の、細いナイフ。太陽が地平線に近づけば近づくほど、そのナイフは細くなっていく。日が暮れればまず勝ち目は無い。

「良いのか、そんなもので」

ヒラギは笑って見せた。

「ああ」、フィクサーは表情を変えない。

 ヒラギは腰からコンバットナイフを抜く。柄にパラコード――カーキ色の細いロープを巻いた、昔からの愛用品だ。黒い影、フィクサーが地面を蹴った次の瞬間には黒い影が喉仏の数センチ手前を掻き切る。ヒラギは身を引いて、それをかわした。

「外人部隊上がりか」、フィクサーがナイフを見て言う。

「同じようなナイフをいくつも見てきた。アフリカで」

「何?」、ヒラギはリズムを乱してはいけないと思いながらも、聞いた。

「滑り止めにパラコードを巻くのは外人部隊の慣わしだろ。鉱元のために俺はアフリカに飛んだ。何年も前の話だ。そのときに相手をしたのが、外人部隊と米国傭兵部隊だった」

 ヒラギは目を細める。そして、もう一度突き出されたナイフに後退し、どんどん後ろへ下がっていった。腰ほどの高さの柵が近づいてくる。もともと公開された場所ではないために、ひどく簡易なのだ。

 フィクサーの表情は変わらない。それでも一般的に見れば、彼の方がおよそ優勢にあった。そしてその男は、隙のある斬りつけの動作へと自らを呼び込んでいく。ヒラギは目を細める。そして、自分のナイフを相手の刃の進路へと突きだした。

 静かに衝突音が鳴り、パラコードが切られてその一端を宙に放り出した。ナイフを手から離す。それと同時に地面を蹴り、両足を柵の上に載せる。突風が吹けば死は確実だった。だがこのチャンスを逃すことも同時に死を意味した。

 ナイフが回転しながらコンクリートへ落ちていく。片方を掴まれたパラコードはスプリングのような線を描きながら解けていく。ヒラギはその命綱を両手でピンと張ると、ステンレスを蹴ってフィクサーの上方で宙返りをした。首筋にパラコードをかけ、そのまま自分の勢いを利用して縄を引っ張り、着地と同時に相手を背中に乗せる。後はお馴染み背負い投げだった。

 フィクサーが地面に叩きつけられたのを確認して落としたナイフを拾い上げると、それを頸動脈に突きつけた。

「俺の勝ちだ」

 静かに言う。

「慣わしを知っているならそいつの意味についても、考えるべきだったな」

フィクサーは不気味な笑みを少しだけ緩めた。「俺の負けだ」

 彼は立ち上がると、最初と同じように柵に寄りかかった。

「タバコ、くれるか」

 ヒラギはポケットから取り出し、ライターで火を点けてから渡す。

「プログラムを作った人間が二日後、FS-Dに来るって話だ。恐らく、というか狙撃者たちがプログラムについて知っているのならば絶対、その日を狙うだろう」

「二日後か」

「お前はここに残るんだ、FS-Dには行かずにな」

「なぜ」

「その日になれば分かる。俺とお前、狙撃者、その仲間。大日石油、治安維持部隊、メディア、国民。それらは皆、一つのジグソーパズルを形作るためのピースだ。それぞれのピースはそれぞれの使命を与えられている。他のピース達とつながり、一枚のボードとなるために。お前の役割はFS-Dとは別にある。だが、ジャーナリストはFS-Dへ行かせるんだ」

 フィクサーはそこまで言うと、煙をゆっくりと吐き出した。

「ジグソーが、完成する」、数十秒が経ったのち、フィクサーはそう言って柵から離れた。

「狙撃者たちはいったい、どうやってプログラムを破壊する、いや、ワクチンに成り得るものを手に入れようとしているんだ?」

「言ったろ、ジグソーが完成する、と。お前は狙撃者に味方するつもりか」

「だろうな」、ヒラギが答える。

「そうか」、フィクサーは出口の方へ向かって歩いていった。

「お前は誰なんだ」

 ヒラギが問う。

「鏡だった。だが俺は死んだ。同一化したんだ」

 第九章

「人生は一秒の感動の連続だ」、シマノが言った。

「どんなに短くてもあるいは長くても、昨日に悩み明日に期待するべきではない。今に生きるんだ」

 三人はシマノの方を見た。「おお、今俺良いこと言ったぞ。メモしておこう」

「おい、最後のはカットだ」、チャーリーが目を細める。

「美味しいところ持って行かせはしないぞ。最後のも入れるんだ」、狙撃者が言う。

「お前ら三人に言えることだが、一生で一番大事なときぐらいまじめになれ」

 正直者が言うと、三人は黙った。

 一キロの平野、コンクリートの城壁、そしてFS-D。周りは全て山に囲まれている。コンクリートの城壁の前にFRが十五台、横一列に並んでいた。もちろん、狙撃者たち地下工場で見たものだ。その周りを囲う、歩兵。FR一台に四〇人、といったほどの数で小隊を組んでいるらしかった。土嚢を積み上げ、掘った塹壕に身を隠していた。

 狙撃者はライフルを持った右手に力を込めた。あの日アフリカで使った長距離ライフル。七キロの重さなど、まったく気になっていなかった。足下に置いたボストンバッグには六〇〇発以上の弾丸が詰まっている。

「全て破壊するんだ。FS-Dも何もかも」、シマノが言う。「それがゴールだ」

 空は信じられないほど青かった。わずかに浮かぶ雲は白く輝き、ゆっくりと風に流れていた。狙撃者はその空を見上げ、いつかに似ていると思った。

「私たちはいわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために」、ゆっくりと呟く。

 チャーリーはタバコを落とすと、背中に担いでいたライフルを右手に持った。

「お待ちかねだぜ、オールド・フレンド」

「結果はどうであれ何かを貫き通すことは人生において最も美しい行動だ」、正直者が言う。

「お前といると退屈しない。何もない人生よりは、死ぬ方を選ぶだろうな」

 狙撃者は笑った。「さあ、始めるぞ」

 ボストンバッグを持って、右側面の森へ飛び込む。チャーリーは反対側へと走っていく。シマノはワンボックスへ戻り、正直者もシマノと行動を共にした。狙撃者はヘリの音に空を見上げる。木の枝が狭めた空で、報道局のヘリが十台ほど、青に浮かび上がっていた。

 高台だ、と狙撃者は自分に言い聞かせた。

 自分をあの場所に立たせるんだ。

 銃声、チャーリーのライフルがフルオートを始めた。音を拡散させているせいで、ひどく目立っている。すぐに敵の反撃が始まった。目に見えるはずのない銃弾が、帯を作って森へと飛んでいく。数千、いや数万の金属がチャーリーに襲いかかっているのだった。

 シマノはワンボックスの後部座席のドアを開けたままにして、ノートパソコンを開いた。FS-Dの立体地図、平地を中心とした図だ。側面の森、八箇所が赤く点滅している。そのうち、右側面の一番手前にある赤をクリックする。無線操作の機銃から映像が送られてきていた。

 狙撃者はボルトを引いて、大きな銃弾を薬室へと送り込んだ。きついアールのついたトリガーに指をかけ、スコープをのぞき込む。上下にゆっくりと運動する十字線を、一番左端のFRのコクピットに合わせた。距離は一四〇〇メートル、狙撃者がもっとも得意とするレンジだった。ここからならやれる、自信があった。

 トリガーを引く。消音器で抑えられた銃声がわずかに響く。着弾までに約二秒、狙撃者はすかさず次の弾を込める。スコープの中、FRの燃料タンクに小さな穴が開く。もう一度トリガーを引くと今度は青色の弾頭が飛び出す。一発目の穴に吸い込まれた弾頭は鉱元に火を点け、FRを炎上させた。

 一台目は簡単だ。だが手の内を知った彼らは回避行動に出る。そこからが勝負だった。六〇〇の兵、十五台のFR。自分の位置が敵に気づかれるまで、間は無い。だが構わなかった。狙撃者はあの場所にいた。

 さっきまで隠れていた場所は、無になっていた。もしかしたら目の前に広がる平地も銃弾によって開墾されたのではと思うほどだ。

 敵の半分は反対側を向いている。狙撃者のいる場所とは違う方向、すなわちシマノの遠隔操作ライフルの方向だ。チャーリーはポケットからリモートコントローラーを取り出すと、自分よりも少しだけ前方にあるライフルを作動させた。自分のライフル消音器を装着する。姿勢を低くして、トリガーを引く。

 敵の弾が真横の木を抉った。「チャーリー」

 耳の中でシマノの声がする。

「遠隔操作をジャミングされている。こっちからジャマー・キャンセリングを行うが、多分張り合いになる。いつ使え、いつ使えなくなるか分からないってことだ」

「はいよ」

「いけそうか」

「可能性について考えるのは止めようや」

 シマノが笑った。「そうだな」

<以前地下工場の爆発で話題となったFS-Dで、再び戦闘が起きています。どうやら戦っているのは集結した大日の私兵のようです。紛争国に試験導入されているFR――ファイティング・ロボットの姿が確認されています! 十五台が一列に並んでいるようすは、まるで中世の騎士団のようです。六〇〇人あまりの兵士と十五台のFRに、彼らは四人で戦っているとのことです>

 あの馬鹿、これは流石に無理だ。

「ハヤマ、今どこだ?」、携帯電話のマイクに向かって叫んだ。

「FS-Dの近くまで来ています。すでに報道局の車が集まっていて、細い峠道に渋滞が起きています」

 ヒラギはフィクサーの言葉について考えていた。彼らは命を懸けて無謀な戦い挑んでいるというのに、自分はなぜのうのうとしているんだ。現場との間に映像が挟まっていることが苛立たしかった。

<国民からは、国が四人を支援しないことに対する不満が殺到している模様です。何のための徴兵制度だ、と言った声があちこちで上がっています! 国はそれに対し、四人があくまでテロリストであり、犯罪者であるとして、軍の出動を拒否しました>

<FRが二台、炎上しています。どうやら――何です? あなたたちは>

<くそ、報道規制だ。国か、大日か――>

 カメラの隅に、武装した兵士が写る。間違いなく、治安維持部隊の官給装備だった。

<(ノイズ)>

 報道規制。なるほど、確かにそれは追い打ちと成り得るものだった。だが、規制に対する反発は大きいだろう。ヒラギはチャンネルを切り替えたが、どうやらどこの放送局でも同じように報道規制が掛けられたようだった。全てのチャンネルで同じものが報道されていた。

<国民の希望となるはずだったFAUカードの顧客情報を破壊し、国民の金を奪った四人のテロリストは、飽き足りず大日石油までを破壊しようとしています。その狙いは鉱元の独占、そして行き着く先はエネルギーの独占だと言えるでしょう。専門家に話を聞いてみましょう>

<ええ、彼らの目的はファシズムを再来させることにあるでしょう。国民にとって必要不可欠な“鉱元”を狙うあたりを見れば確実です。そのカリスマ性を利用して国民に英雄の再来という幻想を与え、あの悲劇を現代に蘇らせるつもりなのです>

なるほど。ヒラギは小さく笑みを浮かべると、テーブルの上からコルト・ガバメントを手に取った。予備弾倉をありったけ持ち、バイクのキーを手に取る。それが一ピースとしての、自分の役割なのだろう。

 ヒラギは思い出したように、ガンマ隊に電話を掛ける。誰も出なかった。彼らまでもが報道規制に駆り出されているのか。ヒラギは深呼吸をする。彼らがそんなことをしていると考えると憂鬱だったが、なぜかその状況をイメージすることはできなかった。

 チャーリーは撃たれた右肩に包帯を巻いた。黒っぽい血が流れ出るのを見ながら、それが気力の源だと考えた。自分の中で駆けめぐるこの液体は気力の源だ。つまり、気力さえ保てば出血などどうってことない。

 自分で自分を笑う。狙撃者がいたら間違いなく論破される証明だと思った。だがどうだって良い。自分は哲学者ではないから論証に興味はない。しがない傭兵上がりのヤンキーなのだだ。魂は、例え死んだとしても誰にも売らない。それだけが自分の頭からつま先までを貫く一本の哲学だった。それで十分だった。

 もう一度ライフルを持ち上げる。腰並に構えた信頼からは、金色の薬莢が湧き水のように吹き出す。それはこいつの血だった。

 敵の数は減った。恐らくすでに五〇は減っただろう。しかしそこにはまだ、五五〇の兵がある。チャーリーは姿勢を低くすると、敵の弾幕が薄いうちに原型を留めない木から飛び出た。

 銃声が遠く聞こえる。その代わりに、低く唸る爆音。ヘリ、いや、戦闘機だ。

 狙撃者は開けた場所に出ると、空を見上げた。手裏剣のような形をした戦闘機が五機、V字を作って頭上を飛び越して行く。試験導入中の、ステルス戦闘機だ。最新の装備を乗っけた、世界初の鉱元燃料戦闘機。その後ろには一機、大きな輸送機がいる。それが通り過ぎたとき、真っ青の空から水が降り始めた。ライフルを輸送機に向ける。力を入れようとした人差し指が引きつる。そう、自分で分かっているのだ。それがどれだけ意味のないことなのか。

 不意にマーティンの姿が目に浮かんだ。それからそのぼんやりとした影に、チャーリーが重なった。そしてそれは正直者、シマノと姿を変えていく。駄目だ、と狙撃者は思った。そしてトリガーを引いた。

 何度も撃ち、何度もボルトを操作する。

「シマノ、上空の輸送機はなんとかならないのか」、狙撃者は言った。

「俺にはなんともできない。だが」、シマノの声には一筋の希望があった。

「俺たちがなんとかしよう」、ノイズの混じった通信。聞き覚えのある英語だった。狙撃者は目を細め、もう一度空を見上げる。四機のファントム――航空博物館に展示されている歴史的な戦闘機と、一機のラプターが横一列に並んでいた。轟音を残して頭上を超えていく。ファントムが綺麗に離れていき、最後に十年前最強だった戦闘機、ラプターがミサイルを一発放ち、羽根の両端で細長い雲を残しながら旋回をした。輸送機が音を立てて炎上する。横になったエース機、主翼で米国傭兵部隊のマークが狙撃者に笑いかけた。

「立ち入り禁止だ」、治安維持部隊の装備を身に着けたその男に見覚えは無かった。おそらくこれに備えて大量に新規採用されたのだろう。「俺はガンマ隊の隊長だ」

 ヒラギはそう言った。男が表情を強張らせる。その瞬間を狙ってみぞおちに正拳を叩き込んだ。「元だ」

報道局の建物へと飛び込んだ。白く素っ気ないエントランスに人はいなかった。恐らく全ての人間は一つの部屋に集められているのだ。階段を駆け上ると、二階がメインフロアだった。階段は短い廊下へと横から合流する。廊下を少し歩いたところのドアの前には二人の見張りがいた。ヒラギは拳銃をホルスターに戻すと、当たり前のように歩いて近寄っていった。見張りたちは同時にライフルを向ける。ヒラギは両手を挙げて、穏やかな表情で歩く。二人は銃を下ろす。ヒラギはその瞬間にガウンの袖から小さな四五口径を抜き、一人に二発ずつ撃ち込んだ。

「訓練がなってないな」

 ドアを蹴り開けると、報道局のスタッフたちは全員そこにいた。五人の武装した男がその部屋を占領し、技術者らしき眼鏡の男が機械をいじっている。ヒラギは間髪入れずに四人を撃ち倒した。残った一人はカービン・ライフルを投げ捨て拳銃を抜き、近くにいた女性スタッフにその銃口を向けた。

「お、お前の銃は弾切れだ。諦めて銃を捨てろ」

「お前こそ早く逃げた方が良いぞ。お前のちっぽけな拳銃など、言論の自由には勝てない」

「黙れ!」

 男が叫んだのと同時に、人質に取られた女性が拳銃を捻った。何発かの銃声、一発はヒラギの撃ったもので、最後の武装者を倒した。

「大丈夫か?」

 女性の足を一発の弾丸が掠っていた。「大丈夫です」

「報道を再開します!」

 スタッフたちが立ち上がる。数人がメディカルキットを持ち出し、女性の手当を始め、他の者たちは報道再開の準備を始めた。ヒラギは一人残った技術者に、銃を突きつける。

「無駄だ! 報道局がいくつあると思っている? 我々は全てを占領しているんだぞ」

「あのな」、ヒラギは言った。

「いくつ占領されていようが関係ない。俺の“戦友”たちは何百もの歩兵を相手に四人で戦っているんだ、分かるか」

「だが不可能なものは不可能だ。数が多すぎる。お前は一人だ」

「一人じゃない」、ヒラギはスタッフ全員を見回す。「そうだろ」

 カメラの前に座ったアナウンサーがヒラギと目を合わせ、小さく微笑んだ。

「レジスタンス。私たちが真実を伝えます」

 ハヤマは車から降りると、カメラを準備するのすら忘れて、その光景に見入った。すでに場所を占領している多数のテレビ局バンやその周りに溜まるスタッフたちを掻き分け、一番前の方まで進んだ。最前列では透明な防弾バリケードが組まれていて、たまに飛んでくる流れだまを確実に弾いていた。

 不意に強風が頭上から吹き付ける。細いミサイルをたくさん抱えた攻撃ヘリが一機、バリケードの前に着陸した。続いて茶色い輸送ヘリが一機。どれにも治安維持部隊のマークがあった。

 目立たない位置に移動したワンボックスから降りた正直者は、治安維持部隊のマークが付いたヘリの方へと走っていった。もちとんそれがヒラギという男の所属していたガンマ隊であるということを理解したうえで、だ。

「ヒラギに言われたのか?」

 正直者はローターの爆音に負けないように怒鳴る。

「ええ。それらしきことをほのめかされただけですが」

 若い治安維持部隊員は笑った。正直者は小さく頷く。そしてその視線を新たに着陸してきた一機の攻撃ヘリと二機の輸送ヘリに移した。

「あれもそうか?」

「いや、あれはうちではありません」

 正直者は一瞬表情を強張らせる。そしてヘリの胴体に大日の文字があるのに気がつき、地面を蹴ろうとした。「待て」

 ヘリから一人の男が飛び降りる。初めて見る顔だったが、それが誰かは瞬時に分かった。特徴的な不気味な笑み。聞いたとおりだ、と最初は思ったが、正直者は見れば見るほど、それが不気味であるように思えなくなっていった。

「俺たちがFS-Dに飛び込む」

 フィクサーが言った。

「お前は大日の犬だろ」

「そうだったんだがな、俺は死んだ。今はヒラギの代理だ」

「信用できないね」、正直者は目を細める。

「してくれなくて構わない。いずれにしろ俺たちはFS-Dを、あの要塞を陥落させて来る」

 沈黙。ヘリの轟音だけが響いている。正直者は何も言わずにフィクサーの目をのぞき込んでいたが、十数秒の後に頷いた。「俺も乗せろ」

 そして振り返る。治安維持部隊の隊員二十名足らずが輸送ヘリをバリケードにして、頑丈な意志と共に整列していた。もう一度振り返ると、実戦で鍛え抜かれたしごく現実的な大日の特殊部隊が四十名ほど、フィクサーの指示を待っていた。

 正直者はもう一度頷いた。「良し」

「まずは攻撃ヘリを二機出す。鉱元ミサイルで平地に塹壕を作れ。片方の隊はそれに沿って前進、もう一方は側面の森を伝って前進し、チャーリーと狙撃者を援護しろ」

 フィクサーが治安維持部隊の若い隊員と目を合わせる。「俺たちが正面だ」

「しかし」、若い隊員は反論しようとした。

「この一件が解決したあとの治安を、お前たち以外の誰が維持する。それに、大日の特殊部隊はそう簡単には死なない」

 フィクサーは笑って、自分の部隊の方を振り返った。正直者は黙ってそれを見ていた。それは、ひどく純粋な笑みだった。

「フィクサーと精鋭十人ほどが残る。攻撃ヘリは塹壕を掘ったらすぐに戻ってきてくれ。上空の戦闘機の援護でFS-Dに飛び込む」

 狙撃者はスコープから目を離すと、もう一度空を見上げた。戦闘機たちが極限状況下でのドッグファイトを繰り広げている。穏やかな円を描いていたかと思うと、急旋回をする。機銃の弾がわずかに光り、その緊張を伝えていた。

 耳の中では、フィクサーと正直者、そして治安維持部隊の隊員との会話が聞こえていた。正直者がFS-Dに飛び込もうとしていることを知っても、別に何かを感じるわけではない。彼がそうするだろうということは端から分かっていた。

 もう一度スコープをのぞき込む。一瞬、レンズに水が掛かったのかと思った。しかしそれは思い違いだった。もっと近いものだったのだ。

「サキオリ、正直者を行かせて良いのか?」

 チャーリーが息切れした声で言う。相当無理をしているようだった。

「大丈夫さ」

「どうしてそう思う?」

「大丈夫な気がするんだよ。それよりチャーリー、ちょっとずつ後退するんだ」

「はいよ。でも良いのか?」

「俺たちは孤独じゃないってことさ。さあ俺が援護する」

 狙撃者は再びスコープをのぞき込むと、チャーリーに銃を向けている敵から狙いをつけていった。ボルトを操作する。それはしごく軽快に動く。狙撃者はボストンバッグに目をやった。残り、大体四〇〇発。もう二〇〇も撃ったのか、そう思うと同時に、この古くさい価値観をここで全て撃ちきってしまいたいとも思った。

 急にスコープの中が真っ暗になる。どうやら地面が土を吹き上げているらしかった。遅れて爆発音が響く。平地の至る所で砂の噴水が始まる。視野を手前の方に戻すと、大日の特殊部隊が前進を始めていた。爆発でできた穴に滑り込み、ライフルを構え、また一つ前方の穴へと飛ぶ。

「サキオリ、治安維持部隊と合流した。俺は一端ワンボックスの方へ戻る」

<さらに二つの報道局が解放されました。どちらもスタッフの命がけのレジスタンスによって勝ち取られた自由です>

 ヒラギは次の報道局へと乗り込んだ。解放はそう難しいことではなかった。そう、ヒラギはほんの少し力を貸すだけで良かったのだ。アナウンサーたちの表情は以前とは違っていた。一度自由を奪われ、それを自身の力で取り返したことによって、真実を伝えたいという感情が出現したのだ。

 五つの報道局が解放されたところで、ハヤマから電話が掛かってくる。

「フィクサーが?」

「裏切るつもりなのかもしれません」

「そういう感じはしないんだがな。それより、プログラムを作った人間は現れたのか?」

「あっ」

 ハヤマはそこで思い出したようだった。数秒の沈黙、そして現れていないと思いますという返事。ヒラギは見過ごすなよ、と言うと電話を切った。それがあいつの役割なのだ。

 ヒラギは大きく息を吐いて、スタジオを見回す。そして、設置されたテレビの画面を見る。画面にノイズが入っていた。

「おい、これは?」、一番近くのスタッフに聞く。

「これは……」

 中年の男性は黙り込んでしまった。

「局を統括する局があるんです。そこを占領されてしまえば、私たちがいくら努力したところでなんともならない」

 若い女性のスタッフが言う。そして、表情を険しくした。画面がせわしく揺れ、一定のものに収まる。ヒラギは中でアナウンサーが口を開く前に、画面の電源を落した。

「そいつはどこにある」

「メインストリートです。図書館の二つ隣」

「分かった」

「あなたみたいな人は死んではいけません」

 さっきの中年男性は言った。「必ず生きて、真実を見てください」

 ヒラギは笑った。「だが」

「スリルが足らないんだ」

 フィクサーと共に輸送ヘリに乗り込む。面を合わせて座っているのは、フィクサーの部隊から引き抜かれた男たちだった。強靱な身体、最新の兵器。目的が本当にFS-Dの破壊であれば、とてつもなく頼りになる者たちだ。

 ヘリはその軌跡に土埃を巻き上げながら、超低空を駆け抜けていた。空でドッグファイトをしていたファントムが後方三〇度の位置で援護についていた。しかしその必要は無かったようだ。FRのレーダーはこのヘリを味方と捕らえている。誤射防止プログラムが働いて射撃ができないのだった。ヘリはその鼻先でFRの戦線を掠め、コンクリートの城壁を飛び越える。正面玄関に何発か鉱元ミサイルを撃ち込むと、そこに止まってロープを下ろした。フィクサーの部下が先に降り、グレネードでドアを破壊している。

「FS-Dの三箇所に鉱元を仕掛ける。俺一人で一つ、お前らは手分けして二つを設置しろ。ポイントはグラスに表示させてくれ」

 フィクサーは防弾グラスのフレームに付いた小さなボタンを押す。そして頷いた。

「行くぞ」、正直者はロープを使わずに飛び降りると、猫のように着地して入り口へ走った。背中に背負ったのが鉱元グレネード、他には度胸と根性しか持ち合わせていなかった。

 中の無人警備ロボットは全てシャットダウンされていた。シマノがジャミング戦で勝ったのだろう。敵は中で待機している兵士だ。正直者は音を立てずに走り、先には入った連中との銃撃戦で気を取られている敵を、次々と倒していった。

 ライフルが向けられる。左手で銃身を掴み、右手でボディーブローを入れる。奪い取ったライフルの床で後ろから襲ってきた兵士を殴り倒すと、その兵士のライフルの銃口を他の敵に向けた。想像通り、銃弾が吐き出される。白い壁に穴が開く。前回と同じロケーションとは思えないほど賑やかだ。

 真後ろで拳銃を抜く者。正直者は相手の腹の辺りに膝を持って行くと、拳銃を持った手を軽く引っ張った。男は自らの勢いを持て余して膝を腹に食らう。正直者は手刀で相手を垂直に叩き落とした。

 流れるように戦い、計画通りの進路を走る。気がついたときには目的の場所に辿り着いていた。豪華な装飾を施された寝室だ。正直者はリュックをベッドに下に滑り込ませると、来た道へ走った。

「どうだ?」、フィクサーの声。

「こっちは終わった。そっちの二つは」

「オーケー、仕掛け終わった。出口へ向かう」

「了解」、正気者は呼吸に、短いため息を混ぜた。

 遠距離操作ライフルの弾が尽きる。ジャミングの掛け合いには勝利したが、物質的な問題には勝てないようだった。カメラを平地の方に向ける。フィクサーの部隊は着々と前進している。FRも残り半分ほどとなっていた。

 シマノは深く息を吐いた。狙撃者は相変わらず高台で狙撃を続け、チャーリーは平地の一番左手前の辺りで落ち着いていた。治安維持部隊によって応急処置を受けているという。あれだけの攻撃を受けておいて応急処置で済むというのは、計画のうちでありながら驚きだった。

「サキオリ」、米粒マイクに話しかける。

「何だ」

「メディア陣を前進させよう。俺も紛れてワンボックスを進める」

「任せるよ」

 シマノは携帯電話を手に取った。「やあ」

「ハヤマ。お前さんに頼みがある」

「あなたは」

「誰でも良い。メディア陣を前進させてくれ。もう勝負は付きかけている、徹底的な瞬間をカメラに写すんだ」

「勝負は付きかけている? 敵はまだ三〇〇ばかり残っていますよ。こっちは六〇いるかいないかです」

「六〇いれば十分なんだよ。前進させるんだ」

「……分かりました」

 狙撃者の視界に報道局のバンが多数とワンボックスが一台、飛び込んできた。意識して見ているから車が二種類あると分かるが、あの混乱の中にいれば気がつくことはできないだろう。報道局のスタッフが何かを押しながら、ゆっくりと前進していく。カメラの前で早口に話すレポーターや見覚えのあるジャーナリストの顔が、スコープ越しに見えた。

やがて前進は止まる。FS-Dの城壁、FRの戦線から七〇〇メートルほどの地点だった。なるほど彼らも命がけだった。狙撃者は小さく笑った。軽蔑の匂いを含まない、穏やかな笑いだった。

 スコープの十字線を、FRへ戻す。その瞬間頭の上で爆発が起きた。狙撃者は思わず空を見上げた。ファントムが一機、炎上していた。キャノピーが機体から飛び離れ、そのパイロットが飛び出す。カラフルなパラシュートが開き、わずかに減速してから着地した。運が良いことに、ちょうどチャーリーのいる辺りだ。

 ラプターがミサイルを放つ。敵の戦闘機は花火のようなものを後方に散らす。ミサイルは軌道を逸れて森へ落ちていった。そのすぐ後だった。敵の戦闘機とファントムの一機が衝突して爆発した。ラプターは寸でのところで機体を回転させ、それを回避する。狙撃者は無意識に、カラフルなパラシュートを探した。しかし落ちていくのは金属の破片ばかりだった。

 諦めてスコープをのぞき込む。輸送ヘリがFS-Dの上で待機しているのが見えた。

 ヒラギはロープを左手に窓ガラスに四発の銃弾を撃ち込むと、壁を使って勢いを付け、ガラスを蹴り破って中へと進入した。屋上からロープで降下、進入というルートはあまり好みではなかったが、他に方法が無かった。

 中の警備員は拳銃を抜き、無警告で発砲をしてくる。ヒラギには相手の動きが二分の一倍の速さに見えた。フィクサーとの戦闘が自分を成長させたのだ。拳銃を蹴り落とし、そのまま二段蹴りを腹に加える。警備員が倒れたのとほとんど同じに警報が鳴り、自分の現在地が放送された。正面玄関付近に仕掛けた爆弾を起爆させる。それが終わると今度は屋上で爆発を起こした。しかし気休めだった。既に警備兵たちの階段を駆け上る音が響いている。ヒラギは走って階段を駆け下り、メインの部屋を目指した。銃声が鳴り、足下で金属が跳ねる。すかさずコルト・ガバメントのトリガーを引く。しかしそれもまた無駄だった。階段の下から数人、上から数人。挟まれたのだった。ヒラギは 銃をホルスターに戻すと、両手を挙げた。

「先に上れ」、正直者が叫ぶ。フィクサーの部下たちは梯子を使ってヘリへ戻っていく。正直者はフィクサーの方を見た。「行けよ」

「まだだ」

 彼はは笑みを浮かべていた。「一つ問題がある」

 目を細めて再びフィクサーを見る。今さら裏切りの光など、この男の目には現れていない。それについては自身があった。笑みも、不気味ではない。どことなく切ない――。

 正直者は数秒黙っていたが、やがて全てを理解した。そしてマイクに向かって怒鳴った。

「シマノ、ジャミングを切るんだ。グレネードをリモートで爆破させたい。シマノ」

 どうやらヘリの轟音で声が潰されてしまっているようだった。正直者はヘリを見上げた。そしてその上にいるステルス戦闘機を。敵の戦闘機がヘリの存在に気がつきレバー上部のカバーを外して赤いボタンを押し込めば、それで全てが終わってしまう。視線をフィクサーに戻す。フィクサーが口を開く。

「お前に言われたよりもグレネードを近い位置に設置してきた。一つを手動で爆発させれば三つを誘爆させることができる」

「ヒラギか、久しぶりだな」

 目の前にいる男はα隊の隊長だった。ヒラギは警備兵たちに押さえられたまま、目的の部屋まで連れて行かれた。やはりスタッフは全員同じ部屋に集められている。

「それで」、ろくでなしが言った。「どうした」

 ヒラギは笑った。「こうしに来たのさ」

 自由な足で目の前の男の腹に蹴りを入れる。わずかなうめき声が聞こえ、次に後頭部へ強烈な打撃を感じた。αの隊長はヒラギのコルト・ガバメントを、その持ち主の額に突きつけた。「手前ぇ」

「大した余裕だな。お前の命は俺の人差し指に掛かっているんだぜ。忘れるな」

「ほう、ならば俺は死ななくて済む。そのくだらない陶酔から冷めたらとっととトリガーを引くと良い。一対で勝負もできないチキン野郎、神話にでもなれ」

 怒り、憎悪。目の前の男はその目に、真っ赤なネガティブ感情が募らせる。ヒラギは笑った。「男なら正々堂々戦え」

 隊長はその部下に、ヒラギを放すよう目配せした。ヒラギはその瞬間に突きつけられたコルト・ガバメントを捻ひ取ると容赦無く、その場にいた隊長を含む七人を撃ち倒した。

「三流だ。いや、それ以下」

 ヒラギはため息を吐いて、スタッフたちの方を振り返った。

「早く報道規制を解くんだ」

 歓声。ヒラギはスタッフたちの喜ぶ顔を見ながら、自分を生き残らせた自分の鏡について考えた。

「俺が残って起爆させよう」

 フィクサーが言った。

「待てよ」、正直者が言った。「別の方法があるはずだ」

「もう時間がない」

「ならば公平に決めよう。俺もお前もろくでもない人間だからな」

フィクサーは穏やかに頷き、ズボンのポケットから一枚のコインを取り出す。

「コイントスだ。絵柄の方が上だったら俺が行く。文字が上ならお前だ」

 銀色の最期が高く放り上げられる。二人は黙ってそれを見守る。フィクサーはコインを左手の甲で受け取ると、被せた右手を外した。「絵柄だ」

 フィクサーはコインをコンクリートの地面に捨て、今までにないほどすがすがしい笑みを浮かべる。そして、何も言わずにくるりと背を向けて、FS-Dの中へ歩いていった。

正直者はまた目を細めて、その後ろ姿に見入った。その影が見えなくなってから、コインを拾ってヘリに戻った。

 コインを空の青にかざす。手首をスナップさせて表裏を交互に見る。それぞれ別の絵柄が彫られていた。

 FS-D全てを包み込む爆発。狙撃者が輸送ヘリの帰還を肉眼で確認したのとほとんど同じだった。打ち上げ花火を倉庫いっぱいに詰め込んで日を点けたような音かし、空気が薄くなる。強烈なフラッシュに目を閉じ、再び開いたときには山自体が崩れ落ちていた。狙撃者はスコープをのぞき込む。炎上し動かなくなったFR下で戦っていた兵士たちが白旗を揚げた。

 終わった。

 戦いが終わった。

 狙撃者は大きく息を吐くと、スコープから目を離そうとした。しかし目がわずかな不始末を捕らえる。わずかな光、スコープのレンズが太陽光を反射しているのだ。

 ハヤマはバリケードの外に飛び出して停められているワンボックスのウィンドウをノックした。スライドドアが開く。やはりそこには、灰色のパーカーを着て、銀縁の眼鏡を掛けた髭面の男がいた。

「鋭いな」、シマノが言う。

「明らかに不自然でしょう」

 シマノは眉間にシワを寄せて、ワンボックスの内装を見回した。「変じゃないぞ」

「外から見たらの話です。それよりも、プログラムを作った人間は本当に現れたのでしょうか。あの爆発で全てが消失してしまった」

「まあな」、シマノは髭に指を沿わせた。「それはそうだ」

「だがな。狙撃者やチャーリー、正直者は役割を終えた。あとはお前さんだけなんだよ」

「え?」

 ハヤマは思わず固まって、男の目をのぞき込んだ。彼は同じ表情のままパーカーのポケットに手を突っ込むと、一枚のコインを取り出した。「これに」

「これに全てが詰まっている。お前が記事を書け」

 シマノは笑った。ぞっとするほど、数学的な笑みだった。ハヤマは車の影から出て、コインを眺めた。「ハヤマ!」

 叫ぶ声。ワンボックスの方へ視線を持ち上げるのよりも早く、誰かが自分の肩掴んで地面に押し倒した。

 ライフルが最後の煙を吐き出した。ボストンバックは空で、弾倉の中も空だ。本当に、これが最後だった。

 狙撃者は目を大きく開いて、その場に立ち上がった。何かを大きな、いや、大きすぎる間違いを犯してしまったかのように。地面を蹴る。飛ぶようにして斜面を駆け下りる。枝が頬を掠め、そこに一筋の血を浮かばせる。狙撃者はそれに気がついていなかった。ライフルを右手で掴んだまま、流れる景色を横目に、走った。森が途絶える。報道局のスタッフたちが棒のように突っ立っているのをすり抜け、ワンボックスに寄りかかって倒れた男の横に膝を突いた。

「シマノ」

 狙撃者はそのとき初めてライフルを放ると、右手でシマノの肩を小さく揺すった。親友は細く目を開け、口元を緩ませる。

「シマノ、すぐに治安維持部隊の救護班が来る」

「サキオリ」、シマノは穏やかな声で言った。

「俺たちはいわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二度目は生きるために。彼らは――生まれ変われる」

「シマノ」

 狙撃者は目を細めた。シマノが続ける。

「ジグソーは――完成した。彼らは――自覚を手に入れるんだ」

「喋らなくて良い。話は病院でいくらでも聞ける」

「サキオリ」

 シマノがかすれた声で名前を呼ぶ。

「やはり人生は一秒の――感動の連続だ。楽しんで良かったぞ。願わくは最後にひとカケラのチーズを」

 シマノは笑った。そしてそのまま、目を閉じた。

 狙撃者は瞬時に視線を持ち上げた。大きな円を描いて自分たちを囲い込む報道局のスタッフが、大きなカメラとマイクをこちらに向けている。救護班はその後ろにいた。なんとかその人だまりを押し分けようとしていた。しかし彼らが勝つことはできない。勝つことはできないのだ。

 狙撃者は視線をシマノへと戻した。息をすることも、涙を流すことも、全て忘れていた。ただそこにある現実が、非現実を望む意識の中に溶け込んでくるのをゆっくりと感じ取っていた。暖かい流れだった。自分の全てがそれに満たされたとき、狙撃者は友人の名前を呼んだ。心の底から沸き上がる全ての感情を、声として吐き出した。

 第十章

 空はまた青く晴れていた。とはいっても大きな雲が群れを作って風に乗り、不規則な影を作っている。太陽が黄色に輝かせた芝生はその度に落ち着いた緑へと姿を変える。チャーリーは近くを流れる小川のせせらぎを聞きながら、その色の変化に視線を投げていた。ときより風が鳴り、それに合わせて芝が音を立てる。それはまるで、全てが一つの楽器になったかのように聞こえた。

「コイントス・プログラムか」、小さく呟いた。

「どう思う、正直者」

正直者は少しの間黙っていたが、やがて口を開く。

「所詮はシンボルさ」

「なるほど」、チャーリーはゆっくりと頷き、黒いジーンズのポケットからタバコを取り出す。一本を抜き取りM945ライターで火を点けると、しゃがみ込み、土と枯葉の地面に埋め込まれた墓石の上にそれを置いた。ラフカットの墓石の上には既に白い花が飾られていた。

「多くの犠牲が出た」

 正直者が静かに言った。

「ああ。でもお前、信用していなかったんじゃなかったか?」

 チャーリーは穏やかに言う。正直者が答えることに期待はしていなかった。

「にしてもシマノのやつ、やっぱり天才だったんだろうな。完敗って感じだ」

 タバコを新たに取り出す。

「全く。上手く利用された。しかも俺たちの計画を丸ごと包み込む形で」

 正直者はプルタブを起こすと、黒い缶のビールをタバコの横に置く。チャーリーはその様子を見ながら、新しいタバコに火を点けた。

「ああやって完成させるとは思わなかったけどな」

「IMPACT――」、コトが言った。カーチェイスの日と同じ場所に腰掛け、同じような視線を街の方へ投げていた。「彼らはそれを命がけで完成させた」

「確かに大日自体の破壊が目的ではありませんでしたね」

「劇場型で大日を攻撃していったのは」

 ヒラギはまた、同じ位置で同じ視線を投げている。

「問答だったんですよ」、コトは図書館から借りてきたらしい文庫本を、コートのポケットから抜いた。ソクラテスの弁明。「最初から」

「産婆術か」

「そういうことだったはずです。プログラムに汚染された人々を治療するにはそうするしかないと考えていたんでしょうね。でも、シマノさんについては?」

「一つの可能性として」、ヒラギはそう言ってガウンのポケットに手を突っ込む。A5サイズの手帳を抜き、唯一付箋の貼られたページを開いた。

A<……政府はまだ要求を呑まないのか。たかが情報公開なのに>

B<政府もまったく情報を与えられていないのかもな>

A<あれのせいでみんな駄目になっちまっているというのに>

B<深入りすれば死ぬからな、存在を知るだけでも危険だ。開発者は自分がどれほど恐ろしいものを創っていたか、自覚していなかったんだ>

「Bがシマノの発言だ。言いたいこと、分かるよな」

「根拠の不在」

「およそシマノらしくないセリフだ。そう、一つの場合を除いては」、ヒラギはまた手帳を閉じた。そしていつもと同じ街並みを眺めた。

「彼らの努力は、プログラムのワクチンとなり得ただろうか」

「それについては」、コトが確信を込めた声で言う。

「これと狙撃者のこれからを比べれば分かります」

 さっき取り出した文庫本を持ち上げる。ソクラテスの弁明。ヒラギはゆっくりと頷く。コトの言おうとしていることは理解できた。

「そういえば、治安維持部隊の再編成が行われたんでしたよね」

 コトは思い出したように、微笑む。

「まあな」、ヒラギはこの一連の事件をなんとか掴み上げた若い隊員の顔を思い浮かべた。

「それで、また隊長さんやるんですか?」

「分からない」

 本当に分からない。狙撃者たちの計画が成功したのだとしたら、これからの社会の揺れ動きは今までにないほど激しくなるだろう。過去の慣習に囚われず臨機応変に動くことのできる部隊は言うまでもなく必要となる。しかし今からあの部隊に戻って指揮を執るというイメージがどうしても湧かなかった。

「俺は……元には戻れないだろうな。これからのことはこれから考えるよ」

「後悔は、してます?」、コトはにっこりと笑った。

「いや」、ヒラギは真剣な顔で言う。

「この一件に関わることができて本当に良かった」

 大日の弁護人が、長い演説をした。大日石油の社員たちがいかに苦しい思いをしたか、狙撃者たちの行動がどれほどの被害を一般にもたらしたか。そして鉱元がなくなったとき、どれほどの損害がこの国に及ぶか。

 狙撃者は黙っていた。あくまで堂々と、あくまで礼儀正しくし、自分の喋るときになると簡潔にこう言った。

「本質を見るんだ」

「FAUカードの顧客情報、テロリストから返されたんだってな。皮肉なことに」

 同僚が言った。ハヤマは小さく笑って、ああとだけ返事をする。

「なんだ、まるで無関心じゃないか。一〇〇万が帰ってきたんだぞ。あ、そうかお前、ボーナスたっぷり貰って――」

「ボーナス? そう言えば」

「おいおい、どうしちまったって言うんだ?」

 ハヤマは笑った。それから言った。「生きてる心地がするようになったんだ」

 同僚は眉間に皺を寄せ、一瞬黙る。しかしすぐに表情を緩める。

「実際はさ」、静かに言った。

「FAUに預けた金は無くなっちまうべきものだったんだ、とも思うんだよ。神様が慈悲を掛けてくれたんだろう、大切にするつもりさ」

「それが良い」、ハヤマはまた笑った。そしてシマノの顔を宙に思い描いた。

パソコンの前に座る。既に九割できた記事を書き上げると、思い出したようにポケットから紙切れを引っ張り出し、最後に付け加えた。

「狙撃者はあれだけのことをしていながら私に言った。英雄はと自分のできることをした人のことを言うのだと。そしてそれが生きることなのだと」

 記事の題名は、第二の誕生。プログラムの存在、狙撃者たちの目的などを全て明かした写真付きの冊子。文章は簡素だった。読み手の感情を煽るような表現の仕方は絶対にしなかった。どう感じるべきか判断するのは、読み手なのだ。

「ハヤマ」、上司の呼ぶ声。ハヤマは何かを思うわけでもなく、吸い込まれるようにそこへ歩いていった。

「本当に良くやった、うちの情報量は圧倒的だ。ボーナスはすでに振り込んであるぞ。他に何か欲しいものはあるか? 社長に俺から伝えてやる」

 ハヤマは少し考え、そして口を開く。

「ありません」

 狙撃者は同じ場所に座っている。持ってきた自分のギター、えらく昔にセビリアで買ったフラメンコギターを抱え、E7のストロークをする。茶色いナイロンの弦を弾き、寂しくて明るい自由なメロディを地中海の風に乗せる。

音楽を意識の根底に任せ、夕日が海に溶けていくのを眺めた。右隣にはたくましく成長した男の子が、耳を澄ませながら寂しそうな表情で座っている。左隣には丸い岩があった。マーティンの名が彫られたその岩には、flor blanca(白い花)が数本、供えられていた。

「悪いんだけどさ」、狙撃者はそう言って布の包みをバッグから取り出す。

「明日の漁のときに、こいつを海に沈めてくれないかな」

 男の子は良いよ、と言って包みを受け取る。案外重かったらしく、驚いた表情をした。

「何が入っているの?」

「古くさいスチールの価値観さ」

「古いから捨てるの?」

「親友がずっと捨てたがっていたものだから捨てるんだ」

 少年は分からないといった表情をした。いつか分かるさと狙撃者は呟いた。

 ラスゲアート。小指、薬指、中指、人差し指の順でストローク。狙撃者は連続する和音が一つの音になるのを聞いた。太陽がその音を聞いた。白塗りの町に溢れた花が金色の夕日を受け、それぞれ持ち前の色をまぶしく輝かせた。